You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

とんねるず

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索

とんねるずTUNNELS)は、石橋貴明木梨憲武からなる日本のお笑いコンビ、ボーカルデュオ、マルチタレント。

1980年結成。所属事務所は石橋がアライバル、木梨がキナシコッカ。レコードレーベルはポニーキャニオン。

コンビ名は、TakaakiのTから「TUN」、NoritakeのNから「NEL」、複数形「S」で二人の下の名前のイニシャルを用いて名付けられた。略称「TN」。

1980年代初頭に起こった漫才ブーム衰退後の日本のお笑い界の新世代を代表するコンビの筆頭で、80年代中盤から破竹の勢いで時代を席巻していった。ウッチャンナンチャン、ダウンタウンら「お笑い第三世代」と称されるこの3組は、現代のお笑い界に大きな影響を与えている。

概要[編集]

1980年、私立帝京高校の同級生である2人によりコンビ結成。1982年に『お笑いスター誕生!!』でグランプリを獲得。1980年代半ばに『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』の出演によって若者を中心に爆発的な人気を獲得。同時期の1985年に始まった『とんねるずのオールナイトニッポン』は、目玉のフリートークと数々の名物コーナーが受け「ハガキ職人」を多数輩出、多くのリスナーに多大な影響を与える深夜ラジオ史に残る名番組となる。1987年には『ねるとん紅鯨団』が始まり「ねるとんブーム」を起こし、深夜番組ながら視聴率上位常連の大ヒット番組となる。翌1988年には彼らの代表番組となる『とんねるずのみなさんのおかげです』が始まり、開始直後から20%越えの高視聴率を記録。社会現象になるほどのお化け番組と化し、彼らの地位を確立した。その後も『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』『とんねるずのハンマープライス』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などの名番組を輩出する。

一方歌手としても活躍し、数々のヒット曲を生み出している。1991年「情けねえ」は第22回日本歌謡大賞大賞を受賞、1992年「ガラガラヘビがやってくる」はミリオンヒットを達成した。全国コンサートツアーも1995年まで毎年開催しており、1989年11月には東京ドーム公演を成功させている。

コンビ名の由来[編集]

コンビ名の由来は、当時日本テレビのゼネラルプロデューサーであった井原高忠が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案して本人たちに選ばせたことから。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(脱線トリオ、てんぷくトリオに続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと、素の2人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという。

芸風[編集]

コンビだがボケとツッコミの役割は特に分かれていないスタイルで、ネタ作りは石橋が担当している。デビュー当時のプロフィールには「カリスマ芸人」と記載していた。二度目の下積み時代(新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」時代など)を経て破天荒な芸風へと変わっていった。

『オールナイトフジ』出演以降に若さとエネルギー全開「──ナ! わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの行動が日常的だったがこれと伴って同時に人気を獲得することとなった。特に『夕やけニャンニャン』ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」とアイドルファンから不平不満を買った。一方でスタジオ観覧の若者が「とんねるずに蹴られた」のを自慢する時代でもあった。

とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな。」と語尾に「みたいな」を付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがテレビで誇張して用いる事で、全国的に広まった。他にも『ねるとん紅鯨団』から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、『ねる様の踏み絵』で使われた「元サヤ」など彼らが発信元となった言葉は数多い。

また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる「業界用語」を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。彼らのファンを『ワンフー』と呼んでいるのもここから起因している。

内輪ネタ」もとんねるずの大きな特徴。ただしこれは一部の放送関係者だけに理解できる発言であることも多く、その発言内容は一般視聴者にはいまいち分かりづらいものである事も多かった(古くは『オレたちひょうきん族』でもこの傾向は見られ、当時は「楽屋落ちネタ」と呼ばれた)。また、『とんねるずのオールナイトニッポン』ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家・マネージャー・プロデューサー・高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立った。

業界の慣例だった製作会社社員・スタッフに支給される弁当とタレントの弁当にあった区別をとんねるずが取っ払った。そのスタイル「各業界に壁などない」「スタッフ、素人が同じ舞台に居る」という形が『ねるとん紅鯨団』、「野猿」の結成でありその「一般人、スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。

とんねるずを育んだもの[編集]

2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。

1991年から2000年にかけて、苗場プリンスホテルのブリザーディウムで開催していた、コントライブ『こんと いん なえば』は、テレビとは違った本格的コントを生の舞台で客を笑わせることを重視していたが、元々舞台上に一切のセットを置かず、己の体ひとつで笑いや感動を与えていたイッセー尾形の『一人芝居』に触発されている。

バラエティ以外で影響を受けた者としては長嶋茂雄、矢沢永吉、アントニオ猪木、『傷だらけの天使』の萩原健一、江川卓らが挙げられる。

経歴[編集]

素人時代[編集]

共に東京都出身で帝京高等学校卒業。在学中の石橋は野球部、木梨はサッカー部へ所属。この2つの部は互いに交流が盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者だったという。

石橋は高校在学中から『ぎんざNOW!』(TBS)や『TVジョッキー』(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、『TVジョッキー』のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋で、初代グランドチャンピオンを獲得した。また、木梨も第5代チャンピオンを獲得。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。

石橋ほどの頻度ではないが、主に和田アキ子のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)に出演したのがコンビとして初めてのテレビ出演となる。『お笑いスター誕生!!』の出演までは、賞金を合計で多く得ようと意図的にバラバラで出演することもあったという。

お笑いスター誕生への挑戦[編集]

帝京高校卒業後、西武ライオンズのトライアウトで不合格となっていた石橋はホテルセンチュリーハイアットに入社しホテルオークラで研修、木梨はダイハツ工業に入社と、2人とも一般企業に就職するものの、『お笑いスター誕生!!』へのチャレンジ決意を機に2人とも退社して再会。当時のコンビ名は「貴明&憲武」。漫才だけではなく、モノマネや一発ギャグ、アニメの『魔法使いサリー』や『サンダーバード』のパロディ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。

