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落合博満

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落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年〈昭和28年〉12月9日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督、野球解説者、タレント、YouTuber。

秋田県南秋田郡潟西村(現・男鹿市)出身。血液型はO型。

選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつ日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成し、NPB史上最高の右打者の1人とされる。また20世紀最後・昭和最後・右打者最後の三冠王達成者でもある。

2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。

経歴[編集]

男3人、女4人の7人兄弟の末っ子として生まれる。実家は和菓子屋。幼少期より新聞で丸めたボールを棒で打つ野球に似た遊びをしていた。兄の影響で琴浜村立鵜木小学校4年生の時に地元の学童野球チームに入部する。憧れの選手は長嶋茂雄であった。小学校での学業成績は、図工を除いて常に上位に入っていた。琴浜村立潟西中学校では1年生から4番でエースだったが、大会ではいつも1、2回戦で敗退する弱小チームだった。3年生の地区大会で決勝戦へ進出し、準優勝に終わったものの、この試合で落合は90メートルを超える本塁打を打った。

1969年、県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受け、それこそ「野球で県内のどの高校にも行けた」レベルであった。だが、卒業後は就職と決めていたことと、「選手をあまりいじらない」と聞いたことから、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。野球部へ入部すると即座にレギュラーに抜擢され4番となったが、入部3か月で右肩を壊して投手を断念し、外野手へ転向した。その後、もともと練習嫌いだったことや、上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気し、練習にはほとんど顔を出さなくなっていった。地元の横の繋がりからなる仲間意識の中で育った落合にとってこの上下関係は耐えがたいものであった。

しかし、チーム一の実力選手であったため、大会の直前にはチームへ呼び戻されていた。こうした「練習さぼりー大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返した。学校への通学にも嫌気が差してほとんど通わず、所謂「不登校」であった。その代わり秋田市南通の映画館へ、年に100本は映画を鑑賞するほど通いつめた。このため、出席日数が足りず、高校3年間で2年ほどは留年の一歩手前だった。昼間から学生服姿で映画館に入り浸っていたため、他の観客からは不審視されていたという。

不登校の間も全く練習しなかったわけではなく、当時木製であった電柱をバットで叩く、山の中で素振りをするなどの自主トレーニングをしていた。電柱を叩くと穴が開いて電気が消えるため、近所から苦情があった。

高校卒業後は就職と決めていたが、高校3年生の10月、高校の野球部部長に勧められて東洋大学野球部のセレクションに参加し、そこで特大の本塁打を連発したことが評価されて合格。1972年4月から東洋大学への進学が決定することになった。いきなり背番号を与えられ、ポジションも内野手と決定し、高校卒業前の2月には合宿入りした。また、約20名の1年生の中から選抜された4名の中のメンバーに入って、野球部の松山キャンプにも参加した。ところが、その練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫という怪我を負い、毎日の通院を余儀なくされる。

そして、高校時代に続いてまたも野球部の古い体質に直面する。先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らすことに対して「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気がさした。こうして、4月の入学式を目前にして合宿を飛び出して野球部を退部し、大学も中退した。大学の監督は「復帰は2年生になってからでもいいから」と慰留に努めたが、それを振り切っての中退であった。

大学中退後は郷里の秋田県に戻り、実兄が支配人をするボウリング場にてアルバイトをしていた。これをきっかけにボウリングに熱中し、プロボウラーを志していたこともある。日本国内初の女子プロボウラーである須田開代子のもとに、飛び切りうまい若者がいるとの噂が届くほどの腕前であったという。その傍らで地元の草野球チームに参加してプレーし、野球への熱意が再び高まるようになる。20歳を目前にして、高校時代の恩師である野球部部長を訪ねて就職を相談したところ、社会人野球・東芝府中のセレクションの受験を勧められ、合格した。

