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習志野市

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習志野市(ならしのし)は、千葉県の北西部に位置する市。

人口は約17.6万人で、千葉県内では八千代市に次いで第9位の人口規模である。旧千葉郡。1954年(昭和29年)市制施行。

概要[編集]

明治時代には軍都として栄え、津田沼駅周辺は津田沼戦争と称されるほど商業施設や学習塾の競争激化が相次ぐ関東有数の繁華街・文教都市となっている(ただし津田沼は船橋市にも属している地域も多い)。人口密度は非常に高く、松戸市に次ぎ県内では4位であり、これは千葉市で一番人口密度が高い稲毛区や船橋市を上回る。

東京都の都心から約20-30キロメートル圏内に位置し、都市雇用圏における東京都市圏(東京都区部・千葉市)のベッドタウンとしての性質が強く、高層マンションや住宅街が林立している。通勤率は、東京都特別区部へ32.7%・船橋市へ11.7%・千葉市へ10.5%(いずれも平成22年国勢調査)。

地理[編集]

千葉県北西部に位置し、東は県庁所在地である千葉市、西は中核都市の船橋市、北は八千代市に接し、南は東京湾奥部の千葉港第5区に面している。幕張新都心拡大地区に一部含まれる。

関東平野に含まれ、下総台地の端に位置する。内陸部から海岸部にかけて高低差が大きい。東京湾沿いには広大な遠浅の海岸を埋め立てた住宅地や商工業地が広がるなか、1か所だけ埋め立てられずに残ったラムサール条約登録地谷津干潟があり、干潟を必要とする渡り鳥の重要な中継飛来地となっている。

隣接している自治体・行政区[編集]

  • 千葉市
    • 美浜区
    • 花見川区
  • 船橋市
  • 八千代市
旧津田沼町時代
  • 幕張町(村) - 南部は現千葉市、北部は現習志野市
  • 二宮町(村) - 現船橋市
  • 大和田町(村) - 現八千代市

歴史[編集]

原始・古代・中世[編集]

千葉市の加曽利貝塚などにも見られるように千葉県の東京湾岸には多くの縄文時代の遺跡が存在する。習志野市周辺にも藤崎堀込貝塚などの当時の遺跡が多数確認されている。市内には鷺沼古墳群があり、鷺沼地区には有力な豪族がいたことが分かる。律令制下で下総国に属し、古東海道の浮嶋駅を習志野市内に比定する説もあるが詳しくは不明である。治承4年(1180年)、吾妻鏡には、石橋山の戦いに敗れ安房国に上陸した源頼朝が、軍勢を連れて北上して鎌倉に向かったときに陣を置いた館(やかた)の場所として、「鷺沼御旅館」の名前が見られる。現在、市役所がある鷺沼地区の八剱台や、八剣神社周辺、また、暗渠となっている菊田川の左岸が下総台地に迫る位置の大堀込が、中世の武士の城館である鷺沼城跡の候補地となっている。

近世[編集]

中世までは葛飾郡とされることもあったが、江戸時代初期に現市域内に分布した谷津、久々田、鷺沼、藤崎、実籾などの村々は千葉郡に属し、ほとんどが幕府領または旗本領となっていた。また、大久保新田が関西(おもに大阪府羽曳野市)からの移住者である市⻆頼母ら一族によって開発された。当時の資料には海岸部に谷津村や久々田村・鷺沼村などの地名が見られ、内陸の実籾村の北部には幕府によって小金牧が置かれた。藤崎村・大久保新田・実籾村には東金御成街道が通り、藤崎の名はその地を通った徳川家康が「藤咲」と名付けたと伝えられる。後に同地にある子安神社の祭神コノハナサク(咲)ヤヒメの名を憚って「咲」を「崎」に変えたという。また、屋敷台新田が馬加村(後に幕張)の一部となっていた。この海岸部の村々と内陸の台地の村々の二つの地域が、その後の習志野市の地理的な二大要素、すなわち後述の「津田沼」と「習志野原」を構成するようになるのである。

東京湾沿岸には海岸近くにまで下総台地が迫り、そこに三本の谷(谷津田)が刻まれている。ここに開けた水田の回りに開けた集落が最も西に位置する谷津、中央の久々田とその上流に位置する藤崎、東の鷺沼であった。



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