福岡空港
福岡空港(ふくおかくうこう、英: Fukuoka Airport、IATA: FUK, ICAO: RJFF)は、福岡県福岡市博多区にある空港。空港法では第4条第1項第6号に該当する空港として政令で定める空港(国管理空港)に区分されている。2019年4月1日より、福岡国際空港株式会社の運営に移行している。
概要[編集]
福岡市街地から5km以内という至近距離に位置しており、アクセスの良い空港として知られる。1993年に福岡市地下鉄空港線が国内線ターミナル直下に乗り入れ、博多駅まで約5分、天神駅・西鉄福岡(天神)駅まで約11分で結んでいるほか、福岡都市高速のランプも至近に所在し、九州自動車道太宰府インターチェンジへの所要時間は15分から20分程度となっている。新幹線が発着する博多駅に近いため広域のアクセスがよく、九州北部から山口県に渡る広範囲から利用客を集めている。
旅客ターミナルビルは国内線ターミナルと国際線ターミナルに分かれている。国内線ターミナルビルは福岡県福岡市博多区大字下臼井778番地1、国際線ターミナルビルは福岡県福岡市博多区大字青木739番地に位置する。両ターミナルは無料シャトルバスで連絡している。
滑走路は、方位16/34、長さ2,800m×幅60mの1本で、両側とも計器着陸装置 (ILS) 装備となっている。滑走路16の使用(玄界灘側からの着陸、太宰府側への離陸)を優先とする「航空機騒音軽減運航(優先滑走路方式)」を採用している。滑走路34を使用する場合は、福岡市中心部の上空を低空で飛行する「視認進入(ビジュアル・アプローチ)」が行われることが多く、ILS進入は天候が悪い場合などに行われる。
滑走路1本による運用のため、滑走路1本あたりの離着陸回数が日本で最も多い。この為、2016年3月27日より国内5例目、滑走路1本の空港としては唯一の航空法107条3項に基づく混雑空港(IATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」)に指定されており、新規航空路線の開設が制限されている。
新千歳空港や那覇空港と共に大都市圏拠点空港に次ぐ主要拠点空港と位置づけられている。特に羽田-福岡線は羽田-新千歳線と並ぶ日本の国内線の二大巨頭であり、日本航空、全日本空輸、スカイマーク、スターフライヤーの4社が競合し、国内最多の便数を誇っている。伊丹や名古屋への便数も多く、これら地域へは東海道・山陽新幹線と競合している。そのほかに高速バス や新門司港発着のフェリー とも競合する。また、鹿児島線は2011年に全線開通した九州新幹線鹿児島ルートと、宮崎線は高速バスとの競合で、それぞれ便数を減らしている。因みに福岡-那覇線は羽田発着以外の国内線としては最多旅客数を誇る。
航空自衛隊 春日基地 板付地区(かすがきちいたづけちく)を併設している。また、敷地の14%が在日米軍基地であり、滑走路や誘導路、一部の駐機場が日米の共同使用区画(合計48.6ヘクタール) となり、外交官や米軍関係者の移動する際のターミナルとして活用されている。
2019年4月1日より、福岡エアポートホールディングスと三菱商事・西日本鉄道・九州電力・チャンギ・エアポート・インターナショナル等が出資する福岡国際空港による運営に移行した。
2020年3月26日より、空港内のヘリコプター離着陸機能を分離するため、福岡空港奈多地区(奈多ヘリポート)を新設。引き続き駐屯する航空自衛隊、北九州空港に移転した海上保安庁を除いて、関係機関が奈多ヘリポートに移設した。
利用者数[編集]
2017年度の年間利用客数は2397万9,222人(国内線1764万5,735人、国際633万3,487人)、着陸回数は8万9,261回で、いずれも日本の空港で第4位となっている。2018年度の路線別旅客輸送実績では、羽田~新千歳が最も多く約905万、二番目に羽田~福岡の約872万となっていてドル箱路線となっている。詳細は路線別旅客輸送実績を参照。 2015年8月には、21路線の国際線が就航。韓国、台湾、中国からの入国が増加し、2004年度に比べて旅客数が6割増加していた。
国内線統計[編集]
行き先 | 旅客数 | 国内線順位 |
---|---|---|
東京国際空港 | 約752万人 | 上位2位 |
那覇空港 | 約181万人 | 上位7位 |
成田国際空港 | 約140万人 | 上位10位 |
中部国際空港 | 約84万人 | 上位25位 |
新千歳空港 | 約66万人 | 上位39位 |
大阪国際空港 | 約59万人 | 上位42位 |
歴史[編集]