1974年1月、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入し、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた。入社2年目の1975年に四番に定着し、翌1976年にようやく正社員となる。この年、東芝府中は創部23年目で初の都市対抗出場を果たす。1回戦ではデュプロを降し初勝利を挙げ、2回戦では日本通運から補強された村上之宏が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した。翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続で出場し、1978年には、木田勇、森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された。在籍5年間の公式戦で通算70本塁打を記録した。

1977年のドラフト会議では、直前に阪神タイガースのスカウト・田丸仁から指名の可能性を伝えられたものの、実現しなかった。翌1978年のドラフト会議にてロッテ・オリオンズから3位指名を受け、契約金2700万円、年俸360万円でサインし、入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった。

選手としての特徴[編集]

打撃[編集]

落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底した内角攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。また、江夏豊から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことから、狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという。

通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという。

また、「バッティングはあくまでも水物。点数取れるときは取れる、取れないときは取れない」と実力だけではないものがあることも説いている。

リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している。

落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと。

三冠タイトルで一番難しいのは首位打者と述べている。ただし、これは「狭き門」という意味ではなく、むしろ「誰にでも取れるチャンスがある一番のタイトル」という意味であり、ライバルがそれだけ多いから難しいとも語っている。

本人曰く、26歳になる年でプロ入りしたこともあって、「遅く入った自分がレジェンドの記録を塗り替えることはないから、シーズンでどれだけの記録を残せるかに重点を絞りプレイした」と述べている。

守備[編集]

一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である。

ロッテ時代に遊撃手として共に内野を守った水上善雄は「(二塁手として)追いついた打球は絶対にアウトにしてくれました。(中略)ゲッツーが計算できて、やりやすかったです。送球も縦の回転で捕りやすく、捕ってからすぐに一塁送球できました。ファーストに移ってからもミットさばきが柔らかく、送球がショートバウンドになっても確実に捕ってくれました。落合さんにゴールデングラブ賞の経験がないのはおかしいです」と評価している。

逸話[編集]

盗難[編集]

2006年9月20日の横浜スタジアム、対横浜戦において、監督室に置いてあった現金37万円や免許証などが入ったセカンドバッグが紛失した。警察が正式に捜査し関係者の指紋を取るなどしたものの、バッグは見つからず犯人も不明なままであった。コーチの長嶋清幸によると、同じロッカーを使っていた森繁和のバッグには現金150万円が入っていたものの、手つかずだったという。

家族[編集]

1980年12月に1度結婚したが、3か月で離婚した。1984年12月に9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、博満は前向きではなかったFA権の行使や監督就任などを決断させた。

長男は声優の落合福嗣。また、元プロレスラーのジャイアント落合は甥にあたる(姉の子)。落合一家は博満が三冠王を獲得したことに掛けて「トリプルクラウンファミリー」と呼ばれるなど独特の知名度がある。

人物[編集]

投手として入団した愛甲猛に打者転向を勧め、愛甲の打撃を指導した。愛甲は1981年に入団後、3年間投手としてプレーしたが、結果を残せず、1983年のシーズン終了後に監督の山本一義から「投手を続けるか、それとも打者に転向するか」と迫られるも即決できなかったが、落合から「タケシ、お前はバッターの方が稼げるぞ。甲子園を見ていたが、バッターの方が稼げるぞ」と声をかけられたことで打者転向を決意した。1984年の春季キャンプでは初日から、練習を終えた後に落合の部屋にて落合から打撃の指導を受けた。丸めた新聞紙をボール代わりにトスバッティングを繰り返した。愛甲はそれまで打撃で本格的な指導を受けたことがなかったが、落合の連日にわたる指導で上達した。落合は「家にいてもやることねえし」と言いながらも川崎球場でのファームの試合をバックネット裏から観戦し、愛甲の打撃を見ていたことがあったといい、愛甲は落合に対し、「オチさんに教わった打撃術は、我流とは違い、明らかにプロの打撃だった」と感謝している。ロッテ時代の落合は子供が出来ずに悩んでいたため、心底可愛がっていた愛甲と養子縁組することも本気で考えていたといい、愛甲は後に「ヘタすりゃ福嗣くんのお兄さんになってた」と語っている。愛甲はこれについて「落さんって、自分が見てバッティングとかが気に行った奴ってのが凄く可愛く感じるのよ」と自身の見解を述べている。

