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M-1グランプリ

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M-1グランプリ』(エムワングランプリ)は、吉本興業と朝日放送テレビ(ABCテレビ)が主催する日本一の若手漫才師を決める大会である。通称『M-1』。2001年から始まり2010年に一度終了したが、2015年に復活し、以降毎年12月に開催されている。決勝戦の模様は朝日放送テレビ(ABCテレビ)の制作により、朝日放送テレビ・テレビ朝日系列で生放送される。

概要[編集]

島田紳助と谷良一が企画し、吉本興業と朝日放送(現:朝日放送テレビ)が2001年に創設した、結成から10年以内の若手漫才師を対象とした漫才のコンテストである。審査基準は「とにかくおもしろい漫才」。出場資格を「結成から10年以内」としたのは若手漫才師の大会にする、という理由のほかに「10年芸人を続けても3回戦に進めないようなら、見切りを付けて他の道に進んだほうが本人にとっては幸せである」という紳助の考えによるものである。

第10回(2010年)で終了したが、2015年に復活し、出場資格が結成から15年以内に拡大された(詳細は#出場資格を参照)。

2人組以外でもM-1グランプリに出場可能であるが、コンビである割合が多いため、本項では便宜上「コンビ」と記述している。

第1回(2001年)から一貫して演出やステージは、格闘技の試合を参考にしており、「M-1」という大会名は「K-1」が由来である。第5回(2005年)から決勝戦会場がテレビ朝日本社に変わったことで、赤やオレンジを基調にした派手なステージとなり、煽りや演出も派手になった。

「優勝賞金1000万円」、「決勝戦は全国ネットのゴールデン枠で生放送」、「全国から参加者を募る」、「他事務所の芸人の参加も認める」など、当時としては前例の無い大規模な漫才のコンテストであった。回を重ねるごとに注目度が増しており、近年では優勝直後に朝日放送テレビやテレビ朝日以外の放送局を含むニュース・情報番組や年末年始に放送されるバラエティ番組などからの出演依頼がマネージャーや所属事務所に殺到するほどである。また、優勝しなくても本大会を契機にブレイクしたコンビも多い。評論家のラリー遠田は『M-1』以前にも「お笑い賞レース」や「ネタバトル番組」は多数制作されてきたと述べた上で、「視聴率、話題性、影響力を総合して考えると、現在の『M-1』ほどの成果をあげているお笑い賞レース番組はテレビの歴史上存在しない」と評している。

第10回(2010年)までは、オートバックスセブンが特別協賛(冠スポンサー)であり、正式名称は「オートバックス 〜M-1グランプリ〜」であった。2015年に復活した後は、4社による「プレミアムスポンサー」の協賛体制となり、優勝の副賞は4社からそれぞれ贈呈されるようになった。

歴史[編集]

2001年初頭、吉本興業の常務取締役(当時)の木村政雄は、漫才の賞を吉本興業主催で作ることを目的とした新部署「MANZAIプロジェクト」のリーダーとして、吉本興業の社員(当時)の谷良一を任命した。ある日、谷は島田紳助の楽屋を訪ね、「MANZAIプロジェクト」について話すと、紳助は「ええやん!やってや」と好意的に反応し、「漫才に恩返しをしたい」と語った。後日、谷が改めて会いに行くと、紳助は賞金を1000万円にすることと全国ネットのゴールデンで放送することを提案した。この時点で、M-1という大会名を含め、大会の骨子はほぼ出来上がっていたという。

2001年5月19日に『THE MANZAI 2001ヤングライオン杯』が『THE MANZAI』のスピンオフ企画として、関東ローカルで放送された。谷は「今度、M-1というイベントを考えている」と、フジテレビに企画を持ち込んだが、断られた。その後、ほかのキー局に企画を持ちかけたが、「漫才? 新人? やるわけない」と、全く相手にされなかったという。スポンサー探しも難航し、大企業どころか、どんな中小企業も相手にしてくれなかった。そんな中、唯一オートバックスセブンの二代目社長である住野公一は谷の話を聞いてくれた。最終的にオートバックスセブンはM-1グランプリの冠スポンサーとなり、第1期最終年の2010年まで冠スポンサーであった。キー局の中では唯一、テレビ朝日が好意的に話を聞いてくれたが、稟議の結果、結局断られた。その後、朝日放送(現・朝日放送グループホールディングス)からテレビ朝日に出向していた和田省一と朝日放送の働きかけで、年末の全国ゴールデン枠に「M-1グランプリ」をテレビ朝日で中継することが決定した。

