石原慎太郎
石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郞、1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の作家、政治家。位階は正三位。
東京都知事(第14代 - 17代)、運輸大臣兼新東京国際空港問題担当大臣(竹下内閣)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、衆議院議員(9期)、参議院議員(1期)、日本維新の会代表、同党共同代表、太陽の党共同代表、次世代の党最高顧問などを歴任。
概要[編集]
一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。
1968年に参議院議員に当選、政治家に転ずる。福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。1995年4月に衆議院議員を辞職。
1999年東京都知事選挙に立候補し当選。2003年東京都知事選挙、2007年東京都知事選挙、2011年東京都知事選挙で再選し4選した。石原都政では新銀行東京、首都大学東京の設立、外形標準課税の導入、ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施した。2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。
来歴[編集]
父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。
公認会計士になるために一橋大学に入学したものの向かないことを自覚し、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。
石原君が西原君だったかもう一人の学生とやって来て、その雑誌が出来たのだが、金が足りなくて印刷所から引きとれないと言って、七千円だったか八千円だったかの金がほしいと言った。そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。
この同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。
作家として[編集]
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。
詳細は「太陽の季節」を参照
その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。
戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、劇団四季は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した。1965年、日生劇場で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者のジャニーズが歌う同名の主題歌の作詞も手掛けた。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた。
1970年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟・裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。
創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。
俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。
評価[編集]
- 田原総一朗・水道橋博士・豊崎由美・栗原裕一郎などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。
- 1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
- 1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した。
- 文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した。
- 季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで集英社の文芸誌『すばる』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている。
国会議員時代[編集]
1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた。
1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会は石原のために動員をかけた。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した。7月7日投票。史上最高の301万票を獲得し初当選した。
1972年9月29日、田中角栄と周恩来は日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。1973年、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。
1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請。この要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿ではなく、石原を応援した。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った。
1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。
1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流。1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。
1989年、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
東京都知事時代[編集]
議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。
2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。
衆議院議員復帰後[編集]
国会質疑[編集]
衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。
同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会・衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。
憲法[編集]
都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。
脳梗塞発症[編集]
議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。
経済・財政[編集]
- アベノミクスに関して
- 2013年2月12日、石原慎太郎は衆院予算委員会において「何としてもアベノミクスを成功させて欲しい」と応援する発言をした。
国家の会計制度[編集]
- 2013年2月12日、衆院予算委員会において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に、都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った。
維新の会分党、次世代の党結党へ[編集]
日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。
さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。
2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。
7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、党最高顧問に就任した。2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。
2015年春の叙勲で旭日大綬章を受章。
政界引退後[編集]
豊洲市場移転裁可の住民訴訟と百条委員会[編集]
最晩年[編集]
2021年10月、病院で膵臓がんの再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている。
亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。
死去[編集]
2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。
