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松坂屋

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松坂屋(まつざかや、Matsuzakaya)は、J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店である。

また、株式会社松坂屋(英: Matsuzakaya Co.,Ltd.)は、2010年2月28日までこれを運営していた企業である。

概要[編集]

東海地方を地盤とし、呉服店を起源とする老舗百貨店である。名古屋最大の繁華街である栄に本店を置く。本店の名古屋店においては、地域一番店の座を2000年開業のJR名古屋タカシマヤに奪われたものの、とりわけ名古屋市では今なお有力な百貨店の1つである。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。三越(現在の三越伊勢丹)や髙島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。かつては進取の気質に満ち、業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。

かつては、東海銀行(現・三菱UFJ銀行)・中部電力・東邦瓦斯(東邦ガス)・名古屋鉄道(名鉄)と共に名古屋経済界の中核名門企業、旧「名古屋五摂家」の1社に数えられていた。前身の「いとう呉服店」は、名古屋初の私立銀行である伊藤銀行(→東海銀行→三菱UFJ銀行)や、「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれた名古屋観光ホテル、名古屋商工会議所など各企業・団体の設立にも関連した伊藤財閥の源流企業であり、近代の名古屋経済の発展に貢献した有力企業である。地元市民の高齢層では松坂屋のことを「伊藤様」と呼ぶ人もいるほど、愛知県では他店よりも松坂屋が格上の百貨店であるという認識が非常に強く、松坂屋の外商部と取引があることが一種のステイタスとみなされる場合もある。

2005年から2006年にかけて、優良資産に目を付けた村上ファンドが松坂屋の大株主となり、一時経営を揺さぶられた。そのため、機動的かつ柔軟な経営判断ができる体制を構築するとともに、グループ各社の採算性と事業責任の明確化を図ることを目的として、株式移転により「株式会社松坂屋ホールディングス」(松坂屋HD)を設立し、純粋持株会社体制へ移行した。しかし、松坂屋HD発足から1年足らずの2007年9月3日に関西を拠点とする大丸との経営統合を発表。共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」(JFR)が設立されると、松坂屋HDはJFRに吸収合併され、役目を終えることとなった。2010年3月1日に松坂屋を存続会社として大丸を吸収合併し「株式会社大丸松坂屋百貨店」が発足した。

2010年に百貨店開業から数えて100周年、2011年に「いとう呉服店」創業から数えて400周年を迎えた。

沿革[編集]

