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松本清張

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松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 - 1992年8月4日)は、日本の小説家。

1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。

緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。

呼称[編集]

「せいちょう」はペンネームで、本名は「きよはる」と読む。

音読みのペンネームは小説家の中山義秀(「なかやま ぎしゅう」、本名は「議秀」(よしひで))に倣ったもの。もっとも清張は、「ぎしゅう」が本名であると勘違いをしていた。

編集者は、1950年代中盤まで清張を「きよはる」と読んでいた。

出生地[編集]

公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生まれとされ、多数の刊行物また北九州市立松本清張記念館によるものを含め、大半の資料の年譜において、小倉生まれとされている。しかし小倉は出生届が提出された場所で、清張自身は1990年の『読売新聞』のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島」と話しており、実際には広島県広島市で生まれたと推察される。

また松本清張記念館に展示される清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、広島市内の実在する地名「広島京橋」と、広島市内に実在した写真館の名前がはっきりと記載されている。 光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している。後年、櫻井は板櫃村(現・小倉北区)に行き、清張の家族が住んでいたと覚しき町を歩いたが、この頃の住民は清張の家族がどこに住んでいたか誰も知らなかったという。

この他、清張自身「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」と記述している『父系の指』の中で「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いており、清張研究の第一人者といわれる郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原は「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」「清張の出生地は広島」としている。郷原はこの「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)と推定している。

『松本清張の残像』(2002年)の中で、「松本清張は広島生まれ」と指摘した松本清張記念館館長・藤井康栄は「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」としつつも、2009年に『朝日新聞』(12月10日付29面)や『中国新聞』(5月28日付11面)の紙上で、清張は広島生まれとしたうえで、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している。ただ藤井が「松本清張は広島生まれ」と指摘して以降、清張関連文献に於いて「広島生まれ」と記述するものが増えてきている。 日外アソシエーツは2014年刊行の『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』で、松本清張の出生地を「広島県広島市」と記載している。清張自身が「広島で生まれた」と話し、藤井が「松本清張は広島生まれ」と公表したものの、藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れる一方、現在も「小倉生まれ」との見解をとっている。清張には、清張本人以外に"公式"なる存在があるという奇妙なことになっており、それは松本清張記念館と考えられるが、公立の文学館が広島生まれを証明する物証を展示しながら、なお「小倉生まれ」と言い張らざるを得ない理由として、清張を「広島生まれ」と認めてしまうと、清張は10歳〜11歳頃から小倉で育ったとされるため、「小倉出身」「北九州出身」とは言えない状況が生まれるためと考えられる。

清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが、以降、年譜関連の記述では出生地を福岡県小倉市(または単に福岡県)と記される。ただ清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と発言・記述したことはない。なお『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったことも指摘されている。この点について郷原宏は「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している。2010年の広島市郷土資料館展示では、清張の広島出身の可能性が、多くの資料により検証されている。

映像化[編集]

  • 『張込み』『砂の器』『鬼畜』『疑惑』『天城越え』など、清張原作による映画作品は知名度の高いものが多い。また、処女作『西郷札』から、晩年の長編『犯罪の回送』まで、テレビドラマ化された作品の幅は広い。テレビドラマ化された回数は、2023年現在、470回以上に及んでいる。
  • NHK土曜ドラマの「松本清張シリーズ」では、12作すべてに俳優としてカメオ出演している。

メディア出演[編集]

映画[編集]

  • 白と黒(1963年、東宝)
  • 風の視線(1963年、松竹)

テレビ[編集]

