ハンス・ロスバウト
ハンス・ロスバウト(Hans Rosbaud, 1895年[1]7月22日[2] - 1962年[3]12月29日[4])は、オーストリアの指揮者、作曲家。[5]本名はハンス・ヨハン・ロスバウト(Hans Johann Rosbaud)。[6]
グラーツ[7]出身。[8]母アンナはピアノ教師であった。[9][10]5歳の頃から母親から音楽の手ほどきを受ける。[11]6歳から10歳まで地元の基礎学校に通い、1905年から1913年まで人文ギムナジウムに進んだ。ギムナジウム在学中に地元の音楽院に通ってヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ホルンの各楽器の奏法を習得。[12]1913年からフランクフルト・アム・マインのホッホ音楽院でアルフレッド・ヘーンにピアノ、ベルンハルト・ゼクレスに作曲を師事し、パウル・ヒンデミットと同窓になった。[13]1918年に卒業後は、音楽院の後援者であったヘッセン=カッセル方伯家当主で作曲家のアレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルブレヒト・ゲオルク・フォン・ヘッセンの助手を三年間務めた。[12]1921年から[14]1929年までマインツ音楽学校の校長を務め、[15][16]1923年にはエデルトラウト・シェーファー=アンドレと結婚している。[17]1929年から1937年までフランクフルト放送交響楽団の首席指揮者を務める。[18]1937年から4年間に渡って[19]ミュンスター市の音楽総監督を務め、[20]1941年から1944年まで[21]シュトラスブルクで活躍。[22][23]1944年から翌年までミュンヘン帝国放送管弦楽団の指揮者を務め、[12][24]1945年から1948年までミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める。[25][26]1948年から没年まで南西ドイツ放送大管弦楽団の首席指揮者[27][28]及びエクサン・プロヴァンス音楽祭[29]の音楽監督を兼務。[30]1957年からはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者も兼任。[31][32] 1959年からアメリカのシカゴ交響楽団に客演。[33]
ルガーノ近郊カラビエッタの自宅にて死去。[34]
脚注[編集]
- ↑ アーカイブ 2024年8月3日 - ウェイバックマシン
- ↑ Evans, Joan (1992). “Early Years”. Hans Rosbaud: A Bio-Bibliography. Greenwood Publishing Group. p. 9. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780313274138
- ↑ “Johann Hans Rosbaud (1895 - 1962) - Genealogy”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ “Hans Rosbaud”. 2024年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月4日閲覧。
- ↑ ハンス・ロスバウト - Discogs
- ↑ “Hans (Johann) Rosbaud - Enzyklopädie - Brockhaus.at”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ グラーツでは一歳年上のカール・ベームとは級友だった。(Kater, Michael H. (2002). The Twisted Muse: Musicians and Their Music in the Third Reich. Oxford University Press. p. 64. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780195351071)
- ↑ 吉村, 溪「ロスバウト ハンス」『指揮者とオーケストラ 2002』音楽之友社、2002年、158頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276961227。
- ↑ “Rosbaud, Hans (Johann) Anna”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ 母アンナ・アロイジア・ロスバウト(Anna Aloisia Rosbaud)は、クララ・シューマンに将来を嘱望されたピアノの名手だったが、26歳の時に地元グラーツの大聖堂のオルガン奏者だったフランツ・ハインニッサー(Franz Heinnisser)と恋に落ち、婚外妊娠でスキャンダルになった。アンナはロスバウト家を追い出され、ピアノ教師として糊口をしのぐこととなったが、妻子持ちとなったハインニッサーとの関係は完全に切れておらず、息子としてハンスの他に、スキャンダルになった1882年に産んだ長男ブルーノ、1896年に三男のパウル、1897年に長女マルタを産んでいる。アンナが息子たちに父親の情報を教えなかったため、1933年にドイツで施行された職業官吏再建法の影響で父親の証明が必要になった時、音楽家として名を成したハンスと科学者として一家言を持つようになったパウルは、ザンクト・アンドレーに住む知り合いの路面電車の車掌、ヨハン・ストレイナー(Johann Strajner)に許可を得て、彼を便宜上の父親とした。(アーカイブ 2023年6月17日 - ウェイバックマシン)