1985年から1987年まで社団法人日本プロ野球選手会の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めたが、1992年には選手会を脱退した。その後の1993年、FA制度を利用して巨人に移籍している。

プロ入り前からの熱心な長嶋茂雄ファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間から馬鹿にされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。

現役時代、プロ入り時の監督であった山内一弘からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし、山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという。また、落合は山内から伝授された打撃練習法を、現役晩年まで実践していた。

クーラー嫌いでも有名であった。現役時代は真夏でもクーラーを点けずに汗を思いきりかきながら寝て、朝5時にすっきり目を覚ます生活を送った。

ロッテ在籍時代、阪急のエース・山田久志とはライバルとして認め合い、名勝負を繰り広げた。1980年5月28日の阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという。落合はプロ入り当初、山田の決め球であるシンカーを全く打てなかったが、当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した。1982年4月29日に行われた、山田の200勝が掛かった試合では、山田から3本の本塁打を放っている。打った球は全てシンカーであった。[疑問点 – ノート]

山本昌は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している。

暴力嫌いであり、監督に就任直後、招聘した全コーチに、「いかなる理由があっても選手に手を上げてはいけない。守れなかった場合は解雇する」という誓約書にサインさせた。中日球団は星野仙一監督など、鉄拳制裁が日常的になっており、その慣習を変えるべくチームの暴力根絶にも苦心し、落合は「チームから暴力をなくすのに5年かかった」としている。スポーツ界全体に蔓延する暴力指導の根絶について「この先何十年もかかると思う。『絶対ありません』と言う時代は私が生きている間には訪れないと思ったほうがいい。それだけ時間がかかる難しい問題」と語っている。

暴力を振るわなかったが先述の愛甲に対するように「選手をしごいたことはある」と言うなど「時には厳しさは大事」という考えは持っていた。特に井端弘和をしごいたこともあり、このことから「井端からは、いつもムカついた顔をされてた」と落合も認めている。もっとも、その井端は荒木雅博と共にアライバコンビとして中日の名選手として活躍するようになり、活躍の場を落合が作ったとも認められることもある。

若いころは飲酒をしていたが30歳になったころには断酒をしたという。

オフシーズンの自主トレ先として長野県の昼神温泉を愛用していたことで知られ、同温泉の周辺には落合がランニングで使用したとされる「落合ロード」が残る。1989年1月には、同温泉に滞在中だった落合が当時のドラゴンズと星野監督を批判したとされる、通称「昼神事件」の舞台ともなった。

監督として[編集]

監督としての実績は中日ドラゴンズで監督を務めた8年間のみだが、監督在任期間中は全ての年でAクラス入りを果たし、リーグ優勝4度(うち2010年と2011年にセ・リーグ連覇)、日本一1回の実績を残した。

野手出身で実質コーチ経験が無い落合が、監督として実績を残せたのには幾つかの要因があった。

2004年監督就任1年目の春季キャンプ初日から紅白戦を実施。また、キャンプ中はペナントシーズンでの日程を考慮して、移動日にあたる月曜日をオフにした6勤1休制のキャンプを実施した。

監督在任期間中は、広いナゴヤドームを利用して、投手力を武器にペナントシーズンを戦った。

投手起用に関しては、自身が野手だったことから、信用を置いているヘッドコーチの森繁和に任せて一切口出ししなかったという。これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりやすいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけ、という考え方で、「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも言っていたとされる。

また、ペナントシーズン消化も緻密で、ホームゲームでは広いナゴヤドームを利用して数少ないチャンスをものにして投手力で逃げ切り、下位チームとの対戦では慢心による取りこぼしを避けるために采配や選手起用には慎重に気を配っていた。