  • 土曜ドラマ(1975年10月18日 - 1978年10月28日中の計12回、NHK) 演じた役柄は以下の通り。 闇市の洋モク売り(『遠い接近』)、病院の雑役夫(『中央流沙』)、タクシードライバー(『愛の断層(原作『寒流』)』)、遊園地の整備員(『事故』)、経済評論家(『棲息分布』)、雑貨屋の主人(『最後の自画像(原作『駅路』)』)、花屋の主人(『依頼人』)、大物政治家(『たずね人』)、巡礼者(『天城越え』)、ファッション界の大物(『虚飾の花園(原作『獄衣のない女囚』)』)、裁判長(『一年半待て』)、ベテラン刑事(『火の記憶』)
  • この人と語ろう(1975年12月15日、NHK)
  • 戦後汚職の軌跡(1976年8月16日、NHK)
  • 新日本史探訪「海人族 - 黒潮と日本人」(1976年9月28日、NHK)
  • 散歩道(1977年5月17日、NHK)
  • 人に歴史あり(1977年12月、東京12チャンネル)
  • 古墳を推理する - "高松塚"以後(1977年9月23日、NHK教育)
  • 放送に期待するもの(1978年5月23日、NHK)
  • ルポルタージュにっぽん - 松本清張・明日香マルコ古墳を行く(1978年6月10日、NHK)
  • ヤマタイ国幻想 - ヒミコはどんな女だったか(1979年2月11日、NHK)
  • 歴史随想 - 清張歴史游記(1979年4月3日 - 9月4日、NHK教育、全5回)
  • 清張古代史をゆく - ペルセポリスから飛鳥へ(1979年4月23日・30日、NHK、全2回)
  • 謎の国宝・七支刀(1981年2月9日、NHK)
  • 歴史への招待(1981年7月25日・1982年10月13日、NHK)
  • ドキュメンタリー「ブラウン管の一万日」 <テレビ放送開始30周年記念番組> ―テレビは何を映してきたか―(1983年1月31日、NHK)
  • 知られざる古代 - 日本海五千年(1983年11月5日、NHK)
  • 松本清張、密教に挑む - マンダラに宇宙を見た(1984年3月27日、テレビ朝日)
  • ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる(1984年4月12日 - 9月27日、テレビ朝日・朝日放送)
  • 文化講演会「ペルセポリスから飛鳥 そして奈良へ」 (1988年3月21日、NHK教育)
  • ミッドナイトジャーナル(1991年9月13日、NHK)
清張の菊池作品に対する評価は、芥川龍之介や志賀直哉の作品に比べても高い。
  • 「芥川を讃美するのはよいが、芥川作品の構成の脆弱よりも、寛の鉄骨で組み立てたような構造の見事さは、もっと再評価されてよいのではなかろうか」(『随筆 黒い手帖』)
  • 「菊池だったら文章に効果的な省略はあっても、肝要なところは手抜きなどしないで、きっちり書くだろうと思われるのである。それは志賀と菊池の生活経験の違いから来る。『暗夜行路』の主人公は(中略)居所を転々とし、その間「放蕩」などするような自分の使う金に反省がないのみならず、社会的感覚がまったくなく、あるのは都合のいい自己だけである」(『形影 菊池寛と佐佐木茂索』)
木村毅
16 - 17歳の清張が強い感銘を受けた『小説研究十六講』について「その前から小説は好きで読んでいた。しかし、小説を本気で勉強したり、小説家になろうとは思っていなかった。だが、この本を読んだあと、急に小説を書いてみたい気になった。それほどこの本は私に強い感銘を与えた」「(思い出の一冊にとどまらず)いまでも私に役立っている」と言っている。清張のこのエッセイを読んだ木村は「私のながい文学生涯において、これほど私にうれしかった文章はめったにない(中略)、若き松本清張君の訪問は、私をよろこばせ、自信をつけ、再生の思いをさせた」。鶴見俊輔によれば、『小説研究十六講』は「昭和初期まで相当の影響力を持っていた」はずだが、文学者の「最初に自分の眼をひらいてくれた本のことをあまり言いたがらない習慣」ゆえに、無視されるようになったという。