- ↑ アーカイブ 2024年8月4日 - ウェイバックマシン
- ↑ 12.0 12.1 12.2 “ハンス・ロスバウトの芸術(54CD) | HMV&BOOKS online - ARTIS024”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ ミュラー=マライン, J.、ラインハルト, H.『ヨーロッパの音楽家 その体験的告白』佐々木庸一訳、音楽之友社、1965年(原著1963年)、97頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 672718900。
- ↑ “ロスバウトとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ Evans 1992, p. 11
- ↑ 「当時マインツ氏は、ある私立の音楽学校を買いとり、この新しい市立音楽学校の校長を募集していました。私も先生のゼークレスの勧めでこれに応募し、八十人もいた応募者の中で一番若かったにもかかわらず、私はその地位を得ることができました。これは第一次世界大戦直後のことで周囲の状況はあまりよくありませんでした。それだけに単なるこの私立学校を、立派な音楽大学に発展させることは困難なことでしたが、私はこの困難を克服して、この学校は、その名をドイツ中に知られ、注目されるようになりました。この学校では、校長は同時に市立交響楽団の指揮者を兼ねるようなしくみになっていましたので、けっきょく私はオペラを指揮する機会を与えられました。/一九二一年に指揮したときのプログラムを、今見ますと、自分の大胆さに驚かずにはいられません。その演奏会は、モーツァルトの『ジュピター』に始って、ベートーヴュンの『エロイカ』に終わるというものでした。その後まもなく、私は現代音楽も手がけましたが、これにはすっかり魅了されてしまいました。一九二一年に新しく開かれたドナウエッシンゲンでの音楽祭で、私は冒険ともいえるパウル・ヒンデミットの作品を聴き、それをマインツでも演奏してみました。ところがこの演奏会はたいへんな騒ぎを起こしてしまいました。プログラムの最後にあったこの曲を演奏したとき、それが終わるまで二十分ほども騒ぎが続き、演奏が終わってやっと聴衆は静かになりましたが、私はこんなことは初めてでしたのでまったく驚いてしまいました。それからまもなく、シェーンベルクやストラヴィンスキーの作品を演奏したときも、口笛やさけび声や、そういった騒ぎが起きましたが、しかし、そういうものには次第に慣れてきて、しまいには少しも驚かなくなりました。」〔ママ〕(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, pp. 97-98)
- ↑ "In June 1923 Rosbaud married Edeltraut Schaefer-André (1899-1974)"(Evans 1992, p. 12)
- ↑ 諸石, 幸生「フランクフルト放送交響楽団」『世界のオーケストラ123』音楽之友社、1993年、161頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960053。
- ↑ “ハンス・ロスバウト (Hans Rosbaud) - 指揮 - アーティスト - NML ナクソス・ミュージック・ライブラリー”. 2024年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月5日閲覧。
- ↑ Hornig, Norbert (2019年12月1日). “Hans Rosbaud dirigiert Schumann”. Deutschlandfunk. オリジナルの2024年8月5日時点におけるアーカイブ。 2024年8月5日閲覧。
- ↑ “Hans Rosbaud - Students | Britannica Kids | Homework Help”. 2024年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月5日閲覧。
- ↑ ウォラック, ジョン、ウェスト, ユアン「ロスバウト,ハンス」『オックスフォード オペラ大事典』大崎滋生,西原稔訳、平凡社、1996年(原著1992年)、769頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784582125214。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 674991537。
