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熊本城

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熊本城(くまもとじょう)は、肥後国飽田郡熊本(現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。

別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」。

加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。明治時代には西南戦争の戦場となった。西南戦争の直前に大小天守や御殿など本丸の建築群が焼失したが 宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟(櫓11棟、門1棟、塀1棟)が国の重要文化財に指定されている。また、城跡は「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されている。

概要[編集]

熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在の本丸にあたる部分の築城を行った。 細川氏の時代になると城地の拡張と増築が盛んに行われ、西側に二の丸、三の丸が加わった。明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の姿をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている(2012年時点で512,300.52平方メートル)。

天守は1960年に鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は「熊本市立熊本博物館分館」となっている。2000年以降は門や櫓、御殿の一部などが木造で復元された。

2016年4月の熊本地震の際に、多くの石垣が崩落したほか宇土櫓などの文化財建造物、大小天守などの復元建築が被災し、修復が進められている(「歴史・沿革」参照)。これからさらに櫓、門、土塀が木造復元される予定だが大小天守、平櫓、本丸御殿の木造復元されていない部分の木造復元計画は予算の関係でない。

サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。

歴史・沿革[編集]

室町時代[編集]

室町時代の文明年間(1469年 - 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)に後奈良天皇の綸旨、1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡して筑後国に移った。秀吉の御伽衆・大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記す。また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候、熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。

新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。この時、隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った。

江戸時代[編集]

加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めた。1600年(慶長5年)頃には天守が完成。同年の関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。この時、忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後、歴代藩主はここを日常の居所とした。

加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊や御家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を江戸幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次、現・三の丸や壺川地域(江戸時代中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓・硫黄櫓を除き62を数えていた。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。

明治時代[編集]

幕末の熊本藩には学校党、実学党、敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)に進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。

軍都熊本の名前もあるように、太平洋戦争終戦前は陸軍が使用していた。熊本空襲では一部(将校集会所) を除き、焼失を免れた。

それに先立つ維新直後の1871年、鎮西鎮台が設置された。二の丸を中心に1875年歩兵第13連隊、1925年、熊本陸軍教導学校、1943年、熊本予備士官学校ができた。またその近くの現在監物台樹木園の場所に熊本陸軍幼年学校(1897年9月1日-1927年3月31日)ができた。この施設は軍縮により廃止。その後、清水町に再建された。二の丸と古城の間は、江戸時代は大名屋敷であったが、明治4年、鎮西鎮台病院、その後は陸軍病院となった。1945年より国立熊本病院、その後は国立病院機構熊本医療センターとなっている。1871年(明治4年)の廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改められた)が置かれた。

この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。

1876年(明治9年)の神風連の乱の時には反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。

西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。現時点で西南戦争での焼失が確認されているのは以下の建造物である。大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されているが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。

政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と、西郷が嘆いたというエピソードが伝わっており、清正公が心血を注いで築城した熊本城は、最初で最後の攻防戦でその防衛力の高さを存分に発揮することとなった。

1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。

1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

大正から昭和時代[編集]

1917年(大正6年)、本丸に陸軍第6師団司令部の新庁舎が落成。

1933年(昭和8年)、熊本城の現存建築が「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。同年、城跡は「熊本城跡」として国の史跡に指定される。

1945年(昭和20年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れる。戦後は、古城に熊本県立第一高等学校が移転した。同年12月、戦災を受けた熊本大学医学部基礎教室が一時的に二の丸の兵舎を利用した(1962年3月移転)。

1946年(昭和21年)、日本に進駐したアメリカ軍が城内に施設を作った際、車両通行の妨げになるとして、竹之丸門が破却された。同年3月、古京町無番地輜重隊跡に、化学及血清療法研究所京町研究所が設置された(1973年閉鎖)。

1955年(昭和30年)、「熊本城跡」として国の特別史跡に指定された。

1956年(昭和31年)、市政70周年事業で天守閣再建を公約に掲げた坂口主税(さかぐちちから)が市長に当選。

1957年(昭和32年)、加藤神社が新堀町から西出丸の櫨方曲輪に、熊本県護国神社が花岡山から藤崎台に遷祀。

1960年(昭和35年)9月22日、鉄骨・鉄筋コンクリート造の熊本城天守閣の落成式が行われた。

1962年(昭和37年)には熊本大学医学部基礎教室が移転。建物をそのまま利用して熊本県立第二高等学校を開校したが、1968年(昭和43年)に熊本県立第二高等学校が移転。1967年(昭和42年)、跡地を整備して二の丸公園として開園した。

1976年(昭和51年)、二の丸跡の一角に熊本県立美術館設置。

1978年(昭和53年)、三の丸に熊本市立熊本博物館設置。

平成から令和[編集]

1993年(平成5年)、旧細川刑部邸を三の丸に移築。

1997年(平成9年)に熊本市が「熊本城復元整備計画」を策定。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(92番)に選定された。

2006年12月 - 2008年5月まで熊本城築城400年祭が熊本城一帯で開催された。熊本城の築城400年(2007年)を記念して行われた。

2007年(平成19年)、築城400年に際して、本丸御殿大広間をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元された。なお、いまだ復元工事中や、工事未着手の建物もいくつかある。

2011年3月5日には観光施設桜の馬場 城彩苑が開業。

2020年東京オリンピックの聖火リレーで二の丸駐車場がセレブレーション会場となった、 聖火ランナーは公募により1万人程度が選ばれた、聖火リレーについて、 組織委員会は スポンサー企業4社と各都道府県実行委員会が行ったランナー公募に延べ 53万5717件の応募があったと発表した 。



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