鎌倉時代
鎌倉時代(かまくらじだい、旧字体: 鎌󠄁倉時代、12世紀末 - 元弘3年/正慶2年(1333年))は、日本史で幕府が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。二度の元寇(蒙古襲来)という未曾有の国難の他、地震、飢饉、疫病が多く発生し、50回もの元号改元(そのうち災異改元が30回)が行われた時代で、仏教(鎌倉仏教)が、広く庶民と武家にまで広まった。
始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説(1192年の源頼朝征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、鎌倉「幕府」の成立とは必ずしも一致はせず、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力)がある。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照。)
概要[編集]
年表[編集]
- 1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨
- 1185年(文治元年) 11月、文治の勅許に基づき守護・地頭を設置
- 1189年(文治5年) 奥州合戦
- 1192年(建久3年) 源頼朝、征夷大将軍就任
- 1199年(建久10年) 1月、頼朝の死、源頼家が家督を継ぐ
- 1200年(正治2年) 十三人の合議制開始。梶原景時の変
- 1201年(建仁元年) 建仁の乱
- 1203年(建仁3年) 比企能員の変、頼家が幽閉され源実朝が将軍に就任
- 1204年(元久元年) 三日平氏の乱、頼家暗殺される
- 1205年(元久2年) 畠山重忠の乱、牧氏事件
- 1213年(建暦3年) 泉親衡の乱、和田合戦
- 1219年(建保7年) 実朝、公暁に暗殺される
- 1221年(承久3年) 承久の乱、六波羅探題の設置。
- 1224年(元仁元年) 伊賀氏事件、連署の設置
- 1225年(嘉禄元年) 評定衆の設置
- 1226年(嘉禄2年) 九条頼経が将軍に就任 (摂家将軍の開始)
- 1232年(貞永元年) 御成敗式目の制定
- 1246年(寛元4年) 宮騒動
- 1247年(宝治元年) 宝治合戦
- 1249年(建長元年) 引付衆の設置
- 1252年(建長4年) 将軍頼嗣を京へ送還、宗尊親王が将軍に就任(宮将軍の開始)
- 1272年(文永9年) 二月騒動
- 1274年(文永11年) 文永の役
- 1281年(弘安4年) 弘安の役
- 1285年(弘安8年) 霜月騒動
- 1293年(正応6年) 鎌倉大地震及び地震の混乱に乗じた平禅門の乱
- 1297年(永仁5年) 永仁の徳政令
- 1305年(嘉元3年) 嘉元の乱
- 1317年(文保元年) 文保の和談
- 1324年(正中元年) 正中の変
- 1326年(正中3年→嘉暦元年) 嘉暦の騒動
- 1331年(元弘元年、元徳3年) 元弘の乱
- 1333年(元弘3年、正慶2年) 鎌倉幕府滅亡
鎌倉時代の政治[編集]
鎌倉幕府は当初、将軍(実際には「鎌倉殿」。征夷大将軍職は必須ではない)を中心としていた。源氏(河内源氏の源頼朝系)直系の将軍は3代で絶え、将軍は公家(摂家将軍)、後には皇族(皇族将軍)を置く傀儡の座となり、実権は将軍から、十三人の合議制へ移る。さらに和田合戦、宝治合戦、平禅門の乱などにより北条氏以外の他氏族を幕府から排除すると、権力を北条氏に集中させる動きも強まった。そうして実権は、頼朝の妻である北条政子を経て、執権であった北条氏へ移っていった。更に執権北条時頼が執権引退後も執政を行ったことから、幕府権力は執権の地位よりも北条泰時を祖とする北条氏本家(得宗家)に集中。執権在職者も幕府最高権力者というわけではなく、宮騒動、二月騒動などで得宗家に反抗する名越北条家などの傍流や御家人は排除された(得宗専制)。
北条氏の功績としては御成敗式目の制定が挙げられる。これは今までの公家法からの武家社会の離脱であり、法制上も公武が分離したことを示す。先の北条氏による他氏排斥に伴い、諸国の守護職などは大半が北条氏に占められるようになり、さらに北条氏の家臣である御内人が厚遇され、御家人や地方の武士たちの不満を招くことになった。執権北条時宗の代に2度に渡る元寇があり、鎌倉幕府はこれを撃退したが、他国との戦役であり新たに領土を得たわけではなかったため、十分な恩賞を与えることができず、これもまた武士たちの不満を強めさせた。北条貞時の代になると御内人の権力は増長し、得宗の権威すら凌ぐようになり、貞時は平禅門の乱で平頼綱を討ち得宗へ権力を戻そうとするも、末期には政治への無関心から再び御内人が実権を握った。
また、貨幣経済が浸透して、市場がある市場町が誕生した。多くの御家人が経済的に没落して、凡下(庶民階級・非御家人層)の商人から借財を重ねた。1284年に弘安徳政、さらに1297年に永仁の徳政令を実施して没落する御家人の救済を図ったが、恩賞不足や商人が御家人への金銭貸し出しを渋るなど、かえって御家人の不満と混乱を招く結果に終わった。後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒は、この武士たちの不満を利用する形で行われることになる。