桃太郎
桃太郎(ももたろう)は、日本のおとぎ話の一つ。桃の実から生まれた男子「桃太郎」が、お爺さんお婆さんからをもらって、イヌ、サル、キジを家来にし、鬼ヶ島まで鬼を退治しに行く物語。
内容[編集]
桃太郎物語は、以下のような粗筋のものが「標準型」となっている。
桃から生まれた桃太郎は、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征、道中遭遇するイヌ、サル、キジをきび団子を褒美に家来とし、鬼の財宝を持ち帰り、郷里に凱旋する。
この「標準型」とは明治から現在に至り教科書や絵本を通じて普及した「桃太郎」を指す。作品によって場面ごとの違いはあるが、どの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。
異本[編集]
より古い系統の桃太郎説話は、この「標準型」とは異なるものである。とりわけ桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする型(「果生型」)が今や一般的だが、これは19世紀初頭にはじめてみられるもので、それまでの草双紙では桃を食べたお爺さんお婆さんが若返り出産する型(「回春型」)が主流だった。
口承文学の異伝[編集]
口承話では「果生型」が多いとされている。
その他、桃太郎の誕生の仕方については<赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた>など差異のあるものが多数伝わっている。赤い手箱と黒い手箱の場合や、箱の中に桃が入っている場合も、特に東北や北陸を中心に確認できる。
桃の割れる経緯についても「たんす」や「戸棚」や「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生するなど、民間での語り伝えは一様でなかった。
桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合もあるが、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする話が主に四国・中国地方にみられる。
成り立ち[編集]
由来[編集]
特定の伝説に拠る物語の由来については諸説存在し、それぞれ論争のあるところである。桃太郎の起源を岡山とする説に関して、戦前の頃までその支持は、愛知県や香川県をゆかりとする説に大きく後れを取っていたが、1960年以降の岡山地域の促進運動によってその知名度が上がっている。詳しくはゆかりの地を参照。
成立過程[編集]
物語としての成立年代は正確には分かっていないが、原型(口承文学)の発祥は室町時代末期から江戸時代初期頃とされる。
以後、江戸時代の草双紙の赤本のち豆本や黄表紙版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まった。現存最古の文献は赤小本『もゝ太郎』(享保8年/1723年刊行)とされるが、かつて研究された原典にはこれより古い元禄以前の『桃太郎話』、元禄頃の『桃太郎昔語り』なども現存していた。
小池の分類法[編集]
多くの江戸期の原典を収集・筆写・比較研究した小池藤五郎は、最も古い諸本を「第一系統本」(『桃太郎昔語』等)とした。第一系統本では登場人物は「とう団子」をこしらえており、そこから派生した第二系統本(前述の享保刊行『もゝ太郎』等)になってこれが「日本一のきびだんご」に変じたと論じている。他の違いとして、爺が草刈りに行くか、柴刈りに行くかの相違を挙げている。これには曲亭馬琴の『燕石雑志』(文化8年/1811年)や瑞鳥園齋守こと賀茂規清(1798-1861)著の『雛迺宇計木(ひなのうけぎ)』などたくさんの資料が含まれる。
馬琴の『童蒙話赤本事始』では「桃太郎」は五大昔噺の冒頭を飾る。
回春型と果生型の成立順序[編集]
小池は慈雲院命鑑玖誉『太郎物語』(慶長5年/1600年)を原話にちかいものとみなしており、そこにあるような夫婦が神仏頼みで子を得た話が最も古い原型で、次いで夫婦が若返り子をもうけた形(「回春型」)、最後に「桃から生まれた桃太郎」(「果生型」)が登場したと提唱した。
近年の研究では「回春型」が「果生型」より先んづるとする論に賛成する意見も、同調するには慎重な意見もうかがえる。
島津久基は「桃から生まれた桃太郎」のほうが古い形態であると主張し、小池と島津の両者は激しく対立している。大正末頃には、気比神宮の建築装飾が果実型の物語の早期成立を示すものであると指摘されたが、小池は桃太郎を模した作である証拠がなく、神宮で祀られる神の物語と伝える説が正しいと見た(§気比神宮に詳述)。
あくまで文献資料(草双紙)で見る限り、「桃から生まれた」話はより新しい系統の馬琴作『燕石雑志』(1811年)や『童話長篇』(1830年)等の作品にみられるとされる。なお、式亭三馬作『赤本再興桃太郎』(文化9年/1812年)においては桃が2個流れてきて、ひとつを食した老夫婦は若返り、もうひとつから桃太郎が生まれ、この異本の特色となっている。
前述したように、こうした江戸期の文献(草双紙など)では、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす「回春型」桃太郎が主流であった。たとえば赤本『桃太郎昔語』(刊行年不詳)には、若返りした媼が桃太郎を出産する挿絵がある。
明治時代が近づくにつれて桃から生まれた「果生型」桃太郎が、より多くみられるようになった。
気比神宮[編集]
福井県敦賀市、慶長19年(1614年)に再建された気比神宮本殿の桁梁には、割れた桃から出現する男の彫刻像があった(敦賀空襲により像は焼失)。四隅にそれぞれの装飾があり、童話の起源を物語るものと同社の略記に書かれており、他は浦島太郎、因幡の白兎、三猿だったとの回答を宮司(1956年時)から得ている。また、同社ではある時代から桃から生まれる嬰児の粘土細工の土産も売られていた。
これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て"桃から桃太郎が生まれた"図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも"何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した。
小池の見立てでは、この顔は幼児というより老人っぽく、髪をみずらに結っていた。神宮では、これを主神の伊奢沙別命(イザサワケノミコト)による大陸遠征の物語とする説があるが、何ら古文書に無く、日中戦争の1940年頃に喧伝されていたものなので時局に便乗した産物でないかと疑われるが、小池は最終的にその疑いを払拭して、この説を支持する結論に達している。
この像を桃太郎と見て特に疑わない意見もあり、美術史家の源豐秋(源豊宗)の論文(1923年)は安土桃山時代の桃太郎彫刻と鑑定し、中村直勝(1935年)も源豊宗の結論を引いており、のち俳人の志田義秀の『桃太郎概説』(1941年)も、本殿再建の慶長19年の彫刻と時代を遅らせているが桃太郎であることに異議を唱えていない。
鬼から奪った財宝[編集]
江戸期の文学では、桃太郎が持ち帰る財宝は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、金銀、延命袋(第一系統、第二系統)などである。第三系統の『桃太郎一代記』(北尾政美画 天明元年/1781年)などで金銀宝玉やさんごが加わってくる。20世紀に入ると、その宝が「金銀珊瑚綾錦」であることが常套句のようになってもちいられているが、昭和期の童話の出版物でも、これらの他にあいかわらず隠れ蓑や打ち出の小槌も加わっていた。
標準型[編集]
1887年(明治20年)に国定教科書(『尋常小学読本』巻1)に採用される際にほぼ現在の「標準型」のあらすじの桃太郎物語が掲載された。だが1904年の第1期『尋常小学読本』の際には桃太郎はいったん教材からはずされた。1910年の第2期『尋常小学読本』にて復活したが、このころ童話作家の巖谷小波が文部省嘱託となっていて桃太郎の執筆に大きくかかわっている(事実上の執筆者である)と考えられている。小波は、1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられており、これもその後の語り伝えに大きく影響した。
桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのはこの明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴にされたのである。太平洋戦争の終焉まで、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材などに日本国内で広く利用された。
その後も語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。
唱歌[編集]
唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の『尋常小学唱歌』に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。
- 桃太郎
- 桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
- やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
- 行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。
- そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
- おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
- 万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。
現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者ともに歌詞の意外性、残酷性が取り上げられることがある。
また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。1900年(明治33年)の『幼年唱歌』に登場。
- モモタロウ
- 桃から生れた桃太郎、氣はやさしくて力持、鬼ケ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。
- 日本一の黍團子、情けにつきくる犬と猿、雉ももらうてお供する、急げ者どもおくるなよ。
- 激しいいくさに大勝利、鬼ケ島をば攻め伏せて、取つた寶は何々ぞ、金銀、珊瑚、綾錦。
- 車に積んだ寶もの、犬が牽き出すえんやらや、猿があと押すえんやらや、雉がつな引くえんやらや。
地域別の口承伝説[編集]
- 岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり、鬼に酒を飲ませて退治したりする例もある。
- 香川県高松市鬼無町では桃太郎が女の子だった、とする話がある。おばあさんが川から持ち帰った桃を食べ、若返ったおじいさんとおばあさんに子どもができ、男の子のように元気のいい女の子が生まれる。そして、あまりに可愛いので鬼にさらわれないよう桃太郎と名づけ育てた、というもの。成立の経緯は、讃岐国司だった菅原道真が「稚武彦命が三人の勇士を従えて海賊退治をおこなった」という話を地元の漁師から聞き、それをもとにおとぎ話としてまとめたものであるという。
- 岩手県紫波郡には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、越後、佐渡(現・新潟県)の「桃太郎」では桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は陰部の隠語でもあるという。