福岡空港は第二次世界大戦末期の1945年に旧日本陸軍により建設された板付飛行場(いたづけひこうじょう)から始まる。戦後はアメリカ軍に接収され、米軍板付基地として朝鮮戦争中は重要な軍事拠点となった。接収後すぐに日本側の一部使用が許可されたが、施設の大部分が返還されたのは1972年(昭和47年)である。
前史[編集]
- 1919年(大正8年) - 大刀洗陸軍飛行場が完成。
- 1930年(昭和5年) - 名島水上飛行場が開港。
- 1936年(昭和11年) - 福岡第一飛行場が開港。
- 1940年(昭和15年)- 福岡県糟屋郡新宮村(当時)、現在の福岡県糟屋郡新宮町緑ケ浜1丁目に、逓信省工務局により福岡航空無線標識局(AN方式レンジ・ビーコン (コース方位は185/005 と 079/259、319 kHz 1 kW、局符号: GK) が設置された。
板付飛行場・板付基地としての歴史[編集]
- 1944年(昭和19年)2月 - 帝国陸軍航空部隊の席田飛行場(むしろだひこうじょう)として建設を開始。当時249町歩の耕地が潰れ、314戸の農民の農地が収用された (第一次強制接収)。1945年4月に沖縄に上陸したアメリカ軍の偵察が主任務とされた。
- 1945年(昭和20年)
- 5月 - 2,215,000m2 の飛行場用地に600mの滑走路完成。
- 8月 - 太平洋戦争敗戦により、連合国軍の1国であるアメリカ軍が進駐。米軍の大型機が到着した際に、滑走路の強度不足で機体が沈み込む事態が発生した。
- 9月14日-10月9日、GHQは日本側の乗員と機材による終戦連絡事務による国内定期航空、いわゆる緑十字飛行を許可。東京-福岡など4路線を運航。
- 10月 - アメリカ軍が板付基地として接収。
- 10月21日 - GHQが東京、大阪、福岡、鹿児島のラジオ・ビーコン局の24時間運用を再開するよう指示。
- 11月21日 - 航空庁によって運用再開。時期不明ではあるが、1952年の時点では周波数が変更されており355 kHzで出力は600 Wであった。また、垂直方向へのマーカービーコン(Zマーカー)75 MHz 5W が追加された。AN方式のレンジ・ビーコンで限定的だが方位を識別できた。この無線標識を使って悪天候時に板付飛行場(当時)への進入が可能になった。更にGCAと組み合わせることで、悪天候下でも最終進入までが可能になった。
- 月次不詳 - 米軍機、二又瀬を経て九大農学部の松林に墜落、炎上。
- 1947年(昭和22年)5月 - 逓信省航空保安部の地方機関として板付支所が開設される。
- 1948年(昭和23年)3月17日 - 板付基地付近で女性1名が軍用機の標的吹き流しのロープに引っ掛けられ片足を切断。
- 1949年(昭和24年)
- 1月20日 - 須恵町で軍用機から誤射した銃弾が15歳少女の左肘関節を貫通、銃創を負わせる。
- 6月1日 - 電気通信省・航空保安庁の設置に伴って全国17箇所(板付を含)に航空保安事務所が開設され、逓信省航空保安部板付支所は福岡航空保安事務所となる。
- 12月 - 飛行場外道路通行中の中学2年生が飛行中の機体からジェット燃料を浴び引火、全身やけどで死亡。
- 1950年(昭和25年)
- 3月6日 - 筑紫郡筑紫村の民家裏庭にジェット軍用機が墜落、炎上。
- 6月 - 二又瀬より約400mの田に軍用機が墜落。
- 同年6月25日に勃発した朝鮮戦争により、日本国内の最前線の基地のひとつとしてアメリカ軍航空戦力の増強が行われる。
- 6月27日 - 同年25日に発生した朝鮮戦争において、板付基地を発進したF-82とF80Cが金浦上空でYak-7戦闘機4機とIl-10攻撃機4機を撃墜。板付基地が朝鮮戦争の最前線基地となる。
- 12月 - 航空保安庁、運輸省の外局として航空庁となり、福岡航空保安事務所となる。
- 1951年(昭和26年)
- 1月 - 朝鮮戦争勃発後、9町9反余、5月34町6反余と逐次拡大され、農地が収用された。東西1.5 km、南北3.5kmの広大な地域を占め、北の千歳、東の立川とともに日本最大の空軍基地となった (当時、沖縄は日本国内ではなかった)。キャンプ博多 (志賀島村)、ブラッディ補助飛行場 (雁ノ巣)、平尾銃撃場 (福岡市)、芦屋飛行場、高射砲陣地(芦屋)をつらねる一大基地群を形成。
- 2月3日 - 二又瀬より約200mの麦畑に軍用機が墜落。