山本昌は引退後、名球会の公式YouTubeチャンネルの動画で落合を「予言者」と評しており、2003年の日本シリーズ前に「両チームがホームで全勝して、ダイエーが勝つ」と予想して当てる、2004年に補強を凍結して優勝する公約を達成するなど、洞察力に定評があったとしている。

2004年監督就任1年目は開幕戦から数試合は、勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり、一切感情を露わにしないことでも知られていた。2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。この繰り返しですよ」と語り、努めてそうしていたことを明かしている。その意図は「選手はベンチを見てる。怒ってる姿を見せたら、あいつら体動かなくなるから」と語る。また、「それでなくても、そういう野球を中日はずっとやってきたわけでしょ。過去の政権で。戦う人間はこっちじゃないよ。お前ら何しでかしたって別に怒りゃせんから。そのかわり、勝ち負けの責任は俺がとる。(個人の)成績良い悪いは、お前らが責任とれよ。そこはフォローしないぞ。だから、グラウンド行って戦ってきなさいって」とも話し、過去に中日を監督していた星野仙一の有り様を踏まえた考えだったことを仄めかした。

2007年11月1日、日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を、9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった(2007年日本シリーズ完全試合リレーを参照)。

2007年11月13日、中日球団からは初となる、正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントした。岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという。

2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。

FA権に対しては、落合自身も現役時代に行使した経験があったこともあり、「FAは選手が勝ち取った権利」だと容認的なスタンスを取っている。監督在任期間中は野口茂樹、福留孝介、川上憲伸、中村紀洋と4人の選手がFA権を行使して移籍していった一方で、埼玉西武ライオンズから和田一浩をFAで獲得した。

一方で、マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている。

上記の事情から、マスコミや球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている。

2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部にガッツポーズをされたことを明かしている。実際に、2011年の連覇達成時には、当時のオーナーだった白井文吾と握手を交わしたのに対して、その球団幹部とは握手を交わさずにベンチを去っている。翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「高木守道新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された。

監督在任中の末期はナゴヤドームの観客数が減少しており、ファンサービスの足りなさや落合野球のつまらなさが観客数減少の原因としてマスコミやメディアに度々指摘されていた。しかし実際は、落合が監督に在任した8年間の間に名古屋の街事情が様変わりしたことが観客数減少に大きく影響しており、2008年当時の応援団の出禁処分やWBCボイコット事件で球団に対するネガティブなイメージが定着したことに加えて、ほぼ同時期に起きたリーマンショックやトヨタショックに代表される不況が観客数減少に拍車を掛けたためである。後任の監督に高木守道が就任しても観客数減少に歯止めが掛からず、2013年には落合監督時代をさらに下回る年間観客数200万人を切る事態となった。

指導者としてはプロスポーツ選手を育てるために大切な要素を「心技体」の順番ではなく「体技心」の順番と定めている。体力があれば技術が身に付くし、技術があれば、心が動じずに平常心で戦えるという理屈である。

監督を退任後から中日は優勝することがなく低迷が続いていたのもあり、もう一度中日の監督復帰を問われることがあったが、「(後ろ盾だった)白井文吾オーナーが退任したため、もうないだろう。低迷期間中に白井オーナーが『勝つのは簡単だ(落合起用を示唆)。でも、それは皆さん(現球団関係者たち)が許さないんだろう?』という発言を耳にした。だから中日の監督復帰は、(関係者との確執から)まずないだろう」と否定している。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