「とんねるず」結成、プロデビュー[編集]

退社後の1980年に正式にコンビ結成。コンビ名も「とんねるず」と改め『お笑いスター誕生!!』にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組担当の日本テレビ・赤尾プロデューサーの紹介で日企に所属、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属したが、クラブの客層に芸風が合わずハマらなかった。

『お笑いスター誕生!!』では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。

1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ)にレギュラー出演したが、些細な事から赤尾プロデューサーと衝突。一貫して日本テレビ系番組出演タレントだったとんねるずは、同局から完全に干されることになる。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「昆」(後にKONと改名)に出演するなど、下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、特に石橋はグッチ裕三、ウガンダトラ宅に居候していたこともある。石橋とグッチは当時のグッチの妻にゲイと誤解されるほど、仲が大変良かった。

1983年頃、所属事務所を通さず友人の結婚式の司会をコンビで引き受け、これを知った事務所社長が激怒して一時期テレビに出演できなくなってしまった。

スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして、営業回りをしていたこともあった。しかし営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。さらにこの頃は既に『オールナイトフジ』への出演が決まっていたので、夜は連日豪遊していた。

その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「オフィスAtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。秦野は当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である。

人気の拡大(全盛期)[編集]

1983年12月、フジテレビ系の深夜番組『オールナイトフジ』を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったものの、番組内での些細なトラブル(石橋曰く「誤解によるもの」)によって、1984年1月に一旦降板。半年後の同年6月にレギュラーへと復帰している。その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内の放送時間が早まるにつれ人気を集め、翌年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、1985年 - 1987年)では片岡鶴太郎や吉田照美を脇役に追い立てるほどだった。

その後も『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)『深夜劇場・トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)などレギュラー番組を増やしていく。『とんねるずのオールナイトニッポン』(1985年 - 1992年)では火曜1部を担当し、数々のコーナーを輩出。聴取率ランキングでは当時絶大な人気を誇っていた『ビートたけしのオールナイトニッポン』を抜き、『小泉今日子のオールナイトニッポン』と熾烈な競争をしていた。『トライアングル・ブルー』では可愛かずみ・川上麻衣子・前田耕陽などと共演する。

またこの頃、『新・ど根性ガエル』(日本テレビ)のテーマ「ピョン吉・ロックンロール」の後にリリースされた「ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト」以来のシングル「一気!」をリリース。その際には、TBS系の音楽番組『ザ・ベストテン』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、勢い余ってセットの高所や吊り下げられた照明によじ登ったり、1500万円のテレビカメラを壊すなどの行動や、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗るなどの行動や言動を見せた。1985年には、「一気!」の人気から断交状態にあった日本テレビが動き、ビートたけし司会の『スーパージョッキー』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る「確執の事実上の“手打ち”」となった。この際、ビートたけしととんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、常に緊張感が漂っていたという。後にこの2組は番組で共演することになる。

『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された。その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった。しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。

この当時は『新春かくし芸大会』(フジテレビ)にも出場しており、映画『南極物語』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフなしの数秒のチョイ役出演や、中森明菜と体を張ったカマヌンチャク芸を披露するなどしていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例に挙げることがある。1986年には第14回『ホノルルマラソン』に、ザ・ドリフターズのメンバーと参加するなど、まだまだ若手扱いされる時期だった。

1980年代、巷でタレントショップブームが巻き起こった際には彼らも、「セシカ」や、当時の番組『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ)とのタイアップショップ「バレンタインハウス」を原宿や京都に出店しており、関連グッズをヒットさせた。

女性からの人気も獲得しており、『ザテレビジョン』(角川書店)や『明星』(集英社)などさまざまな雑誌の表紙を飾った。

黄金期(1987年 - 1995年)[編集]

1987年10月『上海紅鯨団が行く』を引き継ぐ形でスタートした『ねるとん紅鯨団』(関西テレビ放送制作、フジテレビ系)がヒット。初年度から深夜枠ながらバラエティ年間平均視聴率ランキング3位にランクインした。当時IVSテレビ制作で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤輝夫(現:テリー伊藤)や後藤喜男と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が好評を得、集団お見合いパーティーそのものが『ねるとんパーティー』と呼ばれることもある。また1986年から火曜ワイドスペシャルで数回特番を行い、1988年10月からは、『とんねるずのみなさんのおかげです』がレギュラー放送を開始。番組内では、『仮面ノリダー』『保毛尾田保毛男』などのコントやパロディを披露した。当時裏番組として、国民的人気番組であるザ・ベストテンがTBS系列で放送されていたが、2週目の放送で辛勝。3週目でダブルスコアをつけての完勝となった。初年度から年間平均視聴率21.4%という驚異的な数字を叩き出し、1989年から94年にかけて年間平均視聴率ランキングで、全局・全ジャンルで1位をキープした。1989年3月のスペシャル時には番組シリーズで過去最高29.5%の視聴率を記録した。更にこの頃には、13本のCM契約もしていた。1991年10月には、『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体のコーナーが人気を得た『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』(日本テレビ)が開始した。

1995年には、一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組『ねる様の踏み絵』(その後番組名『とんねるずのカバチ』に変更)が開始。さらに同年1月には『ねるとん紅鯨団』の後継番組として開始したバラエティ番組『とんねるずのハンマープライス』(『ねるとん』と同じく関西テレビ制作、フジテレビ系)も開始した。

レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動や俳優活動などのマルチタレントとしての活動も行い、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」をはじめとする曲がヒット。また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。

テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活動の傍らで、1991年から2000年の10年間、毎年3月初旬に苗場プリンスホテルのブリザーディウムにて、単独コントライブ『こんと いん なえば』を開催する。