- 4月 - 滑走路延長部分の拡充整備により米軍ジェット機の使用が可能となり、在日米空軍のF-86が配備される。ジェット軍用機の騒音問題のはじまり。米軍の最前線基地として多い時は1時間に4,50機のジェット機が市民の頭上を朝鮮めざして飛び立った。九州大学は離着陸経路の直下にあたり、1時間半に29回も講義が中断された記録が残る。滑走路34 (当時は33) 南側末端西側誘導路から南方向に延びた舗装路の先には舗装された空地が存在するが、ここには当時アラートハンガーが存在した。
- 5月5日 - 志免町の麦畑に軍用機から500ポンド爆弾が落下、爆発し大穴を空ける。
- 5月10日 - 二又瀬の民家にF86が墜落。5戸全焼。住民11名が死亡。
- 8月29日 - 日本航空のDC-3「金星」号(フィリピン航空からチャーター)が招待試験飛行を行い、6年ぶりで東京-大阪-福岡間を往復。
- 10月25日 - 日本航空、民間航空の航空路線(福岡 - 大阪 - 東京)が営業開始。第一便はもく星号。初便乗客36名。
- 11月 - 日本航空、福岡 - 大阪 - 東京線を1日1往復の正規ダイヤで運航開始。
- 1952年(昭和27年)
- 8月 - 航空保安庁、運輸省の内局として航空局となり、福岡航空保安事務所となる。
- 9月 - 福岡市城西橋電停付近の家屋に軍用機が墜落。1戸全焼、1名死亡。
- 12月3日 - 福岡市議会が「板付飛行場の軍事基地撤退並びに国際空港指定についての決議文」を議決。決議文の末尾には「なお本飛行場の名称につきましては、その所在地は那珂町字『板付』となんら関係なく、福岡市地域内でありますので『福岡飛行場』と改称されることを切望いたします」と記載された。
- 月次不詳 - 二又瀬から200mの畑で、軍用機の吹き流しが高圧線を切断。
- 1953年(昭和28年)
- 3月 - 在日米軍から日米合同委員会に対して、板付基地を補完する目的で博多湾を水上機の発着に使用したいとの申し入れ。市議会は直ちに反対意見書を日米合同委員会に提出。
- 月次不詳 - 日本人管制官が、タワー、GCA、ラプコンで勤務開始。
- 1954年(昭和29年)
- 1月 - 第二次強制接収を実施される。
- 3月 - 福岡市議会において沖縄線の福岡空港寄港を切望する決議「日本航空沖縄線の板付空港寄港についての決議」が議決された。を議決。九州と不可分にある沖縄諸島との緊密化を目的としたもの。
- 4月 - 極東航空(後の全日本空輸)、福岡 - 岩国線を運航開始。
- 11月 - 米軍の韓国引き上げに伴い、板付飛行場からの日本航空の引き上げを在日米軍側が非公式に要請。飛行場の民間利用が緊迫する。日本航空は他に適当な空港がないこと、地域経済が弱体化すること、地域の安全な生活が一層脅かされることが懸念された。
- 11月26日 - 極東米軍司令部の日本政府に対する板付基地日本航空使用取りやめ要請に対し、福岡市議会は使用存続並びに国際空港誘致を極東米軍に要請する決議を行った。
- 1955年(昭和30年)
- 6月 - 板付基地移転促進協議会が結成される。市議会、教育委員会、PTA、農協、九州大学、商工会議所など官民市民を巻き込んだ組織となる。
- 7月 - 板付基地周辺13ヶ所に高射砲陣地増設の協力要請が米極東空軍副司令官から市長に書簡。反対活動が活発化する。
- 月次不詳 - 1955年の資料での福岡周辺の無線標識: 板付 (388 kHz, QU)、芦屋 (1670 kHz, AH)、築城 (1540 kHz, TP)、BRADY (Brady Air base、雁ノ巣、1655 kHz, DG)、壱岐島 (1642 kHz、KA)、福岡 (355 kHz、FK、600 W)。このうち日本政府が運用しているものは福岡のみであり、他は駐留軍が運営しているもので、すべて無指向性。
- 1956年(昭和31年)
- 2月13日 - 日米合同委員会において、日本代表は板付米空軍基地における税関の設立を提議。
- 2月25日 - 米軍双発輸送機竹下西町に墜落3戸全焼、1戸半焼、1戸破壊。
- 3月 - 日米合同委員会施設委員会により、航空ターミナルとしての用地の譲渡、及び板付空軍基地の一部分の使用について許可がおりる。
- 9月 - 日本航空、福岡 - 那覇線を運航開始。当初、日本航空が羽田-沖縄線の中継地として板付寄港許可願を申請したが米極東空軍が不許可としたが、市民運動等の活動により許可されるに至ったとの記録あり。
- 11月14日 - 在日米空軍のF-100スーパーセイバー超音速戦闘機6機、板付到着。F100は原爆搭載可能機種であり原爆の持ち込みが疑われた。
- 月次不詳- 福岡ARTCC (Air Route Traffic Control Center)廃止。代わりに板付ラプコンが設置される。飛行場西側に新築。
