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アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

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アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ[1](Arturo Benedetti Michelangeli, 1920年[2]1月5日[3][4] - 1995年[5]6月12日[6][7])は、イタリアピアノ奏者。[8]

ブレシア近郊のオルツィヌオーヴィにて[9][10]弁護士のジュゼッペ・ベネデッティ・ミケランジェリとその妻アンジェラの息子として生まれる。[11]3歳の頃からピアノを始め、[5][12]5歳の頃からパオロ・キメーリに師事。[13]11歳から14歳までミラノ音楽院に通い、ジョヴァンニ・アンフォッシの門下となる。[14]1937年にはイタリア放送局の応募に失敗。[15]1938年のウジェーヌ・イザイ・コンクールでは7位入賞。[16]1939年にジュネーヴ国際音楽コンクールのピアノ部門で優勝し、[17]ジュネーヴのコンクールで優勝した年から1941年までボローニャ音楽院で教鞭を執る。[18][19]第二次世界大戦中の1943年にはエルネスト・アンセルメの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に出演してベルリンに登場し、[20]その年のうちにジュリアーナ・グイデッティと結婚。[21]1944年からヴェネツィア音楽院に転じ、[22]1946年にはロンドン、1948年にはニューヨーク[23]に登場。1949年[24]から1955年までボーゼンのモンテヴェルディ音楽院に奉職し、[25]1955年[26]にはワルシャワのショパン国際ピアノ・コンクールに審査員として参加。[27][28]1952年、1953年および1955年から1965年までアレッツォで夏期講習、1960年から1962年までモンカリエーリでも夏期講習を開き、[22]1960年には教皇ヨハネ二十三世のために初めてヴァチカンでコンサートを行った。[29][30][31]1964年にモスクワとレニングラードでコンサートを開催。[32]1965年[33]からブレシアとベルガモで自身の名を冠した音楽祭が開催され、本人も1968年まで参加した。[34][22]1968年には財政上の問題[35]からイタリアを離れ、スイスのルガノに移った。[36]1969年から1970年まで移住先で講習会を開く。[37]1988年にボルドーでのコンサート中に重篤な心臓発作を起こしてから演奏活動を年数回に制限。[38]1993年のハンブルク・ムジーク・ハレでの演奏会が人前で演奏した最後となった。[39]

ルガノの病院にて死去。[40][41]

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  1. 「両親は結婚に際し、届を出しただけだったが、幼いアルトゥーロは洗礼を受けている。名前は、父の名前から取った。ミケランジェリという苗字は、一族の者がミケラニオーリという伯爵令嬢と結婚したことでもたらされた名前が転じたものである。ABMは、本来「ベネディッティ・デイ・コンティ・ミケランジェリ、すなわち『ミケランジェリ伯爵ベネディッティ』という意味の名前になるはずだった。フォリーニョの大広場には、今日でもミケラニオーリ家の宮殿が建っている。ABMの妻、ジュリアーナ・ベネディッティ・ミケランジェリがその著書『Vita con Ciro』に記すところによると、若き日のABMはすでに『貴族の顔』をしていたそうである。『Ciro』とは、ABMが家族と近しい人々から呼ばれていた愛称で、ミラノの新聞、コリエレ・デラ・セラに登場する『Cirilino』という、有名な子供のキャラクターの名前を冗談めかして縮めた名前である。妻ジュリアーナは、ABMが人生を通じて真実と職業における完璧さを求めることになったのは、『絶対的な正直さ』を目指す教育によるものだ、とする。『ひとつの人生は、ひとつのことをきちんと成し遂げるに、かろうじて足りるに過ぎない』(ABM)。」(ガーベン, コード『ミケランジェリ ある天才との綱渡り』蔵原順子訳、アルファベータ、2004年、11頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871984591)
  2. Queen Elisabeth Competition”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。
  3. Arturo Benedetti Michelangeli | Biography & Facts | Britannica”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。
