橋本市蔵
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橋本 市蔵(はしもと いちぞう、1877年(明治10年)9月2日 - 1904年(明治37年)9月2日)は、日本の軍人。日露戦争(遼陽攻撃戦)戦歿者[1]。生没同日の人物。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
明治10年(1877年)9月2日、橋本順治(善右衛門)の三男として、兵庫県養父郡浅野村13番屋敷(現在地・兵庫県養父市浅野320番地)に生れる。母は橋本嘉左衛門三女・美津(みつ)。市蔵の父・橋本順治は、天保10年4月8日(1839年5月20日)、高岡義隣(嘉右衛門)の次男として、但馬国養父郡上野村(後の兵庫県養父郡上野村41番屋敷[2])に生れた[3]。順治の実兄は高岡義鑑(條右衛門)であり、叔父は満福寺第57世・弘融上人である[3]。
婚姻[編集]
順治は26歳の時、同郡浅野村(後の兵庫県養父郡浅野村13番屋敷[4])橋本嘉左衛門三女・美津(みつ)と縁談があり、元治元年12月28日(1865年1月25日)、美津と婚姻した。美津には先夫で婿養子の橋本才治郎がいたが、文久2年11月(1862年12月)、才治郎が死去したため、順治(善右衛門)は美津(みつ)の継夫として婿入し、橋本氏を継いだ。美津と才治郎との間には既に長男・弥蔵がいたため、順治は慶応4年1月7日(1868年1月31日)、弥蔵を自分の養嗣子とした[5]。その後、明治4年9月9日(1871年10月22日)、順治と美津の間に第一子(長男)・徳蔵が生れたが、順治は弥蔵を養嗣子としていたため、明治27年(1894年)1月26日、徳蔵を中島泊子(とまこ)の養嗣子とさせて中島家を継がせた。その後生まれた順治と美津の第二子(次男)は夭逝。第三子(長女)・止利(とり)は、順治の実兄・高岡義鑑(條右衛門)の嗣子・高岡良蔵と婚姻。さらに高岡義鑑の次女・芳子(よしこ)が、橋本弥蔵の妻となり、橋本家と高岡家は双方縁組をすることで親族関係を深めた[5]。橋本市蔵は、止利(とり)の実弟で、橋本順治の第四子(三男)にあたる。橋本家は市蔵の義兄・弥蔵が継ぐことになるため、市蔵は20歳の時、(明治29年(1896年)3月31日)橋本家の分家・橋本治右衛門の長女・磐子(いわこ)に婿入することで、橋本治右衛門家の養嗣子となった[6]。
日露戦争[編集]
明治30年(1897年)11月22日、橋本市蔵に待望の長男・忠一が誕生した。喜びも束の間、明治37年(1904年)2月9日、日露戦争の開戦に伴い市蔵は出征。橋本市蔵は、9月2日遼陽攻撃戦に於いて壮絶なる最期を遂げ戦死した[1]。この日は、奇しくも市蔵の誕生日(生没同日)でもあった[1]。享年28歳。
市蔵の遺児・忠一はのち大阪に移住。また弥蔵の長男がのちに広谷町長を務めた橋本巻蔵である[7]。
記念碑・ゆかりのもの[編集]
- 『英霊碑』- 橋本市蔵の芳名がある (所在地・兵庫県養父市立養父体育館西隣、養父市やぶ保健センター敷地東南角)
- 『産霊神社奉納手水鉢』- 橋本市蔵の奉納による (所在地・兵庫県養父市浅野52-1)
- 『満福寺墓地』- 橋本市蔵の実父・橋本善右衛門順治、実母・美津らの墓がある
補註[編集]
参考文献[編集]
- 『養父町史』養父町史編纂委員会、1999年
- 『明治三七八年日露戦史』参謀本部編
- 『郷土偉人傳・橋本市蔵』
- 『靖國神社御祭神資料』
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