- ↑ 「フランクフルトでのすばらしい時代は、一九三三年にまったく突然終わりを告げました。そしてもう二度ときて欲しくないと思っていた時代がやってきました。現代音楽は放送禁止となり、しばらくするとフランス音楽も好ましからざるものとされ、しまいにはロシヤ音楽も電波に乗せることが許されなくなりました。しかしよく晴れたある日のこと、私は天から降ってきたような幸運にめぐりまいました。ヴェストファーレンのミュンスターから電話がかかってきて、アシュホフという市参事会員が、私にヴェストファーレンなまりのドイツ語で『ロスバウトさん、ミュンスターの音楽総監督をやってくださいませんか』と言ったのです。/私はその市参事会員も、ヴェストファーレンのミュンスターという町も知りませんでしたが、そこへ行ってみて、そのたぐいまれな都市にすっかり魅惑されてしまいました。この町には平和記念堂や、ラムペルト教会や、たくさんの再洗礼派(訳注 宗教改革時代に成人の再洗礼のために戦った人々を指すこの運動は、一五三三―三四年にミュンスターで起こされたが当局から手ひどい弾圧を受けた)の遺跡などがありましたが、それを見て古い歴史が生き生きと私によみがえってきました。ヴェストファーレン人は、よそ者に対して用心深いけれども、慣れてくると親切で思いやりがあり、誠実であることも知りました。ミュンスターの音楽総監督という地位にあって私は多くの演奏会で指揮しただけでなく、あの有名な聖ツェツィーリア祭の指揮もしましたし、同時にまたオペラの楽長もやりました。さらに私はミュンスターで、いわゆる《文化政策》に沿わない作品も多く演奏することが出来ました。たとえば、ストラヴィンスキーの『かるた遊び』などがそうですが、これはやくさんやった現代もののうちの一例にすぎません。私はミュンスターに一年間滞在して、さんざん躊躇したあげくシュトラースブルクの音楽総監督の仕事を引き受けました。/私がシュトラースブルクに行くのをためらった理由はおわかりいただけると思います。なぜならシュトラースブルクは占領地だったのです。ですからライン川の対岸から入ってくるものはすべて、シュトラースブルクの住民から白い眼で見られました。私がシュトラースブルクに行ったのは第二次世界大戦の終わりに近い頃でしたが、そのとき私は、幾多の苦しい試練を受けてきたシュトラースブルクの人たちに、芸術がまず第一に適しているもの、つまり慰めと気晴らしとを音楽によって与えてやらねばならないと感じました。」(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, pp. 101-102)
- ↑ 「こうして一九四四年がやってきました。劇場は閉鎖され、オーケストラの演奏会も開くことができなくなりましたので、私はバイロイトでの仕事を引き受けました。バイロイトには、十ばかりのちがうオーケストラの団員たちが集まって作られた一つの交響楽団がありました。この交響楽団はラジオ放送のために演奏するのですが、私たちの放送はたいてい録音によって行われました。苦しい時期でしたが、同時に楽しい時代でもありました。わずかに残った音楽家たちの小さな集まりと私の間には個人的、人間的な親密な結合が生まれました。このことを私はけっして忘れません。こうしてまた一つの戦争が終わりましたが、しかし第一次世界大戦の終わったときにくらべると、今度は周囲の事情がさらにいっそう悪くなっていました。」(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, p. 102)
- ↑ 宇野, 功芳「ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団」『世界のオーケストラ123』音楽之友社、1993年、128頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960053。
- ↑ 「一九四五年に、私はミュンヒェン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になりました。このときは、このオーケストラを新しく編成しなおして、初めからやり直さなければなりませんでした。しかし私たちは、ミュンヒェン大学の戦災を受けなかった大講堂で、できるだけ早く演奏会を開く目的で練習に励みました。そして私たちは冬になってから、ベートーヴェンの主要作品の連続演奏会を始めましたが、もちろんホールは暖房などしてありません。それに照明も十分でなく、控室などはまっくらやみだったことを覚えています。またちょうどその演奏会の日には大雪が降って、舞台に出る前に私は燕尾服の雪をバタバタはたいて落とさなければなりませんでした。控室の窓にはガラスがなく、私の服に雪がいっぱいついていたからです。/ベートーヴェンの連続演奏会のあとに、ブルックナーの交響曲の連続演奏会も開きましたが、評判が非常によく、私たちはブルックナーの連続演奏会を、三回もくり返さねばなりませんでした。」(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, p. 102)