  4. 「私たちと同じ時代を生きる人であるにもかかわらず、ミケランジェリの生まれた日や場所に関しては、色々な意見がある。生まれた日については、彼の略歴を載せている記事を調べてみると、一九二〇年一月五日としているものと六日としているものとがある。この不一致は、彼が自分で話した『一月六日真夜中零時ちょうどから一時間の間も生まれた』という事実から生じている。」(コズベック, リディア『ベネデッティ・ミケランジェリ 人間・芸術家・教育者』蛯原万里訳、ムジカノーヴァ、1992年、10頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784943945253)
  5. 5.0 5.1 喜多尾, 道冬「アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ」『ピアニスト名盤500』音楽之友社、1997年、74頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960435
  6. Biographie d'ARTURO BENEDETTI MICHELANGELI (1920-1995) - Encyclopædia Universalis”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。
  7. 6月11日を命日とする資料もある。(BENEDETTI MICHELANGELI, Arturo - Enciclopedia - Treccani”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。)
  8. アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ - Discogs
  9. Fowke, Philip (1995年6月12日). “OBITUARY:Arturo Michelangeli”. Independent. オリジナルの2024年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/LH7Yx 2024年10月19日閲覧。 
  10. 「また、ミケランジェリが生まれた場所に関しても意見が分かれている。一九六三年にアレッツォで催された、ライオンズクラブ名誉会員主催のミケランジェリのためのパーティを取材して、ある記者がこう書いている。『この偉大なピアニストは、アルプスの谷間の一つであるヴァル・カモニカ(Val Camonica)という所で生まれた。』と。またスカルファティ(G.Scalfati)は、よりはっきりと、ヴァル・カモニカという谷間にあるピアノ・デル・トナーレ(Piano del Tonale)という村である、とまで記している。私が直接ミケランジェリから聞いたところによると、彼は、自分の誕生の地は、本当は、トレントという町からそれおど遠くないアルプスの谷間の一つだ、と言っている。また、ジャーナリストの中には、問題を簡単にするために、ミケランジェリが幼年時代を過ごしたブレシアを"故郷"として片づけている人たちもいる。確かにブレシアはヴァル・カモニカの近くにある。荘厳ンア山々の間にある絵のように美しい谷間は、イゼオ湖とガルダ湖という美しい湖の間をうねるようにして広がっており、ミケランジェリは、この谷間をいつも思い起こしては陶然としている。蛇足になるが、ミケランジェリが自分の職のことを考えて放棄せざるをえなかったウィンタースポーツや登山が好きであることも、やはりアルプスと結びついている。」(コズベック 1992, p. 11)
  11. 父ジュゼッペ(Giuseppe)はフォリーニョの名家の出身で、法学と哲学の学位を持ちつつ、作曲とピアノの学位も取得しており、弁護士業の傍らで音楽理論なども教えていた。母アンジェラ(Angela)は、旧姓はパパローニ(Paparoni)で、数学と文学を学んでいたが、学位は取得せずにベネデッティ・ミケランジェリ家に嫁いで家事と育児に専念した。(Arturo Benedetti Michelangeli”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。)
  12. 「アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリは、一九二〇年一月五日に、イタリア北部の都市、ブレシア近くのオルツィオヌオーヴォ〔ママ〕で生まれた。三歳で最初の音楽のレッスンを受けたと伝えられている。ミュンヘンの音楽評論家、ヴォルフガング・シュライバーは『音楽と医学』において、ミケランジェリのキャリアは、それよりもさらに以前に始まったとしている。『彼は二歳でピアノを弾き始め、同時にヴァイオリンを『卒業』した』。このように誇張された表現は、神童のキャリアを説明する際にしばしばみられるが、相対的にとらえる必要がある。わずか二歳の子供が、遊び半分で鍵盤を叩くことは出来ても、レッスンと呼べるような形で定期的に練習するかといえば、とりわけピアノという楽器に関しては不可能であることを、様々な前例が示している。さらには、ヴァイオリンを『卒業』するなどというのは、まったくの伝説世界のことだと考えてよい。/実のところは、早くも三歳の時に音楽に驚くほどつい興味を示した幼いアルトゥーロのために、父親はプロに指導を恃むことにしたのだった。すべての音を実際の音程で記憶できる絶対音感ののおかげで、アルトゥーロの暗譜は極端に早かった。/父ジュゼッペは、多少ピアノを弾くものの、本業は弁護士だった。したがって、息子が楽器を習い始めたとき、ジュゼッペが傍らもいたとする説もあるが、実際に付き添ったのは、ほんのときたまのことであったろう。」(ガーベン 2004, p. 10)