死因は公表されていないが、死去当日に長男の石原伸晃は会見で「膵臓がんを患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている。2014年に出版した『私の海』(幻冬舎)には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた。葬儀・告別式が2月5日、大田区の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」、先祖代々が眠る逗子市の海宝院に納骨されると報じられた。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。
「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という遺言に従い、4月17日に海上散骨式が神奈川県三浦郡葉山町の名島沖で行われ、石原伸晃のYouTube公式chでも動画配信された。6月9日午前10時より、元首相・安倍晋三(その後翌月8日に銃撃死)、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサⅡ世」のセイルが飾られた。
6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。
2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。
略年譜[編集]
- 1932年
- 9月30日 - 兵庫県神戸市須磨区にて海運会社山下汽船に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県喜多郡長浜町(現:大洲市)に生まれ、旧制宇和島中学(現在の県立宇和島東高校)を中退し山下汽船に入社した。店童あがりだったにもかかわらず最後は関連会社の重役にまで出世した。母・光子は広島県厳島の出身。なお石原自身は神奈川県を出身地としている。
- 1934年
- 12月28日 - 弟・裕次郎が生まれる。
- 1936年
- 6月 - 父の転勤に伴い、北海道小樽市に転居。小樽に来て間もなくマリア幼稚園(現小樽藤幼稚園)に入園。
- 1939年
- - 稲穂小学校に入る。
- 1943年
- 2月 - 父の転勤に伴い、神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
- 1945年
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(現:神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1946年
- 東京裁判を二度傍聴する。
- 1948年
- 立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間休学。休学中は文学・美術・演劇・音楽・映画に耽溺し、フランス語を学習。
- 1951年
- 10月 - 父・潔が脳溢血で急死。山下近海汽船社長二神範蔵から一橋大への進学と、当時できたばかりの公認会計士の取得を強くすすめられる。
- 1952年
- 4月 - 一橋大学法学部に入学。柔道部、サッカー部に入部する。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する。
- 1954年
- 学内同人誌『一橋文芸』の復刊に尽力する。
- 12月 - 処女作『灰色の教室』を同人誌に発表(復刊第1号)、文芸評論家の浅見淵に評価される。
- 1955年
- 12月 - 当時17歳だった石田由美子(後に石原典子と改名)と結婚。『太陽の季節』が『文學界』に掲載され、第1回文學界新人賞を受賞。東宝の入社試験に合格し、助監督としての内定を得る。
- 1956年
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が強姦・不純異性交遊などを行う反社会的内容から映画を見た青少年への影響が取りざたされ、映画倫理委員会(通称、映倫)が作られる契機となった。
- 1月 - 『太陽の季節』により第34回芥川賞を当時史上最年少で受賞、ベストセラーとなる。一橋大学法学部を卒業。東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行する。
- 1957年
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年
- - 東宝で映画『若い獣』の監督を務める。また、大江健三郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対。
- 1960年
- - 隊長として、南米横断1万キロ・ラリーにラビットスクーターで参加。
- 1962年
- 1月15日 - 二男・良純が誕生。
- 1963年
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年
- 8月22日 - 四男・延啓が誕生。
- 1967年
- - 読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
- 1968年
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙で初当選。
- 1969年
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1970年
- 書き下ろし長編『化石の森』を発表。第21回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
- 1972年
- 11月25日 - 参議院議員を辞職。
- 12月10日 - 衆議院選挙に旧東京2区から無所属で立候補して当選。後に自民党に復党。
- 1973年(昭和48年)
- 7月 - 「青嵐会」を結成。
- 1975年(昭和50年)
- 3月18日 - 衆議院議員を辞職。
- 4月13日 - 東京都知事選挙に自民党推薦で立候補。233万票を得票するも落選。
- 1976年(昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰。同月24日発足の福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
- 1981年(昭和56年)
- - 弟・裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年
- - 自由民主党の派閥、自由革新同友会を継いで代表就任、後に清和会へ合流。黒シール事件で社会的非難を浴びる。
- 1987年
- 7月17日 - 弟・裕次郎が肝細胞がんで死去(52歳)。
- 11月6日 - 竹下内閣で運輸大臣に就任。
- 1989年
- 8月8日 - 自民党総裁選挙に出馬、海部俊樹に敗れる。
- 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
- 1995年
- 4月14日 - 議員辞職。
- 1996年
- 7月 - 弟・裕次郎をテーマに『弟』を発表。数か月後ミリオンセラーとなる。
- 1999年
- 4月11日 - 1999年東京都知事選挙に立候補。立候補表明の記者会見での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」という挨拶が話題を呼ぶ。鳩山邦夫、舛添要一、明石康、柿澤弘治ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。当選後の会見では「都庁で会おうぜ」という発言が話題を呼ぶ。
- 2003年
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に立候補。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。
- 2004年
- 11月17日 - 21日 - 『弟』テレビドラマ化。
- 2007年
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に立候補。投票の過半数に当たる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。選対本部長は佐々淳行が担った。
- 2010年
- 4月10日 たちあがれ日本の応援団長に就任する。
- 2011年
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断して、立候補する。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選(得票率は43.4%)。
- 2012年
- 10月25日 - 15時から都庁にて緊急記者会見を行い「本日をもって(東京都知事を)辞任し、新党を結成する」と表明。会見後に都議会議長に辞表を提出した。
- 10月31日 - 午後から開催された臨時会で、都知事辞職が同意される。
- 11月13日 - たちあがれ日本を改称する形で太陽の党を結党。共同代表に就任する。
- 11月17日 - 太陽の党が日本維新の会に合流。代表に就任。
- 12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックで当選。衆議院議員として、17年ぶりに国政に復帰。
