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秋葉原

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秋葉原(あきはばら)は、東京都千代田区の秋葉原駅周辺、主として東京都千代田区外神田・神田佐久間町および台東区秋葉原周辺を指す地域名である。

概要[編集]

第二次世界大戦後の日本において、秋葉原は闇市として発展した。その後、高度経済成長とともに多様な電子機器や部品(ハードウェア)およびソフトウェアを取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展した。その後、バブル崩壊や、大型家電量販店、ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で、電器店は主力商品をパソコンに移していく。これにより、パソコンを好むマニアが集中し、秋葉原は一転、オタクの街として変貌を遂げた。2004年の『電車男』により、オタクの街としてのイメージは全国的に定着し、世界的な観光地としても注目された。秋葉(あきば)・アキバAKIBAの略称で呼ばれる。2010年代以降はECサイトの普及と地価上昇などでオタク向けの小売店が軒並み閉店し、代わって大資本によるコンセプトカフェが進出した。また、2000年代に東京都が秋葉原地区開発計画(土地区画整理事業)による再開発事業「秋葉原クロスフィールド」を推し進めて秋葉原UDXや秋葉原ダイビル等の超高層ビルが建設され、一般的なオフィス街になりつつある。

一方、秋葉原駅の北西側一帯には、かつて神田青果市場(ヤッチャバ)があったため、近隣には現在でも海藻や穀類などを扱う商店が点在し、当時の名残を留めている。

地理[編集]

本項で扱う「秋葉原」の明確な定義はないが、東京都が策定した都心等拠点地区における「秋葉原地区」の範囲は、次の通りである。

  • 範囲
    秋葉原中央通り交差点(中央通り+神田明神通り)を中心に
    • 北端:蔵前橋通り
    • 東端:昭和通り
    • 南端:神田川
    • 西端:昌平橋通り
  • 含まれる行政地名
    • 外神田一丁目(そとかんだ)
    • 外神田三丁目
    • 外神田四丁目
    • 神田佐久間町一丁目(かんだ さくまちょう)
    • 神田花岡町(かんだ はなおかちょう)
    • 神田相生町(かんだ あいおいちょう)
    • 神田練塀町(かんだ ねりべいちょう)
    • 神田松永町(かんだ まつながちょう)
    • 秋葉原(あきはばら) - 台東区

秋葉原電気街とサブカルチャー関連の店舗は主に秋葉原駅周辺および中央通りの万世橋北詰から末広町駅のある外神田五丁目交差点までを中心に広がっている。

元々江戸の町人地であり、秋葉原電気街の外側は主にオフィス街だが、古くから建っている民家も見ることができる。鉄道各線の駅が近く、都心の一等地として地価・家賃ともに高価になる傾向がある。

昭和通りから東側の地域は、都心等拠点地区における秋葉原地区の範囲に含まれないが、神田佐久間町、神田平河町、神田佐久間河岸、神田和泉町、神田松永町、神田練塀町、東神田三丁目の各町会は「秋葉原東部町会連合会」を組織して各種行事に参加しているほか、神田祭では「秋葉原東部地区連合」として神輿宮入を行っている。

歴史[編集]

前史[編集]

現在の秋葉原に当たる地域は、徳川家康の江戸入府後、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の時代に神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに材木商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地には町民が代地として与えられるなどして町人地が拡大していった。

江戸時代、神田川に万世橋はなく、筋違橋(すじかいばし)と呼ばれる橋がやや上流に架かっており、街道はここから現在のコトブキヤ秋葉原館やAKIBAカルチャーズZONEのある道(現:特別区道千第678号)を通って、住友不動産秋葉原ビルに突き当たって右に折れ、中央通りに出るルートをとっていた。この道は徳川将軍家の寛永寺参詣道であったことから下谷御成街道と呼ばれた。総武本線ガードの名称である御成街道架道橋に名残を留める。

大火の度に代地町が細切りに与えられ、町の付け替えも頻繁に行われたため、幕末には50近くの微細な町が複雑に入り組み、かつ方々に飛地を有する複雑な町割となっていたが、明治の初めに武家地を合わせて20町近くに整理された。詳しくは外神田を参照。

「秋葉原」の誕生[編集]