  • 1611年(慶長16年)- 伊藤家初代祐道、清須より名古屋本町へ移住。織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で 呉服小間物商「いとう呉服店」(ごふくだな)創業。
祐道はのち大坂夏の陣で豊臣方について戦死し、呉服店は一旦閉店となる。
  • 1659年(万治2年)- 祐道の遺児・伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に移転。呉服小間物問屋を再開。
  • 1736年(元文元年)- 呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。
  • 1740年(元文5年)- 尾張藩の呉服御用となる。
  • 1745年(延享2年)- 京都室町錦小路に仕入店を開設。1749年(寛延2年)新町通六角町に移転。
  • 1768年5月20日(明和5年4月5日) - 江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。(松坂屋 創業157周年)
  • 1789年(寛政元年)6月29日 名古屋本店、新築落成開店。
  • 1805年(文化2年)- 江戸大伝馬町に木綿問屋 を開設。問屋兼業により価格の引き下げを図った。同店の開設に伴い、いとう松坂屋は鶴店(つるだな)と呼称。
  • 1834年(天保5年)- 伊藤家、尾張藩主より名字帯刀が許可される。同時に名古屋本店、商号を「伊藤屋」から「いとう」へ変更。
  • 1854年(安政元年)- 当主治朗左右衛門の婚礼。その祝儀曲として地歌曲の『花の縁』が吉沢検校により作曲される。
  • 1856年(安政3年)- 名古屋車町に木綿問屋「松店」(まつだな)を開設。
  • 1871年(明治4年)- 犬山へ出張店を開設。
  • 1875年(明治8年)- 大阪進出。高麗橋の呉服店「恵比須屋」を買収の上、新町通に「ゑびす屋いとう呉服店」を開店。
  • 1881年(明治14年)- 名古屋茶屋町角に伊藤銀行(現、三菱UFJ銀行)を開業。
  • 1893年(明治26年)- 伊藤貯蓄銀行(現、りそな銀行)を創立。
  • 1900年(明治33年)- 名古屋本店、商号を「いとう」から「いとう呉服店」に変更。
  • 1905年(明治38年)- 名古屋本店、業界初のファッションショーを開催。同年10月10日 同店で業界初陳列立売りを開催。
  • 1906年(明治39年)- PR誌『衣道楽』を創刊。同年9月 名古屋本店、西店2階にショーケース 東側にウィンドーを設ける。
  • 1907年(明治40年)- 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」(ごふくてん)に改組。3月14日、「いとう呉服店裁縫所」(常磐女学院の前身)を設立。同年4月 上野店、店舗を改装。陳列式で開店。女性店員を採用。
  • 1909年(明治42年)- 伊藤産業合名会社設立。同年8月19日 伊藤祐民、日本実業家渡米団に加わり横浜を出帆。
  • 1910年(明治43年)2月1日 - 伊藤祐民が「株式会社いとう呉服店」を設立(資本金50万円)。名古屋栄町に百貨店を開業。
  • 1911年(明治44年)- 新年大売り出し、百貨店初の福袋いとう多可良函(宝箱)を発売。 いとう呉服店少年音楽隊結成。後に東京フィルハーモニー交響楽団へと発展。
  • 1916年(大正5年)- 上野店、新装開店。
  • 1918年(大正7年)- 日本初の制服『規定稿』を制定。
  • 1919年(大正8年)- 「五服会」(松坂屋、三越、白木屋、松屋、髙島屋)を結成。
  • 1923年(大正12年)- 大阪店、日本橋で営業再開。同年9月2日 上野店、関東大震災で類焼。
  • 1924年(大正13年) - いとう呉服店少年音楽隊、第1回選抜中等学校野球大会の開会式の演奏を行う。銀座店が開店。日本の百貨店初の土足入場可能な百貨店となった。同年 五服会を『日本百貨店協会』に改称。
  • 1925年(大正14年)- 全店の名称を「松坂屋」に統一。この頃からビルマ独立運動家を支援する。名古屋本店、南大津町に新店舗開店。
  • 1928年(昭和3年)- PR誌『マツザカヤ』が創刊。
  • 1929年(昭和4年)- 上野店、新築開店。日本初のエレベーターガールが登場。
  • 1930年(昭和5年)- 上野店、東京地下鉄道線(同社は後の帝都高速度交通営団、現在の東京地下鉄〈東京メトロ〉。路線は現在の東京メトロ銀座線)上野広小路駅と直結(日本の大手百貨店初)。同年3月3日 銀座店に『お好み食堂』を新設。
  • 1931年(昭和6年)- 上野店に『お子様ランチ』が登場。
  • 1932年(昭和7年)- 『松坂屋美術』を創刊。同年『日本百貨店協会』が自制案を発表・実施。
  • 1933年(昭和8年)- 社会福祉法人『衆善会』を設立。
  • 1935年(昭和10年)- かな文字「マツサカヤ」をローマ字の「MATUZAKAYA」の店名文字制定。
  • 1936年(昭和11年)- 名古屋本店、初の地下食料品売場『東西名物街』(名店街)を開設。(日本の大手百貨店初のデパ地下が誕生。)
  • 1937年(昭和12年)- 名古屋本店、増改築工事全館落成。同年3月5日 大阪店、本館増築第3期工事落成。
  • 1945年(昭和20年)- 名古屋本店、銀座店、静岡店が太平洋戦争の空襲により全焼。同年8月15日 終戦を迎える。
  • 1948年(昭和23年)- 一般から一等賞金10,000円の宣伝標語を公募、茨城県在住の男性が考案した「生活と文化を結ぶ松坂屋」が一等に選ばれ、宣伝広告などで使われる。
  • 1951年(昭和26年)- 松坂屋のテーマミュージックを制定。(作曲:芥川也寸志)
  • 1952年(昭和27年)- 銀座店、全館完成。
  • 1953年(昭和28年)- 名古屋本店、全館改修工事が完了し、外壁も一新。
  • 1956年(昭和31年)- 静岡店、新館落成。
