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野沢雅子

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野沢 雅子(のざわ まさこ、1936年〈昭和11年〉10月25日 - )は、日本の声優、女優、歌手。東京都荒川区日暮里出身。青二プロダクション所属。劇団ムーンライト主宰。日本俳優連合副理事長。

声優としての代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』(鬼太郎)、『いなかっぺ大将』(風 大左衛門)、『ど根性ガエル』(ひろし)、『銀河鉄道999』(星野鉄郎)、『ドラゴンボール』シリーズ(孫悟空、孫悟飯、孫悟天)など。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

東京府東京市荒川区日暮里で生まれる。叔母の佐々木清野が松竹の女優だった縁で、3歳の時に子役として映画デビュー。最初に出演していた映画は題名も覚えておらず、母子の愛情を描いた「母もの」が多かったという。当時は児童劇団には所属していなかったという。小さい時から、踊りなどのわりと芸事が好きだった。父が後述の通り、画家だったことから、三味線など、そういうもの習わせたという。仕事をしているという意識はなかったが、父母が歌舞伎、新派の芝居が好きで連れていかれたためか、子供の頃から、「将来は女優になるんだ」と心に決めていた。アレルギー体質もあり、体が弱く、父が尾瀬を描いた作品で日展に入選、その縁で、1944年、戦時中の空襲を避けるため、群馬県利根郡(現・沼田市)に移り住み小学3年生から高校卒業までを過ごす。初めて、「役者になりたい」と思ったのは小学3年生の時だったという。しかし小学校高学年になった時に、医者になりたくなったという。高校時代の頃、父に医者になりたいことを話したという。当時は外科医になりたかったという。中学の時に劇団に入り、学校が休みになると東京で女優の仕事を行うという日々を送る。

キャリア[編集]

高校は群馬県立沼田女子高等学校に在学。高校生時代は、バスケットボール、陸上競技、ソフトボールなどのスポーツに励む生徒だったという。高校1年の時に映画界入りさせたかった叔母が諦めて、NHKのプロデューサーを紹介したことで劇団東芸に入団し、研究生となる。前々からNHKのドラマ「おいらの町」に出演したりとテレビの仕事をしており、そのプロデューサーの紹介で特別に劇団に入れてもらった(本来は入団試験があるが、プロデューサーが「夏休みや日曜日しか参加できないけど、芝居が好きでやりたいらしい。とにかく卒業したら本格的にやりたいというので、なんとか入れてくれないか」と話してくれて、劇団の社長も入団をOKしてくれたという)。父は「もう学業はちゃんとしなくちゃいけない、休んではいけない」ということで、内緒で入団したという。初舞台は菊田一夫作『堕胎医』。

高校在学中は、父のいいつけを守り、学業優先で学業に励むかたわら、時間を作っては劇団の稽古場へも通っていたという。公演の際にも、「舞台に立ちたい」という逸る心を抑えて、小道具作り、効果音作りなどの裏方の手伝いとして参加していた。

夏休み、休日を中心の活動だったが、高校卒業と同時に、父の許しを得て、上京し本格的に芝居に打ち込むようになる。早稲田大学の演劇科へ行こうという気持ちもあったが、父から「早稲田に行くんだったら劇団に入るのはやめなさい。学校生活では学校のことをやりなさい」と言われ、大学に行く4年間を劇団活動に費やした方がいいと決めた。劇団に入ってから「10年たっても生活できなかったら、そこでまた考えて、すぱっと辞めるか、そのまま続けるか決める」と父と約束し(もっとも、当時から仕事をしており、かなり収入があった)、「10年も役者をやり抜くとはたいしたもんだ。10年間劇団の生活は見よう。自分に何かあったら母に言えば大丈夫なようにしておこう」と言ってもらえた。若い頃から交流のあった白石冬美の談話によると、元々は演出家志望だった。

また、劇団の経営を支えるため、10代の終わり頃には声優業も始める。当時は声の吹き替えは録音ではなく生放送だったため、初仕事が洋画の吹き替えであるのは覚えているが、正確な声優業デビュー作品は本人も覚えておらず不明である。