1870年1月(明治2年12月)の大火を受けてできた火除地(空地)に、明治天皇の勅命で1870年(明治3年)10月に宮城(江戸城)内の紅葉山から鎮火三神を勧請して「鎮火社」が創建された。しかし、江戸の街では火防の神として神仏混淆の秋葉権現が広く信仰を集めていたことから、鎮火社についても秋葉権現が祀られているものと人々が誤解して「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、「秋葉原」の地名が誕生した。神田筋違見附(万世橋付近)やこの空地にはヒラキが立ち並び、今の講談や浪曲、かっぽれなどが口演をしていたり、時にはサーカス(チャリネ一座の公演)が開かれたりした。

当初、秋葉原はこの空地に相当する神田花岡町域のみを指していたが、秋葉原駅が開業し、旅客駅として利用されるにつれ、その指す範囲も拡大して現在に至る。

鎮火社は1888年(明治21年)に日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長されるのに伴って東京府下谷入町(台東区松が谷三丁目)に遷宮して、秋葉神社となった。

「台東区秋葉原」の地名は、1964年(昭和39年)10月1日の住居表示施行時に「台東区下谷松永町」と「台東区下谷練塀町」から変更されたものである。

電気街の形成[編集]

電気街の形成には、二つの要因があった。一つは終戦直後、近くに位置する電機工業専門学校(現・東京電機大学)の学生がアルバイトで始めたラジオの組み立て販売が大盛況となり、ラジオ部品を供給する電器関係の露天商が集中したことである。ところが1949年に、GHQが道路の拡幅整理のために露店撤廃令を施行したことで、闇市は危機に陥る。GHQの政策に対して露天商組合が陳情した結果、東京都と国鉄が秋葉原駅のガード下に代替地を提供するという措置がとられる。そして露天商がそこへ凝集されたことが秋葉原電気街の始まりとされる。もう一つの要因は、廣瀬無線電機などの小売業者や二次卸し店がが仕入れの目的で多く訪れたことである。その結果、秋葉原は安いという評判が広まり、交通の結節点ということもあって、一般客も集まるようになっていった。

その後は「三種の神器」に代表される戦後の家電ブームに後押しされ、1970年代には全国の家電市場の1割を1平方キロメートルに満たない領域で担う日本一の電気街に成長した。

電気街からオタクの街へ[編集]

1980年代末頃から、バブルの崩壊とともに台頭するコジマなどの家電量販店やディスカウントストアに秋葉原は家電市場を徐々に奪われていく。北関東地方を中心に北関東YKKの量販店大手三社が着々と増えていった。

家電市場の衰退とともに電器店は主力商品をパソコンに移していく。1990年に六階建てのビル全体をコンピュータ関連商品に充てた大型専門店ラオックス・ザ・コンピュータ館がオープンしたことが一つのターニングポイントとなった。以降、他の大型店もチェーン店を専門分化させ、これに伴い若い男性のパソコンマニアたちが家電を買いに来る家族連れに取って代わって秋葉原の中心的客層となった。

1995年から96年にかけて放映されたテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットが引き金となり、97年以降、海洋堂など多くのガレージキット店が秋葉原の一等地へ移転し、予想を超える売り上げをたたき出したことで、雪崩を打ったように同業の専門店が競って進出した。またAKB48の劇場も2005年に営業を開始し、アキバ系アイドルブームの嚆矢となった。

オタクの街から観光地・オフィス街へ[編集]

21世紀には区画整理により秋葉原駅を中心に多くの複合ビルが建設され、観光地やオフィス街に変化を遂げており、老若男女国外問わず訪れる街になった。秋葉原の一般化が進むにつれて、かつてオタクが通い詰めたアンダーグラウンドな店は軒並み閉店し、一般客や観光客向けのカジュアルな店が数多く並ぶようになっているが、同時期の地価上昇と東京都が推し進めたオフィス街化により、一般人が立ち寄れる店舗自体が減少している。ECサイトの普及で部品やグッズのために外出する必要が無くなったことも、秋葉原の小売店の減少に対してかなり大きく影響を与えている。

小規模営業店の集合体による、グレーゾーンでシステム化され切らない不完全さが様々な解釈の余地を残し、客にも深い知識を求められる反面アンダーグラウンドな魅力にも繋がっていた秋葉原において、大資本が経営する分かりやすく画一的な店(特に大手家電量販店やステレオタイプな萌えを提供するメイドカフェ等)が乱立し、小規模営業店が老朽化した施設の建て替えと物件価格の高騰などにより軒並み撤退してしまったため、もはや秋葉原は文化的に形骸化したと見る向きもある。

一方で、明治時代の秋葉原は青果市場の街であり、そこから時代に合わせた変遷を続けてきたことを考えると、ある意味では秋葉原らしい変化と捉えることも出来る。なお、日本農業新聞本社が秋葉原にあるのは、青果市場(神田青果市場)がかつて存在したことに由来する。