- 2014年
- 8月1日 - 日本維新の会から分党した新党次世代の党を設立し最高顧問に就任。
- 12月14日 - 体力不安もあり第47回衆議院議員総選挙前の引退を示唆するが、党員に引き止められ比例単独での立候補を決断し落選。比例順位は石原の希望により最下位に当たる9位だった。
- 12月16日 - 政界引退を表明。
- 2015年
- 4月29日 - 春の叙勲で旭日大綬章受章。
- 2017年
- 3月20日 - 豊洲市場移転問題に関して都議会百条委員会にて証人喚問を受ける(#政界引退後を参照)。
- 2022年
- 2月1日 - 死去。戒名は「海陽院文政慎栄居士」。同日付をもって正三位に叙された。
選挙歴[編集]
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位/候補者数 | 政党内比例順位/政党当選者数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
当 | 第8回参議院議員通常選挙 | 1968年7月7日 | 35 | 全国区 | 自由民主党 | 301万2552票 | 6.99% | 51 | 1/93 | /21 |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 40 | 旧東京2区 | 無所属 | 11万8671票 | 22.3% | 5 | 1/9 | / |
落 | 1975年東京都知事選挙 | 1975年4月13日 | 42 | ―― | 無所属 | 233万6359票 | 43.87% | 1 | 2/16 | / |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 44 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 11万1112票 | 21.9% | 5 | 1/10 | / |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 47 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 7万1238票 | 17.3% | 5 | 3/10 | / |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 47 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 16万2780票 | 32.8% | 5 | 1/6 | / |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 51 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 9万6386票 | 21.0% | 5 | 1/9 | / |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 53 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 10万1240票 | 20.9% | 5 | 1/6 | / |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 57 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 11万9743票 | 22.6% | 5 | 1/11 | / |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 60 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 9万2259票 | 19.0% | 5 | 1/10 | / |
当 | 1999年東京都知事選挙 | 1999年4月11日 | 66 | ―― | 無所属 | 166万4558票 | 30.47% | 1 | 1/19 | / |
当 | 2003年東京都知事選挙 | 2003年4月13日 | 70 | ―― | 無所属 | 308万7190票 | 70.21% | 1 | 1/5 | / |
当 | 2007年東京都知事選挙 | 2007年4月8日 | 74 | ―― | 無所属 | 281万1486票 | 51.06% | 1 | 1/14 | / |
当 | 2011年東京都知事選挙 | 2011年4月10日 | 78 | ―― | 無所属 | 261万5120票 | 43.40% | 1 | 1/11 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 80 | 比例東京 | 日本維新の会 | 17 | / | 1/3 | ||
落 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 82 | 比例東京 | 次世代の党 | 17 | / | 9/0 |
映画出演[編集]
映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『日蝕の夏』、『婚約指輪』、1957年の『危険な英雄』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『異聞猿飛佐助』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『青木ヶ原』では都知事役で出演した。
1972年には裕次郎主演映画、『影狩り』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった。
家族・親族[編集]
石原家[編集]
- (愛媛県松山市・八幡浜市・大洲市、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市、東京都)
- 家系
- 慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、広島への大旅行で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という。
- 石原家は潔(慎太郎の父)の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった(理由は不明)。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った。石原家再興の当主となった1862年(文久2年)生まれの信直と、1867年(慶応3年)生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた。長男の石原克己、長女の壽万(すま)、二男の石原静夫、三男の潔、二女の美壽(みす)、四男の石原真砂(まさご)の6人である。信直の職業は警察官だった。潔は愛媛県長浜町(現:大洲市)に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした。
- 石原本家の菩提寺は八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である。
- 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄(らくはく)した士族です。先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。弓の名人だったらしく、戦(いくさ)で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが(笑)、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った」と述べている。
- AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね。カッコいいんだ。武田の武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ。武田軍団って、戦強かったでしょ。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ。つまり死ぬだろうと……。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で酒飲み続けて、仕事で死んでいった。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね(笑)」と述べている。
- 祖父・石原信直(警察官)
- 1862年(文久2年)生 - 1922年(大正11年)没
- 服部信義の二男として生まれ石原家に入った。
- 祖母・ササヨ
- 1867年(慶応3年)生 - 没
- 父・潔(山下汽船社員、幹部)
- 1899年(明治32年)12月生 - 1951年(昭和26年)10月没
- 生い立ち
- 愛媛県八幡浜に隣接する長浜という港町に生まれた。警察官石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた。1922年(大正11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという。
