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読売新聞西部本社

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株式会社読売新聞西部本社(よみうりしんぶんせいぶほんしゃ)は、九州・山口地方全県向けに読売新聞を印刷・発行する読売新聞の地域本社である。読売新聞東京本社、読売新聞大阪本社と共に読売新聞グループ本社の子会社の一つである。 2014年9月23日に発刊50周年を迎えた。

歴史[編集]

1964年(昭和39年)9月23日、福岡県北九州市小倉北区砂津中津口(現・明和町1-11)に於いて「読売新聞」の西部版第一号を発刊(それまでは大阪本社が九州本島向けに『九州版』、山口県向けに『山口版』を発行していた)。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更。当時は広義のフランチャイズ契約に同じ)の一事業として発足した。西部本社の設立で、東日本のブロック紙から始まった読売新聞は、全国紙としての体制を整えた。

戦時中に九州日報を経営[編集]

第二次世界大戦前の1940年(昭和15年)に、東京の読売新聞社は福岡県内で発行されていた「九州日報」(玄洋社系の新聞)の経営権を獲得したが、戦時下における政府・軍部によるマスコミ統制策「一県一紙令」により、九州日報は「福岡日日新聞」に統合され、「西日本新聞」となった。西日本新聞は中日新聞、北海道新聞と異なり、旧福岡日日の紙齢(創刊からの号数)をそのまま引き継ぐなど、福岡日日を衣替えした形をとった。また、「長崎日日新聞」(現在の長崎新聞)の経営にも関わっていた。

創刊までの経緯[編集]

読売新聞は、1952年に大阪市で大阪讀賣新聞社(現:読売新聞大阪本社)を設立し、念願の西日本進出を果たした。その後、東京の読売新聞社(現:読売新聞東京本社)が1959年に北海道札幌市に読売新聞北海道支社を、1961年に富山県高岡市に読売新聞北陸支社をそれぞれ設置して現地印刷を始めたが、九州には読売新聞の発行本社が無く(ただし、大阪本社が1952年の創刊当初から西部版創刊までの間九州版として発行していた時代があった)、1962年、当時の読売本社会長・正力松太郎は、当時の大阪読売社長・務臺光雄に読売新聞の九州進出を命じた。務臺は名古屋市への読売進出を願望していたが、最終的に正力の計画だった九州に発行本社を置くことになった。読売の九州進出は先述の九州日報買収で実現したものの、新聞統制で福岡日日新聞と統合して「西日本新聞」となったため、改めて正力は九州進出を提唱した。戦前の九州は、北九州が日本の「西部」の中枢都市であったことや、1970年まで西日本(中国・四国・九州)で最大の都市でもあったことから、朝日新聞と毎日新聞の西部本社が所在する小倉市(現在の北九州市小倉北区)に読売も九州の拠点を置くことを決めた。1962年、小倉市に事業に必要な社屋を建てる用地を確保。新聞発行業務を読売興業に委ねる形にした。そして、創刊間近の1964年9月、社屋ビルが完成し、9月23日付から読売新聞西部版の第1号が発行された。創刊当初は、大阪本社で製作された紙面をファクシミリで北九州に送り、北九州で製版して印刷する方式だった。

地元放送局のネット再編[編集]

読売新聞の九州進出が発端となって、西日本新聞を発行する「西日本新聞社」はこれに反発した。その後5~6年にわたって続く、山口県を巻き込んだ、テレビ放送の再編にまで発展した。以下、要点を述べる。