  13. 「アルトゥーロは五歳のとき、ブレシアのヴェントゥーリ音楽学校で教鞭をとっていたパオロ・キメーリに、年齢にふさわしい、より真剣なレッスンを受けるようになった。キメーリは、神童やその家族が求める特別待遇を嫌い、教育において正常性を求めることで知られていた。/『私が教わったことはすべて、パオロ・キメーリのおかげである』とABMが後に述べていたと、妻は報告している。/キメーリが、毎年行われる発表会で地域の人々に自分の生徒をお披露目したとき、一九二六年十二月十日の新聞、イル・ポポロ・ディ・ブレシアは次のように書いている。/『ベネディッティ・ミケランジェリ・アルトゥーロ少年には特別の賛辞が送られた。わずか六歳にしてマエストロ・キメーリの生徒である彼は、特殊な例であることがはっきりとした』。」(ガーベン 2004, pp. 11-12)
  14. 「ミケランジェリは、わずか十一歳で、ミラノのコンセルヴァトリウムに移り、熱心な権威者として知られるジョヴァンニ・アンフォッシの生徒となった。アンフォッシは、優れたピアニストを数多く育てただけでなく、ミラノとその周辺で開催される演奏会のオーガナイザーとしても重要な役割を果たしていた。/アルトゥーロは、豊かな才能に恵まれた数々の子供たちと同様に、ピアノが与えてくれない、別の表現方法を探していた。新しい響きの色彩と効果、あるいは単に他に挑戦できるものを。こうしてアルトゥーロは、フェルッチョ・フランチェスコーニにヴァイオリンを師事し、イジドーロ・カピタニオの作曲のクラスに参加した。/弟ウンベルトも後にフランチェスコーニにヴァイオリンを学んでいる。ウンベルトは著名なコンクールで優勝し、後にはヴァイオリニストとして、そして複数のオーケストラのコンサートマスターとして定評があったにもかかわらず、その職業に対する姿勢は、すでに学生時代から、どちらかといえば気楽なものであった。兄弟の関係には問題があった。母親が弟のウンベルトをとりわけ可愛がったことが、生涯に渡り、アルトゥーロに重くのしかかっていたようである。/アルトゥーロのヴァイオリンの勉強はあまり成果をもたらさなかった。十歳のときには結核によって肩を痛め、楽器を支えられなくなったことがヴァイオリンをやめるきっかけになったと、しばしば説明されている。/ミラノのコンセルヴァトリウムで開かれたピアノリサイタルの際に、コンテッサ・マリア・レンタティーデ・メディチと知り合う。彼女の父親はブレシアの大聖堂に埋葬されている。彼女は、芸術と音楽を愛する人で、アルトゥーロへの支援をおしまなかった。勉強のため、そして演奏会のために最高のグランドピアノを用意し、ABMの第二の母親となったのである。彼女が亡くなったとき、ABMは部屋に閉じこもり、『昼も夜も暗闇と完全な静寂の中にいた』とジュリアーナ・ベネディッティ・ミケランジェリは述べている。/十四歳でディプロマを取ったときのことを、ミラノのコリエレ・デラ・セラ紙が記している。一九三四年六月三十日付けの記事には『ジョヴァンニ・アンフォッシ教授の生徒で、十四歳のアルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリは、ミラノのヴェルディ・コンセルヴァトリウムで最高点を獲得し、ピアノディプロマを獲得した』とある。」(ガーベン 2004, pp. 13-14)
  15. ガーベン 2004, p. 14
  16. 「初めて大規模な枠で登場したのは一九三八年、ブリュッセルで開催された第二回ウジェーヌ・イザイ・コンクールで、これは後にエリザベート王妃コンクールと称され、最も重要ンs音楽コンクールの一つとなるものである。ABMは、イタリア人の中では最高位に鳴るものの、全体では七位にしかならなかった。一位はソヴィエトのピアニスト、エミール・ギレリスであった。聴衆の方は若きイタリア人に熱狂的な反応を示した。/ブリュッセルのデリエール・エール紙は一九三八年五月十九日に、一次選考について次のように記している。/『一人のイタリア人が、大きな衝撃を引き起こした。一九二〇年にブレシアに生まれたマエストロ・アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリである。完璧なヴィルトゥオーゾであり、様式に対する繊細な感覚でJ・S・バッハの《イタリア協奏曲》を演奏。