- 山下汽船へ
- 1913年(大正2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現:県立宇和島東高校)に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を中退している。中退の理由は分からない。1914年(大正3年)、山下汽船に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった。潔の山下汽船入社時の身分は店童(てんどう)だった。
- 慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです。家は落魄(らくはく)する一方だったようですからね」という。
- 店童(てんどう)として入社してから5年目台湾赴任時代の1919年(大正8年)12月正式の社員となった。
- 1942年(昭和17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった。慎太郎が10歳のときだった。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは2ヵ月にも満たなかった。同年2月15日には本社の部長、東京支店副支店長の辞令が出て、足かけ8年過ごした小樽を後にした。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)取締役に転出となり、山下汽船の方は嘱託(部長待遇)扱いとなった。
- 店童(てんどう)上がりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。
- 人柄
- 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという
- 先妻は元大同海運社長崎山好春の妻の姪に当たる。
- 佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々と上がった。その評価の中に仕事に関するものはほとんどなく、酒や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである」という。
- 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし…(笑)」という。
- 晩年
- 晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという。
- 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、高血圧のせいもあって、舌がもつれてお経を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という。
- 母・光子(加藤三之助の娘)
- 1909年(明治42年)9月生 - 1992年(平成4年)6月没。
- 生い立ち
- 2002年(平成14年)2月24日にテレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介している。
- 厳島での生活
- 加藤家は厳島神社の参道で土産物屋を開いた。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない。光子は大正末期か昭和の初め頃に厳島を出ていった。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、継母との折り合いが悪かったからだろう」という。
- 神戸での生活、結婚
- 厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は三宮にあって、貿易商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、従姉妹にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな」という。
- 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった。慎太郎は、潔と光子の見合いは芦屋に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、と言った。
- 1927年(昭和2年)3月に神戸市立第二高等女学校(現:神戸市立須磨高校)を卒業した。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した。
- 弟・裕次郎(俳優、歌手)
- 1934年(昭和9年)12月生 - 1987年(昭和62年)7月没。
- 同妻・まき子(元女優)
- 子どもはない
- 妻・典子(石田光治の娘)
- 1938年(昭和13年)1月生 - 2022年(令和4年)3月8日没。
- 典子の父親石田光治は落下傘の紐などを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町(現:西区己斐)で生まれた。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年(昭和13年)秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した。
- 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという。
- 結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)。それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ(笑)」と述べている。
- 夫の死を追うような形で、慎太郎死去の約1か月後の2022年3月8日、84歳で死去した。
- 長男・伸晃(政治家)
- 1957年(昭和32年)4月生 -
- 同妻・里紗(元女優・タレント)
- 二男・良純(俳優・タレント、気象予報士)
- 1962年(昭和37年)1月生 -
- 三男・宏高(銀行員、政治家)
- 1964年(昭和39年)6月生 -
- 四男・延啓(画家)
- 1966年(昭和41年)8月生 -
- 末弟(あるいは従兄弟)
- 1940年(昭和15年)3月生 -
- 最初、潔の戸籍に入っていたが、のち他家に養子縁組した。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂(まさご)であるという。なおこの男性の"父"という真砂(まさご)と"母"という女性の間に正式の婚姻関係はない。この男性が養子縁組した祖母の家と、山下亀三郎の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚に当たる。
- 異母兄(小河姓)
- 父・潔が先妻との間にもうけた子。
- 潔の姉壽万(すま)夫婦に子供がなかったため養子に行った。1952年(昭和27年)、神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した。
- 伯母・壽万(すま、教員)
- 父・潔の姉、異母兄(小河姓)の養母。
- 慎太郎によれば「壽万(すま)さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という。
- 慎太郎の異母兄(小河姓)によれば「(壽万(すま)の夫は)一時獣医をやっていましたが、すぐにやめて明石市の市役所の公吏になりました。仕事は税務関係です。養母も明石小学校の教員をやっとったから、生活的には困ったことはありません」という。
- 伯父・石原克己、石原静夫
- 父・潔の兄。
- 1944年(昭和19年)から敗戦までは、本家である克己の石原家は八幡浜から今治に疎開していた。
- 叔父・石原真砂 (まさご)
- 1939年(昭和14年)没
- 父・潔の弟。
- 叔母・美壽(みす)
- 父・潔の妹。
著書[編集]
長編小説[編集]
- 『亀裂』文藝春秋新社 1958.1 のち角川文庫、新潮文庫、講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス
- 『海の地図』中央公論社 1958.12 のち角川文庫、講談社ロマン・ブックス
- 『月蝕』角川書店 1959.1 のち文庫
- 『夜を探がせ』光文社 1959.2 のちカッパ・ノベルス、角川文庫
- 『青年の樹(一・二)』角川書店 1959.12(一)1960.5(二) のち文庫、講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス
- 『挑戦』新潮社 1960.8 のち文庫
- 『青い糧』講談社 1961.3 のちロマン・ブックス
- 『汚れた夜』新潮社 1961.8 のち光文社カッパ・ノベルス、講談社ロマン・ブックス、集英社文庫、文春ネスコ
- 『断崖』新潮社 1962.5 のち光文社カッパ・ノベルス
- 『雲に向かって起つ(一・二)』集英社 1962.5(一)1962.10(二) のちコンパクト・ブックス
- 『青年の樹』の続編。
- 『禁断』角川書店 1962.6 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、文庫