1994年には独立して個人事務所「アライバル」を設立。石橋が社長、木梨が副社長、残る所属タレントや事務員が平社員を務めた。当時の事務所に向かっていた途中、六本木・星条旗通りでお互い運転していた車を降り、「独立すればもっと正しい方向に向かう」と考えた石橋が、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけた。木梨は「貴明がいいならいいよ」と二つ返事で了承したというエピソードがある。その後1997年2月に関西テレビを定年退職したフリーアナウンサーの杉本清を迎え入れ、その3年後の2000年には女猿のメンバー4人がいずれも平社員として所属した(女猿は2004年に解散し同時にアライバルを退社)。2008年12月には女優の鈴木保奈美を同じく平社員として迎え入れるものの、2018年に木梨がアライバルを退社した。これにより副社長は空席となっている。

安定期(1996年 - 1999年)[編集]

コンビ人気が安定期を迎えていた1990年代後半(特に1996年以降)に差し掛かると、ピンでの活動も活発になり始める。

木梨は1996年5月、「憲三郎&ジョージ山本」という演歌ユニットでヒットし、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ『甘い結婚』(フジテレビ)で個人初主演を果たした。

一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組『うたばん』(TBS)の放送が始まり、2010年3月まで13年半続いたメジャー音楽番組となった。また1997年2月に工藤静香とのユニット「Little Kiss」がヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ『今夜、宇宙の片隅で』(フジテレビ)に主演した。

1997年3月、『とんねるずのみなさんのおかげです』が完全終了した。同年6月に『とんねるずのみなさんのおかげでした』と改題、リニューアルし放送開始。この頃には出演する番組が軒並み高視聴率を記録している。なお、とんねるずのみなさんのおかげでしたはスタート初年度から年間平均視聴率ランキングでは3位にランクインし、とんねるずの生でダラダラいかせて!!も1999年まで常にベスト5をキープ、とんねるずのハンマープライスも裏番組に苦戦しつつもベスト10常連の番組であった。石橋単独出演のうたばんも音楽番組では2000年まで最も平均視聴率が高く、その後も1位争いを繰り広げていた。またコンビ・個人合わせて最もレギュラー番組を抱えていたのがこの時期である。

2人揃っての活動としては、フジテレビの番組スタッフと組んだ音楽ユニット『野猿』で1998年4月にデビューし、2001年までCDのリリースやコンサート開催などの活動を展開した。2人が音楽活動で揃うのは1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりとなった。

2000年代[編集]

2000年1月3日に、『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日)が、正月番組として開始。番組内ではとんねるずが、一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決している。10周年を迎えた2009年以降は5時間の大型特番として放送されている。2012年からは夏版も放送が開始。そして2019年には正月版が20回目を迎えている。

2004年の『FNS27時間テレビ』(フジテレビ)内で放送された『笑わず嫌い王決定戦』で、久しぶりにコンビ漫才を披露した。

2004年 - 2007年、木梨は歌・コント・フリートークを交えたソロライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催した。

2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で冠番組をスタートさせてから丸20周年を迎えた。なお、同枠は1988年10月に『とんねるずのみなさんのおかげです』が正式なレギュラー番組となって以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』などを挟み、『とんねるずのみなさんのおかげでした』まで続いており、厳密には2009年3月で20周年となる。

2008年9月25日、同年5月から『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画として始動していた『矢島美容室』をDJ OZMAと結成する事を発表し10月29日にデビュー。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年には当ユニット名義の映画を公開した。

2010年代( - 2018年3月)[編集]

2012年3月、木梨は5年ぶりとなるソロライブ「NORITAKE GUIDE 5.0」を開催。最終日には石橋がサプライズ出演し、1995年のコンサートツアー以来のとんねるずとしての客前歌披露を行った。

2012年9月10日、視聴者参加型特別番組『ハレバレとんねるず 略してテレとん』(テレビ東京)が放送される。テレビ東京へのコンビとしての出演は、同じく素人参加番組だった『ドバドバ大爆弾』以来32年ぶりとなり、プロになってからは初めての同局での冠番組となる。

2013年10月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)が放送25周年を迎える。2013年11月7日の放送では、放送25周年を記念してとんねるずvs矢沢永吉の「新・食わず嫌い王決定戦」特別対決が行われた。

2014年1月14日、『笑っていいとも!』(フジテレビ)放送第8000回目のテレフォンショッキングにて、不定期として番組レギュラーでの出演が決定した。自身がメインではない番組でのテレビでのレギュラー番組は『夕やけニャンニャン』の終了時(1987年)以来27年ぶりとなる。またテレフォンショッキングの史上最長記録は1984年以来、長らく黒柳徹子(46分)が最長となっていたが、番組終了を目前にして彼らが48分22秒で更新した。2014年3月31日「笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号」をもって幕を閉じた。

2017年6月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が単独放送開始20周年を迎える。

2017年9月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が『とんねるずのみなさんのおかげです』『ラスタとんねるず'94』『とんねるずの本汁でしょう!!』時代を含めて放送開始30周年を迎える。

2018年3月22日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』が放送終了。放送回数は「おかげです」時代を含めて全1340回。木梨は2018年1月26日放送の『あさイチ』(NHK総合テレビ)にて『みなさんのおかげでした』終了後のとんねるずの活動について、「また新しい話があれば、企画できそうなことがあればやろうって」と石橋とも話している旨を明かした。

変革期(2018年4月 - 現在)[編集]

木梨が自身の個人事務所『コッカ』(現:キナシコッカ)に移籍、石橋とは所属事務所が別々となる。また約30年続いてきた公式ファンクラブ「TN Lounge」は2018年末をもって閉会。2018年4月以降は専ら個人活動がメインで、メンバー各々が活躍の場を広げている。

2019年9月、2人が個々で歌活動を開始することが同時期に発表された。 木梨は同年9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて発表され、自社レーベル「木梨レコード」を立ち上げ、同年10月24日配信EP「木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜」でソロデビュー。現在精力的な歌手活動を展開しており、様々な歌手とのコラボや、2021年に始まった『木梨フェス』が話題になっている。一方石橋も同年9月17日、元野猿メンバーだった平山晃哉と神波憲人との3人組グループ『B Pressure』を結成し、同年11月1日に1stシングル「Freeze」でデビュー。以後1stアルバムリリース、ライブを行っていたが、2021年2月新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大により活動休止。また演出家マッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』を組みデジタルシングルを配信リリースした。

