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江戸城

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江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。

千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)が別名として知られている。

概要[編集]

現在の江戸城の前身は、1457年に麹町台地の東端に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里 と、日本最大の面積の城郭になった。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した。

江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付、奉行、小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される[要出典]

1868年(慶応4年) 3月、戊辰戦争で優勢となった新政府の東征軍が迫る中、幕臣・勝海舟と東征軍参謀・西郷隆盛の会談により江戸城への総攻撃が中止されたといわれる。江戸城開城により徳川家は江戸城から退出し、代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城した。そして、京都から明治天皇が行幸した折の居所「皇居」となり、短期間だが東京城と改名され、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている(東京奠都)。現在は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、宮内庁の管轄下にあり、書陵部・楽部の庁舎などがあるが、皇居東御苑として、宮中行事に支障のない限り一般にも公開されている。平成以降、皇位継承に伴う重要儀式「大嘗祭」の会場である「大嘗宮」は、本丸の跡地に設営されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は、環境省所管の国民公園として開放されている。

国の特別史跡に指定されている。

歴史[編集]

築城まで[編集]

江戸(現在の東京都区部の一部)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。

ただし、歴史学者の山田邦明は、江戸城のあった地域は古代には荏原郡桜田郷の一部で、豊島郡江戸郷とは別の地域であったため、江戸に根拠を置いていた江戸氏の居館が今の江戸城に存在することはあり得ないとして、江戸氏の居館は当時の江戸の中心であった平川(日本橋川の前身)の流域にあったとする。山田は館の所在地を現在の水道橋付近に推定する。なお、桜田郷に関しては室町時代前期の応永30年(1423年)に江戸氏一族である江戸大炊助重継が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしていることから、鎌倉時代以降の江戸氏の発展によって江戸郷に隣接する桜田郷も江戸氏の支配下に置かれ、その後桜田郷が豊島郡の一部として認識され、更に江戸郷を中心とした「江戸」の一部になったと推測されている。

築城[編集]

15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に江戸城を築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。

道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている。

道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川や鎌倉へ、水運では後世で言う江戸湾(東京湾)から太平洋の外洋に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという。

江戸時代[編集]

天下普請前
江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
  • 慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、また外濠川の工事を行っている。
  • 慶長11年(1606年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
    • 外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
    • 天守台の築造:黒田長政
    • 石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
    • 本丸の普請:吉川広正、毛利秀就
    • 城廻の普請:遠藤慶隆
などであった。
  • 翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
  • 慶長16年(1611年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
  • 慶長19年(1614年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。10月2日(11月3日)には、家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ諸大名は著しく疲弊した。このため翌年の大坂夏の陣終結後、家康は3年間天下普請を止めるように指示をした。
元和期天下普請
  • 元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
  • 元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
  • 元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また寛永元年(1624年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
  • 寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
  • 寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行われた。
  • 寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。

最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する。

徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材(伊豆石)は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである。

本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。

以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている(南から時計回りに幸橋御門、虎御門、赤坂御門、四ツ谷御門、市ケ谷御門、牛込御門、小石川御門、筋違御門と両国橋近くの浅草橋御門)(後述)。

明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、その後、天守が再建されることはなかった。

安政2年(1855年) 安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。

近現代[編集]

慶応4年(1868年)に開戦した戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。慶応4年(1868年)3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。

  • 明治元年(1868年)4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)
  • 明治2年(1869年) 東京奠都。皇城と称される。
  • 1871年(明治4年)9月9日 本丸跡に午砲台が設置。陸軍の手により毎日正午、午砲が鳴らされることとなった。後に実施主体は東京市に移り、1929年(昭和4年)4月30日まで続けられた。
  • 1873年(明治6年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。正院は焼失文書の一部復旧を命じた。
  • 1888年(明治21年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
  • 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
  • 1945年(昭和20年) 太平洋戦争末期のアメリカ軍による空襲で大手門が焼失。
  • 1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
  • 1967年(昭和42年)空襲で焼失した大手門が木造で復元された。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。


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