  1. 1958年8月に開局した西日本新聞グループのテレビ西日本(TNC)は、当時の資本関係で日本テレビ(以下、日テレ)の系列下にあった。一方、山口放送(KRY)も日テレ系列下だったが、1961年(読売西部本社事業開始前)に開局した、KRYが運営するもう一つのテレビ局・関門テレビ局(KRY関門テレビジョン放送支局、JOPM-TV)は、TNCとエリアが重複するため、KRY本局とは全く別の番組を編成していた(山口放送#テレビネットワークの変遷を参照)。
  2. 別項にも記載の通り、西日本新聞の沿革には読売新聞が関わっており、読売の九州進出まで両者は協力関係にあった。しかし、西日本新聞は正力が打ち出した読売の九州進出によって、TNCが読売の広告媒体として利用されることを危惧した。また、西日本新聞社内でも合併前の九州日報系(読売と親密)と福岡日日新聞系(読売と対立)とで、読売新聞との関係性に温度差があった。
  3. 福岡日日新聞系の役員を中心に読売の九州進出に反発した西日本新聞の意向で、TNCは1963年に、読売新聞・日本テレビの反対を押し切りフジテレビから要請された『三匹の侍』のマイクロネットを受け入れ、翌1964年10月、フジテレビ系列下に移行した。西日本新聞はフジサンケイグループの産経新聞とは主義・主張が正反対だったが、古くから販売・人的な面などで協力関係にあったことが、フジ系移行の決め手となった。そのあおりで、それまでフジテレビ系と日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)とのクロスネットとして両局の番組を放送していた九州朝日放送(KBC)は、系列を一本化してNET系列の九州地区フルネット第1号となる(九州朝日放送#ネットワークの変遷を参照)。これに伴い、関門テレビ局は、KRY本局と同じ日テレ系列中心の番組編成ができるようになった。
    この1局2波体制のため、西部版創刊当初の山口放送のテレビ欄(福岡・山口版)では、番組表も「KRY山口 関門局」「KRY山口 徳山・萩・岩国局」とで分けて掲載していた。
  4. 一連の動きに取り残された形になったTBS系列(JNN)のRKB毎日放送の一部株主が反発。UHF帯を親局とする民放テレビ局が本格的に開局できるようになったのを機会に、読売新聞などと組んで福岡放送(FBS)を設立。1969年4月、まず、福岡市と久留米市周辺で放送を開始した(北九州市はKRYとの調整もあり少し遅れた)。西日本新聞も地元財界の求めに応じて出資したが、FBSは現在事実上読売系列下にある。

発行部数[編集]

1964年の創刊以降、毎日新聞、朝日新聞とも激しいシェア争いを繰り広げており、西部本社は現在、福岡県においては西日本新聞に次ぐ部数のシェアとなっている。1998年からは『スポーツ報知』の発行を開始した。

福岡市に移転[編集]

読売新聞が九州に進出してから、福岡都市圏や南九州では高いシェアを確立したのに加え、福岡都市圏での人口の伸びや高速道路の整備によるトラック輸送網の拡充により、2004年1月1日、福岡市中央区赤坂1-16-5の「読売新福岡ビル」に本社機能を全面移転した(これより先に、朝日新聞西部本社が1996年編集・製作部門を福岡市の朝日新聞福岡本部に移転した)。

大阪読売は、1952年の創刊と同時に福岡市に「九州総局」を設置した。しかし、朝日・毎日は当時交通手段を鉄道に頼っていた時代、鉄道路線の分岐点であった北九州に西部本社を構え、それに正力松太郎の方針で読売も北九州に西部本社を置いた。その後、輸送手段がトラック輸送に変わり、福岡市への中枢機能の集中や福岡市が九州で最大の都市になったのも福岡移転の理由でもある。

グループ再編[編集]

福岡市への本社移転に先立ち2002年7月1日、読売新聞のグループ再編で、株式会社よみうりが運営していた読売新聞西部本社は、「株式会社読売新聞西部本社」として独立し、株式会社読売新聞グループ本社(持株会社。旧株式会社読売新聞社が持株会社と東日本の地域本社『読売新聞東京本社』に分割)の完全子会社となった。なおこのよみうりの持ち株会社への吸収により、同じよみうりの傘下にあった中部本社は東京本社に統合され、「中部支社」へと格下げになっている。

2020年10月30日付で創刊からの紙齢が20000号達成した。



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