- 『日本零年』文藝春秋新社 1963.6 のち角川文庫
- 『てっぺん野郎 (星雲編・昇竜編)』集英社 1963.12(星雲編)1964.2(昇竜編) のちコンパクト・ブックス
- 『銀色の牙』講談社 1964.4 のちロマン・ブックス、角川文庫
- 『行為と死』河出書房新社 1964.5 のち新潮文庫、講談社ロマン・ブックス『太陽の季節・行為と死』、集英社コンパクト・ブックス(スエズ動乱)
- 講談社ロマン・ブックス――併録:「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」
- 『終幕』集英社 1964.7 のちコンパクト・ブックス、講談社ロマン・ブックス、文庫
- 『青春とはなんだ』講談社 1965.2 のちロマン・ブックス、角川文庫
- 『星と舵』河出書房新社 1965.4 のち新潮文庫
- 『命の森』読売新聞社 1965.4 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫
- 『砂の花』新潮社 1965.5 のち講談社ロマン・ブックス
- 『おゝい、雲!』サンケイ新聞出版局 1965.5 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫『おゝい雲』、サンケイノベルス
- 『人魚と野郎』集英社 1965.5 のちコンパクト・ブックス、講談社ロマン・ブックス、角川文庫
- 『青い殺人者』集英社 1966.10 のちコンパクト・ブックス、文庫
- 『黒い環』河出書房新社 1967.2 のち講談社ロマン・ブックス
- 『怒りの像』サンケイ新聞出版局 1968.6 のちサンケイノベルス、講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫
- 『野蛮人のネクタイ』読売新聞社 1968.7 のち集英社コンパクト・ブックス、集英社文庫
- 『化石の森(上・下)』新潮社 1970.9(上)1970.10(下) のち文庫
- 『野蛮人の大学』集英社 1971.3 のちコンパクト・ブックス、文庫
- 『野蛮人のネクタイ』の続編。
- 『刃鋼(上・下)』文藝春秋 1976.3 のち角川文庫
- 『暗闇の声』光文社 1977.2
- 『嫌悪の狙撃者』中央公論社 1978.9 のち文庫(少年ライフル魔事件)
- 『亡国―日本の突然の死―(上・下)』角川書店 1982.7 のち文庫『日本の突然の死―亡国』
- 『秘祭』新潮社 1984.1 のち文庫(アカマタ・クロマタ)
- 『暗殺の壁画』河出書房新社 1984.7 のち幻冬舎文庫(ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺事件)
- 『生還』新潮社 1988.9 のち文庫
- 併録:「院内」「孤島」
- 『肉体の天使』新潮社 1996.4
- 『弟』幻冬舎 1996.7 のち文庫(石原裕次郎)
- 『僕は結婚しない』文藝春秋 2001.9 のち文庫
- 『火の島』文藝春秋 2008.11 のち幻冬舎文庫
- 『再生』文藝春秋 2010.9
- 『フォアビート・ノスタルジー』文藝春秋 2015.8
- 『天才』幻冬舎 2016.1 のち文庫(田中角栄)
- 『救急病院』幻冬舎 2017.2 のち文庫
- 『凶獣』幻冬舎 2017.9(附属池田小事件)
- 『湘南夫人』講談社 2019.9 のち文庫
- 『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』幻冬舎 2021.5 のち文庫『ある漢の生涯 安藤昇伝』
未刊行長編小説[編集]
- 「若い蝶」週刊女性 1957.3.17~4.7(掲載誌休刊により、連載4回で中絶)
- 「女の劇場」女性自身 1959.10.21~1960.1.27
- 「闇から来る」週刊サンケイ 1961.5.15~6.19
- 「栄光の略奪」宝石 1967.10~1970.5
- 「巨聖女」小説宝石 1971.1~1972.2(小谷喜美)
連作短編小説[編集]
- 『死の博物誌―小さき闘い―』新潮社 1963.12
- 収録:「通りすぎたもの」「雨の夜に」「屍体」「試合」「人間たち」「腕」「小さき闘い」
- 『光より速きわれら』新潮社 1976.1(土方巽)
- 収録:「甘い毒」「天体」「饗宴」「舞踏」
- 『大いなる手との黙約』文藝春秋 1976.10
- 収録:「悪夢」「追いつめられて」「喪われた海」「少年の魂」「二人だけ」「選手」「ある航海」「僧」「山の声」「私には約束がある」(※各話間に「取り調べの途中で検事との会話」が挿入される)
- 『死の博物誌―小さき闘い―』の続編。
- 『わが人生の時の時』新潮社 1990.2 のち文庫
- 収録:「漂流」「まだらの紐」「同じ男」「テニスコートで」「落雷」「レギュラー」「ひとだま」「窒素酔い」「彼らとの出会い」「奇跡」「キールオーバー」「水中天井桟敷」「冬のハーバーで」「ナビゲーション」「死神」「慶良間のマンタ」「危険な夏」「ケーター島の鮫檻」「落水」「生死の川」「光」「鮫と老人」「ライター」「鬼火」「路上の仏」「若い夫婦」「戦争にいきそこなった子供たち」「骨折」「人生の時を味わいすぎた男」「南島のモロコ」「チリの娼館」「私は信じるが」「新島の人食い鮫」「南の海で」「鉄路の上で」「父の死んだ日」「みえない世界」「崖の上の家」「冷たい湖で」「虹」
- 『風についての記憶』集英社 1994.4 のち幻冬舎文庫
- 収録:「風の使徒たち」「風の罠」「風についての記憶」
- 『わが人生の時の会話』集英社 1995.9 のち幻冬舎文庫
- 収録:「ニュー・ヘレン河のほとりで」「シャーク・ポイントにて」「大投手」「人を殺すということ」「小網代カップで」「鮫に関するマッチョ」「鳥人の遺言」「バーカウンターで」「これは夢だ」「水中会話」「あなたは誰なんです」「交番の中で」「荒天のキャビンで」「いたずら」「ニクソン」「深夜のウオッチで」「零戦会会長」「男の美徳」「手打ち式」「活動屋無頼」「見えぬものとの会話」「極めて短い会話」「革命の挫折」「還らなかった少年」「鷹の心情」「串刺しにされた男」「オトコ岩のガーラ」「死にいく者との会話」「アラスカでの出会い」「失われなかった男」「鮫についての考察」「アトリエにて」「ナビゲイター会議で」「暗礁発見」「知覧という町で」「離島の医者」「ある行為者の死」「コスタリカの桟橋で」「最後の会話」
短編小説[編集]
- 『太陽の季節』新潮社 1956.3
- 収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「奪われぬもの」「処刑の部屋」
- 『理由なき復讐』三笠書房 1956.4
- 収録:「ヨットと少年」「理由なき復讐」「失われた女」「取り返せぬもの」「黒い水」「日蝕の夏」
- 『狂った果実』新潮社 1956.7
- 収録:「狂った果実」「決勝戦」「舞扇」「婚約指輪」「悪い夢」
- 『北壁』三笠書房 1956.7
- 収録:「北壁」「透きとおった時間」「決勝戦」「黒い水」「奪われぬもの」「青い舷燈」
- 『日蝕の夏』三笠書房 1956.8
- 収録:「日蝕の夏」「ヨットと少年」「失われた女」「取り返せぬもの」「理由なき復讐」
- 『若い獣』新潮社 1957.2
- 収録:「空港にて」「透きとおった時間」「青い舷燈」「傷痕」「恋の戯れ」「男だけ」「若い獣」「旅の果て」
- 『太陽の季節』新潮社(新潮文庫) 1957.8
- 収録:「太陽の季節」「灰色の教室」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「黒い水」
- 『完全な遊戯』新潮社 1958.3
- 収録:「谷川」「白い翼の男」「蟷螂の庭」「それだけの世界」「完全な遊戯」「霧の夜(戯曲)」
- 『太陽の季節・若い獣』角川書店(角川文庫) 1958.3
- 収録:「北壁」「透きとおった時間」「奪われぬもの」「若い獣」「それだけの世界」「ヨットと少年」「太陽の季節」
- 『男の掟』角川書店 1959.7
- 収録:「怒りの果実」「不死鳥」「ギンザ・ファンタジア」「接吻泥棒」「遊戯の終点」「男の掟」
- 『乾いた花』文藝春秋新社 1959.11
- 収録:「乾いた花」「それだけの世界」「鱶女」「夜の道」「顔のない男」「太陽の餌」
- 『完全な遊戯』角川書店(角川文庫) 1959.11
- 収録:「完全な遊戯」「処刑の部屋」「灰色の教室」「男だけ」「谷川」
- 『殺人教室』新潮社 1959.12
- 収録:「ファンキー・ジャンプ」「ともだち」「殺人教室」「殺人キッド」「男たち」
- 『見知らぬ顔』新潮社 1960.9
- 収録:「見知らぬ顔」「黒い声」「題名のないバラード」「誰」「神立ち船」
- 『死んでいく男の肖像』角川書店 1960.9
- 収録:「死んでいく男の肖像」「吹きっさらし」「声」「失われた道標」
- 『完全な遊戯』新潮社(新潮文庫) 1960.10
- 収録:「完全な遊戯」「若い獣」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「狂った果実(03年新装版のみ)」
- 『殺人教室』角川書店(角川文庫) 1962.4
- 収録:「ファンキー・ジャンプ」「ともだち」「殺人教室」「男たち」「乾いた花」「鱶女」「太陽の餌」
