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泉谷しげる

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泉谷 しげる(いずみや しげる、本名:泉谷 茂(読み同じ)、1948年〈昭和23年〉5月11日 - )は、日本のシンガーソングライター(フォークソング、ロック)、俳優。血液型O型。青森県出身。

概要[編集]

1971年にライブ・アルバム『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビュー。『春夏秋冬』『光と影』『80のバラッド』『吠えるバラッド』など多くのアルバムや楽曲を発表し、楽曲の歌詞、ボーカルスタイル、ギターの奏法、ぶっきらぼうな振る舞いが「強烈にして無比」と評される。俳優業、バラエティ番組への出演、コメンテーター業、絵画の製作、「キッチンライブ」と題した料理関係の活動も行っており、これらも高く評価されている。社会的貢献にも強い関心があり、多くの自然災害や疫病で被災した地域に義援金や楽曲の印税を寄付したり、風評被害をなくす目的で積極的にライブ活動やロックフェスティバルの運営などを行ったり、駅弁のプロデュースに携わるなど活動の幅は広範囲に渡っている。

生い立ち[編集]

  • 青森県青森市長島出身の両親の元で生まれ、3歳から東京都目黒区東山で育つ。自宅は鴻之巣橋たもとにあった。目黒区立東山中学校卒。
  • 東京都立目黒高等学校を中退後、いろいろな職についたが長続きせず。ローリングストーンズに憧れ、ロックバンドを組んでいたが、18歳の時、自宅が火事で全焼しエレキギター、アンプなど機材を全て失い、やむなくアコースティック・ギター1本で出来るフォークシンガーとなる。
  • この頃には漫画雑誌『COM』(虫プロ商事)の「ぐら・こん」に投稿し、漫画家を目指そうとしていた。また16ページの漫画作品「わるい奴ら」(いずみやしげる名義)が、東考社から刊行された短編集『ヤングパンチ・2号』および『暗黒の帝王たち』に収録されている。

1970年代[編集]

  • 1971年 - ライヴアルバム『泉谷しげる登場』でエレックレコードからフォークシンガーとしてデビュー。CBSソニーに移籍したよしだたくろう(吉田拓郎)の代わりに売り出されたため、拓郎=広島フォーク村のイメージが強く、またフォークシンガーは地方出身者の方が売れていて「東京出身では売りにくい」というエレック社の方針で、青森出身として売り出した。
  • 古井戸(加奈崎芳太郎・仲井戸麗市)、ピピ&コット(佐藤公彦・よしだよしこ)、生田敬太郎、RCサクセションらと、日比谷公園大音楽堂(野音)での唄の市コンサートに参加。
  • 1972年 - セカンドアルバム『春夏秋冬』をリリース。加藤和彦がプロデュースを務める。タイトル曲「春夏秋冬」は泉谷の代表曲となる。なお、シングルでも発売されたが同名アルバムの音源ではなく、オムニバスライブアルバム『野音 唄の市』収録のライブバージョンでシングル化された。シングル盤ジャケットに「実況録音盤」と書かれている。1988年には、ロックアレンジで再シングル化されている。南沙織の大ファンで、1973年6月に生まれた長女に「さおり」と命名した。
  • その後も『地球はお祭りさわぎ』(1972年)、サディスティック・ミカ・バンドが参加した『光と影』(1973年)をリリース。中川イサト、西岡たかしとの連名アルバム『友だちはじめ』(1973年)や、イエロー (バンド)、ラストショウを従えロック色を打ち出したアルバム『黄金狂時代』(1974年)をエレックレコードから発表した。
  • 1975年6月 - 小室等、井上陽水、吉田拓郎とフォーライフ・レコードを設立し移籍。その第1弾アルバムとして『ライブ!!泉谷-王様たちの夜-』(1975年)を発表。
  • 1976年 - 小室、陽水、拓郎、泉谷の連名でアルバム『クリスマス』発表。
  • 1976年 - アルバム『家族』、『イーストからの熱い風』(同年にアメリカ合衆国で録音したライヴアルバム)を発売。
  • 1977年 - ストリート・ファイティングメンをバックバンドにしたロックアルバム『光石の巨人』を発表。これを最後にフォーライフレコードを去る。発端は当時泉谷は「ミュージシャンもやって会社もやるっていうのはいかがなものか」「経営者とミュージシャンの二足のわらじを履く行為は、ほかの経営者に対して失礼」と考えており、小室に代わり社長に就任した拓郎と見解の相違が生まれたことに起因するものだった。これがきっかけで「フォークの裏切り者」のレッテルを貼られライブをやってもお客が入らなくなる不遇の時期をしばらく送った。同時期に向田邦子からオファーがあった事をきっかけに俳優業を始めている。
  • アサイラム・レコードに移籍し、加藤和彦プロデュースのアルバム『80のバラッド』、『都会のランナー』を発表。
  • 1979年6月 - テレビ朝日系ドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』に小原保(犯人)役として出演し、テレビ大賞及び芸術祭優秀賞を受賞、役者としても注目を集める。

