武田信玄
武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。正式な姓名は、源 晴信(みなもと の はるのぶ)。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。
甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。
出生から甲斐守護継承まで[編集]
大永元年(1521年)11月3日、甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際、既に懐妊していた大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したといわれている。
また、甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し、有力国衆が台頭していたが、信玄の曽祖父にあたる武田信昌期には守護代跡部氏を滅ぼすなど、国衆勢力を服従させて国内統一が進んでいた。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府。家臣団組織が整備され、戦国大名として武田氏の地位が確立されていた。
傅役は不明だが、『甲陽軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。土屋昌続の父、金丸筑前守も傅役であったと伝わる。
甲斐武田家の嫡男[編集]
大永3年(1523年)、兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。
大永5年(1525年)、父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『甲陽軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り、太郎を徐々に疎むようになったと言う。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)、扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘・「上杉の方」が晴信の正室として迎えられた。これは政略結婚であるが、晴信との仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で上杉の方も子も死去している。
元服と初陣[編集]
天文5年(1536年)3月、太郎は元服して、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、名前を晴信と改める。官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継いで武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『甲陽軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり、勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑問視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し、信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武田家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『甲陽軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『甲陽軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
武田信虎の駿河追放と家督相続[編集]
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平の戦いにも参加しているが、『高白斎記』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する。しかしこの直後に上杉憲政に信濃佐久郡を掠め取られた。
信濃攻め[編集]
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち、信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていた。晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行った。
天文11年(1542年)3月、瀬沢の戦いがあった(諸説あり、瀬沢の戦い参照)。
天文11年(1542年)6月、武田晴信は諏訪氏庶流である伊那の高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、桑原城の戦いで諏訪氏は和睦を申し入れ、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している。
天文11年(1542年)9月25日、武田軍と高遠頼継軍が信濃国宮川で戦った(宮川の戦い)。武田方はこれを撃破して諏訪を掌握する。
天文12年(1543年)、武田方はさらに信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて、自害に追い込んだ。
天文14年(1545年)4月、上伊那郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した(高遠合戦)。
天文13年(1544年)、父・武田信虎時代は対立していた後北条氏と和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に貸しを作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで勝利し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
今川・北条との関係が安定したことで、武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。
天文16年(1547年)、関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である『甲州法度之次第(信玄家法)』を定めている。
天文17年(1548年)2月、晴信は北信地方に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原の戦いにおいて武田氏方は村上義清方に敗れ、宿老の板垣信方、甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原長時軍を撃破した。
天文19年(1550年)7月、晴信は松本盆地に侵攻する。これに対して仁科盛能は武田方に内通し、小笠原長時には既に抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清の下へ逃走した(林城の戦い)。こうして松本盆地は武田の支配下に入った。
天文19年(1550年)9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる敗戦を喫した。
天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の調略で砥石城が落城すると、武田氏軍は次第に優勢となった。
天文21年(1552年)8月、武田晴信軍は3000人の兵で仁科氏庶流小岩盛親が500人で守る小岩嶽城を攻略した。
天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎(後の上杉謙信)の下へ逃れた(葛尾城の戦い)。こうして東信地方も武田家の支配下に入り、晴信は北信地方を除き信濃をほぼ平定した。
第1次川中島の戦い[編集]
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
武田軍は村上義清の葛尾城を落とす。この後、武田軍は5月八幡にて村上義清に敗れ葛尾城を奪還される。9月武田軍は塩田城を落とす。武田軍の先鋒は9月の布施の戦いにて撃破された。上杉謙信は信濃領内に侵攻し、荒砥城、虚空蔵山城を落とし、青柳城と苅屋原城を攻めたが武田晴信は決戦を避けた。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。
同年8月には景虎の支援を受けて大井信広(武石城主)が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
甲相駿三国同盟の締結[編集]