小倉から東京へ転居した際、清張は真っ先に木村の自宅を訪問し、その後も交流を続けた。「(清張は)会見後はいよいよ私の支持者となって、ただに『小説研究十六講』ばかりか、私の書くたくさん著作を飽きもせず渉猟して、埋没した明治史の発掘者として、文藝春秋社のどれかの雑誌に講演をして、長々と私をほめ、「えらい人」と言っている」。清張の『暗い血の旋舞』に先立ち、クーデンホーフ光子の伝記を残している。
木村の死去に際して清張は「葉脈探求の人-木村毅氏と私」を書き、追悼した。同文中で清張は「それまで私は小説はよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて例証し、創作の方法や文章論を尽くしたこの本に、私を眼を洗われた心地となり、それからは小説の読み方が一変した。」「高遠な概念的文学理論も欠かせないが、必要なのは小説作法の技術的展開である。本書にはこれが十分に盛られていた。」「私は33歳のころまで乏しい蔵書を何度か古本屋に売ったことはあるが、この「小説研究十六講」だけは手放せず、敗色濃厚な戦局で兵隊にとられた時も、家の者にかたく保存を云いつけて、無事に還ったときの再会をたのしみにしたものだった」と述べている。
水上勉
1952年以降は文筆活動から遠ざかっていたが、清張の活動に刺激を受け、1959年に推理小説『霧と影』を発表、その後は社会派推理作家として認められた。水上は清張から取材・執筆のアドバイスを与えられ、直木賞受賞作品『雁の寺』は激賞を受けたという。
大岡昇平との論争
『日本の黒い霧』掲載誌の文藝春秋には好意的な評価も寄せられる一方、作家の大岡昇平は、
「私はこの作者の性格と経歴に潜む或る不幸なものに同情を禁じ得なかったが、その現われ方において、これは甚だ危険な作家であるという印象を強めたのである。「小倉日記」「断碑」は、国文学や考古学の町の篤学者が、アカデミズムに反抗して倒れる物語である(中略)。学問的追及を記述するという点で、推理小説の趣きであるが、推理がモチーフではない。と言って感傷的な悲憤慷慨小説でもないので、学界、アカデミズムというものの非情さと共に、それに反抗して倒れて行く主人公の偏執も、冷たく突放して描いてある。後日社会的推理小説家になってから書いた「小説帝銀事件」「日本の黒い霧」は、朝鮮戦争前夜の日本に頻発した謎の事件を、アメリカ謀略機関の陰謀として捉えたものであり、栄えるものに対する反抗という気分は、初期の作品から一貫している。しかし松本の小説では、反逆者は結局これらの組織悪に拳を振り上げるだけである。振り上げた拳は別にそれら組織の破壊に向うわけでもなければ、眼には眼の復讐を目論むわけでもない。せいぜい相手の顔に泥をなすりつけるというような自己満足に終るのを常とする。初期の「菊枕」「断碑」に現われた無力な憎悪は一貫しているのである」
「(『日本の黒い霧』が)政治の真実を書いたものと考えたことは一度もない」「無責任に摘発された「真相」は松本自身の感情によって歪められている」「彼(清張)の推理は、データに基づいて妥当な判断を下すというよりは、予め日本の黒い霧について意見があり、それに基づいて事実を組み合わせるというふうに働いている。」
と批判した。
大岡の批判に対して、清張は、
「(真実を)描き出していないと断定する以上、大岡氏はその真実の実際を知っていなければならぬ」
「大岡氏がどれだけ真実の実際を知っておられるか教示を乞いたいものである」
「『日本の黒い霧』をどういう意図で書いたか、という質問を、これまで私はたびたび人から受けた。これは、小説家の仕事として、ちょっと奇異な感じを読者に与えたのかもしれない。だれもが一様にいうのは、松本は反米的な意図でこれを書いたのではないか、との言葉である。これは、占領中の不思議な事件は、何もかもアメリカ占領軍の謀略であるという一律の構成で片づけているような印象を持たれているためらしい。そのほか、こういう書き方が「固有の意味での文学でもなければ単なる報告や評論でもない、何かその中間めいた"ヌエ的"なしろもの」と非難する人もあった。これも、私という人間が小説家であるということから疑問を持たれたのであろう。私はこのシリーズを書くのに、最初から反米的な意識で試みたのでは少しもない。また、当初から「占領軍の謀略」というコンパスを用いて、すべての事件を分割したのでもない。そういう印象になったのは、それぞれの事件を追及してみて、帰納的にそういう結果になったにすぎないのである。」