  • 1957年(昭和32年)- 上野店、南館の増築が完了。同年6月28日カトレヤをシンボルフラワーに制定。同年10月1日 カトレヤ図案包装紙の使用を開始。同年11月18日 京都染織参考館を設置。
  • 1959年(昭和34年)- 上野店、外装工事が完了。
  • 1961年(昭和36年)- ニナ・リッチ(フランスのオートクチュール)と独占契約。※現在は 伊藤忠商事。
  • 1962年(昭和37年)- カトレヤ・アイ・キャッチャー制定。
  • 1964年(昭和39年)- 「松坂屋CMソング」制定。(作詞:永六輔、作曲:中村八大)。同年9月ヘンリー・プール社(イギリス紳士服テイラー)と提携。同年9月29日 銀座店、増改築が完了。同年9月30日 名古屋本店、本館増築完了。
松坂屋CMソング「振り向けば松坂屋」誕生(作詞 永六輔、作曲 中村八大)。
1964年東京オリンピックの日本選手団の制服(平常ブレザー)を上野店が製作受注(開会式・閉会式の公式ブレザーではない)、選手村に百貨店で唯一の売店を銀座店が出店し、衣料品や土産を販売。
  • 1965年(昭和40年)- 松坂屋提供 中部日本放送(CBCラジオ)制作のラジオ番組『0時半です松坂屋ですカトレヤミュージックです』が放送開始。
  • 1966年(昭和41年)- 大阪店、天満橋に移転。
  • 1967年(昭和42年)- 名古屋市営地下鉄矢場町駅 松坂屋出入口通路を開設。同年11月1日 『松坂屋ストアー』を設立。
  • 1970年(昭和45年)- 大丸と商品面で業務提携。
  • 1971年(昭和46年)- 岡崎店が開店。同年4月10日 新包装紙、ショッピングバッグ、全店一斉に使用。同年11月17日 名古屋本店、増改築完了。(売り場面積 38448㎡)。
  • 1972年(昭和47年)- 名古屋本店北館を増築(リビンザ)。大丸CBSグループに参加し共同配送等業務提携。
  • 1973年(昭和48年)- 「マツザカヤ友の会」発足。
  • 1974年(昭和49年)- 札幌店が開店。同年10月10日くずは店が開店。同年11月29日名古屋駅店が開店。
  • 1975年(昭和50年)- 香港店が開店。
  • 1978年(昭和53年)- パリ店が開店。
  • 1979年(昭和54年)- 高槻店が開店。
  • 1980年(昭和55年)- 上野店、外装工事が完了。同年10月2日ロサンゼルス店が開店。
  • 1981年(昭和56年)- 名古屋本店、年間(暦年)売上高 一千億円を突破(中部地区初)。
  • 1985年(昭和60年)1月、16代 伊藤次郎左衞門会長の死去により鈴木正雄が会長に就任。同年4月、臨時取締役会で創業者一族の当時の17代 伊藤次郎左衞門(鈴三郎)社長を会長に退かせて鈴木正雄が社長に就任する。その後 1991年に再度会長就任。
  • 1988年(昭和63年)- 名古屋本店、グルメワールド(マツザカヤ食品館)がオープン。
  • 1989年(平成元年)- サンフランシスコ店が開店。
  • 1991年(平成3年) - 名古屋本店南館を増築。「松坂屋美術館」を開設。同年11月28日 複合ビル「パークプレイス」が完成。
  • 1996年(平成8年)- 静岡店、北館がオープン。
  • 1997年(平成10年)11月 - 鈴木正雄、総会屋への利益供与事件で相談役を辞任する。
  • 2003年(平成15年)- 名古屋店南館拡張。東武百貨店池袋本店を抜き日本最大の百貨店となった。
  • 2005年(平成17年)- 豊富な含み資産に目を付けた村上ファンドに株式の約10%を買い占められ、経営混乱。
  • 2006年(平成18年)9月1日 - 純粋持株会社「株式会社松坂屋ホールディングス」設立。株式移転方式で持ち株会社体制に移行した。
  • 2007年(平成19年)大丸と「経営統合に関する基本合意」締結。同年9月3日 『J.フロントリテイリング』を設立。
    • 9月3日 - 大丸との共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。松坂屋ホールディングスは上場廃止。
    • 11月1日 - J.フロント リテイリングが松坂屋ホールディングスを吸収合併。松坂屋はJ.フロント リテイリングの直接子会社となる。
  • 2010年(平成22年)3月1日 - 当社を存続会社として株式会社大丸を吸収合併し、「株式会社大丸松坂屋百貨店」に商号変更。高槻店が、大丸京都店の分店扱いとなる。
  • 2021年(令和3年)9月30日 - 豊田店が閉店。

屋号について[編集]

三重県にある「松阪市」と混同して、しばしば松阪屋と誤表記される(の違い)。また、マークが松阪商人の三井家の家紋と酷似していることも一因である。

もともとこの百貨店の屋号は伊藤財閥の創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。「いとう丸」と呼ばれるマークは、丸の中に「井桁」と「藤」を描いたもので、「井」+「藤」で「いとう」を表している。

「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年に伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもの。当時の松坂は木綿(松阪木綿)の主要な供給地で、呉服の原料として縁があった訳である。

1767年、いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである(同様の例に、横浜発祥の松屋がある)。大阪進出の際も同様の理由により買収した「ゑびす屋」をそのまま使用したが、全店舗で屋号を統一する事となった際に全国チェーンを睨んだ結果、東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となり、現在に至る。



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