青山一秋
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府箕面市 |
生年月日 | 1979年10月8日(44歳) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 遊撃手、二塁手、中堅手 |
プロ入り | 2002年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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青山 一秋(あおやま かずあき、1979年10月8日 - )は、大阪府箕面市出身の元プロ野球選手(野手)
経歴[編集]
渋谷高校では1年時から夏の県大会でベンチ入りを果たし以後レギュラーとして活躍、3年夏の府大会2回戦で此花学園に5対6で敗れる。1998年から大阪学院大学に進学し、2年の新人戦リーグ戦でデビュー。
2002年に全国大学野球選手権にチームはエントリーするも自身は3年冬に痛めた腰痛の影響により出場無し。同年12月アトランタ・ブレーブス、サンディエゴ・パドレス、コロラド・ロッキーズの合同トライアウトに挑戦し合格。2月にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結ぶ。
同年はルーキー級ダンビル・ブレーブスでプレー。当初内外野守れる守備固めのユースリティプレイヤーとして75試合に出場し、打率282、安打45、盗塁31を記録。シーズン中の7月14日にグリーンビル・ブレーブスに昇格し、15試合に出場した。シーズン終盤二塁上のクロスプレーで他選手と接触し大学3年時に痛めていた古傷の椎間板ヘルニアを再発。3か月のリハビリの後帰国。
2003年は日本に帰国後リハビリを行うも思うように回復せず、また同年12月実施されたトライアウトに参加するも最終選考まで残るが選ばれず。家族の反対もあり引退を決意。
2003年に知人と中国の大連にて石油関連の化学薬品の法人設立董事長として経営に参画。事業も順調に推移するも家族の健康状態が悪化、日本での通院療養の為帰国及び退職。
その後外資系銀行の東京支店長にスカウトされ大阪出張所開設メンバーとして支店開設に向けた業務に従事。2年後東京支店へ異動。
2015年には同銀行をMLB再挑戦の為自己都合で退職。その後3か月トレーニングをしながら知人の証券会社設立のパートナーとして従事。2016年1月、MLBトライアウトの為渡米。アリゾナ・フォールリーグでアリゾナキャピタルズにてプレー。接触プレーで左膝靭帯を損傷し現役引退を決意。帰国に至る。
プレースタイル[編集]
50m5秒8、遠投118m、ベースランニング13秒前半、両打ち、内外野こなすユースリティ性の高いプレイヤーとして使い勝手の良い選手である一方、 バッティングでは投手の利き手に合わせるスイッチヒッターというものではなく、本人の気分、フィーリングで打席を変える変わり者であった様子。 盗塁に関しては癖を見極めるのは不得意であるとの事で、牽制の上手い投手の際には余りベースから離れず戻りやすい位置で勝負していた。
また高校時代に先頭打者ホームランを打った際に親からは全く褒められず、むしろ大振りする選手じゃないのだからと叱られたと語っており、それがきっかけでシングルヒットを中心としたスモールプレースタイルに変更。
関連項目[編集]
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