- ↑ 福本, 健一「南西ドイツ放送交響楽団」『世界のオーケストラ123』音楽之友社、1993年、128頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960053。
- ↑ 「ミュンヒェンでも私はまた突然かかってきた電話によって環境が変わることになりました。バーデン=バーデンの南西ドイツ放送局から、南西ドイツ放送オーケストラの指導を引き受ける医師があるのかどうかと、丁重に尋ねてきたのです。これは、監督のフリードリヒ・ビシヨップ教授、ハインリッヒ・シュトローベル博士、および当時南西ドイツ放送のフランス人の音楽担当者だったピエール・ポネル氏らの推薦によるものでした。/こうして、一九四八年の秋に、私はバーデン=バーデンに行き、すぐに仕事を始めましたが、私とオーケストラとの間には、強い芸術的な共同作業が行われただけでなく、特別な好ましい人間的な関係が生じました。私は芸術的共同作業と、好ましい人間的関係がなければほんとうに立派な演奏はできないと思っています。私たちの熱心な共同作業が実を結び、後には、チューリヒ、バーゼル、ミラノやヴェネツィア、パリなどで演奏会を開くこともできました。」〔ママ〕(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, p. 103)
- ↑ 「それから私たちは、エックス・アン・プロヴァンスへ行きました。一九四八年にマルセイユから三十キロほど北に、すばらしい街エックスが大きな音楽祭を開いたとき、私はモーツァルトの『コシ・ファン・トゥッテ』や二、三の交響曲を指揮するように招かれました。私はこの町が非常に美しいので、それに魅惑されてしまい、それからは毎年きまって七月になると、このフランスの美しい地方に出かけるようになりました。セザンヌやミヨーの故郷であるこの地方で、私は彼らが描いたと同じ美しさを求めたのです。夏の間には、ヨーロッパのほとんどの国は、残念ながら天気の悪いときがしばしばあるのですが、エックスでは毎日空はまっ青で、それでいて少しもむし暑くありません。ですから、エックスではすべての音楽の催しは野外で行うことができました。/フランスの偉大な舞台装置家で、室内装飾家であるA・M・カサンドゥルは、古い大僧正の宮殿の中庭に、近代的な設備のゆきとどいた小劇場を作りました。この劇場にはおよそ二千人もの人が席をとることができます。星のきらめく夜空のもとで、モーツァルトのオペラを指揮したりすると、エックス・アン・プロヴァンス以外では味わえない気分を体験体験することが出来るでしょう。/南西ドイツ放送管弦楽団はここで特に歓迎され高く評価されました。エックス・アン・プロヴァンスでの演奏曲に現代音楽を加えたことは特別な注意を呼び起こしました。/私たちのオーケストラは、エックス・アン・プロヴァンスのほかに再開されたドナウエッシンゲンの音楽祭にも定期的に出演しましたが、これはオーケストラにとっては重要な活動の一つであると思います。」(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, pp. 104-105)
- ↑ Evans 1992, p. 52
- ↑ “Rosbaud, Hans”. 2022年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月16日閲覧。
- ↑ 「私は南西ドイツ放送管弦音団の仕事だけでなく、ほかの仕事も引き受けました。つまりその数年前から、チューリッヒの音楽堂で指揮するように招かれていたのです。その結果、あの優秀なチューリッヒ管弦楽団とも密接な関係が生まれました。そしてここ数年来、私は毎年に十回の交響曲の演奏会をその音楽堂で指揮し、最近ではチューリッヒのオペラハウスでも指揮をしています。チューリッヒとバーデン=バーデンはそれほど遠く離れていませんから、私はこの二つの任務を容易に果すことが出来ます。これらの活動によって、特にオペラハウスでの活動によって、私は次第に重要なオペラ作品を指揮するようになりました。この頃、私はまた、ケルンやハンブルクの大きなラジオ放送交響楽団を指揮するようになりましたが、この二つの楽団を指揮することによって私は多くの音楽的に貴重な、体験をすることができました。数年前に私は、ハンブルクでシェーンベルクの『モーゼとアローン』をコンサート形式で初演することが出来ました。そのとき、シェーンベルクの奥さんと娘さんに再会でき、大変うれしく思いました。」〔ママ〕(ミュラー=マライン & ラインハルト 1965, pp. 104-105)
- ↑ Allen, David (2022年1月13日). “He Was an Important Conductor. Also a Great One.”. The New York Times. オリジナルの2022年1月14日時点におけるアーカイブ。 2022年1月14日閲覧。
- ↑ Rupnik, Dieter (2020年11月11日). “Die Rosbaud Saga”. Abenteuer Alter. オリジナルの2024年8月4日時点におけるアーカイブ。 2024年8月4日閲覧。
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