持ち味であるエレガントな繊細さをスカルラッティのソナタで披露し、バッハブゾーニの《シャコンヌ》では荘厳な偉大さと魔術的な響きを提示し、イタリア出身の偉大なフェルッチョ・ブゾーニを彷彿とさせた』。/二週間後の最終選考で、ABMはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのソナタ・作品111番、フレデリック・ショパンの変ロ短調スケルツォの他、グリーグのピアノ協奏曲を弾いた。/同じ新聞が五月三十日に絶賛している。/『グリーグの協奏曲は際立った質の高さであった。ヴィルトゥオーゾ的パッセージでの力強さ、そしてとりわけカデンツァにおいて、その広範な技術を証明して見せた。最高に純な響きと完全に手中に収めたタッチは、彼を現在最高のピアニストの列に加えるものである』。/このような称賛と審査員の耳の前での比較的低い評価との乖離をどう説明すればよいのだろうか?ル・フランボー紙が、一九三八年六月にコンクールを振り返った記事は次のように述べている。/『その評かは我々にショックを与えた。誰も納得できない』と。続けて、かつてニュルンベルクの人々がハンス・ザックスのアイディアで、審査員の揚げ足取りをなじるようになり、代わって民衆が歌う騎士たちの歌唱を評価するようになったことはよく知られている話だが、その方が真実を見つけるための良い方法である、としている。/ル・フランボー紙は、多くの人々が考えていたことをはっきりと公言している。『マエストロ・ミケランジェリへの評価は、不安を覚えさせる兆しである。学校間のライバル関係があるのか?』/ジュリアーナ・ベネディッティ・ミケランジェリは、当時さかんであったうわさのことを記憶している。よりによって著名なピアニストであったイタリア人審査員が、低い点数をつけたというのである。彼が育てたイタリア人ピアニスト三人が、直前にウィーンで開催されたコンクールでは上位を占めていたのに、今回はすでに予選敗退してしまったことへの失望が背景にあったらしい。/自らも情熱的なヴァイオリニストであった王妃の母君が、若いイタリア人を慰めてくれた。彼女は一緒に演奏するよう彼を招くことで、彼に対する高い評価を誇示してみせたのである。彼が『やっと』七位でしかなかったにもかかわらず、彼女は、彼のために公式な特別演奏会を開催した。また王妃自身、聴衆の目を逃れて、コンクールを最初から歳以後まで桟敷席で聴いていたのだった。その王妃からは、特別な好意の証として、数字の7の形をした宝石のついたカフスボタンを贈られた。」(ガーベン 2004, pp. 15-17)
  17. 「その一年後の一九三九年に参加したジュネーヴ・ピアノ・コンクールが、彼の芸術家人生の初期に訪れた転機である。七月八日、ミケランジェリはアルフレッド・コルトーイグナーツ・パデレフスキといった世界的な名声を誇る審査員の前で、フランツ・リストのピアノ協奏曲第一番を弾いた。ミケランジェリと同様に、弱弱しく華奢なピアニストで、晩年はモルヒネ中毒になったコルトーは、ピアノに関しては完璧主義とは程遠い存在であった。残された数少ない映像から、とりとめがなく、心ここにあらずといった様子でありながらも情熱的な教師としてのコルトーが見て取れる。パデレフスキもまた、神尾駅差をそれほど重視しない世代に属していた。加えて、一時期ポーランドの首相を務めたこともあるパデレフスキは政治的発言力を持ち、『白紙委任権』を持っていた。/パデレフスキはジュネーヴで審査委員長を務め、ABMの非の打ちどころのない演奏に感銘を受け、この若いイタリア人に一位を与えた。コルトーは、ABMに大きな将来を予測する。『新たなリストが誕生した!』として次のような献呈の言葉を写真に添えて渡した。『アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリに、深い感銘を込めて!』。/またその時代の他の大物たちも若きスターを称賛している。/第二次世界大戦が勃発したとき、ABMは、ローマ教皇大使ロンカリ大司教、後の法王ヨハネ二十三世のためのコンサートに出演すべくパリにいた。しかし、すべての『戦闘可能な』イタリア人は即刻イタリアに帰らなければならないと発表されると、コンサートをキャンセルすることが模索された。ロンカリ大司教ABMをローマ行のローマ教皇大使館の特別社に同情させることで、コンサートを救った。以来、両者はまるで『父と息子』のような友情で結ばれた、とジュリアーナ・ベネディッティ・ミケランジェリは言う。/ジュネーヴのコンクールの大成功により、ミケランジェリはローマのクイリナーレ王宮に招かれ、特別賞としてパヴォリーニ大臣の前で演奏する。報酬の代わりに腕時計と共に、ファシスト党への党員証が渡され、彼を驚かせた。『時計は受け取ったが、党員証はそのまま置いてきた』。」(ガーベン 2004, pp. 18-19)
  18. Arturo Benedetti Michelangeli - Oxford Reference”. 2024年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
  19. ガーベンの書に掲載されている年譜によれば、ボローニャ音楽院で働きはじめたのは1938年。(ガーベン 2004, p. 218)