1980年代[編集]

  • 1980年 - 石井聰亙映画『狂い咲きサンダーロード』にて美術やポスターのイラストを担当し、ブルーリボン美術デザイン賞を受賞。また劇中歌として「電光石火に銀の靴」「翼なき野郎ども」「国旗はためく下に」などが使用された。
  • 石井聰亙映画『爆裂都市 BURST CITY』にて美術を担当。自らも俳優として出演している。
  • ニューウェイヴ志向のバックバンド"BANANA"を従えた『オールナイト・ライヴ』を発表。
  • 1980年 - 松竹映画『ええじゃないか』(今村昌平監督)に出演し、「泉谷しげる with SHOT GUN」名義でタイトル曲「ええじゃないか/IBO!今夜は徹夜だぜ」発表。
  • 1982年 - ポリドールに移籍。ポリドールではスタジオアルバム『NEWS』『39°8′』『ELEVATOR』、ライヴアルバム『REAL TIME』を発表。
  • 自主制作ミニアルバム『スカー・ピープル(忌野清志郎プロデュース)』発表。吉田建(ベース)・村上“ポンタ”秀一(ドラム)を中心としたLOSERをバックバンドに活動。仲井戸麗市、下山淳も参加。アナログ志向を全面に打ち出す。
  • 1986年6月 - 自らが監督・美術を手掛けたSFビデオ映画作品『デスパウダー』を発表。キャスティングは主演が佐藤浩市、ヒロインは村上里佳子、レプリカント役が夏木マリ、マッド・サイエンティスト忌野清志郎、スカーフェイス景山民夫。撮影に際し、自宅の地下室を爆破した。2011年の「米子映画事変」にて特別編集され、上映された。
  • 1988年 - ビクターに移籍。以降1998年まで10年間所属を続け、アルバム『吠えるバラッド』『IZUMIYA SELF COVERS』『HOWLING LIVE』『'90sバラッド』『叫ぶひと囁く』『下郎参上』(下郎名義)『WILD BLOOD』『メッセージソングス』『追憶のエイトビート』を発表。
  • 氷室京介のソロデビューアルバム『FLOWERS for ALGERNON』に収録の「独りファシズム」の作詞を担当。
  • 1988年12月 - 自ら監督・出演したオリジナルビデオ『ネイビー・ロックウォー・撃破せよ』を発表。防衛庁(現:防衛省)、海上自衛隊の全面協力を得て撮影された。

1990年代[編集]