武田晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男武田義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男北条氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。
これにより、今川氏と北条氏も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。甲相駿三国同盟同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は長尾景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。
木曽・下伊那・美濃恵那の平定[編集]
天文23年(1554年)、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して信濃南部を安定化させた。これと同時期に、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ美濃恵那郡の岩村遠山氏・苗木遠山氏の両遠山氏も信玄に臣従してきたために、美濃を支配する斎藤道三・義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった。
第2次川中島の戦い[編集]
天文24年(1555年)、武田方の善光寺別当・栗田永寿が旭山城(長野県長野市)に籠る。これに対し、長尾景虎は裾花川を挟んで対岸に葛山城を築城。
天文24年(1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した。
今川義元の仲介で和睦、両軍は撤兵。和睦条件に武田方の旭山城破砕があり、破砕された。
弘治2年(1556年)、長尾家家臣の大熊朝秀が離反し、会津の蘆名盛氏と共に越後に侵攻するが撃退された。
第3次川中島の戦い[編集]
弘治3年(1557年)2月15日、信玄は葛山城を調略で落とした。
弘治3年(1557年)、晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。この戦いは、上野原の戦いともいう。
弘治3年(1557年)、室町幕府の第13代将軍・足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。
一連の戦闘の結果、北信地方の武田氏勢力は拡大した。
永禄2年(1559年)3月、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地の高梨氏館(中野城、長野県中野市)を落とされ、飯山城(長野県飯山市)に後退した。長尾景虎は残る長尾方の北信国衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになった。
永禄2年(1559年)、永禄の飢饉が発生。甲斐国が大規模な水害に襲われる。
出家[編集]
永禄2年(1559年)2月、第三次川中島の戦いの後に出家した。 『甲斐国志』に拠れば、晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。
出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。
第4次川中島の戦い[編集]
その間も信玄は北信侵攻を続けていた。永禄4年(1561年)4月、上杉政虎(永禄4年(1561年)3月、長尾景虎より改名)が後北条氏の小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。この間に信玄は信濃に海津城(長野県長野市松代町)を築城。割ヶ嶽城(現長野県上水内郡信濃町)を攻め落とした。参謀の原虎胤が負傷。代わって、山本勘助が参謀になる。
信玄は甲相同盟の後北条氏の要請に応じて信濃に出兵。これを受けて政虎(永禄4年(1561年)8月より輝虎に改名)は川中島の善光寺に出兵した。
永禄4年(1561年)8月、第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である副将武田信繁をはじめ重臣室住虎光、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第4次川中島合戦で信濃侵攻は一段落し、信玄は西上野侵攻をさらに進めた。
第5次川中島の戦いと西上野侵攻[編集]
永禄7年(1564年)、上杉謙信が武田軍の飛騨国侵入を防ぐために川中島に出陣したが、信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣するのみで、にらみ合いで終わった。
弘治3年(1557年)より、信玄は川中島の戦いと並行して西上野侵攻を開始したものの、山内上杉家の長野業正が善戦した為、当初は捗々しい結果は得られなかった。
永禄4年(1561年)、業正が死去すると、武田軍は跡を継いだ長野業盛を攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した。これにより箕輪城は対後北条氏の最前線となる。
元亀2年(1571年)12月、甲相同盟が回復すると後北条氏との争いが止まった。甲相同盟は天正7年(1579年)3月まで続いた。
飛騨国内紛への介入[編集]
永禄7年(1564年)、武田氏が江馬時盛を、上杉氏が三木氏・江馬輝盛を支援して介入した。江馬輝盛は家臣団として飛騨先方衆に組み込まれている。
永禄7年(1564年)6月、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江馬輝盛は劣勢となり、武田氏方と通じる。
永禄7年(1564年)8月、上杉輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した(第五次川中島合戦)。信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
越中国への介入[編集]
永禄年間(1558年以降)に入ると、越中国の有力国人である椎名康胤は長尾景虎の従弟・長尾景直を養子に迎えた。同じく有力国人の神保長職は武田氏と同盟を結んで対抗した。信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係にあり、越中一向一揆も神保方を支援した。このため、越中の内乱は武田氏方の神保・一向一揆と上杉氏方の椎名による、いわゆる武田・上杉の代理戦争という形となった。
永禄11年(1568年)7月、椎名康胤が武田氏の調略に応じ、上杉氏から離反した。武田氏は越中国における家臣団・越中先方衆に椎名氏を組み込んでいる。
外交方針の転換と甲駿同盟の破綻[編集]
永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いにおいて、尾張国の織田信長に敗死。当主が今川氏真に交代したものの、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する美濃においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上、武田との関係改善を模索、信玄も木曽・東濃地域における両勢力の対立を避けたかった。こうした経緯から諏訪勝頼(後の武田勝頼)正室に信長養女が迎えられている。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じた。
永禄10年(1567年)、今川氏の甲州への塩止め(交易停止)が行われ、甲相駿三国同盟が破綻した。
永禄10年(1567年)10月、武田家において親今川派とされた嫡男の義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)。
駿河侵攻の開始[編集]
永禄11年(1568年)12月には遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始し、薩垂山で今川軍を破り( 薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城。
信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して永禄11年(1568年)甲相同盟は解消された(甲相同盟の「武田氏の駿河侵攻と甲相同盟の破綻」参照)。北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、永禄12年5月(1569年)に徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した。
甲越和与[編集]
この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第15代将軍に就いた足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、永禄12年8月(1569年)には上杉氏との和睦が成立した。
さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え、永禄12年10月(1569年)には小田原城を一時包囲。撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退した(これにより永禄12年(1569年)の第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した)。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた。
永禄12年(1569年)末、信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。 また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。
遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復[編集]
永禄11年(1568年)9月、将軍・足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。
永禄12年(1569年)6月、大宮城を攻め、降伏させる(第二次駿河侵攻を参照)。
永禄12年(1569年)10月、碓氷峠方面から信玄による小田原城侵攻。撤退の際に、三増峠の戦いが発生。この結果、後北条家は北条氏信(綱重)率いる蒲原城に援軍を回せなくなり、蒲原城が落城した(駿河侵攻の為の二正面作戦と見れる)。
元亀元年(1570年)1月、武田勝頼らが花沢城を攻め落とし、清水袋城を築城。 この結果、海に面した地域を手に入れたので、武田水軍を編成。徳一色城(田中城)を攻め落とす。
元亀元年(1570年)8月、駿河に攻め入り、信玄は黄瀬川に本陣を置き、軍勢を分けて韮山城を攻略、攻め落とせず。
元亀元年(1570年)12月、武田家臣の秋山虎繁は徳川氏を攻めるが、織田・徳川連合軍が小田子合戦(恵那市)にて秋山虎繁を破った。
元亀2年(1571年)2月、信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。
越中一向一揆との連携、甲相同盟を回復[編集]
元亀2年(1571年)4月、勝頼が加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して上杉謙信に対抗するよう求めた。
元亀3年(1572年)5月、顕如より総大将に任命された杉浦玄任率いる加賀一向一揆が、上杉方に対して挙兵した。これにより、謙信は元亀4年(1573年)8月まで、度々越中に出兵する必要があった。
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去。跡を継いだ嫡男の北条氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。
この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。
西上作戦[編集]
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し、外交関係が始まっており、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立している。織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。
また、元亀2年には甲相同盟が回復している。
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め入った。
信長はそれを知らず5日付けで信玄に対して武田上杉間での和睦の仲介に骨を折ったとの書状を送った。
信玄率いる本隊は、信長と交戦中であった浅井長政、朝倉義景らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川氏の諸城を1日で落とし進軍した。
山県昌景の支隊は柿本城、井平城(小屋城、 静岡県浜松市)を落として信玄本隊と合流した(仏坂の戦い)。秋山虎繁の支隊は、11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が秋山虎繁に包囲されて軍門に下った(岩村城の戦い)。
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。
10月14日、家康は武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。 信長は11月20日付けで上杉謙信に「信玄の所行、まことに前代未聞の無道といえり、侍の義理を知らず、ただ今は都鄙を顧みざるの私大、是非なき題目にて候」「永き儀絶(義絶)たるべき事もちろんに候」「未来永劫を経候といえども、再びあい通じまじく候」と書状を送っている。。
元亀3年(1572年)12月19日、武田軍は遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
三方ヶ原の戦い[編集]
劣勢に追い込まれた徳川家康は浜松城に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。
しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、朝倉義景はその後も動こうとしなかった。また、信玄も三方ヶ原の戦いの勝利の勢いに乗じて大沢基胤の堀江城を攻めているが、攻め落とせなかった。
最期[編集]
信玄は軍勢の動きを止め浜名湖北岸の刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。
元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
遺言[編集]
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
信玄の遺言については、遺骸を諏訪湖に沈めることなど事実では無く誤りである。信玄の墓は恵林寺に現存している。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて、信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。
死後・法要など[編集]
天正3年(1575年)3月6日、山県昌景が使者となり、高野山成慶院に日牌が建立される(『武田家御日牌帳』)。
天正3年(1575年)4月12日、『甲陽軍鑑』品51によると、恵林寺において武田勝頼による信玄三周忌の仏事が行われている。この時、恵林寺住職の快川紹喜が大導師を務め、葬儀が行われたという(『天正玄公仏事法語』)。同年5月21日に武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗れている。
天正4年(1576年)4月16日、勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われている。
江戸時代には寛文12年(1672年)に恵林寺において百回忌の法要が行われている。宝永2年(1705年)4月10日には恵林寺において甲府藩主・柳沢吉保による百三十三回忌の法要が行われている。柳沢吉保は将軍・徳川綱吉の側用人で、宝永元年(1704年)に甲府藩主となった。柳沢吉保は信玄を崇拝し、柳沢氏系図において武田氏に連なる一族であることを強調し、百三十三回忌法要では伝信玄佩刀の太刀銘来国長を奉納し、自らが信玄の後継者であることを強調している。
大正4年(1915年)11月10日、信玄は従三位を贈られる。
令和3年(2021年)11月3日、甲斐善光寺(甲府市)において「信玄公生誕500年祭大法要」が営まれ、信玄から数えて17代目の当主、武田英信らが参加した。
人物[編集]
信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文である。私的な文書は皆無で、人物像・教養について伺える資料・研究は少ないものの、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。
教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに収録され、恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している。
また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある。
『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代における蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学や人生訓に関する数々の名言が記されている。