- 『密航』新潮社 1963.5 のち講談社ロマン・ブックス
- 収録:「密航」「明日に船出を」「鴨」「閉ざされた部屋」「朝の微笑」
- 『傷のある羽根』文藝春秋新社 1964.8
- 収録:「傷のある羽根」「喪われた街」「雲の上にいた」「狼の王子」
- 『還らぬ海』講談社 1966.1 のちロマン・ブックス
- 収録:「貧しい海」「還らぬ海」「獅子の倒れた夜」「白い小さな焔」「灰波」
- 『飛べ、狼』講談社 1966.4 のちロマン・ブックス
- 収録:「飛べ、狼」「虚無と貞節」「鉛の部屋」「悪い娘」「リキとタクとルリ」
- 『野性の庭』河出書房新社 1967.11
- 収録:「野性の庭」「水際の塑像」「天使たちの革命」「待伏せ」
- 『鎖のついた椅子』新潮社 1969.6
- 収録:「鎖のついた椅子」「L・S・D」「一点鐘」「沈黙」「神異」
- 『北壁』(山岳名著シリーズ)二見書房 1971.10
- 収録:「北壁」「谷川」「それだけの世界」「失われた道標」
- 『機密報告』学藝書林 1973.11
- 収録:「機密報告」「大計画」「聖衣(ローブ)」「鼓斬り」「盲目の天使」「死に神と殺し屋」「神の鎖」「フィッシングボートの日記」
- 『狂った果実』角川書店(角川文庫) 1980.5
- 収録:「冷たい顔」「日蝕の夏」「失われた女」「理由なき復讐」「婚約指輪」「狂った果実」「恋の戯れ」
- 『遭難者』新潮社 1992.9
- 収録:「遭難者」「公人」「ある行為者の回想」「パティという娼婦」「きょうだい」
- 『聖餐』幻冬舎 1999.7 のち文庫
- 収録:「聖餐」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「沢より還る」「海にはすべて」
- 『太陽の季節』幻冬舎 2002.8
- 収録:「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」「ファンキー・ジャンプ」「乾いた花」
- 『生死刻々』文藝春秋 2009.11
- 収録:「青木ヶ原」「わが人生の時の生と死」「ブラックリング」「生死刻々」「生き残りの水兵」
- 「わが人生の時の生と死」は連作短編小説。
- 収録:「ライオンと若い女」「キジムナーは必ず来る」「高射機関砲陣地にて」「不思議な旅」「死にいく者たち」「ブラックアウト」「カロリンの島々にて」「エベレスト」「傭兵になった男」「斎場にて」「再会」「幻覚」
- 「生死刻々」は連作短編小説。
- 収録:「おみくじ」「サイパン」「海の獣」「海での出会い」「男の功徳」「異郷にて」
- 「わが人生の時の生と死」は連作短編小説。
- 収録:「青木ヶ原」「わが人生の時の生と死」「ブラックリング」「生死刻々」「生き残りの水兵」
- 『やや暴力的に』文藝春秋 2014.6
- 収録:「青木ヶ原(完全版)」「やや暴力的に」「僕らは仲が良かった」「夢々々」「世の中おかしいよ」「うちのひい祖父さん」
- 「やや暴力的に」は連作短編小説。
- 収録:「救急病院にて」「計画」「リングの下で」「一途の横道」「隔絶」
- 「夢々々」は連作短編小説。
- 収録:「夢(その一)」「夢(その二)」「夢(その三)」「夢(その四)」「夢(その五)」「夢(その六)」「夢(その七)」
- 「やや暴力的に」は連作短編小説。
- 収録:「青木ヶ原(完全版)」「やや暴力的に」「僕らは仲が良かった」「夢々々」「世の中おかしいよ」「うちのひい祖父さん」
- 『海の家族』文藝春秋 2016.7
- 収録:「ワイルドライフ」「海の家族」「ある失踪」「ヤマトタケル伝説」「特攻隊巡礼」
- 『死者との対話』文藝春秋 2020.5
- 収録:「暴力計画」「―ある奇妙な小説―老惨」「死者との対話」「いつ死なせますか」「噂の八話」「死線を超えて」「ハーバーの桟橋での会話」
- 「噂の八話」は連作短編小説。
- 収録:「横浜の男」「僧」「海軍さん」「生き仏」「悪夢」「喋り過ぎた男」「私には約束がある」「鮫の噂」
- 「噂の八話」は連作短編小説。
- 収録:「暴力計画」「―ある奇妙な小説―老惨」「死者との対話」「いつ死なせますか」「噂の八話」「死線を超えて」「ハーバーの桟橋での会話」
- 『宿命(リベンジ)』幻冬舎 2021.10 のち文庫
- 収録:「宿命(リベンジ)」「流氷の町」
- 『絶筆』文藝春秋 2022.11
- 収録:「遠い夢」「空中の恋人」「北へ」「愛の迷路」「ある結婚」「死への道程(随筆)」
未刊行短編小説[編集]
- 「栄光を白き腕に」小説新潮 1958.1
- 「ファンキーな出逢い」〈恋のもざいく①〉女性自身 1960.9.28
- 「最後の接吻 チャオ・ダンジュウロウ」〈恋のもざいく②〉女性自身 1960.10.5
- 「海は許す」〈恋のもざいく③〉女性自身 1960.10.12
- 「ある別れ」〈恋のもざいく④〉女性自身 1960.10.19
- 「紅い祭礼」小説新潮 1961.1
- 「花火」小説新潮 1961.8
- 「青い島白い波」別册文藝春秋 1962.9
- 「顔のない女」別册文藝春秋 1962.12
- 「弔鐘」オール讀物 1963.6
- 「裸の踊り子」オール讀物 1963.12
- 「歴史の外で」オール讀物 1964.7
- 「暴力」小説現代 1964.12
- 「聖書」オール讀物 1964.12
- 「錆色の塔」小説新潮 1965.5
- 「天使よ、俺を起してくれ」オール讀物 1965.11
- 「癌対策 革命の童話」オール讀物 1966.1
- 「白い肖像」婦人公論 1966.9~10
- 「失踪者」別册文藝春秋 1966.12
- 「救済」文學界 1973.7
- 「視つめている眼」別册文藝春秋 1975.6
- 「ボストンの夜」文藝 1981.8
戯曲[編集]
- 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』新潮社 1963.3
- 収録:「狼生きろ豚は死ね」「幻影の城」
- 『信長記』河出書房新社 1972.2
- 収録:「信長記 殺意と憧憬」「若き獅子たちの伝説」
未刊行戯曲[編集]
- 「名前を刻まぬ墓場」文學界 1962.11
- 「琴魂 一谷物語」文學界 1963.12
詩集[編集]
- 『風の神との黙約』北洋社 1975.10
- 収録:「青い海溝」(全23編)「存在の心象」(全11編)
詩画集[編集]
- 『にぎやかな森』(詩:山口洋子 画:石原慎太郎)書肆ユリイカ 1958.6
- 『十代のエスキース』成瀬書房 1991.3
絵本[編集]
『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)白泉社 1990.7
文芸批評[編集]
- 『三島由紀夫の日蝕』新潮社 1991.3
- 収録:「三島由紀夫の日蝕」「新人の季節」「七年後の対話」「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」
- 後者3編は三島との対談。
- 収録:「三島由紀夫の日蝕」「新人の季節」「七年後の対話」「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」
紀行文・航海記[編集]
- 『南米横断1万キロ』講談社 1960.7
- 1959年12月に一橋大学自動車部の隊長として参加した南米横断スクーター旅行記。
- 『大いなる海へ』集英社 1965.7 のち海洋文庫
- 1963年度トランスパックレース(太平洋横断ヨットレース)参加記。
- 『エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録』(共著:三浦雄一郎、日本エベレストスキー探検隊)文藝春秋 1970.12
- 『男の海』集英社 1973.9
- 『伯爵夫人(コンテッサ)物語 ヨットを愛する歓び』集英社 1976.6
- 『一点鐘』集英社 1979.6
- 『禁断の島へ』(写真:加納典明、大津善彦)集英社 1992.3
- 北マリアナ諸島、グレートバリアリーフ、カロリン群島、ヘレン環礁への、ダイビングを中心としたクルージング旅行記。
- 写真集の装丁だが、全体のおよそ半分が文章で埋められている。
- 『私の海』幻冬舎 2014.6
- 石原の歴代ヨットを中心とした写真集。
- 辞世の句、歴代ヨットにまつわる散文「私が愛した船」、詩集『風の神との黙約』から25編を抜粋した「風の神との黙約」に加えて、短編「風の使徒たち」内の無題の詩が「風についての記憶」として収められている。
- 『私の海の地図』世界文化社 2015.10
- 日本各地の島を中心にした航海記。124点のカラー写真を掲載しており、写真集の趣きも持つ。
ノンフィクション[編集]
- 『巷の神々』サンケイ新聞出版局 1967.9 のちPHP研究所
随筆[編集]
- 『青春にあるものとして』河出書房 1956.9
- 『価値紊乱者の光栄』凡書房 1958.11
- 『孤独なる戴冠 石原慎太郎全エッセイ集』河出書房新社 1966.7 のち角川文庫『孤独なる戴冠』
- 文庫本は全60編から17編を収録した抄本。
- 『対極の河へ』河出書房新社 1974.11
- 『光速の時代に』PHP研究所 1991.7
- 『父のしおり 憧憬』青志社 2022.12
- 随筆集『スパルタ教育』『男の海』『大いなる海へ』『拝啓息子たちへ』からの選集。加えて、短編「水際の塑像」と石原裕次郎による随筆「父のこと」を収録。
自叙伝・回想録[編集]
- 『国家なる幻影 わが政治への反回想』文藝春秋 1999.1 のち文庫