地名の読み方[編集]

明治初頭から火災が頻発したことから、火災鎮護の祈願所として秋葉神社が建立された。このことから「あきはっぱら/あきばっぱら(秋葉ツ原)」「あきはのはら/あきばのはら(秋葉ノ原/秋葉の原)」「あきはがはら/あきばがはら(秋葉ケ原/秋葉ガ原)」などと呼ばれ始め、呼称は統一されていなかった。書き方に関しては、漢字表記のカナ部分を小文字化したものや、読みは「あきばのはら」等だが書きは「秋葉原」とカナ部分を省略したものもある。

当地区の呼称が「あきはばら」として定着するのは、鉄道駅の開設以降とするのが定説である。後に地名の読み自体も「あきはばら」となる。なお、1890年(明治23年)に開業した時点では「秋葉原駅(あきはのはらえき、英語: Akihanohara Station)」であり、旅客は扱わない貨物専用駅だった。駅の呼称としては「あきはのはら」から「あきははら」に変化した後、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された。

現在は日常会話やメディア等で広く「あきば」という略称が使われ定着している。

なお、地名の由来とされる秋葉大権現発祥の地、静岡県浜松市天竜区春野町にある秋葉山本宮秋葉神社は「秋葉」を「あきは」と読む。

いずれにせよ、「あきはばら」が本来だという説も「あきばはら」が本来だという説も、どちらかのみが正しいという論旨を支える歴史的資料は無く、一方のみが正しいとまでは断定できない。

沿革[編集]