塁 打

塁 打

塁 打

塁 死

殺 打

塁 率

打 率

O

P S

1979 ロッテ 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 0 1 12 2 .234 .290 .406 .696
1980 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 0 1 23 5 .283 .349 .596 .946
1981 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 1 6 55 17 .326 .423 .619 1.043
1982 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 6 5 58 11 .325 .428 .606 1.034
1983 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 5 2 52 14 .332 .419 .563 .982
1984 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 8 4 83 14 .314 .436 .581 1.017
1985 130 568 460 118 169 24 1 52 351 146 5 1 0 4 101 26 3 40 16 .367 .481 .763 1.244
1986 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 19 3 59 15 .360 .487 .746 1.232
1987 中日 125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 10 2 51 10 .331 .435 .602 1.037
1988 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 13 3 70 11 .293 .418 .580 .998
1989 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 7 1 69 11 .321 .410 .626 1.036
1990 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 17 4 87 7 .290 .416 .559 .975
1991 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 16 4 55 9 .340 .473 .682 1.155
1992 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 8 3 74 12 .292 .422 .526 .948
1993 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 14 4 69 13 .285 .423 .462 .885
1994 巨人 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 4 6 56 13 .280 .393 .423 .815
1995 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 2 3 87 17 .311 .414 .481 .895
1996 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 3 53 11 .301 .408 .516 .924
1997 日本ハム 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 1 3 60 16 .262 .361 .320 .680
1998 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 0 2 22 12 .235 .344 .309 .652
通算:20年 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 160 63 1135 236 .311 .423 .564 .987
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン

| ム 差

塁 打

御 率

2004 中日 1位 138 79 56 3 .585 (7.5) 111 .274 3.86 623 558 50歳
2005 2位 146 79 66 1 .545 10.0 139 .269 4.13 680 628 51歳
2006 1位 146 87 54 5 .617 (3.5) 139 .270 3.10 669 496 52歳
2007 2位 144 78 64 2 .549 1.5 121 .261 3.59 623 556 53歳
2008 3位 144 71 68 5 .511 10.0 140 .253 3.53 535 556 54歳
2009 2位 144 81 62 1 .566 12.0 136 .258 3.17 605 508 55歳
2010 1位 144 79 62 3 .560 (1.0) 119 .259 3.29 539 521 56歳
2011 1位 144 75 59 10 .560 (2.5) 82 .228 2.46 419 410 57歳
通算:8年 1150 629 491 30 .562 Aクラス8回
  • ※1 順位の太字は日本シリーズ優勝、チーム成績の太字はリーグ1位(最優秀)、下線はリーグ最下位
  • ※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
  • ※3 2005年から2006年までは146試合制
  • ※4 2007年から144試合制
  • ※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
ポストシーズン

会 名

2004 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗=敗退
2006 日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 1勝4敗=敗退
2007 セ・リーグ クライマックスシリーズ

1stステージ(セ・リーグ2位)

阪神タイガース(セ・リーグ3位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ

2ndステージ

読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 3勝0敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 4勝1敗=日本一
2008 セ・リーグ クライマックスシリーズ

1stステージ(セ・リーグ3位)

阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ

2ndステージ

読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝2敗1分=敗退
2009 セ・リーグ クライマックスシリーズ

1stステージ(セ・リーグ2位)

東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ

2ndステージ

読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝3敗=敗退
2010 セ・リーグ クライマックスシリーズ

ファイナルステージ(セ・リーグ優勝)

読売ジャイアンツ(セ・リーグ3位) 3勝1敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 2勝4敗1分=敗退
2011 セ・リーグ クライマックスシリーズ

ファイナルステージ(セ・リーグ優勝)

東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) 3勝2敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 福岡ソフトバンクホークス 3勝4敗=敗退
※ 2008年と2009年のクライマックスシリーズ2ndステージではセ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに、また2010年と2011年のクライマックスシリーズファイナルステージ(2ndステージより名称変更)では、同じくセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した

タイトル[編集]

  • 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録。3年連続は長嶋茂雄・パウエルと並ぶ右打者最長タイ、パ・リーグ歴代3位
  • 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初
  • 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上唯一
  • 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位。パ・リーグで3回(1986年まで)、セ・リーグで4回(1987年以降)はそれぞれのリーグの右打者最多
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1982年)
  • 最多勝利打点:5回(1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞

表彰[編集]

  • 最優秀選手:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目
  • ベストナイン:10回(二塁手部門:1981年、1982年 一塁手部門:1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門:1984年 - 1986年、1989年) ※複数部門に跨がっての10度受賞は歴代最多、複数部門に跨がって6年連続も歴代最長
  • 野球殿堂競技者表彰(2011年)
  • 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月)
  • 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
  • オールスターゲームMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
  • 日本プロスポーツ大賞
    • 大賞:1回(1982年)
    • 40周年特別賞 京楽杯(2007年)
  • 報知プロスポーツ大賞:3回(1982年、1985年、1986年)
  • 都民文化栄誉賞(1985年)
  • 秋田県県民栄誉章(1987年)
  • IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
  • 新語・流行語大賞 新語部門銅賞(1993年、「FA(フリーエージェント)」)
  • よい夫婦の日 ナイス・カップル(1995年、妻:落合信子)
  • 正力松太郎賞:1回(2007年)※監督として表彰
  • 最優秀監督賞(セ・リーグ連盟特別表彰:2011年)

記録[編集]

日本記録
  • 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上4人目、3回の三冠王は史上唯一。1982年は日本人最速となる入団4年目での達成
  • 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)
  • 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)
  • シーズン得点圏打率:.492(1985年)
  • シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセ・リーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。
  • シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一
  • 1試合6四球(1991年10月13日)
パ・リーグ記録
  • シーズン打点:146(1985年)※三冠王の最多打点記録
  • シーズン長打率:.763(1985年)
初記録
  • 初出場:1979年5月29日、対南海ホークス前期8回戦(川崎球場)、7回裏に新井昌則の代打として出場
  • 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、7番・三塁手として先発出場
  • 初安打・初打点:同上、6回裏に森口益光から
  • 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏に山内新一から3ラン
節目の記録
  • 100本塁打:1983年8月31日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、9回表に山沖之彦から左越先制3ラン ※史上127人目
  • 150本塁打:1985年5月5日、対南海ホークス4回戦(川崎球場)、5回裏に大久保学から ※史上75人目
  • 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に今井雄太郎から中越先制ソロ ※史上48人目
  • 250本塁打:1987年5月19日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に西本聖から中越2ラン ※史上27人目
  • 1000安打:1987年6月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に高橋一彦から左越ソロ ※史上148人目
  • 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目
  • 300本塁打:1988年10月2日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に仲田幸司から右越決勝ソロ ※史上19人目
  • 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦(浜松球場)、3回裏に嶋尾慶一から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後にアレックス・カブレラが更新)
  • 1000打点:1990年6月12日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、9回表に高木宣宏から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達)
  • 1500安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回表に桑田真澄から左越3ラン ※史上59人目
  • 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に香田勲男からソロ ※史上30人目
  • 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に金石昭人から中越ソロ ※史上11人目
  • 1000得点:1992年4月26日、対阪神タイガース5回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中込伸からソロ本塁打を放ち達成 ※史上24人目
  • 1500試合出場:1992年5月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤ球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上101人目
  • 3500塁打:1993年8月15日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、8回表に橋本清から単打 ※史上18人目
  • 450本塁打:1993年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に川崎憲次郎から先制決勝2ラン
  • 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に内藤尚行から ※史上31人目
  • 2000安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に久保康生から左越ソロ ※史上27人目
  • 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に紀藤真琴から ※史上21人目
  • 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏にテリー・ブロスからソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目
  • 2000試合出場:1996年5月29日、対ヤクルトスワローズ10回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上29人目
  • 500本塁打:1996年7月3日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、6回表にテリー・ブロスから逆転2ラン ※史上7人目
  • 1500打点:1996年8月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に白武佳久から右前決勝適時打 ※史上7人目
オールスターゲームの記録
  • オールスターゲーム出場:15回(1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年) ※1992年も選出されるも出場辞退
  • オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ
  • オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位
  • オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ
その他の記録
  • シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。
  • シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ、2年連続は史上初(他はアレックス・カブレラが達成)
  • シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ
  • 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ
  • 両リーグ1000安打以上(パ:1096本、セ:1275本)※史上2人目
  • 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 14日)
  • 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
  • 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位
  • 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位
  • シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録、パ・リーグ日本人最多タイ記録
  • 首位打者、本塁打王、打点王全て5回以上獲得:他に王貞治のみ
  • 首位打者、最高出塁率、最高長打率の同時獲得:3回(1982年、1985年、1986年)※王(5回)に次ぐ歴代2位タイ(他に長嶋茂雄)
  • 両リーグで最多得点を記録:史上唯一
  • 両リーグで最多長打:(パ:1982、1985年、セ:1988、1989年)※他に張本勲のみ
  • 両リーグで最多塁打:(パ:1982、1985年、セ:1989年)※他に張本のみ
  • リーグ最多長打:4回 ※王に次ぐ歴代2位タイ
  • リーグ最多四球:8年連続9回 ※パ・リーグで3年連続は最長タイ。セ・リーグで5年連続6回、合わせて8年連続9回は全て王に次ぐ歴代2位。
    • 両リーグで最多四球の獲得は史上唯一
  • 最高長打率:5回 ※王に次ぐ歴代2位タイ
    • 両リーグで最高長打率の獲得は史上唯一