「「松本清張批判」をよく読んでみると、これは単独に私に向けられた矢だけとは思えない。私への批判はその間に、伊藤整氏、平野謙氏という二枚のフィルターが嵌められていて、光線が水中で屈折するがごとく向かってくる」
「(大岡の言う)個人の拳が組織の悪を散々に破壊する力を持たないことは明白であり、そのようなものを書こうとしたら、チャチな活劇映画も顔負けするような茶番になる」
「大岡氏の一連の「常識的文学論」は、多分に実証的批評で大変面白かったが、こと「松本清張批判」に関する限り、蓋然たる気分でものを云っておられると思う」
と反論している。。
司馬遼太郎
清張と同様に直木賞選考委員を務めた(第62回 - 第82回、清張は第45回 - 第82回)。清張との対談も行っており、両者の人間観・歴史観の差異をうかがうことができる。
司馬が日本の歴史上しばしばとりあげた時代は、戦国・安土桃山時代や幕末・明治期であるが、清張が得意としたのは、江戸時代を思わせる時代小説を別にすれば、奈良時代以前の古代と昭和期であった(両者ともに例外多数)。また、終生森鷗外に関心を持っていた清張に対し、晩年の司馬は夏目漱石を評価している。
1994年の『文藝春秋』創刊1000号記念特集号にあたり、同誌への執筆回数を相撲の番付形式で紹介しているが、清張は東横綱、司馬は東大関とされており(なお西横綱は井上靖、司馬の死去は1996年)、昭和期の同誌における両者の存在感の大きさがわかる。
三島由紀夫
1963年、中央公論社が文学全集『日本の文学』を刊行する際、中央公論社側は清張をラインナップに加えたい意向を示したが、三島由紀夫は反対・拒否した。川端康成は「松本清張を入れるのは私はいいと思う」、谷崎潤一郎は「松本清張がだめなら、菊池(寛)もだめなんじゃないか」と述べ、中央公論社の社長の嶋中鵬二が妥協案を示したが、三島は「清張の文学をぼくは認めない」と譲らなかった。
清張と三島の会話の記録としては、『文藝』に掲載された座談会「現代の文学と大衆」がある。『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻・1969 - 1970年)出版の際は、清張と共に編集委員を務めた。
清張の三島評として、1978年の国文学者・三好行雄との対談や、『過ぎゆく日暦』収録の日記などがある。三好との対談で清張は「三島由紀夫があんなふうに最後に、右翼だとか、国家主義者だとか言われているのは、皮相な観察だと私は思う。彼は題材を求めてそこに流されていったと思うんです。(中略)そのことは大江健三郎でもある程度言えそうです。あの人はもともと左翼でもなければ、いわゆる進歩的文化人のタイプじゃないと思う。学生からすぐに作家生活に入った。だから「死者の奢り」のような感覚的文章が本来の大江健三郎だと思います。ところがたまたま反米的な材料をとるというようなことから、これは小説のために材料をとったと言っていいところがある。(芥川・三島・大江の)三者に共通しているのは、材料の(生活に根ざしていない)人工的な面ですね」と述べている。また山崎豊子との対談中でも、三島・大江に関してほぼ同じ見解を述べている。
思想史家の仲正昌樹は、自らの実生活から作品の材料を掘り出していると自負する清張にとって、美の世界に自己を同化させようとしたり特殊な体験に基づき創作する芥川・三島・大江は異質の存在であったと述べている。
もっとも清張も三島の才能そのものは高く評価しており、『半生の記』の雑誌初出である「回想的自叙伝」では『花ざかりの森』を「才筆にあふれている」と述べ、また後年にも「芥川(龍之介)は三島の前にはあまりに小さすぎる」「才能は三島のほうがはるかに川端(康成)を凌いでいる」などと述べ、三島の豊かな天分は特に短編に発揮されたと評している。