  20. ガーベン 2004, p. 26
  21. 1970年に別居となったが離婚はしなかった。(Addio a Giuliana Guidetti vedova e custode della memoria di Benedetti Michelangeli”. 2024年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月17日閲覧。)
  22. 22.0 22.1 22.2 ガーベン 2004, p. 219
  23. 1950年にはカーネギー・ホールに登場。(ガーベン 2004, p. 219)
  24. 「一九四九年、作曲家フレデリック・ショパンの没後百年を迎えたポーランドで、名誉ピアニストにベネディッティ・ミケランジェリが選ばれた。これは、作曲家の祖国が一人の音楽家に与える最高の栄誉であった。」(ガーベン 2004, p. 30)
  25. 「一九四六年にロンドンへ、その二年後にニューヨークへデヴューしてから、ABMはヴェネツィアのコンセルヴァトリウムでの教師としての活動に力を入れるようになった。この地方特有の湿度の高い気候による呼吸器官の問題のため、一九四九年には、ボーゼンのモンテヴェルディ・コンセルヴァトリウムに移り、それから六年間、同地で教鞭を執った。」(ガーベン 2004, p. 28)
  26. 「一九五五年は不幸な年であった。ABMが重い肺病のため、しばらく演奏出来ないことが公になった。うつ病にもかかっていたため、彼のファンはこれでキャリアも終わりか、と恐れた。/しかし、その年のうちに彼は復帰した。」(ガーベン 2004, p. 32)
  27. 「ワルシャワのショパン・コンクールで、カルロ・ゼッキレフ・オボーリンマルゲリータ・ロングママ〕といった著名なピアニストと共に、審査員として若いピアニストたちの運命を決めることになったのである。ブリュッセルのコンクール以来、彼のファンであったベルギーの王妃も、コンクールを桟敷席から見守った。/彼が突然、選考会の間の休日に水から演奏することを決めたときの驚きは大きかった。オーケストラとの共演でソリストとして登場したほか、リサイタルも開き、ブラームスの《パガニーニ変奏曲》とバッハ/ブゾーニの《シャコンヌ》などを弾いた。ポーランドの著名なピアニスト、ズビグニェフ・ジェヴィエツキがそのときのことを回顧している。/『ミケランジェリの演奏は私を圧倒した。私は決して忘れることはないだろう。そのカンティレーナの見事な構築、ペダル使い、そして色彩豊かな演奏は私の涙を誘った。とりわけ、《パガニーニ変奏曲》のいくつかのコンセプトは啓発的であった。またオーケストラとの共演にも感銘を受けた』。/音楽界は再び彼を取り戻した。しかしその喜びも長くは続かなかった。/審査員の大半の意見に反して、ABMが推したのは若き日のウラディミール・アシュケナージだった。対抗馬は、後にショパンの作品を初めて全曲録音したことで知られるアダム・ハラシェヴィチ。結局ハラシェヴィチが一位となり、ABMは自分の望むように事が運ばなかったため、予定を切り上げて帰ってしまった。/後に、イーヴォ・ポゴレリッチのときに、マルタ・アルゲリッチは同じように妥協を拒み、過小評価されていると感じたピアニストを選んだ。そして、やはり途中で帰ってしまったため、そのピアニストが一夜にして世界にその名を知られることになったのである。/ヴラディーミル・アシュケナージは後年、テッシーナの山中でABMの隣人になった。隣人とはいっても、家が隣接しているわけではなく、両家の間には大きな森がいくつかあった。もしかするとこの距離はちょうどよかったのかもしれない。というのも、二人の間には人間的な面でも、芸術的な面でもなんら接触がなかったからである。時が経つ中でABMは、いまでは指揮者としても成功を収めているこの隣人に対する評価を取り下げていた。」(ガーベン 2004, p. 32-33)
  28. 「日本人として最初のショパン・コンクール入賞者はキヨコ・タナカである。(一九五五年三月のショパン・コンクールで)彼女の演奏は聴衆を感動させ、電気を通じたような衝撃を与えた。(中略)小数点以下の平均点、それによって彼女に十位を授与することが決定された。審査員席に坐っていたアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリはこれをコンクールのどぎつい不公平であるとみて上品とは言えない言葉で表決を批判し、確認書にサインすることを拒絶して出て行った。(中略)キヨコ・タナカは、その生涯に得た栄光よりも、もっと多くの才能を持っていた。/(一九八九年九月七日 ワルシャワの一般紙エクスプレス夕刊記事より)」(荻谷, 由喜子『田中希代子 夜明けのピアニスト』ショパン、2005年、188頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784883641895)