  • 1870年:明治天皇の勅命で、神田花岡町の火除地(現在のJR秋葉原駅構内)に「鎮火社」(通称・秋葉社)を創建。
  • 1888年:鎮火社が東京府下谷区入谷町(現:東京都台東区松が谷三丁目)に移転。山崎帝國堂がこの地で創業。
  • 1890年11月1日:日本鉄道の鉄道線(現在の東北本線)が上野から秋葉原まで延長。当初は旅客の扱いは無く、秋葉原貨物取扱所として駅の南を東西に流れる神田川から駅東側に堀割を引いて東北地方からの炭、米、籾をはじめとする水上貨物輸送への窓口となっていた。現在の秋葉原公園はその堀割跡である。
  • 明治中期から大正時代にかけ、秋葉原周辺は鉄道・都電など交通の便が良く、そのため特に卸売業が発達し、秋葉原駅近辺に青果市場も開かれた。
  • 1908年4月19日:中央本線昌平橋駅が開業。
  • 1912年4月1日:中央本線万世橋駅が開業。昌平橋駅廃止。
  • 1925年11月1日:秋葉原駅 - 神田駅間の開業に伴い、東北本線の起点を東京駅に変更。
  • 1928年:神田青果市場が神田多町から移転する。
  • 1932年7月1日:御茶ノ水駅 - 両国駅間が開業し、秋葉原は乗換駅となる。
  • 1936年:鉄道博物館(のちの交通博物館)が東京駅から万世橋駅の駅構内に移転する。
  • 1943年11月1日:万世橋駅が休止(事実上の廃止)。
  • 戦前から戦後にかけて:地下鉄(銀座線)・都電・国電と付近で多くの鉄道・軌道路線が立体交差をしていたことから、鉄道・交通に関する子供向け絵本に、未来都市の象徴として秋葉原が描かれることがあった。
  • 1948年11月:万世橋警察署が設置される。
  • 1949年:連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の「露店撤廃令」により、神田小川町から神田須田町界隈の闇市で当初電機学校(現在の東京電機大学)の学生のために販売していた真空管やラジオ部品など電子部品の店舗が総武本線ガード下に移転し、現在に至る電気街の始まりとなる。秋葉原駅の高架下に「秋葉原ラジオストアー」「秋葉原ラジオセンター」が開館。
    秋葉原でこの頃に創業した「ムセン」「無線」と名の付く店鋪は、当時ラジオ販売を主にしていたことからそのような語句を社名としたといわれる。ここでいう「無線」とは大抵ラジオを指し、無線機を扱わない店舗も多かった。無線機器やその部品を扱う商店はかつては巣鴨付近に多く、その名残で秋葉原で無線機や電子パーツを扱う会社には、巣鴨発祥のものが現在も存在する。
  • 1960年代:高度成長と連動する形で、テレビや洗濯機、冷蔵庫など家電製品の販売店が多くなり、大阪日本橋のでんでんタウンと並んで日本有数の電気街の地位を築く。
  • 1962年
    • 5月31日:営団地下鉄日比谷線秋葉原駅が開業。
    • 11月:秋葉原地区初の高層ビルとなる「秋葉原ラジオ会館電化ビル」が開業。
  • 1964年10月1日:台東区秋葉原の住居表示施行。
  • 1969年10月:万世橋警察署が庁舎を改築。
  • 1970年11月25日(6月30日とも):電子部品の小売として先駆けの秋月電子通商が秋葉原に店舗として正式に開店
  • 1970年代:マイコンやジャンクを取り扱う店が登場。ステレオ音楽機器がブームとなり音楽レコード(特に輸入盤)を取り扱う専門店が増加。この頃に外国人観光客向けの免税店も登場した。
  • 1970年代初頭:都電が撤去される。
  • 1973年:休日の中央通りにおける歩行者天国が始まる(雨天時は中止)。
  • 1975年2月1日:貨物取扱量減少に伴い、秋葉原駅の貨物営業が廃止。
  • 1979年:秋葉原電気街振興会が設立。
  • 1980年代:ファミコンの普及に伴って、各種コンピューターゲームソフトを扱う店が増え始め、ゲーム関連の専門店も登場する。音楽CDを取り扱う店舗が林立する。
  • 1980年:「秋葉原電気まつり」が始まる。
  • 1989年:神田青果市場が大田区へ移転(大田市場)。跡地は駐車場、駅前広場となる。駅前広場はバスケコートが設置されていたことでも知られる。
  • 1990年代:家電量販店間の競争の激化で家電の売り上げが減少。代わってパソコンおよび関連商品を扱う店が増える。
  • 1990年4月28日:国内最大級のパソコン専門店、ラオックス ザ・コンピュータ館(通称:ザコン)が開店。
  • 1993年 :山崎帝國堂が本社を中央区日本橋に、工場と研究所を千葉県柏市豊四季に移転。
  • 1993年頃:バブル崩壊による家電不況の影響で中堅家電量販店が相次いで廃業する。
    • 6月:ソフマップが中央通りに初出店。
    • 10月:シントク、ヒロセムセンが廃業。
  • 1994年頃:パソコンパーツ(いわゆる「自作PC」の部品)を扱う店舗が増え始める。この年に秋葉原におけるパソコン関係の売上が、パソコン関係を除く家電の売上を初めて上回る。
    • 6月 :ミナミ無線電機本店内に大型パソコン専門店・T・ZONE.ミナミ店が開店。
  • 1990年代後半:美少女やアニメを題材としたゲームソフトがPlayStationなど一般向け機種でも発売されるようになり、サブカルチャーが一般にも認知され幅広い層から支持を受けるようになる。
  • 1997年7月:秋葉原駅前広場を会場にコンピュータ関連展示会「インターネットショーin秋葉原」が開催される。以後2001年まで毎年開催され、1999年からは「AKIBAX」の愛称がつけられるなど、秋葉原の夏の一大イベントとなる。
  • 2000年頃:メーカー製コンピュータの販売と高級オーディオ機器販売店の規模が縮小し、代わってアニメ、ゲーム、音楽・映像ソフトなどを扱う店舗が増加する。