- 月次不詳- 1956年度(昭和31年度)の1ヶ月平均の定期便発着回数は国内線が264、国際線(沖縄を含む)は18便。
- 1957年(昭和32年)
- 月次不詳 - 福岡市の各大学生らが決起大会を開いて「原爆搭載機F100持ち込み反対」を決議し、福岡市議会も「F100による爆音の激しさによって、防音装置をした学校でも勉強できなくなる」とF100反対を決議した。
- 2月26日 - C47輸送機とF100が空中接触して竹下西町の畑に墜落、付近の住宅2戸が全焼、1戸半焼。
- 4月 - 第三次強制接収が実施される。
- 8月1日 - この時点でのローカル線は、極東航空による鹿児島 (所要時間1時間20分)、宮崎(同1時間45分)、大分(同40分)便が各1日1往復、デ・ハビランド DH.104 ダブ (定員10名) を使用して運航が行われていた。運賃は、鉄道 (急行を利用) に比べて、約1.2から1.4倍であったが、鉄道の場合は大分まで約5時間、鹿児島まで約7時間、宮崎にいたっては10時間もかかっていた。
- 11月13日 - 米軍機が補助タンクを吉塚5丁目に落下させ家屋1戸全壊し主婦1名死亡。他に家屋2戸に被害。
- 1958年(昭和33年)
- 2月12日 - 度重なる事故による被害発生のため政府保証による、飛行場滑走路北側の二又瀬本町の集団移転が始まる。
- 5月20日 - 金隈にT33が不時着。農作物に被害。
- 6月 - 全日本空輸、福岡 - 大阪間の夜間郵便飛行開始。
- 12月21日 - F102A戦闘機到着。
- 1959年(昭和34年)
- 1959年度(昭和34年度)、日本航空は、東京-大阪-福岡間に一日2往復、東京-福岡間に一日1往復 (使用機材はDC-4) を就航させていた。
- 2月26日 - 名島の九電テニスコートと町工場に補助タンクと部品が落下。工場の屋根などに被害。
- 1959年(昭和35年)
- 4月12日 - 志賀町(現・福岡市東区)西戸崎沖合(博多湾)に輸送機が不時着。損害なし。
- 5月 - 大村空港の開港に伴い、福岡 - 大村線を全日本空輸が新設。
- 5月28日 - 老司上曰佐の民家など5ヶ所に補助タンクと部品が落下。家屋、農作物、電線に被害。
- 8月15日 - 全日本空輸の路線はこの時点で、宮崎 (1:50)、鹿児島 (1:55)、大村 (1:20) との間1日1往復 (使用機材はDHヘロン、括弧内は所要時間)、および大阪との間に1日6往復 (一部は岩国経由あり。また郵便貨物便を含む)。
- 8月19日 - 福岡市下月隈字水田887の6で輸送機噴射ガスにより家屋に被害。
- 1961年(昭和36年)
- 2月2日 - 日本航空が東京-大阪-沖縄線を便週2往復で運航開始。これに伴い、東京-大阪-福岡-沖縄線は週4往復から2往復に減便。
- 3月27日 - 福岡市本満尾(基地東側)でジェット輸送機噴射ガスにより自動車ガラス破損。負傷1名。
- 4月1日 - 全日本空輸が福岡-岩国、福岡-宮崎、福岡-鹿児島、福岡-大村間の路線を定期路線として運航を開始。
- 4月5日 - 筑紫郡大野町字中村でジェット軍用機から補助タンクと模擬弾が落下し農作物に被害。
- 8月 - 当時の民間国内幹線は東京-大阪-福岡が日本航空により3往復/日が運航されていた(使用機材はDC-4)。
- 8月15日 - 離陸中のF102が飛行場北端で炎上。
- 9月14日 - 志賀島の船だまり西側防波堤にF100が墜落。排砂管や電線に被害。
- 10月 - 日本航空のジェット機 (コンベア880) が板付へ初乗り入れ。
- 12月7日 - 香椎堀川町にF100ジェット機墜落。民家家屋3戸全焼、1戸半焼。母子4名死亡。
- 12月15日 - 別府団地に米海軍双発対潜哨戒機からソナー(潜水艦探索筒)が落下。
- 1962年(昭和37年)
- 2月25日 - 軍用機の衝撃音により、九大医学部耳鼻咽喉科の窓ガラス百数十枚が破損。
- 7月25日 - 国鉄吉塚駅構内に模擬爆弾が落下。
- 8月 - 当時の民間航空幹線は、東京-大阪-福岡が日本航空により6往復/日が運航されていた(DC-4 での5往復とDC-6Bでの1往復)、東京-福岡が日本航空により3往復/日が運航されていた(DC-4 での1往復とDC-6Bでの1往復とCV-880での1往復)。
- 1963年(昭和38年)
- 1月18日 - 離陸直後のF100がコースをはずれ、空港ターミナル前のエプロンに墜落、爆発。負傷1名。事務所等に被害。