  • 1993年 - 北海道南西沖地震被災者救援のために「お前ら募金しろ!」と言うフレーズで、日本ユニセフ協会の協賛を受け「一人フォークゲリラ」と称したゲリラライヴを東京23区内で敢行。その模様は自主制作ライヴ盤として発表。集まった募金およびシングル「なぜ、こんな時代に」の印税も全額奥尻島に寄付した。
  • 1993年11月15日 – 北海道厚生年金会館で「奥尻島チャリティーコンサート」を開催した。桑田佳祐、忌野清志郎、小田和正、南こうせつ、加奈崎芳太郎、白井貴子、辻仁成、吉田建なども出演した。
  • 1993年12月1日 - 日本武道館で開催されたエイズ啓発運動『Act Against AIDS '93』に出演。「君といつまでも」(加山雄三)、「嵐を呼ぶ男」(石原裕次郎)、「上を向いて歩こう」(坂本九)のカバーを行う。後半では桑田佳祐・大友康平と共に「春夏秋冬」をセッションした。
  • 1994年 - 3月13日に長崎・雲仙岳噴火災害救済チャリティーコンサート「メッセージソングの日」を長崎公会堂で開催し、伊勢正三・井上陽水・忌野清志郎・大友康平・小田和正・さだまさし・浜田省吾・吉田拓郎らと共に「泉谷しげるとスーパーバンド」を結成。8月16日には日本武道館、10月28日には島原市文化会館にて「日本をすくえ'94」を各々開催した。12月1日には『Act Against AIDS '94』に2年連続で出演し「春夏秋冬」「眠れない夜」「国旗はためく下に」「翼なき野郎ども」を演奏した。
  • 1995年1月 - 阪神・淡路大震災発生の際は、いち早く被災者救援のために立ち上がり、震災当日の夜から北海道南西沖地震の時と同じ「お前ら募金しろ!」と言うフレーズでゲリラライヴを日本各地で敢行。集まった募金およびシングル「It's gonna be Alright」の印税も全額寄付した。また、震災直後の神戸に入り、オールナイトニッポンの特番で被災者の生の声を中継した。
  • 1995年4月 - 忌野清志郎扮する「ZERRY」が在籍する覆面バンドザ・タイマーズのシングル「サヨナラはしない」から発生する収益金を泉谷が設立した「泉谷基金」を通して被災地に寄付した。
  • 1995年7月21日 - 大江千里と共に同日に発売された嘉門達夫(現:嘉門タツオ)のチャリティーシングル「怒りのグルーヴ 〜震災篇〜」にコーラスとして参加した。
  • 1995年8月12日 - メリケンパークにて『日本をすくえ'95』を開催。バンドメンバーにはドラムで森高千里、ベースで江口洋介が参加していた。
  • 1996年8月2日 - 今までのキャリアの集大成ビデオ『泉谷しげる大全集・全身全霊』を発売した。
  • 1996年10月 - 日本テレビ系バラエティー番組『香取慎吾のアジアのMIKATA』にレギュラー出演した。
  • 1998年7月15日 - レコード会社を再びポリドールに移籍。第1弾としてアルバム『私には夢がある』を発売。
  • 1998年8月10日 - 自らが描いた絵画を収録した作品集『泉谷しげるが作品・IMPACT』を発売。その後、渋谷PARCO、軽井沢トリックアート美術館、福岡夢美術館、神戸西神ニュータウンプレンティにて『泉谷しげるアート展』を開催。
  • 1999年4月21日 - デビュー前のスタジオ録音デモテープ集がアルバム『ベースメント・テープス』として発表される。

2000年代以降[編集]