2020年、コンビ結成40周年を迎える。

2020年1月22日、ポニーキャニオン時代のとんねるずやソロの活動曲を含む全189曲が、サブスクリプションサービス(サブスク)で一斉配信を開始、続く2021年7月28日には歌手デビュー時に在籍していたビクター時代の音源も一斉配信された。

現在、石橋は得意分野の知識を生かしたテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、木梨はテレビ・ラジオのMC・パーソナリティ、歌手活動、個展開催など活躍中。また『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』(テレビ朝日)は2023年で24回目を迎える。※2012年開始の夏版は含まず。

その中で近年、石橋が「ABEMA」「YouTube」、木梨が「GYAO!」「Instagram」といった動画配信サービスやSNSなどのインターネットメディア進出が大きな話題となっており、時代の変化とともに活躍するフィールドも広がってきている。

2005年に制作されていた幻の未発表曲『ゆうがたフレンド』(作詞:糸井重里/作曲:大滝詠一)が、2023年3月21日リリースの「大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK」に収録される。1996年2月リリースのシングル『おまえが欲しい』以来、27年ぶりのとんねるず楽曲となる。

交流関係[編集]

戦友・仲間[編集]

石橋は素人時代に『TVジョッキー』で竹中直人と知り合い、以後親交が続いている。また『お笑いスター誕生!!』の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲だった。他に小柳トム(現:バブルガム・ブラザーズのブラザートム)やコロッケ、草野球の友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。バブルガムブラザーズや同い年のTRFのSAMとはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた。特に石橋とグッチ裕三との関係は仲が非常に良く、元妻・鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとは『お笑いスター誕生!!』以来の交友がある。

基本的に他のお笑いタレントと共演することを選ばず、主に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。そのため表面上は漫才ブーム系のタレントとの共演はあまりなく、同業者の交流も前出の『お笑いスター誕生』系タレントが中心だった。ただし同年代のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊・田原俊彦・久保田利伸・元チェッカーズのメンバーなどはプライベートでも会う友人である。

先輩[編集]

BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている。紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。

また、横山やすしとは『うちの子にかぎってパート2』の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和と関口宏とも共演した。やすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。なお、やすしの相方の西川きよしとは『ぐうたらママ』、2002年11月21日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした』「食わず嫌い王決定戦」で共演を果たしている。

後輩[編集]

若手芸人との共演は、当時無名だったナインティナイン、よゐこ、ココリコ、ネプチューンの原田泰造(ネプチューン結成以前の素人時代)が『ねるとん紅鯨団』出演を境に積極的になる。ナインティナインはこれを機に、東京での知名度上昇に成功している。その後、岡村隆史は1997年3月の『とんねるずのみなさんのおかげです』最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた。その後も、ナインティナインの番組にはとんねるずが出演するなどしている。

また1990年代からは吉本興業所属の芸人とも共演が多くなり、「ダウンタウンファミリー」と呼ばれる今田耕司、東野幸治、130R、木村祐一、リットン調査団、雨上がり決死隊、ココリコ、千原ジュニアとも、共演する機会がある。爆笑問題、さまぁ〜ず、ナインティナイン、ロンドンブーツ1号2号、ネプチューン、タカアンドトシ、FUJIWARA、おぎやはぎ、アンジャッシュ、次長課長、千鳥、バナナマン、バッドボーイズ、ダイノジ、くっきー!(野性爆弾)、リリー(見取り図)、長谷川雅紀(錦鯉)らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代であり彼らの多くはとんねるずの番組へ多く出演するなどしている。

その一方でダウンタウン(浜田雅功・松本人志)との共演はほとんどなく、共演したのは1987年5月4日の『MBSヤングタウンVSとんねるず野球大会』(ラジオ同時生放送・テレビでは深夜にダイジェストが放送)でダウンタウンが「ヤンタンオールスターズ」の一員として出演、1994年10月3日放送の『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』の2回のみだった(共演はないものの同年の春の祭典や一部の年の『FNS27時間テレビ』では両コンビが揃って出演している)。また、個人同士の共演も長年なかったが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約20年ぶりの共演を果たし、これがテレビでは3回目の共演となった。2016年7月29日放送の『ダウンタウンなう』で浜田の息子と石橋の娘が同じ学校で、よく会っていたことを明かし「普通の時は全然、普通に喋ってるよ」と語っている。2022年5月6日にYouTube公式チャンネルでダウンタウンについて石橋は「誰と不仲とかそういうことではないんだよ。別にダウンタウンと誰と仲が悪いだの、へったくれだのということはないんだから」と不仲を否定した。

ウッチャンナンチャン(内村光良・南原清隆)とはお笑い第三世代の括りで並べられるものの、厳密には年齢、デビュー年、デビュー後の経緯を見るととんねるずの方が先輩にあたる。共に「お笑いスター誕生」出身者であり、とんねるずも出演していた『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』にも数回ではあるが新人のウッチャンナンチャンは出演していた。初共演は『オールナイトフジ』である。その後『ウッチャンナンチャンのオールナイトニッポン』がスタートするにあたり、1989年4月11日放送の『とんねるずのオールナイトニッポン』に飛び入り出演した。また1990年4月の『とんねるずのみなさんのおかげです』半年間休止のピンチヒッターとして『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』で彼らが抜擢されたのがきっかけで、続編『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』に繋がった。また『とんねるずのみなさんのおかげです』の再開予告CMの終わりには、石橋が「ウッチャンナンチャンさん、ありがとうございました」と礼を述べた。1980年代・1990年代は頻繁に共演していたが、2000年代以降はコンビの共演がなくなったが、はっぱ隊が『うたばん』に出演する等単独では度々共演している。ダウンタウンと同じく『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』にて、久しぶりにコンビ揃っての共演を果たした。