- 5月12日 - 在日米空軍がF-105を配備。沖縄から14機到着。この頃、常駐米軍機数が最大となる。1945年(昭和20年)から1963年(昭和38年)までに、板付基地およびその周辺で発生した米軍機による墜落及び炎上事故 30件、不時着 10件、ヘリコプター無人機墜落不時着 3件、模擬爆弾落下 11件、補助タンク落下 11件、機関銃弾及びロケット弾誤射落下 6件、死亡 19名、負傷 14名などおびただしい数の事故が発生。
- 12月31日 - 米第5空軍司令官により空軍の再編成が発表される。板付基地は予備基地となり、常駐機の多くが横田に移駐する計画を発表する。F-105D 3個中隊 50機、F-100戦闘機 20機、合計70機の引き揚げを翌1964年(昭和39年)春から実施し、夏までに終わる予定とされた。
- 月次不詳 - 福岡地区管制所の開始を機に全日本人管制官が現場から撤退。
- 月次不詳 - 1963年度(昭和38年度)の1ヶ月平均の定期便発着回数は国内線が763、国際線(沖縄を含む)は37便。
- 月次不詳 - 設置時期不明だが、1963年(昭和38年)時点で ILS が設置されていた。
- 1964年(昭和39年)
- 1月30日 - 在日米空軍はF-105の撤退を発表。10月以降は米軍機の常駐しない基地となることが確認された。常駐機はいなくなるものの日米合同演習その他不定期に米軍機の飛来は続いた。実際にはその後も348戦闘支援隊が有事駐留した。
- 2月29日 - F100ジェット戦闘機18機板付基地から撤退。
- 月次不詳 - この頃の駐留米軍機は100機を越えていた (F105 60機、F102 20機、F100 20機、T33 3機 T39 2機)。
- 1965年(昭和40年)
- 3月 - 日本国内航空が乗り入れる。3月1日、日本国内航空はCV880M「銀座」号による東京-札幌、東京-福岡線ジェット便を開始。
- 8月3日 - 沖縄基地からC130など35機が台風避難のため一斉に飛来。8月6日、福岡市議会は「B52、C130その他米軍用機の板付基地の一方的使用に反対する決議案」を議決した。B52の飛来は事前予告されたが実際には飛来しなかったが、35機は台風避難を理由に、事前協議なしに飛来した。
- 8月5日 - 政府は日米合同委員会で米代表からキャセイ・パシフィック航空、大韓航空両社の板付飛行場使用の同意をうけ、17日の閣議で正式に決定された。これまでの日本航空の沖縄便に加えて、国際路線が拡充されることになった。
- 9月1日 - 大韓航空の一番機が乗り入れ。
- 9月2日 - キャセイ・パシフィック航空の一番機が乗り入れ。
- 月次不詳 - 東京線にジェット旅客機就航。
- 1966年(昭和41年)
- 3月 - 西日本空輸共同使用許可がおりる。
- 3月5日 - 福岡空港事務所福岡管制所 (1966年5月20日の運輸省設置法により福岡航空交通管制部となる)が、福岡市和白町奈多へ移転。それまで板付飛行場西側にあった米軍ラプコン内に同居し、米軍が行っていた北九州および中国地方の一部エンルート業務が1961年(昭和36年)9月から委任されていた。
- 1967年(昭和42年)
- 9月2日 - 日本航空、国際線の福岡 - 釜山線を運航開始。日本航空国際線の最短路線となった。当初はDC-6Bを使用し、1969年(昭和44年)4月1日以降は日本国内航空からウェット・チャーターしたYS-11A使用し、大阪-福岡-釜山線とした。その後、DC-8 等が用いられた。。
- 10月 - 運輸省の地方支分部局として大阪航空局が設置され、その下部機関として福岡空港事務所となる。
- 月次不詳 - この頃、航法援助施設として ILS、レーダー進入施設 (ASR)、無線着陸誘導施設 (GCA)、無線着陸誘導施設 (DF、方向探知機)、無指向性無線標識 (NDB、ホーマービーコン)が設置されていた。また、鉄道施設として国鉄鹿児島本線竹下駅から分岐した鉄道側線が2400mにわたり引き込まれ、燃料・弾薬などの物資搬入に用いられた。1948年(昭和23年)4月の段階で建設中であることが確認できる 半道橋2丁目南側にある第三号東光寺緑地から学校法人沖学園に至る湾曲した道路はその経緯からである。
- 1968年(昭和43年)1月 - プエブロ号事件が発生し、朝鮮半島情勢の緊張が高まり、沖縄の嘉手納基地からF-4十数機が移駐する。それまで348戦闘支援隊の20機程度の駐留機だったのが、米軍のF4Cファントム戦闘爆撃機、A3スカイウォリアー艦上攻撃機、RB66デストロイヤー爆撃機、C130ハーキュリーズ輸送機、航空自衛隊のT33練習機やRB57F高空偵察機が駐留するようになる。米軍のベン・マトリック大佐が「国際情勢が緊迫したら、板付基地から一日約40便の民間機を閉め出すことがありうる」と言明。返還前の板付飛行場の状況を如実に表している。1968年6月2日の九州大学電算センターファントム墜落事故はこの直後に発生した事故である。