谷はM-1を吉本や大阪だけの大会にしないために、「吉本」という枠も、「大阪」という枠もぶち壊し、公平な大会にしたいと考えていた。谷は難波の有名ビアレストランに松竹芸能など、関西の芸能事務所の関係者を招待し、参加を呼びかけた。東京の芸能事務所にも100社以上、電話をかけて参加を呼びかけた。

M-1は従来の漫才コンクールとは違い、アマチュアの参加も認めたことで最終的に1000通を超える応募が集まった。優勝者を決める審査員には、島田紳助と西川きよしの二人が決まっていたが、他がなかなか決まらなかった。スタッフの尽力で審査員が決まったが、谷はもう一人どうしても、ダウンタウンの松本人志を審査員に据えたかった。松本は審査員を拒否し、なかなか首を縦に振らなかったが、最終的に紳助がテレビ番組『松本紳助』の楽屋で松本を説得したことで出演を了承したという。

第1回のみ、一般客による審査が導入された。この審査方法は、審査員7人のほかに、大阪・福岡・札幌の劇場にいる一般客各100人(合計300人)が1人1点で審査する方法であるが、東京から決勝進出したおぎやはぎ、DonDokoDonに対しての大阪会場の得票が低かったことで、「公平性に欠ける」との批判が相次ぎ、第2回(2002年)からは廃止された。

セットのリニューアル[編集]

第1回の平均視聴率は関西地方が21.6%だったが、関東地方は9%だった。2002年からM-1に参加し、2003年から2009年までM-1のプロデューサーを務めた朝日放送の森本茂樹は第1回の視聴率について、「今は10とれたらすごいって言われますけど、当時は、ゴールデンなら最低ラインは10。欲を言えば、15はとらないと、テレ朝も『この数字でいつまで続けるの?』っていうムードになってくると思っていましたよ」と語っている。その後も毎年予選を行い、年末に決勝戦を放送したが、視聴率は関西が20%前後、関東は10%前後でほぼ横ばいだった。

M-1グランプリの成功と存続のために、「東京で視聴率15%」は至上命題だった。第4回(2004年)終了後、森本は、編成局長(当時)の山本晋也から「セットがせこいから、もっと金をかけろ」と言われ、森本は、決勝戦会場をテレビ朝日本社第1スタジオへ変更することを提案した。総合演出(当時)の辻史彦は、第5回(2005年)のセットについて、「エンターテインメントとしてゴールデンで戦うなら、違う方法があるんじゃないか、と。ラスベガスで漫才ショーをやるとしたら……というのを想像して作ったのがあのセットだったんです」と語っている。第4回までは、地下闘技場のように会場を暗めにしていたが、第5回から赤とオレンジのきらびやかなセットで、出場コンビは舞台中央からせり上がりで登場するようになった。

この大幅なリニューアルにより、視聴率は右肩上がりになり、第6回(2006年)で関西が31.1%、関東が18%を記録し、初めて関東で15%を超えた。その後、第8回(2008年)で関西が35%、関東が23.7%を記録。初めて関東で20%を超え、この第8回の視聴率は関西と関東の両方で視聴率歴代最高記録である。

第10回(2010年)で大会が一時終了[編集]

主催の吉本興業と朝日放送は2010年12月12日の準決勝終了後、M-1グランプリの開催を第10回となる2010年で終了することを発表した。大会終了の理由として、吉本興業は「大会を通じて、漫才が隅々まで広まった。10年の節目をもって発展的解消することが、次につながる」と説明している。また、大会委員長を務める島田紳助は「漫才が私を夢の世界に連れて行ってくれた。漫才のレベルも上がり、ほんの少し恩返しできた」とコメントを寄せた。

「M-1グランプリ2010」の決勝戦が12月26日に行われ、笑い飯が決勝出場9回目で悲願の優勝を果たした。島田紳助は決勝後の会見で、「(若手から)めちゃめちゃ苦情が来ました。なくしたらあかんなとつくづく思います。いったんはやめて、また違う形で……」と後継大会の開催を示唆した。10年間を振り返り、「たくさんのスターが育ってくれた。僕の中では漫才に対する申し訳ないという気持ちがあったのでこの大会をやりたいと。そして演じる人が納得して帰れるものを作りたいと思ってきた。今日も納得してくれた。点数が公表されるということは審査員のセンスも問われるし、審査員が審査されている。みんなが納得して、メンバーが祝福してる姿を見てうれしかった。10年間、よかった」と語った。また、終了する理由については「視聴率もいいし、やめる必要はないといわれますが、一つの現象を起こしたときは10年でやめないと盛り下がっていってしまう。M-1という言葉がつまらん言葉になったらいかん」と語っている。