  29. 「一九六〇年四月、ABMは父親のような友人、法王ヨハネ二十三世に敬意を表して、初めてヴァチカンで演奏した。ABMのカトリック教会との結びつきは強く、『世界の中心』で演奏し、その芸術によって『天上へ向かう道のり』を示すことは、毎回大きな栄誉であった、と後に語っている。」(ガーベン 2004, p. 33)
  30. ベネデッティ・ミケランジェリの死後、彼の未発表録音を販売するために設立された「Memoria ABM」レーベルからヴァチカンでのライヴ録音として4枚組のCDで発売されていた。その4枚組CDには、1960年、1962年、1977年、1987年の録音が含まれる。(Booklet. . Arturo Benedetti Michelangeli Les Enregistrements Au Vatican (Memoria ABM) (999.001). (1995). ASIN B0000245Z3. https://archive.is/qZSQ6/582b5e1e1473f52ea218cf7a81675c0bd54351a3.jpg. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。EAN 7619913990013)
  31. ガーベンの書にある年譜ではヴァチカンでコンサートを開いた記述として「一九六〇年 法王ヨハネ二十三世のためヴァチカンでコンサート。」(ガーベン 2004, p. 219)「一九七六年 ヴァチカンで、法王ピウス六世の前でマルタ騎士団のためにコンサート。」および「一九八七年 ヴァチカンで、法王ヨハネ二十三世祈念コンサート。」(ガーベン 2004, p. 220)の記述がある。
  32. Michelangeli plays Malagueña - Best of the best”. 2024年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。
  33. 1965年に初来日。(Arturo Benedetti Michelangeli”. 2024年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月18日閲覧。)
  34. 「一九六五年、ブレシアとベルガモの両氏は『アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ国際ピアノ・フェスティヴァル』を創設する。イタリアのピアニストに音楽祭が丸ごと献呈されたのは初めてのことであった。」(ガーベン 2004, p. 33)
  35. 1965年にニコラ・フィリベルト・ディ・マッテオとジュゼッペ・ボッカネグラとともにボローニャでレコード・レーベル「BDM」を設立したが、1968年には倒産している。(Centro di Documentazione «Arturo Benedetti Michelangeli»”. 2012-05-26}時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月26日閲覧。)
  36. 「不幸なことに、彼のために設立されたレコード会社が倒産し、彼は経済的に困難な状況に陥ってしまう。ボローニャにあるこの会社と、十作品の録音を約束していたものの、ABMはこれを履行しなかったのだった。妻ジュリアーナによると、『私的な契約』であったにもかかわらず、契約不履行による巨額の違約金を払うことになった。こうしてすべてのコンサート収入が差し押さえられ(『彼は泣いていたわ!』)ABMは国を離れることを決意する。彼は事態を誤解し、自分が騙されたと感じていた。失望したABMは、二度とこの地には戻るつもりはないと言って、ブレシアとイタリアに別れを告げた。そして、まずはチューリヒに、それからルガーノに居を構えた。」(ガーベン 2004, p. 34)
  37. 「ルガノのヘレネウムヴィラで講習会を開く。」(Arturo Benedetti Michelangeli)
  38. Benedetti Michelangeli, Arturo | BiblioLMC”. 2024年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  39. 「一九九三年五月七日、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリは、音響の良さのため、特に気に入っていたハンブルク・ムジーク・ハレで、アシスタント役のエオリアンハープなしで、最後となるピアノ・リサイタルを開いた。別れの曲として選んだのは、『彼の』音楽であったドビュッシーの作品である。」(ガーベン 2004, p. 39)
  40. 死因を腫瘍疾患とする資料もある。(Centro di Documentazione «Arturo Benedetti Michelangeli»)
  41. 死因を心臓発作とする資料もある。(Benedetti Michelangeli, Arturo | BiblioLMC)

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