- 1969年(昭和44年)
- 4月 - 第1旅客ターミナルビル供用開始。日本初のパッセンジャー・ボーディング・ブリッジを備えた。
- 4月22日 - 板付基地常駐の第165迎撃偵察中隊RF-101が米本国に向けて撤退。離陸中の1機が炎上する事故が発生。
- 5月10日 - 板付基地常駐の第165迎撃偵察中隊E-B66が沖縄に移動。米軍の常駐機がなくなる。
- 1970年(昭和45年)12月21日 - 日米安全保障協議委員会おいて米軍管理の飛行場の整理統合計画が承認され、板付飛行場の返還、運輸省への移管が決まる。
- 1971年(昭和46年)
- 2月 - 福岡航空交通管制部(ACC)の2名の管制官が、管制業務引継の先遣隊として福岡空港事務所に勤務開始。
- 5月1日 - 福岡空港事務所総務課に管制業務移管等準備室を設置。米軍管制官と共に慣熟訓練を行う。
- 6月15日 - 「玄海アライバル」が発効。ノン・レーダー管制方式を用いた日本人管制官のみでの管制が始まる。ノンレーダーの理由は脚注参照。板付飛行場の返還が予想外に早かったことが窺われる。
- 7月1日 - 午前零時、米軍からの管制業務の移管完了。空港西側にあった米軍の施設をそのまま用いて管制業務を行った。米軍は、管制塔外部に掲示されていた ITAZUKE TOWER のプレートを持ち帰り、National Museum of the US Air Forceで保管、展示。米軍撤退に伴いTACANが撤去されたため、航空機は距離測定ができなくなった (福岡VORTACの供用開始は1973年7月)。
- 11月 - 国・福岡県・福岡市と周辺団体の間で「福岡空港用地に関する覚書」を締結。
- 12月 - フリーナー調査団報告書が提出され、「福岡空港における高速脱出誘導路建設を急ぐべき」、「福岡のターミナルレーダー機器は新しい機器と交換すべき。現在の機器は少なくとも20年前のもので有用性はもう無くなっている」、「管制塔をできるだけ早く更新すべきである」との指摘がなされた。
福岡空港としての歴史[編集]
- 1972年(昭和47年)
- 4月1日 - アメリカ空軍より大部分が返還され、「第二種空港」として供用を開始。レディオ・コールサインが「イタヅケ」 (例: イタヅケ・タワー、イタヅケ・アプローチ)から「フクオカ」に変更。第二種空港としては初の航空機騒音防止対策法上の特定飛行場に指定され、22:00-07:00 を避けた定期便のダイヤ設定が行政指導の形で行われた。消防の責任も日本側に移管。移管時点での機材は米国側から借用した化学消防車など3台。人員は課長と係長の2名だけ。当分は空港ビル関係者のみで編成する自衛消防隊が担当する状況であった。1970年(昭和45年)4月、米国側は「現在の消防力では、乗客100名以上の大型機の事故には対処できない」と日本側に通告していた。
- 4月 - 航空機騒音防止法による「特定飛行場」に指定。
- 6月 - 国・福岡県・福岡市と周辺団体の間で騒音対策等に関する協定書締結。
- 8月 - 米軍の残したレンジ40NMのCPN18-C型レーダーを使用した(ターミナル)レーダー管制業務の正式運用を日中の12.5時間に限定して開始。管制官総数は36名。
- 月次不詳 - 1972年における1日平均の取り扱い機数は171機。内軍用機は6%。内ジェット機49%、プロペラ機46%、ヘリコプター4%。
- 1973年(昭和48年)7月 - 空港東側に新設された管制塔で管制業務を開始。ASR/SSRのレンジは50NM。管制官総数44名。敷地内にあった板付TACANを廃止し、旧雁ノ巣飛行場跡地にあった福岡VORTAC運用開始。
- 1974年(昭和49年)4月 - 第2旅客ターミナルビル供用開始。
- 1975年(昭和50年) - エア・サイアム(バンコク - ロサンゼルス、当空港初の長距離国際線)とエールフランス(パリ - 東京、地方空港初の欧州便)が寄港するが、両社とも2年ほどで撤退。
- 1976年(昭和51年)
- 3月 - 第1次騒音訴訟(住民368名)(21:00-7:00使用禁止、慰謝料)提訴。
- 6月 - 航空機騒音防止法による「周辺整備空港」に指定。
- 7月 - 福岡空港周辺整備機構設立。
- 10月 - 第2次騒音訴訟(住民96名)提訴。
- 1978年(昭和53年)
