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殺陣

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殺陣(たて)は、演劇・映画・テレビドラマで俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技。演陣技斗擬斗擬闘とも呼称される。殺陣は主に時代劇、技斗は主に現代劇に用いる。

名称の由来[編集]

新国劇の座長沢田正二郎が、公演の演目を決める際に冗談で 「殺人」として座付きの作家行友李風に相談したところ、穏やかでない言葉なので「陣」という字を当てることを提案したことが「殺陣」の語源と言われている。この演目は1921年に初めて演じられたが、読みは「さつじん」であった。1936年の沢田の七回忌記念公演で『殺陣田村』として演じられた時から「たて」と読まれるようになった。ただ「タテ(たて)」自体はそれ以前から存在し、歌舞伎の立ち回り(激しい格闘場面とは限らない)の略とされる。なお「さつじん」でも誤りではなく、そう読ませる場合もある。

なお、「技斗」は日活撮影所の殺陣師・高瀬将敏の造語で、時代劇の「殺陣」の名称を現代劇の格闘振り付けの名称として用いるのは先人に失礼と考えて考案された。1954年(昭和29年)に製作された『俺の拳銃は素早い』(野口博志監督)で初めてクレジットに使用された。類語の「擬闘」は新劇から発生した舞台用語で、時代・現代劇を問わず用いられる。

尚、殺陣の「殺」という字が現代において憚る場面がたぶんにあるとして『演陣』と書いて『タテ』と読む事を室町大助(殺陣師/演陣師)が提唱している。

映画との関わり[編集]

殺陣の歴史的展開は、草創期、展開期、定型化期、殺陣の革新・ポスト黒澤期の5つに分けられる。

草創期は映画が日本に導入された1896年~1920年代前半までを指す。時代劇映画の出発点は歌舞伎の舞台の引き写しであり、殺陣も歌舞伎の「殺陣の型」を模倣したものであった。そんな中で、尾上松之助は歌舞伎から離れたテンポで殺陣を加え、多くの観客の心をつかんだ。

展開期は1920年代~1945年までを指す。この時期には、真剣を使わずにスピード感やリアリティがある新国劇の殺陣や垂直方向や水平方向に移動するアクロバティックな動きをする外国映画、ダンス的コレオグラフィーの導入などの影響を受けた。

定型化期は東映時代劇全盛期の1950年代を指す。東映全盛期のスターの半分は、戦前からのスターであり、歌舞伎的舞踊的な動きを身につけていたため、殺陣にも自然と舞踊的要素が濃厚になった。この風潮を一変させたのが黒澤明の時代劇で、黒澤は斬れば音が出て血が流れるリアリティのある殺陣を生み出した。

ポスト黒澤期は1962年以降を指すが、基本的に黒澤の行った殺陣の革新を繰り返すに留まる。

殺陣は劇団の研究所で俳優の正式科目として採用されているが、これまでは指導・育成する団体は少なく、日本では1960年代以前、俳優の代わりに吹き替えで対応されることが多かった。戦闘シーンで相手役がおらず不都合が生じていた千葉真一は1970年にJACを設立し、吹き替えでなく演じることのできる俳優を育成し始めている。

演劇上の意義[編集]

クレジットタイトルなど、一般的には時代劇のものを殺陣 / 演陣、現代劇のものを技斗擬闘擬斗という。また一般的に殺陣は刀等を用いたアクションなのに対し、技斗はそれらを用いない素手のアクションが中心である。なお、技斗は現代殺陣ともいう。またチャンバラを剣殺陣ということもある。しかし、殺陣の本道は時代劇であり、現代殺陣、剣殺陣などの表現は正しくなく、殺陣=時代劇であるべきであると殺陣師の室町大助氏はいっている。また数カ月アクションを習ったものがアクションを下地に殺陣師を名乗り指導する者が近年多く、その事による事故などの危険性と日本が誇る伝統芸能である殺陣の真髄の保守もこれからの演劇には必要だと室町は語っている。故林邦史朗も同じ意見であった。

難度が高く危険の大きいシーンはスタントマンが演じることもあるが、これらのシーンも可能であれば俳優本人が演じたほうが作品の満足度は上がる。

俳優へ指導や人選をする者を殺陣師 / 演陣師(たてし)または技斗(擬斗・擬闘)スタッフと呼ぶ。殺陣師の上に位置する役職にアクション監督がある。アクション監督は殺陣師と違い、カメラアングルなどに関する権限も有する。日本のアクション監督に相応するのは、セカンドユニットの監督であるとされる。

→詳細は「アクション監督」を参照

ハリウッド映画では「アクションスーパーバイザー」と呼ばれており、格闘専門の指導スタッフは殺陣の振付師(ファイト・コレオグラファー)と呼ばれる。

殺陣とアクションの歩み[編集]

戦前の邦画アクションは時代劇の殺陣が中心で、現代活劇のアクションには技斗という名称もまだなく傍流の位置づけであった。『子連れ殺人拳』や『激殺! 邪道拳』では、千葉真一と戦闘相手のジャパンアクションクラブの演者は実際に殴打技・蹴り技を打撃し合い、これらをノーマルスピードからハイスピードへ切り替わりながらワンカットで撮影された。当時はCGがなかったためにこの技法が採用され、信憑性と凄みのある映像となっている。ほかにも五社英雄は斬られた時の効果音の開発や、鉄身を使って刃引きはしてあるものの重量は真剣と同じものを使用し、夏八木勲を主演に据えた『牙狼之介』と『牙狼之介 地獄斬り』では、様式美的な殺陣とは対極的なリアル感を表現していた。夏八木は「東映京都撮影所では竹光を使うが、五社さんの場合は鉄身だから刀と刀がぶつかると『パシャーン』といい音がして、火花が散ることもあった。五社さんは『刀は本当に当てろ。当てないと噓になるからな』と指示してくるのに対して、東映では腹すれすれで斬ったように見せる流儀があった」と様々な手法があることを語っている。

殺陣の類似例としては、西洋劇のステージ・コンバット(stage combat)があり、これは本当に攻撃や防御を行っているように効果的かつ安全に戦闘シーンを見せる技術をいう。

高瀬将嗣は『基礎から始めるアクション』で、1920年代から30年代のサイレント映画の俳優はスタントマンさながらの演技を行っていた。1923年の『要人無用』で主演を務めたハロルド・ロイドは、別の映画作品の撮影中に指を欠損する事故を負いながらも、時計台にぶら下がるアクションシーンを演じた。サイレント映画にはセリフがなく俳優の体当たりのアクションが演技の原点となっていた。その後、西部劇が登場したが、西部劇の格闘シーンはベア・ナックル・ファイトと呼ばれ、日本の現代活劇の殺陣にも影響を与えた。さらに、1970年代のブルース・リーの『燃えよドラゴン』(1973年)などの格闘シーンは、その後のアクション・スタイルを一変させた。以上を紹介している。

CG、特撮技術の進歩で役者と殺陣のあり方が変化している昨今だが、役者自身が鍛錬、研鑽を重ね、一途に殺陣を極める姿勢も伝統芸能として大切であると考える。



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