- 『わが人生の時の人々』文藝春秋 2002.1 のち文庫
- 『オンリー・イエスタディ』幻冬舎 2008.1 のち文庫
- 『歴史の十字路に立って 戦後七十年の回顧』PHP研究所 2015.6
- 『「私」という男の生涯』幻冬舎 2022.6 のち文庫
人生哲学[編集]
- 『これが恋愛だ』講談社 1960.5
- 『青春との対話』(人生のことば5)番町書房 1967.11
- 『プレイボーイ哲学』集英社 1968.5
- 『男の世界』集英社 1971.11
- 『君に情熱を教えよう』いんなあとりっぷ社 1974.11
- 『情熱のための航海』(わが人生観34)大和出版 1976.3
- 『戦士の羽飾り 男の博物誌』角川書店 1979.5
- 『バカでスウェルな男たち 男の美学』プレジデント社 1983.6
- 『織田信長の研究 歴史に学ぶリーダーの条件』(共著)プレジデント社 1984.12
- 石原の執筆は、第一章「暗黒を切り裂いた稲妻」のみ。
- 『大久保利通 幕末を切り裂いたリアリストの智謀』(共著:藤原弘達、渡部昇一ほか)プレジデント社 1989.11
- 石原の執筆は、第一章「対談 大久保型人材待望論」(対談者:藤原弘達)のみ。
- 『法華経を生きる』幻冬舎 1998.12 のち文庫
- 『生きるという航海』(自選箴言集)海竜社 2001.4 のち幻冬舎文庫
- 『老いてこそ人生』幻冬舎 2002.7 のち文庫
- 『人生への恋文』(共著:瀬戸内寂聴)世界文化社 2003.10 のち文春文庫
- 『真の指導者とは』日本経営合理化協会出版局 2004.4 のち幻冬舎新書
- 『私の好きな日本人』幻冬舎 2008.11 のち新書ゴールド
- 収録:「日本武尊」「織田信長」「大久保利通」「広瀬武夫」「岡本太郎」「賀屋興宣」「横山隆一」「五島昇」「小林秀雄」「奥野肇」
- 『エゴの力』幻冬舎(幻冬舎新書) 2014.10
- 『男の粋な生き方』幻冬舎 2016.4 のち文庫
- 『老いてこそ生き甲斐』幻冬舎 2020.3 のち文庫
- 『男の業の物語』幻冬舎 2020.12 のち文庫
- 『自分の頭で考えよ 石原慎太郎100の名言』プレジデント社 2022.11
教育論[編集]
- 『スパルタ教育 強い子どもに育てる本』光文社 1969.11
- 『魂を植える教育 高く豊かな心を育む本』光文社 1971.9
- 『真実の性教育 学校では教えない人間の性』光文社 1972.5
- 『息子をサラリーマンにしない法 わが子よ、オレを越えて行け』光文社 1975.12
- 『拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙』光文社 1987.10
- 『「父」なくして国立たず』光文社 1997.9
- 『いま 魂の教育』光文社 2001.3
- 『息子たちと私―子供あっての親―』幻冬舎 2005.11 のち文庫『子供あっての親―息子たちと私―』
政治・社会論[編集]
- 『祖国のための白書』集英社 1968.6
- 『新旧の対決か調和か』(共著:賀屋興宣)経済往来社 1969.7
- 『慎太郎の政治調書』講談社 1970.7
- 『いかに国を守るか』(共著:羽仁進、藤原弘達)日新報道出版部 1970.8
- 『慎太郎の第二政治調書』講談社 1971.1
- 『青嵐会 血判と憂国の論理』(共著:玉置和郎、中尾栄一、中川一郎、中山正暉、藤尾正行、三塚博、森喜朗、渡辺美智雄)浪漫 1973.11
- 『世界の中の日本 80年代政治への提言』(共著:河本敏夫)山手書房 1982.2
- 『流砂の世紀に』新潮社 1985.10
- 『現代史の分水嶺』文藝春秋 1987.7 のち文庫
- 『「NO」と言える日本 新日米関係の方策』(共著:盛田昭夫)光文社 1989.1
- 『それでも「NO」と言える日本 日米間の根本問題』(共著:渡部昇一、小川和久)光文社 1990.5
- 『時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の会話』PHP研究所 1990.12 のち文庫
- 『来世紀の余韻』中央公論社 1991.3
- 『断固「NO」と言える日本 戦後日米関係の総括』(共著:江藤淳)光文社 1991.5
- 『かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために』集英社1994.4
- 『「NO」と言えるアジア 対欧米への方策』(共著:マハティール)光文社 1994.10
- 『亡国の徒に問う』文藝春秋 1996.12 のち文庫
- 『宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放』(共著:一橋総合研究所)光文社 1998.9
- 『「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略』(共著:一橋総合研究所)光文社 2000.11
- 『勝つ日本』(共著:田原総一朗)文藝春秋 2000.12 のち文庫
- 『日本よ』産経新聞ニュースサービス 2002.11 のち扶桑社文庫
- 『惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦』産経新聞ニュースサービス 2004.3
- 『日本の力』(共著:田原総一朗)文藝春秋 2005.3 のち文庫
- 『日本よ、再び』産経新聞出版 2006.4
- 『新・堕落論 我欲と天罰』新潮社(新潮新書) 2011.7
- 『平和の毒、日本よ』産経新聞出版 2012.8
- 『東京革命 わが都政の回顧録』幻冬舎 2015.6
- 『日本よ、完全自立を』文藝春秋(文春新書) 2018.10
対談[編集]
- 『対話 日本人の原点』(対談:小谷喜美)サンケイ新聞出版局 1969.4
- 『酒盃と真剣 石原慎太郎対話集』参玄社 1973.1
- 対話者:山崎正和、岡潔、三島由紀夫、小田実、高坂正堯、江藤淳、上田哲、野坂昭如、羽仁五郎、宮沢喜一
- 『闘論 君は日本をどうするのか』(対談:野坂昭如)文藝春秋 1975.1
- 『真の革新とはなにか 石原慎太郎対論集』読売新聞社 1976.3
- 対論者:羽仁五郎、小田実、太田薫、三好修、榎美沙子、小中陽太郎、小野田寛郎、藤島泰輔、黒川紀章
- 『この日本をどうする 再生のための10の対話』文藝春秋 2001.3 のち文庫
- 対話者:西村真悟、石原伸晃、金美齢・志方俊之、福田和也、日下公人、孫正義、白井智子、松原泰道、五木寛之、中曽根康弘
- 『永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い』(対談:中曽根康弘)PHP研究所 2001.8 のち文庫
- 『東京の窓から日本を(1~3)』文春ネスコ 2001.10(1) 2002.9(2) 2003.4(3)
- (1)対談者:唐津一、佐々淳行、グレゴリー・クラーク、孫正義、米長邦雄、金美齢、志方俊之、はかま満緒、ビル・トッテン、竹村健一、徳間康快、ペマ・ギャルポ、中曾根康弘
- (2)対談者:瀬戸内寂聴、堺屋太一、ジェラルド・カーティス、呉善花、松井孝典、中村征夫、岡本行夫、樋口廣太郎、森繁久彌、斎藤環、藤本義一、C・W・ニコル
- (3)対談者:渡部昇一、日野原重明、日高義樹、見城徹、川淵三郎、松田昌士、内館牧子、北方謙三、小沢昭一、はかま満緒、木村剛
- 『東京の窓から世界を』PHP研究所 2007.11
- 対談者:なかにし礼、石井和子、蓮池透、岡崎久彦、はかま満緒、葛西敬之、小田啓二、星野仙一、中曽根康弘
- 『生きる自信 健康の秘密』(対談:石原結實)海竜社 2008.6 のちPHP文庫『老いを生きる自信 若さと健康の知恵』
- 『鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割』(対談:松平康隆)小学館 2009.4
- 『「YES」と言わせる日本』(対談:亀井静香)小学館(小学館新書) 2017.7
- 『日本よ、憚ることなく』(対談:亀井静香)WAC 2019.12
- 『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(対談:坂本忠雄)新潮社(新潮新書) 2019.12
- 『死という最後の未来』(対談:曽野綾子)幻冬舎 2020.6 のち文庫
- 『三島由紀夫石原慎太郎全対話』(対談:三島由紀夫)中央公論新社(中公文庫) 2020.7
- 『石原慎太郎 日本よ!』(対談:亀井静香)WAC 2022.3
現代語訳[編集]
- 『新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動』いんなあとりっぷ 1973.5 のち牧野出版『声に出して詠もう和漢朗詠集』
- 『新解釈現代語訳 法華経』幻冬舎 2020.7
選集・全集[編集]
- 『石原慎太郎文庫』(全8巻)河出書房新社 1964.11-1965.7(編集:三島由紀夫、江藤淳、大江健三郎)
- 『行為と死 太陽の季節 他』 のちペーパーバックス『行為と死 太陽の季節』――収録:「行為と死」「太陽の季節」「灰色の教室」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「価値紊乱者の光栄」
- 『亀裂 完全な遊戯 他』――収録:「亀裂」「完全な遊戯」「乾いた花」