- 10月 - ターミナル・レーダー管制業務が24時間体勢となる。タワー、アプローチとあわせてすべて24時間運用となる。
- 月次不詳- 1978年(昭和53年)における1日平均の取り扱い機数は204機。
- 1981年(昭和56年)
- 4月 - 国際線旅客ターミナルビル(のちの第3ターミナルビル)供用開始。
- 4月17日 - 午前3時40分頃、空港西側にあるレーダー・サイト内の空港監視レーダー (ASR: Airport Surveillance Radar) 室のレーダー送受信機付近から出火し約1時間後に消し止められた。室内は半焼し予備機あわせて二組とも使用不能になった。17日からノン・レーダー管制方式による管制を実施。復旧までに数ヶ月を要する見込み (記事による)。鉄筋コンクリート平屋建て240m2のうちASRの機器が入っている一室50m2を焼いた。この火事でASRが使えなくなったほか、隣の部屋のトランスミッターサイトもススを被り送信機も使用できなくなった。送信機だけは同空港に予備施設があったため、無線通話対空通信は使用でき、離着陸の誘導に支障はなかった。
- 1982年(昭和57年)
- 3月 - 福岡管区気象台福岡空港気象レーダーが完成。6月11日から正式運用開始。100kmの擾乱度(乱気流)を含む降水エコーデータを監視。
- 8月 - ARTS-J 試験運用開始。レンジは60NM。
- 1983年(昭和58年)1月 - ARTS-J 正式運用開始。管制官総数は60名。
- 1984年(昭和59年)1月 - 1984年における1日平均の取り扱い機数は205機。軍用機の割合は7.9%。
- 1987年(昭和62年)6月1日 - コンチネンタル・ミクロネシア航空の一番機がグアムから乗り入れ。
- 1988年(昭和63年)3月28日 - シンガポール航空の一番機がシンガポールから乗り入れ。
- 1989年(平成元年)
- 12月16日 - 中国国際航空(CCA)981便 (北京発上海経由ニューヨーク行き) が上海に向けて飛行中にハイジャックされ、壱岐上空経由で福岡空港滑走路34に着陸。福岡空港への着陸要求は残存燃料を考慮した機長の判断による。乗務員によりハイジャック犯は機内から放り出された。
- 月次不詳 - 1989年における1日平均の取り扱い機数は261機。管制官総数は昭和63年の56名から59名に増加。
- 1993年(平成5年)
- 3月 - 福岡市営地下鉄が乗り入れ。
- 9月 - 新第2ターミナルビル供用開始(現第2ターミナルビル)。
- 1994年(平成6年)1月 - 騒音訴訟の最高裁判決(飛行禁止は却下、慰謝料1.4億円(一部は2審で確定))。
- 1995年(平成7年)9月 - 国内貨物ビル供用開始。
- 1997年(平成9年)
- 2月 - ARTS-E (ターミナルレーダー情報処理システム)運用開始。覆域60NM。
- 月次不詳 - 1997年における1日平均の取り扱い機数は362機。2月、新管制塔へ管制業務の運用が移行される。
- 1999年(平成11年)5月 - 新国際線旅客ターミナルビル、国際貨物ビル供用開始。旧国際線旅客ターミナルビルを第3ターミナルビルに改称。
- 2000年(平成12年)7月 - 旧国際線ターミナルを国内線ターミナルとして供用開始。
- 2003年(平成15年)1月 - 東側平行誘導路の直線化完了、供用開始。
- 2004年(平成16年)1月 - 滑走路34のILS運用開始。
- 2005年(平成17年)4月 - 誘導路(E-10)の直線化、バイパス誘導路(E-11)の供用開始。
- 2008年(平成20年)6月18日 - 空港法改正により、4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港に区分される。
- 2012年(平成24年)- 滑走路増設に係る環境アセスメント手続きに着手。平行誘導路二重化事業に着手。
- 2015年(平成27年)6月 - 2019年(平成31年)3月完成を目標として、国内線第1ターミナルビル全体および第2ターミナルビル一部の撤去と、第2ターミナルビル残部および第3ターミナル全体を全面改修し、地上5階、地下2階の新国内線旅客ターミナルビルを建設する全面改修工事を開始。
- 2016年(平成28年)
- 3月27日 - 航空法の混雑空港に指定される。
- 10月4日 - 国内線第1ターミナルビルが閉館。翌日より、第2ターミナルビルおよび第3ターミナルビルを国内線旅客ターミナルビルに改称。
- 2019年(平成31年)4月1日 - 滑走路等の空港運営事業を民営化。
- 2020年(令和2年)