  • 2001年 - デビュー30周年を迎える。自らのレーベル『iZ』(イズ)を立ち上げ、第1弾として『起死回生』を発表した。
  • 盟友忌野清志郎らと清志郎・泉谷・スパイスマーケットを結成。フジロックフェスティバルに参加するなど精力的な活動を行う。2003年にはアルバムのレコーディングやツアーを行う計画もあったが、泉谷がドラマの仕事を入れてしまったため幻となった。
  • 2003年 - 『Dr.コトー診療所』(フジテレビ)に出演。再び俳優としても注目される。
  • 2004年1月21日 - ガガガSPのコザック前田とのユニットでシングル「生活/永遠のウソつき」もリリース。後に前田のソロアルバム『東須磨は夕方6時』にも2人が歌った「生活」が収録されている。
  • 2004年3月6日 - 厚生労働省作成の「虐待から子供を守るための5カ条」のポスターに、「許せねえ、児童虐待」とのキャッチコピーとともに登場。
  • 2007年3月 - ニューギン社より発売のパチンコ台「CR泉谷しげるの座頭市物語」に出演し座頭市に扮した。
  • 2007年4月〜2008年3月 - テレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎(第5作)』のオープニングテーマを歌った(第51話まで使用された)。
  • 2008年5月11日 - 歳還暦を迎えSHIBUYA-DUO MUSIC EXCHANGEで還暦記念ライブを開催。
  • 同時期には「土地土地の歴史と向かい合い、歌の季節を求める旅〜オレの歌は君の季節になれるか?〜」をコンセプトに各地のイベントをギター一本で回る「ロード・オブ・ライブ」を本格的に始動した。
  • 2008年9月20日- ポニーキャニオン移籍第一弾となるオリジナルニューアルバム『すべて時代のせいにして』を発売。
  • 2008年10月4日 - 「60×60泉谷しげる展覧会」と題したオールナイトライブを実施。ライブは3部構成で、それぞれの部各20曲を披露。60曲としていたものが3部は20曲の後にアンコール2曲を入れ合計62曲になった。
  • 2009年5月3日 - SaaS型動画配信サービス「ビムーブTV」にて「地域活性化」をコンセプトにした配信番組『泉谷しげるのコラコラ放送局』を開始。アシスタントとして小島可奈子を迎えた。以前から泉谷は「日本文化のいいところを再発見し、歴史ある祭りにも参加し、さらに新しい祭りを起こしたい」という思いを持っており、番組の配信にあたり「特別な演出をせず、地元の人と自然に触れ合ったものをそのまんま放送したい」「最初は規模が小さくても新しい"祭り"を創ろう!」と意気込みを語った。
  • 同日 - 忌野清志郎の死に際し、「あいつの死は受け入れたくない、葬儀にも行かないし、冥福も祈りたくない。俺の中ではあいつは生きてるんだ」とコメントする。実際に、2度行われた清志郎のロック葬に泉谷が現れることはなかった。また、破天荒な性格が清志郎の影響によるとも明かした。5月5日より公式サイトにて「忌野清志郎・伝」という連載を開始した。
  • 2010年 - 口蹄疫流行の中、公式ブログ「兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記」 において、宮崎の応援と、政府やマスコミへの憤りを表明。FAO国連食糧農業機関の支援を日本政府が拒否した事や報道が不十分である事などにも触れ、海外メディアの取材を受けることで状況の改善を試みた。終息宣言後の同年11月7日には地元の役所・宮崎県警察・東国原英夫(当時第17代 宮崎県知事)の許可を貰い、県民にボランティアを要請した上で宮崎県宮崎市のみやざき臨海公園 サンマリーナ宮崎 多目的芝広場にて宮崎の復興を支援する音楽イベント『水平線の花火と音楽』を開催。このイベントは2016年まで計7回開催され、毎年2万人を動員した。
  • 2011年3月 - 東日本大震災に際してGACKTや真矢と共同で被災者救援募金活動「SHOW YOUR HEART」(心意気を見せろよ)を展開。また、自らも3月19日から20日まで「24時間トーク&ライブ『日本を救え』」をUstreamで配信。19日には原宿のアンテナショップ「ニコニコ本社」にてニコニコ生放送の特別番組「泉谷しげるのチャリティトーク&ライブ 〜日本を救え!〜」を嘉門達夫・中村中らと実施。4月17日には秋葉原UDXでイベントを行うなど以降も積極的にチャリティー活動を行った。
  • 2012年4月28日 - 宮城県川崎町で開催された野外音楽祭ARABAKI ROCK FEST.にて「泉谷しげるwith LOSER」が再結成。
  • 2013年4月28日 - Zepp ダイバーシティ東京にて泉谷しげるwith LOSER 25周年記念LIVE「吠えるバラッド」開催。
  • 2013年12月31日 - NHK紅白歌合戦に初出場。
  • 2014年12月8日 - 「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」(10日 - 16日)にちなんで日本国政府主催で東京・渋谷オーチャードホールで開催された『拉致問題啓発コンサート』に出演。
  • 2015年 - 阿蘇山の噴火活動による風評被害を解消する目的で開催される音楽フェス『阿蘇ロックフェスティバル』の発起人となる。同年5月30日に第1回が開催された。
  • 2016年6月18日 - フードコーディネーターの住川啓子と共に西東京調理師専門学校にて『泉谷しげる×住川啓子キッチンライブ!』を開催。同年11月19日には第2回が開催された。
  • 2018年10月 - 福島第一原子力発電所事故以降風評被害に悩まされている福島県を励ますため、地元の食材をふんだんに取り入れた駅弁「驛(えき)〜福島応援弁当」をプロデュース。知人を通して同県郡山市に本社をもつ駅弁業者「福豆屋」にかけあい実現した。東日本大震災以降毎年のように福島でストリートライブを行っていた泉谷は「まずは福島から元気にしていく」「復興は何十年もかかるもの。福島の食べ物のおいしさはどんな形でも伝えていきたかった」と語っている。
  • 2019年12月31日 - ももいろ歌合戦(BS日テレ・ニッポン放送・AbemaTVなど)に初出場。翌年以降も出場
  • 2020年6月11日 - LIVING ROOM CAFE&DININGにて初の無観客配信ライブ『泉谷しげる 初配信ライブ“コロナのばかやろー!”』 を開催。
  • 2023年5月17日 - 「泉谷しげる 75th Anniversary Live」をBillboard LIVE TOKYOにて開催。


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