アニメデビュー作は、『鉄腕アトム (アニメ第1作)』のゲスト出演。レギュラーではないが、毎回、少年役などを担当していたという。レギュラーでは『宇宙パトロールホッパ』のプー役。初主演作は『ゲゲゲの鬼太郎(第1作)』(鬼太郎役)となる。

アニメのレギュラーが増え舞台への出演が減った頃富田耕生に呼ばれ、後の青二プロダクションの社長である久保進から「独立して事務所を作りたい。マコにも来てほしい」と誘われる。当初は「劇団で過保護に育ってるしプロダクションの生活はしたことないため不安、それに舞台もやめられない」と答えたが「面倒は自分たちで見るし、舞台も続けてくれて構わない」と言われ劇団と相談し東芸と新事務所の青二の両方に所属し始めた。しかし、声の仕事が忙しくなったため舞台ができなくなり、結果的に劇団を辞めた。

1979年、青二プロダクションの分裂騒動の際には、創設メンバーの一人でありながらぷろだくしょんバオバブの設立に関わった。青二プロダクションからバオバブへ移ったのは、当時野沢は青二の株主で株主総会が夜遅くかかり、娘や母のためになるべく早く帰りたかったためである。青二の株は社長の久保が引き取ってくれたが、「マコにやめられるっていうのは、夫婦で夜、一つの布団にいっしょに寝て、朝目が覚めたら女房にいなくなられたような感じなんだよ」と言われ、申し訳ないことをしたなと思ったという。

1981年、バオバブが軌道に乗った頃、イベント企画部門として作られた81プロデュースが独立、当時マネージャーだった南沢道義が責任者となりバオバブを辞める。一方野沢はバオバブでは養成所を作る手伝いをしていたが、ゴタゴタがあり仕事を降りる。しかし、仕事を降りたことが「喧嘩している」と噂になってしまい、青二の久保から「俺が南沢に話をしとくから、南沢のところへ行きなさい」と言われ、1年半後に81プロデュースに移籍。長きに亘って在籍したが、2006年4月1日に「オフィス野沢」を設立し独立した。この際、声優活動をしていた当時は野沢との共演も多かった吉田理保子がマネージャーを担当していた。

2004年にはアニメがビデオ・DVD化された際に音声制作会社に声の使用料の支払いを求め、野沢は声優361人を代表して原告団長として訴訟を起こし勝訴している。

現在まで[編集]

2012年4月1日より青二プロダクションに復帰、同年4月30日にオフィス野沢を廃業した。

2013年、第7回声優アワード「功労賞」を受賞。

2014年、東久邇宮文化褒賞を受賞。

2017年1月31日、バンダイナムコエンターテインメントの『ドラゴンボール』関連のゲームで主人公・孫悟空の声優として「ひとつのビデオゲームのキャラクターを最も長い期間演じた声優」「ビデオゲームの声優として活動した最も長い期間」の2項目でギネス世界記録に認定されたことが明らかになった。また、同年5月16日には、前年に短編アニメ映画『風のように』で主人公・三平役を演じたことから、第26回日本映画批評家大賞のアニメーション部門声優賞を受賞。

2018年、長年の声優活動を通じて児童文化の向上や普及に努め健全育成に貢献してきた実績が認められ、「平成30年度 児童福祉文化賞 特別部門」を受賞。

2023年、第71回菊池寛賞を受賞。

人物[編集]

声優業の創生期から活躍しており、青二プロダクション創設メンバーのひとりでもある。現在は劇団ムーンライトの主宰・演出も手がけている。

父は画家の野沢蓼洲(のざわ りょうしゅう)。母は野沢鶴。両親とも江戸っ子だった。叔母は松竹の女優である佐々木清野。両親からは「まあちゃん」と呼ばれていた。

母親とは戸籍上では血が繋がっておらず、母が最初に結婚した際に流産してしまい、父と再婚しても子供ができなかっため、「野沢の血を絶えてしまってはいけない」ということで、他の女性と子供を作ったという。野沢は高校生くらいの思春期の頃、戸籍謄本を見て「養女」となっておりショックを受けたが、父からは「母は近所で有名なおしゃれできれいな人で家事をしなかったが、あなたを連れてきてからなりふりかまわずみんなが驚いたくらい夢中になって育てたんだよ」と言われ、母からも「あなたを産む時にお腹を痛めなかったけど、私が産んだ娘だとずっと思っている」と言われて野沢は「この人以外に私の母はいない」と強く思った。母や父は産みの親を大切にしており、家にもよく泊まりに来ていたという。