美空ひばり[編集]

とんねるずは美空ひばりとも生前は親交が非常に深く、「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄だった。

両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子・加藤和也(現:ひばりプロ社長)の誕生会に2人が呼ばれたことである。その後も『とんねるずのオールナイトニッポン』にひばりが急遽飛び入り出演し、とんねるずが出演していた同番組の生放送中にひばり本人から電話が入るなどの過去もある。

彼らが出演していた番組を見ていたひばりから放送終了後に2人の元へ電話がかかってきて、深夜にも拘らずひばりの自宅に呼び出され夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがある。その際にはひばりのコンサートビデオを延々と見させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りして何とか見終わったと思いきや、そのビデオは上巻で、続けて下巻のビデオを結局翌朝5時頃まで見させられたというエピソードがある。

1988年に東京ドームの単独コンサート第一号として、不死鳥コンサートが行われ、政界・芸能界から沢山の有名人が駆けつけていた中、とんねるずも来ており石橋は隣に居た木梨に感動で泣くところを見られたくなかったので、必死に我慢していたがついに堪え切れず涙腺が崩壊しかけ、「ヤバい」と隣の木梨を見たところ木梨の方が先に号泣していたという。石橋はひばりに『(芸歴は)売れてから数えなさい』と言われて以来、「雨の西麻布」がヒットした1985年からを芸歴としてカウントすることがある。

タモリ[編集]

とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった。タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという。ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている。2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。

ビートたけし[編集]

『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋で会ったたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と激励されたことがある。この言葉には「当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように」とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンの第一部担当パーソナリティー全員が集まるスペシャル番組で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、たけしは歌を披露し「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。現在も交流は続いており年1回程度、『とんねるずのみなさんのおかげでした』スペシャルで共演していた。

また、たけしの最初の弟子であるそのまんま東(東国原英夫)とは、彼がまだたけし軍団に入る前に組んでいたツーツーレロレロで同時期に『お笑いスター誕生!!』に出場していた戦友であり、深い交流関係にある。『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』のレギュラーでもあった。

なお、たけしの芸風からの影響はほとんど受けていない。2012年秋、『日曜ゴールデンで何やってんだテレビ』では、レギュラー番組としてたけしと石橋が共演を果たした。

志村けん[編集]

石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)がドリフターズの付き人になったことから、志村けんは当初石橋と付き合いが深かった。しかし後に木梨との付き合いも深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息した。ただこの付き合いの過程の中でとんねるずはイザワオフィスとつながりを強め、これが後の独立へとつながる。

『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「食わず嫌い王決定戦」等で共演を果たしている。

受賞歴[編集]

素人時代

1979年

  • TVジョッキーザ・チャレンジ第3代チャンピオン獲得(石橋)
  • TVジョッキーザ・チャレンジ第1回グランドチャンピオン大会にて初代グランドチャンピオン獲得(石橋)

1980年

  • TVジョッキーザ・チャレンジ第5代チャンピオン獲得(木梨)
  • TVジョッキーザ・チャレンジ第3回グランドチャンピオン大会にて第3代グランドチャンピオン獲得(木梨)
デビュー後

1981年

  • お笑いスター誕生!!第2回ゴールデンルーキー賞特別敢闘賞

1982年

  • お笑いスター誕生!!10週勝ち抜き第6代グランプリ獲得

1985年

  • 第18回全日本有線放送大賞上半期新人賞「一気!」
  • 第18回日本有線大賞最優秀新人賞 「雨の西麻布」
  • 第18回全日本有線放送大賞最優秀新人賞 「雨の西麻布」
  • 第14回FNS歌謡祭特別賞「雨の西麻布」
  • 第11回全日本歌謡音楽祭話題賞
  • 第23回ゴールデン・アロー賞芸能賞新人賞

1986年

  • 第14回銀座音楽祭特別賞
  • 第5回メガロポリス歌謡祭特別賞
  • 第12回全日本歌謡音楽祭特別賞

1987年

  • 第10回日本アカデミー賞話題賞 「そろばんずく」

1988年

  • 第26回ゴールデンアロー賞芸能賞

1989年

  • 第6回ATP賞'89タレント部門賞
  • 第6回ATP賞'89番組部門賞 「ねるとん紅鯨団(IVSテレビ制作/KTV)」

1991年

  • 第22回日本歌謡大賞大賞 「情けねえ」

1996年

  • 第38回日本レコード大賞企画賞(憲三郎&ジョージ山本) 「浪漫〜ROMAN〜」

1999年

  • 第41回日本レコード大賞企画賞(野猿) 「STAFF ROLL」

NHK紅白紅白歌合戦にも多数出演。

音楽活動[編集]

とんねるず以前にも、お笑い芸人(コメディアン)の音楽活動はあったが、企画物としてではなく、まったくの独立したプロアーティストとしての成功した前例は無かった。コンスタントにランキング上位入りさせるヒット曲を量産、音楽賞受賞、数十か所に及ぶ全国コンサートツアーを開催するなど、音楽界での実績も残している。(お笑い芸人音楽作品総売上枚数(ソロ・参加ユニット込み)歴代1位※オリコン調べ)

変遷[編集]

1980年代[編集]

1981年、コンビ名を「貴明&憲武」から「とんねるず」へと改名し、『お笑いスター誕生!!』に挑戦していた最中に、テレビ番組で初レギュラーとなった『モーニングサラダ』に出始めの駆け出しの無名新人だった彼らが、テレビアニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌にいきなり抜擢され「ピョン吉・ロックンロール」を初のシングルとして発売。翌年、1982年には徳間ジャパンから企画物シングル「ヤバシびっちなデイト・ナイト」を発売する。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、ビクター音楽産業に籍を置き、1984年12月リリースの「一気!」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく。自身最初のオリコンTOP10入り(5位)となった「雨の西麻布」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。