- 岩手県の別の語りでは、桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べているすきに地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である。
- 福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。きび団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島県・愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある。
- 東京北多摩(現・東京都多摩地域北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに猿蟹合戦の変型とする見方もある。
- 山梨県大月市には「岩殿山(九鬼山という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「百蔵山には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「上野原市の犬目で犬、鳥沢でキジ、猿橋でサルを拾った」等のいわゆる「大月桃太郎伝説」が存在する
- 南西諸島の沖永良部島(鹿児島県大島郡)では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、そのふたの裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである。
- 沖縄県宮古島の古謡「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」では、1500年のオヤケアカハチの乱に参戦した豪族の一人に桃多良(むむたらー)の名があり、この時期までの沖縄への桃太郎伝承の伝播の可能性が論議されている。
その他[編集]
- 語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。
- 「桃太郎」は日本統治時代の台湾に伝わり、台湾には「桃太郎村」というアミューズメント施設が存在した。
- 屏東県の客家地域では、桃太郎一行が山に入り、虎退治(虎狩り)をして、虎の皮や肉を持ち帰ったと伝えられているが、山賊退治して財宝を持ち帰ったバージョンもある。新竹県のタイヤル族には、桃太郎一行が鬼城へ鬼退治に行ったバージョンがある。
ゆかりの地[編集]
ゆかりの地とされる場所は全国にあるが、その中でも特に岡山県が最有力地とされており、全国で唯一、岡山だけが『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として文化庁からゆかりの地として正式に認定されている。
岡山県は、桃太郎作中の「きび団子」と同音の江戸時代の地元土産品「吉備団子」を関連付けるなど、全県を挙げての宣伝活動からゆかりの地として全国的に有名となり、現在は桃太郎の像なども存在する。岡山を発祥地とする主張の三大根拠とされるのが、吉備団子、桃、そして,吉備津彦命の温羅退治伝説であるとされている。
「黍団子」が「吉備団子」に通じることから、桃太郎は「吉備国」(現在の岡山県)とゆかりがあるとの論旨が生まれた。しかし古い系統本の物語説話では「とう団子」等であることが指摘されており、本来そのような関連性はないとされる。ちなみに商品として広く知られる吉備団子は、きび団子にちなんで江戸末期に売り出された物である。
岡山県ゆかりの由来説として、第7代孝霊天皇の皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)の温羅退治伝説に桃太郎説話の原話を求める説がある。岡山市の吉備津神社の縁起物など(古くは16世紀末の文献)に記録される伝説であるが、時代設定は第11代垂仁天皇の御代であり、温羅の居城は備中国鬼ノ城とされているので桃太郎討伐の鬼に見立てられている。これは学界ではなく在野の説で、地元岡山市の難波金之助なる塑像家が昭和初期に提唱したのを嚆矢とする。
古代吉備は、大和に匹敵する勢力を誇っていた。しばしば大和と対抗し屈服したことが『日本書紀』や『古事記』からうかがえ、吉備津彦命と温羅との戦いは、実は大和と吉備の対立を反映したものといわれる。
似た俗説が明治時代、日本一吉備団子を販売する広栄堂の主人が執筆したなかにもみえる。そこでは桃太郎のモデルを神武天皇という仮説を立てており、さらに吉備津彦命はその昔、この天皇に手ずから吉備団子を献上したという言い伝えを記している。
吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)という部下がいた。犬飼、猿飼部の楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の留玉臣命(とめたまおみのみこと)という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したともされているが、この家来たちを桃太郎の逸話に置き換えると「犬飼健=犬」「楽々森彦=猿」「留玉臣=雉」となるとする説がある[要出典]。
岡山県の血吸川(笹ヶ瀬川の支流)も桃太郎の桃が流れた川、あるいは桃太郎との戦いで傷を負った鬼の血が流れた川だと、温羅伝説に伝わる。
彦五十狭芹彦命(吉備津彦)の故郷である奈良県磯城郡田原本町では、桃太郎生誕の地として黒田庵戸宮(廬戸宮)を観光PRの一つとして取り上げている。
以下は桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体とそのゆかりの場所。
- 岡山県岡山市
- 吉備津神社
- 吉備津彦神社
- 笹ヶ瀬川
- 鬼ノ城(総社市)
- 中山茶臼山古墳
- 矢喰宮
- 楯築遺跡 (倉敷市)
- おかやま桃太郎まつり
- 岡山空港(岡山桃太郎空港)
- 香川県高松市
- 田村神社 (高松市)
- 熊野権現桃太郎神社
- 女木島 (鬼ヶ島)
- 鬼無