推理作家[編集]

江戸川乱歩
編集長を務めた雑誌『宝石』に、清張の『ゼロの焦点』(連載時の題『零の焦点』)を連載させており、その休載時に清張と対談を行ったが、これが記録として残っている乱歩と清張による唯一の対談である。また、推理小説の指南書『推理小説作法』(1959年、光文社、2005年、光文社文庫)を清張と共編している。
清張は特に「二銭銅貨」以降続々と発表された乱歩の初期短編を愛読し、「大変な天才が現われた」「日本にも本格的な探偵小説作家が出たと驚嘆した」と絶大な評価を与えている。のちの通俗長編に対しては「独自性や野心的なものは、残念ながら影を潜め」「作品価値的には遂に長い空白時代が続く」など厳しい感想が多いが、一方では「面白さにかけてはそれなりに独自のものを持っている。爾後の模倣者の及ぶところではなく、乱歩の才能の非凡さを示している」と一定の評価も述べている。
一方で、乱歩による清張作品に対する踏み込んだ評論は特に残されていない。乱歩は『幻影城』「探偵小説純文学論を評す」では、自身の見解を「文学的本格論」と称していた。他方、国産の本格推理の昭和20年代の状況に関しては、横溝正史や高木彬光の活動にもかかわらず、悲観的な認識を持っていた。
鮎川哲也は、乱歩が体調を崩したのち、清張が池袋の白雲閣に居た乱歩を訪問し、畳に手をついてお辞儀し、敬意を表現していたと伝えている。
乱歩の死後、清張は三島由紀夫や中島河太郎と共に、『江戸川乱歩全集』(講談社・全15巻・1969 - 70年)の編集委員を務めた。
木々高太郎
推理小説家として初めて直木賞を受賞した作家であり、清張の処女作「西郷札」を認め、編集委員を務めていた雑誌『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表する機会を与えるなど、清張を世に送り出す役割を果たしている。清張も「日本の探偵小説に知性を与えた最初の人」と木々の小説作品を高く評価し、『木々高太郎全集』(朝日新聞社・全6巻)の監修者を務めている。
エドガー・アラン・ポー
清張が青年期に愛読した作家の一人で、『ゼロの焦点』『アムステルダム運河殺人事件』『赤い氷河期』など多くの作品で、「アッシャー家の崩壊」などポーの小説および詩がモチーフとして引用されている。英詩が引用されることがあるが、高等小学校卒の清張がポーの英語に触れていた契機として、1951年に北九州市に開設されたCIE図書館の洋書を読んでいた可能性が指摘されている。ポーのゴシック小説の愛読と、探偵小説の「お化け屋敷」性批判が、清張にとって両立していた理由として、推理作家の笠井潔は、清張の評言は、ポーによる詩論「構成の原理」を参照したものであり、清張がゴシック小説定番の背景、道具立て、人物、事件などを「雰囲気」「感情」「詩情」を醸し出すための部品として読んでいたのではないかと論じている。
横溝正史