一人っ子である。

子供の頃は原っぱで男の子の中に一人混じってチャンバラをしているような下町っ子であり、いじめっ子の男の子をこらしめたりなど男勝りな性格だったという。田の中勇からは「男の僕からしても男らしかった」「感覚が下町っていうか、本当に男の子だった」と言われていた(野沢は田の中を「タノ子」と呼んでおり、田の中も野沢を「雅男」と呼んでいたという)。

趣味は計画無しのドライブ旅行、スポーツ観戦。

好きな言葉は「自由、夢、ハプニング」。

姿勢[編集]

新人時代、当時のアフレコ環境はまだ録音機材が充実しておらず、収録中のNGは全て最初からの録り直しとなった。そのため、NGを出すと「(申し訳なさで)気を失いそうになった」と回想しており、簡単にNGを出す最近の若手声優に対し「緊張感が足りない」「『NG大賞』なんて、当時の感覚からしたら信じられない」との考えを持っている。

「声優以前に俳優である」という考えから、デビュー間もない頃は“声優”と呼ばれることには抵抗があり、インタビューのたびに「舞台女優です」と訂正を求めていた。現在は「“声優”と呼ばれることには抵抗がなく、むしろ誇りに思っている」と語っている。元々声優志望ではなくテレビアニメは仕事のひとつという意識だったが、アニメの仕事が増えていき、『宇宙パトロールホッパ』などレギュラーの仕事を持つようになってからは楽しいという気持ちが大きくなっていった。洋画の吹き替えは生身の人間の芝居から極端に外れることはできないがアニメは無から有を作れるため自由自在にすごく楽しく演じられるといい、この頃から「私は声優です」と言えるようになってきたのだという。また、「キャラクターのイメージを壊す」という理由で、テレビの顔出し出演を拒む声優が多い中、アニメ関連に限らず、バラエティ番組などにも本人登場で出演することがある。

「役に入り込むこと」と「役を演じ分けること」に必要なのは自分の引き出しを増やすことだといい、日常生活のウォッチングとリスニングが大事だという。声優を目指す者に対しては読書を通じて想像力を養ってほしいと語っており、上品な言い回しが苦手な若手声優も目立つため日頃から読書や人間観察を続けることで解決できるとアドバイスを送っている。また「他人の評価を気にせず、見栄を張らないこと」、「こうしたら上手に聴こえるかな?などと考えてはダメ。大切なのはハートです。上手な言葉ではなく生きた言葉を発してほしい。技術なんてものは、後からいくらでも成長します。だからこそ、ハートのこもったセリフを心掛けてください」とも語っている。

『タイガーマスク』に出演していた頃、貰い火で自宅が半焼した際には「仕事に穴を開けるわけにはいかない」と、近所から服を借りてスタジオに行き、火事のことはスタッフ・共演者の誰にも告げずにアフレコに臨んだことがある。また、草尾毅は「体調が悪くても、一言も弱音を口にしない方」と語っている。

『いなかっぺ大将』では愛川欽也と二人でアドリブを多く入れていた。ただし、「生きたお芝居をするのと、私が好き勝手するというのは違う。私の勝手な解釈で勝手な流れを作ったら原作者の方にも失礼」という考えから、アドリブは時々はするがあまりやらないようにしているという。

「今までやった役でどの役が好きですか?」という質問には、「自分が演じた役はどれもかわいい」としつつも、「しいてあげるなら『ゲゲゲの鬼太郎』(第1・2作、墓場鬼太郎)の鬼太郎、『銀河鉄道999』の星野鉄郎、そして『ドラゴンボール』の孫悟空の三つ」と語っている。この3作は全て原作者によって選ばれた役である。



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