- 『挑戦 死の博物誌―小さき闘い―』――収録:「挑戦」「死の博物誌―小さき闘い―」
- 『青年の樹(全) 十八歳』――収録:「青年の樹」「十八歳」
- 『日本零年(全)』――収録:「日本零年」
- 『汚れた夜 傷のある羽根』――収録:「汚れた夜」「傷のある羽根」
- 『狼生きろ豚は死ね 鴨 他』――収録:「狼生きろ豚は死ね」「それだけの世界」「ファンキー・ジャンプ」「殺人教室」「鴨」「密航」「三島由紀夫氏の文体」「文学への素朴な疑問」「現代青年のエネルギー」
- 69年再販版は「水際の塑像」「待伏せ」が追加。
- 『星と舵(全)』――収録:「星と舵」
- 『石原慎太郎短編全集』(全2巻)新潮社 1973.6
- ――収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「奪われぬもの」「処刑の部屋」「日蝕の夏」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「狂った果実」「恋の戯れ」「男だけ」「若い獣」「蟷螂の庭」「谷川」「完全な遊戯」「それだけの世界」「乾いた花」「鱶女」「太陽の餌」「ともだち」「ファンキー・ジャンプ」
- ――収録:「十八歳」「密航」「鴨」「十年選手」「朝の微笑」「小さき闘い」「傷のある羽根」「閉ざされた部屋」「還らぬ海」「屍体」「一点鐘」「水際の塑像」「貧しい海」「沈黙」「野性の庭」「待伏せ」「L・S・D」「鎖のついた椅子」「名月鏡」「国家についての個人的会話」「条約」
- 『石原慎太郎の文学』(全10巻)文藝春秋 2007.1-10
- 『刃鋼』――収録:「刃鋼」
- 『化石の森』――収録:「化石の森」
- 『亀裂 死の博物誌』――収録:「亀裂」「死の博物誌」
- 『星と舵 風についての記憶』――収録:「星と舵」「風についての記憶」
- 『行為と死 暗殺の壁画』――収録:「行為と死」「嫌悪の狙撃者」「暗殺の壁画」
- 『光より速きわれら 秘祭』――収録:「光より速きわれら」「秘祭」「聖餐」「肉体の天使」
- 『生還 弟』――収録:「生還」「弟」「僕は結婚しない」
- 『わが人生の時の時』――収録:「わが人生の時の時」「わが人生の時の会話」
- 『短篇集Ⅰ 太陽の季節 完全な遊戯』――収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「男だけ」「若い獣」「完全な遊戯」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「十八歳」「密航」
- 『短篇集Ⅱ 遭難者』――収録:「鴨」「閉ざされた部屋」「貧しい海」「水際の塑像」「野性の庭」「待伏せ」「鎖のついた椅子」「公人」「きょうだい」「ある行為者の回想」「遭難者」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「生き残りの水兵」「詩(五篇)」(巻末に年譜と著書目録あり)
- 『石原慎太郎の思想と行為』(全8巻)産経新聞出版 2012.10-2013.7
- 『政治との格闘』――収録:「国家なる幻影(上)」「作家ノート 虚構と真実」「非核の神話は消えた」「民主主義の虚構」「君、国売り給うことなかれ」その他エッセイ4編
- 『「NO」と言える日本』――収録:「国家なる幻影(下)」「『NO』と言える日本」「断固『NO』と言える日本」
- 『教育の本質』――収録:「スパルタ教育」「真実の性教育」「教育は愛か、体罰か(対談:戸塚宏)」「ふたたび“輝く雲”をつかむために(対談:松平康隆)」その他エッセイ12編
- 『精神と肉体の哲学』――収録:「法華経を生きる」「老いてこそ人生」「脳死と臓器移植」その他エッセイ9編
- 『新宗教の黎明』――収録:「巷の神々」
- 『文士の肖像』――収録:「三島由紀夫の日蝕」「発射塔」その他文芸批評、対談、追悼文など45編
- 『同時代の群像』――収録:「わが人生の時の人々」「オンリー・イエスタディ」その他、立川談志との対談2編、立川談志追悼文
- 『孤独なる戴冠』――収録:「僕にも言わせてもらいたい 価値紊乱者の光栄」「男の世界」「私の天皇」「戦士への別れ 追悼石原裕次郎」「孤独なる戴冠 何が残されているか」その他エッセイ19編
- 『石原慎太郎短編全集』(全2巻)幻冬舎 2021.12
- ――収録:「聖餐」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「沢より還る」「海にはすべて」「青木ヶ原」「わが人生の時の生と死」「ブラックリング」「生死刻々」「生き残りの水兵」
- ――収録:「青木ヶ原(完全版)」「やや暴力的に」「僕らは仲が良かった」「夢々々」「世の中おかしいよ」「うちのひい祖父さん」「ワイルドライフ」「海の家族」「ある失踪」「ヤマトタケル伝説」「特攻隊巡礼」「暴力計画」「―ある奇妙な小説―老惨」「死者との対話」「いつ死なせますか」「噂の八話」「死線を超えて」「ハーバーの桟橋での会話」
翻訳[編集]
- 『型破りで勝つ!』(著:ロバート・J・リンガー)三笠書房 1978.12
外国語訳[編集]
- Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy. John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966(太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年)
- Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006
- The Japan That Can Say NO『NOといえる日本』
- Le Japon sans Complexe『NOといえる日本』フランス語
音楽作品[編集]
作詞[編集]
- 狂った果実(曲:佐藤勝、歌唱:石原裕次郎)
- 青年の樹(曲:山本直純、歌唱:三浦洸一)
- 青年の国をつくろう(曲:小林亜星、歌唱:石原裕次郎)
- さあ太陽を呼んでこい(曲:山本直純、歌唱:東京放送児童合唱団)
- 人間の園(旧ジャスコ株式会社・社歌)(曲:神津善行、歌唱:五十嵐喜芳、コーラス:ミュージカルアカデミーウィルビーズ)
- お早う僕の町(曲:湯浅譲二、歌唱:マイク眞木)
- 焔のカーブ(曲:三保敬太郎、歌唱:ジャニーズ)
- 母の声(曲:玉置和郎、歌唱:二葉百合子)
- 思い出の川(曲:五木ひろし、歌唱:五木ひろし)
作詞・作曲[編集]
- 夏の終わり(歌唱:ペギー葉山&石原慎太郎)
- 泣きながら微笑んで(歌唱:石原裕次郎)
歌唱[編集]
- リコール ツー マイ メモリー
- DREAM
関連作品[編集]
映画[編集]
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テレビドラマ[編集]
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舞台[編集]
- 若きハイデルベルヒ(1977年、日生劇場、潤色)
演じた俳優[編集]
- 別所哲也『人間ドキュメント 石原裕次郎物語』(1993年フジテレビ)
- テレビ朝日『弟』(2004年11月17日 - 11月21日放送)での配役
- 鈴木宗太郎(幼年期)
- 久保海晴(少年期)
- 渡邉邦門(思春期)
- 長瀬智也(TOKIO)(青年期)
- 渡哲也(父・石原潔との二役)(壮年期 - 現在)
- 石原良純『裕さんの女房』(2021年3月20日放送NHK BS4Kほか)
逸話[編集]
- かつて対談した数学者の岡潔による哲学を信奉している。
- Ustreamでの放送にて、田原総一朗が政治献金をしていることが明らかになる。
- 『正論』は、特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、石原を10点満点中9点と評価した。
- 自身が代表を務める日本維新の会の幹事長である松井一郎大阪府知事がフリーアナウンサーの辛坊治郎に語った話では、石原は、基本的に、朝は遅く昼からしか働かないという。
- 三島由紀夫は石原を「すべての知的なものに対する侮蔑の時代を開いた」と評した。
- 三島由紀夫の死に関して、「三島は人為的に異常な肉体を作ることで、逆に精神を蝕まれて衰弱し、ああいう死に方をした」と発言。
- 石原結實が主宰する断食サナトリウムに1995年ころから毎年通い、断食と発熱こそ世界の名医だと発言。石原の父も断食の愛好家で、水だけ飲む断食を10-15日間行っていたという。
- 熱狂的なスポーツカーマニアで、1968年の参議院初登院時には、当時の愛車、初代マツダコスモスポーツで乗り付け、国会の前で降りて大きなニュースになった。コスモスポーツが登場するレーサーが主役のミュージカルまで作り、当時の松田恒次東洋工業(現マツダ)社長に支援を頼みに広島の東洋工業本社に行き、快諾をもらい、その後、議員になってからも応援してもらったという。「いろいろなスポーツカーに乗ったけど、コスモが一番だったな」と話している。
- 学生時代に下校中に歩いているとアメリカ兵がアイスキャンディーを食べながら歩いて来て、周りの大人が道を開ける中、石原だけはじっとアメリカ兵を見ていると、そのアメリカ兵は腹を立てたのか石原をアイスキャンディーで殴る。その後教師に呼ばれて「アメリカに迷惑かけるな」と注意された。戦前は「鬼畜米英」と教わり、180度違うことを言う大人に不信感を頂くきっかけとなった。