評価を受けた彼らは、数々の音楽賞レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(受賞歴 を参照。)

当時は多くの音楽番組にも出演していき『ザ・ベストテン』(TBS)、『夜のヒットスタジオ』『FNS歌謡祭』(フジテレビ)、『トップテン』(日本テレビ)、『ミュージックステーション』(テレビ朝日)などに出演。

1986年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。

1988年秋、『ザ・ベストテン』と同時間帯で『とんねるずのみなさんのおかげです』を始めたこともあり、それ以降は『ザ・ベストテン』に配慮して同番組が放送終了した1989年9月まではシングル発売を控えた。コンスタントにシングルを出してきた彼らであったが、結局『ザ・ベストテン』が放送終了後もシングルは暫く発売されず、1988年7月発売の「YAZAWA」から1991年5月発売の「情けねえ」までの約3年間で発売したシングルは、『とんねるずのみなさんのおかげです』を半年間休止(代替番組は『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』)していた間に放送された日本テレビ系列土曜グランド劇場『火の用心』の主題歌「どうにかなるさ」(伊集院静作詞)のみであった。

1989年11月7日には「とんねるず NO TEUCHI」と題して東京ドームでの単独コンサートを行っている。

音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」などのコミックソングのような曲を歌っており、「雨の西麻布」「歌謡曲」「迷惑でしょうが…」などの日本歌謡、「嵐のマッチョマン」「炎のエスカルゴ」などのラテン系ディスコソングなど、様々なジャンルを展開した。

1990年代[編集]

人気絶頂を迎えていた彼らは本業のお笑いタレント活動に再び軸足を置いた事もあり、一時期歌手活動は減り(但しコンサートツアーは毎年コンスタントに開催している)、1990年前後のシングル発売はほとんど無かったが、久々のシングル発売となった1991年5月リリース「情けねえ」を転機に、歌手としてもさらに大きな飛躍を迎える。「情けねえ」では数か月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回日本歌謡大賞の大賞を受賞。ついには第42回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。紅白ではパンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題になり、歌手別視聴率では2位を記録した(なお1位は大トリの谷村新司)。

次のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では初のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する自身最大のヒット曲となった。1992年度の年間シングルチャートでは6位を獲得。当初この楽曲は『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされ、CD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたクレイアニメーションは、その後「がじゃいも」等々で使われる。

その後、「一番偉い人へ」では2週連続1位を獲得。「がじゃいも」でも1位を獲得した。続く「フッフッフッってするんです」もヒット。1990年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミックソングの一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。

活動休止後(企画ユニット時代)[編集]

1996年シングル「おまえが欲しい」のリリースを最後に、「とんねるず」名義での音楽活動は事実上休止しているが、以降も様々なスタイルのユニットを組んで活動を続けている。

  • 生ダラ発ユニット(1996 - 1997年)

木梨は1996年に山本譲二との演歌デュオ「憲三郎&ジョージ山本」を結成。北島三郎(原譲二名義)作詞作曲による「浪漫-ROMAN-」で、売上20万枚超のヒットを飛ばし、その年の『第47回NHK紅白歌合戦』に出場を果たしている。歌手別視聴率では4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年に工藤静香とのデュオ「Little Kiss」を結成する。三貴・カメリアダイヤモンドのコマーシャルソングとなった「A.S.A.P.」はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚のヒット。また定岡正二とデビット伊東との3人組バンドで、作曲に佐野元春が参加した「ANDY'S」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、神戸連続児童殺傷事件の影響で改名)も結成しており、シングル「FREEDOM」をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』内で結成)。1997年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを渋谷公会堂で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。『生ダラ』でのユニットは全て石橋か木梨のどちらか一方のみが参加するというユニット形態での音楽活動だった。

  • 野猿(1998 - 2001年)

1998年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内で番組スタッフと結成した「野猿(やえん)」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずがKinKi Kidsのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、ボーカルを決めるオーディションを行った際、まともに歌えるメンバーが少なかったために、ボーカル面で不安を感じた秋元の助言で、一緒に審査していたとんねるずが急遽歌収録に参加することになり、そのまま加入する運びとなった。当初は1曲限定の思い出作りであったが反響が大きく、最終的には98年から01年までの約3年間活動が行われた。当グループでは、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に様々な展開がなされた。活動期間内に計11枚のシングル、3枚のアルバムがリリースされ、全てのCDがオリコンチャートトップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には横浜アリーナ、2000年には日本武道館3デイズ、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し大阪城ホール、名古屋レインボーホール、国立代々木競技場第一体育館3デイズ、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2デイズと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散(『撤収』と呼んでいる)した。そして撤収して10年の節目を迎えた2011年3月9日には、全ての楽曲(全50曲)の着うた配信を開始した。野猿撤収後は再び、それぞれが単独で音楽活動を継続する。(単独での音楽活動は石橋貴明、木梨憲武を参照。

  • 矢島美容室(2008年 - 2010年、2012年3月)

2008年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内でDJ OZMAと「矢島美容室」を結成。7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、ネバダ州から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の遠藤察男が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲「ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-」は、音楽配信で170万ダウンロードを記録(2008年当時)。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され、計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされている。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』が4月29日から全国公開。全国上映に先駆けて3月22日に東京国際フォーラム、4月11日に建設中の東京スカイツリーで初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。 その後、フジテレビ社屋移転15周年音楽番組『とんねるずが生放送!音楽番組全部見せます!〜名曲で元気になろう!』にて復活。「ニホンノミカタ」を披露した。

幻の楽曲(2005年)[編集]