背番号[編集]

  • 6(1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)
  • 60(1994年)
  • 3(1997年 - 1998年)
  • 66(2004年 - 2011年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『なんと言われようとオレ流さ』(講談社、1986年4月、ISBN 4062026295)
  • 『勝負の方程式』(小学館、1994年6月、ISBN 4093871213)
  • 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、1995年6月、ISBN 4093871574)
  • 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、1997年2月、ISBN 4093872120)
  • 『野球人』(ベースボール・マガジン社、1998年12月、ISBN 4583035691)
  • 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社、1999年12月、ISBN 4583036213)
  • 『落合にきけ!』(朝日新聞社、2000年3月、ISBN 402257478X)
  • 『コーチング:言葉と信念の魔術』(ダイヤモンド社、2001年9月、ISBN 4478720215)
  • 『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2003年5月、ISBN 458303749X)
  • 『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2004年3月、ISBN 4583037910)
  • 『采配』(ダイヤモンド社、2011年11月、ISBN 4478016267)
  • 『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、ISBN 9784000259125)
  • 『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916)
※『落合博満の超野球学(1)』、『落合博満の超野球学(2)』の再編版
  • 『落合博満アドバイス 指導者に明かす野球の本質』(ダイヤモンド社、2017年7月、ISBN 4478103089)
  • 『決断=実行』(ダイヤモンド社、2018年11月、ISBN 4478106150)
  • 『戦士の食卓』(岩波書店、2021年4月、ISBN 9784000614641)

関連書籍[編集]

  • 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953)
  • 『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』(横尾弘一著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
  • 『落合博満変人の研究』(ねじめ正一著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069)
  • 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』(テリー伊藤著、角川oneテーマ21、2010年5月、ISBN 9784047102439)
  • 『原辰徳と落合博満の監督力』(張本勲著、青志社、2011年1月、ISBN 9784905042105)
  • 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』(手束仁著、イースト・プレス、2012年3月、ISBN 978-4781607597)
    • 『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS.「組織の論理」』(改題、文庫ぎんが堂、2014年2月、ISBN 9784781671048)
  • 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(川崎憲次郎著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1)
  • 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平著、文藝春秋社、2021年9月、ISBN 978-4163914411)

出演番組[編集]