- 3月26日 - 福岡空港奈多地区(奈多ヘリポート)運用開始。
- 3月31日 - 第7管区海上保安本部福岡航空基地廃止。所属機等は北九州航空基地に移転。国内線ターミナル地区の平行誘導路の全面的に二重化運用開始。9番、10番搭乗ゲート運用開始。
- 2022年(令和4年)
- 5月 - 国際線旅客ビル施設の増改築着工
- 2024年(令和6年)
- 10月 - 福岡空港事務所新庁舎、新管制塔竣工予定。
- 2029年
- 2029年度、福岡高速3号線(空港線)延伸開通予定。
施設[編集]
旅客ターミナルビル[編集]
旅客ターミナルビルは、国内線と国際線の2棟あり、福岡国際空港株式会社(2019年1月31日までは株式会社福岡空港ビルディング)が運営している。国内線ターミナルは滑走路の東側、国際線ターミナルは滑走路の西側に位置し、両地区間には約10分間隔で無料のシャトルバスが運行されている。なお、地下鉄駅は国内線ターミナル南側地下にあり、アクセスホールの上下移動だけでチェックインカウンターと連絡している。
2016年10月4日までは国内線第1、第2、第3および国際線の4棟で運用されていた。2016年から2020年にかけて国内線地区の再整備が行われ、第2と第3ターミナルを一体化し、一部を増築する工事が行われた。第1ターミナルは解体されエプロンの拡張用地となった。
国内線ターミナルビル[編集]
- 供用開始 : 2020年1月
- 構造 : 地上5階 地下2階 ボーディング・ブリッジ12基
- 延床面積 : 128,000平方メートル
国際線ターミナルビル[編集]
- 供用開始 : 1999年5月
- 構造 : 地上4階 ボーディング・ブリッジ6基
- 延床面積 : 69,000平方メートル
旧ターミナル(国内線)の概要[編集]
第1ターミナルビル
- 供用開始 : 1969年4月
- 供用終了 : 2016年10月4日
- 構造 : 地下1階、地上3階(一部4階)
- 延床面積 : 19,000平方メートル
第2ターミナルビル
- 供用開始 : 1974年4月
- 構造 : 地下1階、地上5階
- 延床面積 : 60,000平方メートル
第3ターミナルビル
- 供用開始 : 1981年4月
- 構造 : 地上3階(一部4階)
- 延床面積 : 30,000平方メートル
ターミナルビル内施設[編集]
- 福岡銀行福岡空港支店(国内線地下1階)、国際線ターミナル出張所 外貨両替/ATMコーナー(国際線1階・3階)(※以下「ターミナルビル」省略)
- 西日本シティ銀行福岡空港支店(国内線地下1階)
- セブン銀行ATM(国際線1階・国内線1階到着口北 到着口南 2階に1台づつ)
- ゆうちょ銀行ATM(国内線地下1階 2階に1台づつ)
- コンビニエンスストア
- セブン-イレブン - 国内線北と国際線1階に各1店舗
- ローソン - 国内線地下2階
- 福岡空港商事直営 - 3店舗
- 航空会社ラウンジ、クレジットカード会員向け空港ラウンジ
- 飲食店舗 - 国内線3階・4階に多数展開している。店舗詳細は [2] 参照。2020年全館完成を目指している。
- ビアガーデン(夏季のみ) - 旧第2ターミナルの展望デッキを利用し、夏季の夜にはビアガーデンが開催されていたが、国内線ターミナルビル改修工事に伴い2016年9月16日の営業終了後、国内線ターミナルビル改修工事完了する迄の間休業。
- 医療機関 - 内科・胃腸科、歯科および薬局がある。
- 国土交通省大阪航空局福岡空港事務所
- 国土交通省九州地方整備局博多港湾・空港整備事務所福岡空港出張所が国際線地区にある。
- 出入国在留管理庁福岡出入国在留管理局 - 福岡空港出張所(国際線地区)、警備部門(国内線地区)
- 気象庁福岡航空地方気象台
- 福岡県警察福岡空港警察署(国内線ターミナル北・横)
なお、福岡空港内にあった郵便局は、約500m離れた博多大井郵便局(福岡空港内郵便局留め郵便物の引き渡しのみ博多北郵便局)が業務を承継した事により、2016年3月4日で廃止された。
ラーメン滑走路[編集]
ラーメン滑走路は2017年11月21日(火曜)に、福岡空港の国内線ターミナルビル「greenblue(グリーンブルー)」3Fにオープンしたラーメンのフードテーマパークである。オープン時、ラーメン店を含む9店舗とスイーツ店1店舗が出店した。
- 屋台ラーメン 玉龍
- つじ田
- 博多一幸舎
- ラーメン 凪
- まんかい
- 弟子屈(てしかが)ラーメン
- ラーメン海鳴
- 博多焦がし味噌専門 五行
- ワンタンメンの満月
- 茶寮 伊藤園