しかし実は、野猿解散(2001年3月)と矢島美容室初披露(2008年9月)の間の時期にあたる2005年、大瀧詠一が作曲、糸井重里が作詞し、二人のレコーディングまで済ませていたとんねるずの新曲「ゆうがたフレンド」が存在していた事が後に石橋の口から明かされる。「とんねるずのみなさんのおかげでした」のOP曲として石橋が大滝詠一に依頼したこの曲は、石橋が意図していた方向性とは違うフォーク調の楽曲だったことから世に出ずお蔵入りとなり、翌2006年、詞とタイトルはそのままでムーンライダーズの楽曲として発表されていた。

2010年代[編集]

目立った歌手活動は行っていなかったが、2012年3月の木梨のソロライブ『NORITAKE GUIDE 5.0』の最終日に石橋がサプライズ登場し、「一番偉い人へ」「迷惑でしょうが」「情けねえ」を久しぶりに客前でライブパフォーマンスした。また自身のテレビ番組や『FNS歌謡祭』に2012年から3年連続で出演するなど、二人で歌のステージに立つ機会は度々あった。2018年3月の「とんねるずのみなさんのおかげでした」最終回では、作曲家の後藤次利、藤井尚之ら豪華メンバーによる生バンドで「情けねえ」を披露している。

令和元年 - 現在[編集]

2019年秋、同時期に二人が個々の歌活動を開始した。

木梨は9月14日、自身が出演していた「氣志團万博2019」にて、自社レーベル『木梨レコード』を立ち上げ初のソロ歌手デビューすることを発表。10月24日に配信EP『木梨ファンク 〜NORI NORI NO-RI〜』でデビューし配信系チャートで6冠、12月11日発売のアルバム『木梨ファンク ザ・ベスト』では8冠を獲得した。2022年現在、計4作のEP、1作のアルバムをリリースしている。また音楽番組の出演、ライブや『木梨フェス』を開催するなど、歌手活動を活発に行っている。

石橋は9月17日、元野猿メンバーの平山晃哉と神波憲人との3人組ユニット『B Pressure』の結成を発表。彼らの楽曲を数多く手がけてきた秋元康、後藤次利コンビによる1stシングル『Freeze』で11月1日にインディーズからデビュー。御披露目ライブ『サビ落とし』と題したライブハウスツアーを行う。しかしその直後に新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で活動が困難となり活動休止となった。その後自身のYouTubeチャンネル「貴ちゃんねるず」で演出家のマッコイ斎藤氏と『Ku-Wa de MOMPE』というユニットを組み、2020年10月2日に配信シングル『Stranger to the city』をリリースし、配信ランキングでランクインする。

その中、とんねるずとしては、2020年1月22日からポニーキャニオン時代の楽曲、2021年7月28日からビクター時代の楽曲が、各種インターネット配信サイト(サブスクリプションサービスを含む)にて配信が開始された。

また、前述の幻の曲『ゆうがたフレンド』も、2023年3月21日リリースの大瀧詠一の企画アルバム『大滝詠一 NOVELTY SONG BOOK/NIAGARA ONDO BOOK』に収録され、制作から18年後にようやく日の目を見ることとなった。とんねるずの楽曲としては1996年リリースの『おまえが欲しい』以来27年ぶりとなる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ シングル『一番偉い人へ』などクレジットで度々アルファベット表記を使用している。
  2. ^ 1980年3月、石橋が高校の卒業記念に出演しようとした素人参加番組『ドバドバ大爆弾』(テレビ東京)が二人揃っての初テレビ出演。しかしこれは二人でなければオーディションを受けられないために石橋が木梨を誘い合格したもので、この時点が正式なコンビ結成かは不明。その後同番組スタッフから再び声がかかり、同年7月に『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)にてコンビでの出場を果たす。
  3. ^ ファンクラブ名『TN Lounge』(2018年12月閉会)で用いられている。
  4. ^ デビュー時期(漫才ブームが始まった1980年)、売れた時期(1985年)でいくととんねるずは第二世代と第三世代の間にあたるが、漫才ブーム後の新しいお笑いのスタイルを築いていった事から、1980年代終盤~90年代前半にブレイクした世代を「お笑い第三世代」と定めた言葉が生まれ、その世代を代表する一組とされた。
  5. ^ 『クイズダービー』(1986年4月放送分)三択問題より。当番組にとんねるずは出場者として登場。
  6. ^ この模様は火曜ワイドスペシャル『ドリフのホノルルマラソン』(フジテレビ)で放送
  7. ^ 実際には29年目(とんねるずが出演しない別番組を放送していた『おかげでした』の第1・2期の中断期間半年を除いて28年半)である。
  8. ^ 夏休み中の佐々木信也とみのもんたの代行で出演
  9. ^ 佐々木信也、みのもんたの代行
  10. ^ 所ジョージ司会の視聴者参加型番組に、初めて2人揃って出演した番組。
  11. ^ 1981年5月9日放送分に「貴明&憲武」から「とんねるず」改名で初出演。
  12. ^ フジテレビ初出演。
  13. ^ 敗者復活戦の出題VTRで登場
  14. ^ 「銀賞」とは、グランプリシリーズを5週勝ち抜きした者が貰える賞。
  15. ^ 2023年3月19日放送『石橋貴明のGATE7』(TBSラジオ)にて石橋により明かされた。
  16. ^ ツアー名の「ナイアガラドロップキック」は、とんねるずの生でダラダラいかせて!!で石橋が定岡正二とのPK対決の際に定岡がその場で考えたシュート名であり、そのままツアー名に使われた。また、定岡は同番組の石橋との闘牛対決の罰ゲームで、同コンサートツアーの日本武道館にて前説を行なっている。

出典[編集]