江戸川乱歩らとの座談会(『別冊宝石』第109号収録)では、社会派推理小説の流行に関して「作家は(時流に)受けるものを書くのではなく、好きなものを書く」として、距離を置く発言をしている。ただし、後年には社会派の影響を受けた作品も執筆しており、「本格推理小説が復興するにしても、松本清張氏が築き上げたリアリズムの洗礼を受けたものでなくてはならないでしょう」とトーンを変化させている。なお、清張が横溝の作品を「お化け屋敷」と呼んだとされることがあるが、清張が横溝の作品を指してそのように呼んだ事例は、『随筆 黒い手帖』を含めて、実際には存在しない。にもかかわらず、この解釈が生じた背景の一つとしては、1957年に行われた荒正人と清張の論争があり、その中で荒は、清張の文章が名前を伏せた横溝批判に相当するのではないかと主張している。
森村誠一
最初の著作の出版以降、清張と数回会っているが、のちに清張の印象を以下のように総括している。「乱歩さんや(横溝)正史さんは、後進や新人に非常にあたたかい。松本清張さんは全く逆です。まず新人に対しては、疑惑と警戒の目を向ける。大切な自分の作品という卵を産む限界能力を犠牲にしてまで、どうして俺が新人の育成をしなきゃいけない、自分の作品を産むのに忙しい。いうなれば、自分の作品しか見つめていない方です。これは私自身も、清張さんの姿勢は作家として見習わなければいけないと思います」。
山村美紗
江戸川乱歩賞落選作を清張が推薦したことにより、最初の著作『マラッカの海に消えた』を出版することができた。初版本の帯には「トリックの豊富さと物語性を評価」と清張の言葉が記され、「G・K・チェスタトンに迫るトリック」と高い評価を与えている。また山村から見た清張の印象を述べたものとして、エッセイ『ミステリーに恋をして』(1992年、光文社文庫)がある。
西村京太郎
山村美紗をモデルにした小説(『女流作家』『華の棺』)を書いており、その作中に清張を思わせる作家・蔵田が登場している。作中では、蔵田がヒロインの夏子(山村)に好感を持っており、主人公・矢木(西村)と付き合うのを止めるよう告げる旨のセリフを言わせている。また「作家になったのは、清張の作品を読んで、これなら自分でも書けると錯覚したのがきっかけ」と述べている。
島田荘司
日本における本格推理復興の大きな契機を作った一人とされるが、清張に関しては「社会派の作家としては最もトリックが多い」「清張さんはトリック重視」として、一定の評価を与えている。その後も島田は清張の推理小説を、自然主義と結びつけて解釈する見解を示している。ただし、最も印象深い清張作品に関しては、トリッキーな推理作品ではなく、『半生の記』「火の記憶」であると述べている。島田はノンフィクション作品『秋好英明事件』を書いており、島田を秋好支援に熱中させたのは、これら清張作品の潜在記憶であると回顧している。
宮部みゆき
初期短編から最晩年の作品まで清張作品を愛読しており、『松本清張傑作短編コレクション』(2004年、文春文庫・全3冊)の編者を務めた。また2009年の生誕100周年記念事業の際に大沢在昌や京極夏彦と共に記念講演会を開催し、清張をめぐって奥泉光や半藤一利、北村薫と対談も行っている。
森雅裕
作家デビュー前に出版社でアルバイトしていた頃、清張宅に新聞等の資料を届ける仕事をしており、原稿の催促に来た編集者と勘違いされて「締め切りはまだだろう!」と日本刀を持ち出されて追い返された経験を持つ。