2011年より後継プロジェクトとして、フジテレビ系列で「日清食品 THE MANZAI」が開催されることが2011年4月26日決定した。司会はナインティナインで、島田紳助が大会実行委員長を務める予定だったが、同年の8月に紳助が不祥事により芸能界を引退したため、一時期は大会開催も危ぶまれたが、ビートたけしを大会最高顧問として起用し、大会を続行する形になった。

M-1、5年ぶりの復活[編集]

その後、2014年7月30日に朝日放送の脇阪聰史社長(当時)が2015年にM-1グランプリを5年ぶりに復活させることを発表した。当初は「日清食品 THE MANZAI」に配慮し、開催時期の重複を避け、夏の開催を予定していたが、「THE MANZAI」の大会終了により、復活前と同じく12月の開催となった。

終了した「日清食品 THE MANZAI」は2015年から、「THE MANZAI マスターズ」に番組タイトルを変更し、「年に1度の漫才の祭典」として、賞レースの要素を省いたいわゆる「ネタ見せ番組」として、継続となった。

第11回(2015年)では審査員が歴代王者9人となり、審査員の数が歴代最多となった。第12回(2016年)では、審査員が歴代最少の5人となった。また、旧M-1時代に審査員をしていた松本人志が審査員に復帰したほか、第7回(2007年)から第9回(2009年)まで審査員を務めたオール巨人、上沼恵美子も審査員に復帰した。

第13回(2017年)から、番組中にくじを引いてネタ披露順番を決める「笑神籤(えみくじ)」が導入された。笑神籤には敗者復活組も含まれているため、これにより、敗者復活組を含めた全ての組の順番がランダムとなった。また、第13回から審査員が大会復活後では初の7人(第10回(2010年)以来)となり、ファイナリストは第1回(2001年)以来の10組(正規進出9組+敗者復活枠1組)となった。

「国民的行事」へ[編集]

第14回(2018年)で霜降り明星が優勝。結成10年以内のコンビとしての優勝は大会復活後では初であり、優勝の史上最年少記録を更新した。第15回(2019年)からチーフプロデューサーとなった朝日放送テレビの田中和也は霜降り明星の優勝について、「“史上最年少優勝”ということももちろん大きいですけど、彼らの世代、すなわち結成10年以内のコンビでも勝てるんだということが証明されたのが大きいですよね」と語り、M-1の歴史において重要な出来事だと評した。

第15回(2019年)では参加組数が5040組となり、初めて5000組を超えた。決勝戦ではミルクボーイがファーストラウンドにおいて、歴代最高得点となる681点を記録し、優勝。2位のかまいたち、3位のぺこぱ、4位の和牛の得点が650点を超え、審査員の松本人志が「過去最高と言ってもいいかもしれない」と総括するなど、大きな盛り上がりを見せた。

第16回(2020年)から、YouTube公式チャンネルで1回戦から準々決勝までのネタが順次アップロードされ、敗者復活戦放送後に敗者復活戦、決勝戦放送後に決勝のネタがアップロードされた。決勝戦ではマヂカルラブリーが激戦を制し、優勝。マヂカルラブリーが最終決戦で披露したネタは野田クリスタルがほぼ無言で舞台を動き回る異色の漫才だったことで、一部の視聴者からSNSなどで「あれは漫才なのか」との声が上がり、“漫才論争”が起こった。2021年1月19日、朝日放送テレビの山本晋也社長は新春社長記者会見で、“漫才論争”について「漫才とはどういうものだという定義の問題も含めて、みなさんのいろいろな場面で議論があった。M-1が国民的行事になり、視聴者も巻き込み、議論が展開されているんだなと思った。」「いろんな議論があってもいい。(M-1グランプリは)いま一番、おもしろいものを決める大会でいいのかなと思う。」と語った。決勝で審査員を務めた松本人志は2020年12月27日放送のワイドナショーで「漫才の定義は基本的にない」としながら、「定義をあえて設けて、裏切ることが漫才」と語り、この発言は『M-1グランプリ2021』のオリジナルプロモーションビデオ「宮本浩次『昇る太陽』×M-1グランプリ2021」の中でも引用されている。

2023年からは、ラストイヤーの15年目を超え出場できなくなったコンビのための新たな漫才大会『THE SECOND 〜漫才トーナメント〜』がフジテレビで創設されることが発表された。



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