  1. ^ 小林信彦著『時代観察者の冒険』より
  2. ^ 西条昇『東京コメディアンの逆襲』(光文社文庫)[要出典]
  3. ^ a b c d e f g h i j とんねるず 『とんねるず 大志』 1988年6月7日発行[要出典]
  4. ^ 2011年12月27日配信 TBSラジオ「JUNK バナナマンのバナナムーンGOLD」ポッドキャスト とんねるず石橋貴明、パルコ劇場でビートたけしと初めて会った日 ATLAS
  5. ^ 石橋貴明、18歳で西武の入団テストを受けた秘話を明かす「根本監督に投球を見てもらっていた」スポーツ報知2021年4月11日
  6. ^ “自分も干されるかも・・・それでも協力した“とんねるず”の魅力”. 西日本新聞 (西日本新聞社). (2020年4月22日) 2020年5月8日閲覧。
  7. ^ とんねるずが32年ぶりテレ東出演、9月に初冠特番放送決定,お笑いナタリー,2012年8月15日
  8. ^ とんねるず「笑っていいとも!」不定期レギュラー出演決定,お笑いナタリー,2014年1月14日
  9. ^ 木梨憲武、とんねるずの今後「やり方は変わらない」,日刊スポーツ,2018年1月26日
  10. ^ とんねるず公式FC閉会で憶測相次ぐも... 事務所は「解散危機」否定 J-CASTニュース 2018/10/ 2 20:43(株式会社ジェイ・キャスト、2018年10月4日閲覧)
  11. ^ “くっきー!、共演を経て石橋貴明の印象に変化「最初はピーター・アーツ」「今は大林素子」”. ABEMA TIMES. AbemaTV (2021年8月24日). 2022年6月26日閲覧。
  12. ^ “木梨憲武「おしゃれクリップ」登場、見取り図リリーがVTRで木梨愛を語る”. お笑いナタリー. ナターシャ (2022年5月28日). 2022年6月4日閲覧。
  13. ^ “「錦鯉」の長谷川雅紀 家賃5万円の6畳一間から高級マンションに引っ越し 費用総額326万”. スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社 (2022年6月12日). 2022年6月13日閲覧。
  14. ^ “とんねるずとの不仲より視聴者が知りたい松本人志とあの因縁の男との関係性”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2016年8月4日). 2021年8月21日閲覧。
  15. ^ “石橋貴明 ダウンタウンと「不仲ではない」 いいとも最終回〝乱入〟はフジへの怒り”. 東スポWeb. 東京スポーツ新聞社 (2022年5月6日). 2022年5月7日閲覧。
  16. ^ “「とんねるずは死にました」―戦力外通告された石橋貴明58歳、「新しい遊び場」で生き返るまで”. Yahoo!ニュース. 2020年9月13日閲覧。
  17. ^ ヒロミオフィシャルブログ「何年ぶりかな」(2012年8月22日)
  18. ^ 『石橋貴明 いいとも出演プラン披露!残り10週、交互に5週ずつ』スポニチ 2014年1月19日 15時30分配信
  19. ^ 『石橋貴明 「いいとも」レギュラー初出演はおとなしく「迷惑かけないように」』スポニチ 2014年1月29日13時07分配信
  20. ^ 『木梨「いいとも!」今週2度目サプライズ登場 サンバダンサーになりきる』スポニチ 2014年2月6日 12時39分配信
  21. ^ 『石橋貴明 2度目のいいともレギュラー出演「俺、金曜日にします」』スポニチ 2014年2月14日 13時52分配信
  22. ^ 『「いいとも!」4度目サプライズ登場は“10人の木梨憲武”本物は誰?』スポニチ 2014年2月18日 12時37分配信
  23. ^ とんねるず、2020年1月22日、音楽配信開始! | PONYCANYON NEWS

関連人物[編集]

  • 秋元康(放送作家、作詞家、作家、プロデューサー)
  • 後藤次利(ミュージシャン、作曲家)
  • 井原高忠(日本テレビ、元第一制作局長 / 現株式会社井原高忠事務所取締役)
  • 中島銀兵(日本テレビ、元プロデューサー / 1996年死去)
  • 土屋敏男(日本テレビ、元編成局専門局長 / 現日テレラボ室ゼネラルプロデューサー)
  • 日枝久(フジテレビ代表取締役会長)
  • 石田弘(フジテレビ、エグゼクティブプロデューサー)
  • 港浩一(フジテレビ、元編成制作局バラエティ制作局長 / 常務取締役、元共同テレビジョン代表取締役社長、現フジテレビジョン代表取締役社長)
  • 松村匠(フジテレビ、元ディレクター、事業局企画部長 / 現株式会社AKSコンテンツビジネス本部・本部長)
  • 吉野晃章(放送作家、元帝京高校サッカー部)
  • 遠藤察男(放送作家、脚本家)
  • 菊原共基(放送作家)
  • 後藤喜男(TV制作、プロデューサー)
  • 中島信也 (東北新社代表取締役社長、CMディレクター、映画監督)
  • テリー伊藤(TV制作、タレント)
  • 堤幸彦(元TBSディレクター、テレビ・映画監督)
  • 杉本清(元関西テレビアナウンサー、競馬関連、同一事務所所属者)
  • 尾崎充(元マネージャー兼付き人、元HKT48劇場支配人 / 株式会社AKS、現芸能事務所株式会社充's代表取締役)
  • 関口正晴(元マネージャー、放送作家)
  • 宮本幸一 (ニッポン放送常務取締役)
  • 吉岡雄二 (プロ野球選手、とんねるずの後輩)
  • 太田一平(フジテレビ、編成制作局バラエティ制作部→制作局第2制作センタープロデューサー)
  • マッコイ斎藤(演出家、ディレクター)
  • 安西義裕(演出家、ディレクター、プロデューサー)
  • 佐々木敦規(演出家、ディレクター)
  • 真璃子(歌手)

関連項目[編集]

  • 東京都出身の人物一覧
  • 帝京高等学校 - 2人の出身校
  • 日本お笑い史
  • お笑い第二世代
  • お笑い第三世代
  • ハイスクール!奇面組 - 「あわれ!ハイスクールジャックの巻」に登場した強盗2人組は、とんねるずがモデルとされている。


Read or create/edit this page in another language[編集]