その他著名人[編集]

美空ひばり
親しかった報知新聞社長からの勧誘を受け、コンサートを観ている。その後清張はひばりに歌を作詞する約束をし、「雑草の歌」というタイトルで資料集めを実施、内容を検討していたが、ひばりの死(1989年)により実現せずに終わった。
新珠三千代
『黒い画集 第二話 寒流』『風の視線』『霧の旗』など清張原作の映画に出演しているが、清張は新珠が大のお気に入りであったと言われる。『婦人公論』1962年10月号紙面には清張と2人で登場し、演出家の和田勉によれば、1980年代になっても、良い「若手女優」を清張に尋ねると、清張は既に50歳となっていた新珠を推してきたという。

国際的活動[編集]

  • 清張が初めて海外に出たのは1964年であり、既に50歳を越えていたが、その後は精力的に海外に出かけるようになった。『黒の回廊』など取材成果を生かした海外トラベル・ミステリが書かれる一方、古代史関連の文化視察や、キューバやラオスといった社会主義国家の現状取材も行われた。晩年はイギリス、フランス、西ドイツ(当時)など西ヨーロッパ諸国への旅行が多く、『聖獣配列』『霧の会議』『赤い氷河期』等、その経験が反映された作品も多い。
  • 法廷弁護士ペリー・メイスンシリーズで知られる、アメリカの推理作家E・S・ガードナーを、日本推理作家協会の理事長として招待、他の推理作家とともに食事会を催した。
  • 清張原作の映画中、海外では特に『砂の器』の認知度が高く、監督の野村芳太郎と共に言及されることが多い。
  • 清張は通訳をあまり必要としない程度に英語を解した。朝日新聞西部本社では外国人に通じる英語を話せる社員が清張しかおらず、進駐軍が会社に来ると皆、清張を呼び対応していた。海外取材等で通訳が同行した場合も、遮って直接英語で対応することがしばしばであった。キューバ国営テレビのインタビュー番組に出演した際(1968年)も、英語でスピーチを行った。最終学歴は高等小学校卒であったが、衛生兵として朝鮮に渡った戦時中には洋書を読み、朝日新聞社勤務時には英語力のある社員をつかまえて学び、通勤時間を英会話の練習に使った。作家になり多忙になって以降も、若い外国人女性(文藝春秋の岡崎満義による)を家庭教師として雇い、日曜日に自宅で英会話の個人レッスンを受けていた。

清張作品の翻訳[編集]

  • 英語訳。
    • 『Points and Lines』(『点と線』、講談社インターナショナル)、『Inspector Imanishi Investigates』(『砂の器』、Soho Crimeなど)、『Pro Bono』(『霧の旗』、Vertical)、『A Quiet Place』(『聞かなかった場所』、Bitter Lemon Press)、短編集『The Voice and Other Stories』(『声』『顔』『捜査圏外の条件』など6編、講談社インターナショナル)、他に『The face』『Just eighteen months』『Evidence』(『顔』『一年半待て』『証言』、いずれも作品集『Japan quarterly』に収録)、『The cooperative defendant』(『奇妙な被告』、オムニバス作品集『Japanese golden dozen』に収録)など多数。
  • フランス語翻訳。
    • 『Le rapide de Tokyo』(『点と線』、Masque)、『Tōkyō express』(『点と線』、Philippe Picquier)、『Le point zéro』(『ゼロの焦点』、Atelier Akatombo)、『Le vase de sable』(『砂の器』、Philippe Picquierなど)、『Un endroit discret』(『聞かなかった場所』、Actes Sudなど)、他に『La voix』(『声』、Philippe Picquierなど)、『La Femme qui lisait le journal local』(『地方紙を買う女』、Futuropolis)など。
  • ドイツ語訳。
    • 『Spiel mit dem Fahrplan』(『点と線』、Fischer-Taschenbuch-Verl)、他に『Mord am Amagi-Paß』(『天城越え』『紐』など収録、Fischer-Taschenbuch-Verl)など。
  • イタリア語訳。
    • 『Tokyo Express』 (『点と線』、Adelphi)、『Come sabbia tra le dita』(『砂の器』、Adelphi)、『La ragazza del Kyūshū』(『霧の旗』、Adelphi)、『Il palazzo dei matrimoni』(『黒い空』、Il Giallo Mondadori)、『Agenzia A』(『ゼロの焦点』、Il Giallo Mondadori)、『Un posto tranquillo』(『聞かなかった場所』、Adelphi)、『Il passo di Amagi』(『天城越え』、Adelphi)。
  • 中国語訳は多数の作品が出版されている。『点与线』(点と線、南海出版公司など)、『零的焦点』(ゼロの焦点、Apex Pressなど)、『砂器』(砂の器、南海出版公司など)といった代表作は1980年代から繰り返し翻訳されているが、さらに『黑色笔記』(黒革の手帖、新世界出版社など) などの有名作品や、『彩色的河流』(彩り河、重慶出版社など)、『諸神的狂亂』(神々の乱心、獨步文化出版社)など晩年の長編まで翻訳されている。

この他、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、チェコ語、フィンランド語、エストニア語、リトアニア語、ブルガリア語、ギリシア語、ロシア語、アルメニア語、グルジア語、韓国語や台湾での翻訳もある。



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