  • 月曜ワイド劇場「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、テレビ朝日)
  • 加トちゃんケンちゃんおめでとうテレビ'87・THE DETECTIVE STORY(ゲスト出演)(1987年1月3日、TBS)
  • スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会(1993年12月31日、日本テレビ)
  • 桃太郎侍(1994年3月31日、テレビ朝日。長男と一緒に出演)
  • プロ野球中継(解説)
    • スーパーベースボール(テレビ朝日系列。タイトルが『ゴールデンナイター』『パワーアップナイター』『プロ野球中継』だった1999年 - 2001年はテレビ朝日専属解説者。テレビ朝日時代から中日監督就任前のフリー時代はKBCテレビにて月1回のゲスト解説、2012年・2013年はメ〜テレで本数契約として出演)
    • KBCジャンボナイター(KBCラジオ。テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演)
    • 東海ラジオ ガッツナイター(東海ラジオ。2002年・2003年)
    • 東海テレビ制作・放送分(2002年6月11日、中日対阪神戦)
    • 侍プロ野球(TBS系列。2012年4月19日、CBCテレビ制作の中日対巨人戦に出演)
    • NHKプロ野球(2012年5月19日、NHK総合テレビで放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演)
    • J SPORTS STADIUM(2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦)
  • すぽると!(フジテレビ。2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当)
  • 最強チームはこうして生まれた!~落合監督が語る 日本一への道~(NHK BS1、2007年12月。聞き手は梨田昌孝、与田剛)
  • サンデースポーツ(NHK総合テレビ。2012年から不定期でプロ野球解説として出演 2022年4月度の改編からは週替わりのレギュラーコメンテーターとして出場)
  • めざせ!会社の星(NHK Eテレ。2013年7月10日、7月17日他)
  • 戦え!スポーツ内閣(毎日放送テレビ、2018年5月23日 以降定期的に出演)
  • クローズアップ現代+ 大谷翔平 驚異の進化の舞台裏(NHK総合テレビ、2021年6月15日、解説)
  • JA淡路日の出スポーツスペシャル ~MBSべ―スボールパーク番外編~落合博満×掛布雅之 THE・野球談議(2021年12月29日、MBSラジオ)

出演CM[編集]

  • アートネイチャー「若露」(育毛剤。1983年)
  • ロッテ 「木の葉」(スナック菓子。1983年)
  • ロッテ電子工業「ホカロン」(1982年。有藤道世と共演)
  • ミズノ「ワールドウィン・ベースボールグッズ」(1987年。ランディ・バースと共演)
  • 東海旅客鉄道「3月13日ダイヤ改正」(1988年。一家で出演(※ラジオCMは夫人の信子と共演したCMがある))
  • 愛知県警察「チャイルドシート着用率」(2004年)
  • 中部電力
  • 富士通「FMV」(2005年。木村拓哉と共演)
  • 2007年愛知県知事選挙CM(2007年。戸田恵梨香と共演)

ディスコグラフィー[編集]

  • 「サムライ街道/そんなふたりのラブソング」(1986年)「そんなふたりの…」は夫人の信子とデュエット。5万5000枚を売り上げた。
  • 「男のララバイ」(1987年)
  • 「めぐり逢い」(1989年12月22日)
  • 「恋の広小路」(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
  • 「落涙」(1991年12月24日)
  • 「縁歌酒」(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
  • 「息子へ」(1993年1月8日)
  • 「夜明川」(1994年1月15日)
  • 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット
  • 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
  • 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
  • 「サムライ街道/男のララバイ」(2004年2月11日)
  • 「旅路のひと」
  • 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、キングレコード、2005年11月23日、KICC-556)
  • 『落合博満ゴールデン★ベスト』(EMIミュージックジャパン、2011年11月23日、TOCT-11284)

登場作品[編集]

  • 『あぶさん』(水島新司作)
  • 『ストッパー毒島』(ハロルド作石作)
  • 『ドカベン プロ野球編』(水島新司作)
  • 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』(漫画・アニメ、石ノ森章太郎原作) - 声・沢木郁也


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