    • 12月:万世橋警察署が現在地に移転。
  • 2001年:喫茶店「東洋」が日本初の公衆無線LANサービス「ブロードバンドカレー」を開始。
  • 2001年7月31日:再開発のため電気街口北側の駅前広場が閉鎖される。
  • 2002年頃:アダルト関連グッズを扱う店舗も秋葉原駅電気街口周辺に進出する。
    • 5月31日:T-ZONE.本店(T・ZONE.ミナミ店より改称)が閉店。
    • 6月25日:安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(通称:千代田区環境保護条例)が制定。秋葉原のほぼ全域が路上禁煙地区に指定される。
    • 10月10日:T-ZONE.本店跡地に国内最大級のホビー店・アソビットシティが開店。
  • 2003年7月22日:日本通運本社が秋葉原から汐留へ移転。
  • 2004年
    • 4月11日:アソビットシティが閉店。
    • 8月14日:アソビットシティ跡にドン・キホーテ秋葉原店が開店。
  • 2005年頃:駅周辺の再開発やオタク文化の流行等の影響でマスコミもおたく文化ブームに注目し始め、秋葉原の大衆化が加速する。一方でこの頃より古くからの電気街周辺の店舗・施設の統廃合が相次ぐ。
    • 6月2日:JR秋葉原駅昭和通り口にアトレヴィ秋葉原が開業。
    • 8月24日 :首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス (TX) 秋葉原駅が開業。貨物駅跡地に車寄せや駅前広場が整備され、JR秋葉原駅に中央口改札が新設。
    • 9月16日:旧貨物駅隣接の運輸会社倉庫跡地にヨドバシカメラマルチメディアAkiba・タワーレコード秋葉原店が開店。
    • 10月22日:東京国際映画祭の併催企画として「秋葉原エンタまつり」が開催、以後毎年開催。
    • 12月8日:ドン・キホーテ秋葉原店8階のAKB48劇場で秋葉原発のアイドルユニットAKB48がデビュー。
  • 2006年
    • 3月9日:駅前広場・駐車場になっていた神田青果市場跡地に秋葉原クロスフィールドが開業。
    • 5月14日:交通博物館が70年の歴史に幕を下ろす。博物館は2007年、さいたま市に鉄道博物館と改称して移転開館。
    • 10月16日:都内で初めての区営有料トイレがJR秋葉原駅中央改札口前ロータリーに設置される。
    • 12月22日:駅前広場の閉鎖のため2002年以降休止していたAKIBAXが「AKIBAX2006」として復活開催。
    • 12月31日:JR秋葉原駅の駅ビルアキハバラデパートがビルの改装と耐震工事のため閉店。
  • 2007年
    • 9月20日:ラオックス ザ・コンピュータ館が閉店。
    • 10月:JAPAN国際コンテンツフェスティバルの一環として「Japan Animation Contents Meeting」「ASIAGRAPH」が開催。
  • 2008年
    • 4月17日:TX秋葉原阪急ビルが開業。入居する阪急系列のホテル「レム秋葉原」と商業施設アキバ・トリムも開業。
    • 6月8日:中央通りと神田明神通りの交差点で秋葉原通り魔事件が発生。これ以降、日曜日の午後に中央通りで実施されていた歩行者天国が中止。
  • 2009年6月4日:日本通運本社跡地に住友不動産秋葉原ビルが竣工。
  • 2010年
    • 1月26日:防犯カメラが外神田三丁目に設置され運用が始まる。その後増設し周辺の外神田一丁目などでも4月1日より運用開始。
    • 11月19日:JR秋葉原駅の耐震補強・改築工事が完了し、アキハバラデパート跡に新駅ビル「アトレ秋葉原1」が開業。同時にアトレヴィ秋葉原が「アトレ秋葉原2」に名称変更。
  • 2011年
    • 1月23日:中止されていた歩行者天国が6月26日までの試験という形で再開。休止前の時より実施区間の距離を短縮し、実施も日曜日のみになる。
    • 3月16日:3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響を受け、節電や混乱防止を理由に歩行者天国が休止(4月17日に再開)。
    • 7月1日:旧ラオックス ザ・コンピュータ館のビルがAKIBAカルチャーズZONEとして開業。
    • 8月4日:秋葉原ラジオ会館が老朽化に伴う建て替えのため一時閉館。
  • 2012年
    • 11月1日:エリアポータルが地上一般放送局の免許取得。
  • 2013年
    • 1月17日:旧交通博物館跡地にJR神田万世橋ビルが完成。
    • 3月7日:ソニーが地上一般放送局の免許取得。
    • 9月14日:旧万世橋駅遺構を利用した商業施設「マーチエキュート神田万世橋」が開業。
    • 11月30日:秋葉原ラジオストアーが閉館。
  • 2014年
    • 3月20日:東京ワンセグ放送が地上一般放送局の免許取得。
    • 7月20日:建て替えが完了した秋葉原ラジオ会館が再開業。
  • 2015年
    • 3月31日:ソニーが地上一般放送局を廃局。
  • 2016年
    • 1月8日:第1回「秋葉原映画祭2016」が開催、以後毎年開催。
    • 5月15日:2017年4月中旬完了予定でJR東日本秋葉原ビルの解体を開始。
  • 2019年
    • 3月19日:東京ワンセグ放送が地上一般放送局を廃局。
    • 10月7日:JR東日本秋葉原ビル跡地に「JR東日本ホテルメッツ 秋葉原」が開業。

地域[編集]

「世界有数の電気街」として有名。大須、日本橋とともに日本三大電気街として広く認識されている。さらには日本全国はもとより、世界各地から観光客が訪れ、まさに「世界有数」である。

だが「家電量販店がひしめき合っている」、「家電品が安く買える」という意味での電気街は、バブル崩壊後の不景気による節約志向や、郊外に店を構える大型量販店が台頭してきたこともあって1990年代から徐々に衰退の方向にあり、扱われる機器類・ソフトウェア類にも時代の変遷が色濃く現れている。

一般向けの量販店が通常取り扱わない電子部品を扱う販売店(その多くは終戦直後に神田須田町界隈の闇市で露天商として創業したが、GHQによる「露店撤廃令」で現在の地に移動した)は現在でも秋葉原駅近くの総武線ガード下や裏通りを中心として根強く生き残っており、「秋葉原電気街」の源流は今もなお命脈を保っている。これらの商店では他では得難い部品も多々流通している。

昭和中期はハイファイオーディオやアマチュア無線さらには音楽(特に輸入版ソフト)の愛好家、1980年代頃からはパソコンマニアが集まるマニアの街として知られた。衰退しつつあった秋葉原系の家電量販店に変わり、1990年代には当時普及しつつあったパソコン関連の店が増加していった。

1990年代後半にはそれらのPC・IT関連の店だけでなく、アニメ・ゲームマニア向けのソフトウェア(コンテンツ産業の商品を含む)を取り扱う店が増えてくる。最初のうちはアニメやゲームを好むのは一部の人間だけとされていたが、次第にオタク文化が広く大衆化した。秋葉原での家電販売が北関東YKKやビックカメラ・ヨドバシカメラに押されて1990年代以降不振になり、パソコンショップも通販シフトしていった一方で、好調に推移するコンテンツ産業の中心地として注目されていった。こういった文化や秋葉原に集う人々の総称として2000年代中頃に「アキバ系」という言葉も生まれた。

秋葉原という街全体がコンテンツ産業の商品を幅広く扱う街となってからは、マスコミに秋葉原の文化が頻繁に取り上げられるようになり、この頃より秋葉原電気街は「アキバ」として世界に広く知られる様になる。こと21世紀に入り日本のコンテンツ産業がインターネット経由で知られるようになると、日本以外の国の人々もアニメや漫画に興味を持ち秋葉原を訪れるようになった。

2005年のつくばエクスプレス開業とヨドバシカメラマルチメディアAkibaの開店は秋葉原の大衆化に拍車を掛けることとなったが、その一方で古くより秋葉原に地盤をもっている家電量販店は販売不振から、店舗の統廃合や撤退が相次いだ。同年には電気街口北側の駐車場跡(かつての神田市場の跡地)に秋葉原クロスフィールドの施設として、産学連携プロジェクトやオフィス機能などを持つ超高層ビルの秋葉原UDXや秋葉原ダイビル、超高層マンションのTOKYO TIMES TOWERも誕生し、ヨドバシカメラと並びそれまでの秋葉原のイメージとは大きく異なる存在感を放っている。この頃より路上での販売行為に対する監視が厳しくなった。それまで裏通りの路側帯の内側に陳列することで摘発されないという暗黙の了解が存在していたが(通称「白線ルール」)、2006年以降は警察より厳重に注意を受けるようになったため、出店者はビルの敷地内や駐車場を利用して出店するようになった。

2008年には東京都交通局が運行を開始した観光路線バス「東京→夢の下町」の経由地に秋葉原が含まれているなど、秋葉原は急速に観光地化した。休日の秋葉原は女性だけの集団や、カップルで歩いている姿も珍しくなくなり、カメラを手にした外国人観光客もあちらこちらで見ることができ、「秋葉原電気街」の変化は特に著しいものとなった。

電気街と山手線を挟んで反対側に位置する昭和通り側は住宅と大小さまざまな企業が密集したオフィス街となっており、平日には多くのサラリーマンやOLが歩いている。なお、用途地域は全域において商業地域である。

他方で秋葉原は電気街だけでなく、かつては青果市場の町としての側面もあった。1989年に大田市場に移転するまでは、秋葉原駅前に神田青果市場が存在し、神田市場向けに営業していた飲食店や青果店が多く軒を連ねていた。神田市場跡地は再開発で秋葉原クロスフィールドへと生まれ変わったが、当時から変わらず営業している一部の店舗が往時を偲ばせている。また、秋葉原駅には1970年代まで貨物駅があり、当時多くの運輸会社が秋葉原周辺に拠点を置いていた。日本通運が2003年まで秋葉原に本社を置いていたことや、日本農業新聞の本社が秋葉原にあることはその名残でもある。



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