東海銀行
株式会社東海銀行(とうかいぎんこう、英語: The Tokai Bank, Ltd.)は、かつて愛知県名古屋市中区に本店を置いていた日本の都市銀行。後のUFJ銀行(UFJHD)、現在の三菱UFJ銀行(MUFG)の前身の一つ。
概要[編集]
東海銀行は、1941年に愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行が合併して設立。前身の伊藤銀行は名古屋初となる私立銀行であり、松坂屋を源流とする伊藤財閥の流れを汲む。合併前は中京圏(東海地方)に本店を置く唯一の都市銀行であった。愛知県に本店を置く戦後地銀が新設されなかったため、名古屋財界(中京圏財界)において「名古屋五摂家」(他の4社は中部電力・東邦瓦斯・名古屋鉄道(名鉄)・松坂屋)の一員として影響力を持っていた。本店は、愛知県名古屋市中区錦3丁目21番24号にあった。
全般的には都銀中位行で推移し、また東京進出もバブル期に不良債権を築き上げただけであった。都銀各行がメガバンク再編に向かう中、結局、2002年1月15日に大阪市に本店を置く都市銀行である三和銀行と合併し、UFJ銀行(現在の三菱UFJ銀行)となった。
現在の三菱UFJ銀行に至るまで、現在の東京証券取引所と名古屋証券取引所に上場していた。
行名の由来[編集]
愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の3行の合併に関する協議では、新銀行の名前について結城豊太郎日本銀行総裁(当時)に命名を依頼することとなり、結城は3行側から行名案を複数提出させた上で、その中から「東海銀行」を選定した。行名の「東海」は本拠地の東海地方を表すだけでなく、合併時に津島壽一日本銀行副総裁(当時)が書き贈った「寿比南山 福如東海」という言葉にもちなみ、縁起を担いで採用されたといわれる。これは古くから中国で使われてきた賀詞で、同文句が入った豊臣秀吉所用の銅印(徳川美術館所蔵)もある。
歴史[編集]
戦前 - 在名3行の合併[編集]
株式会社愛知銀行は、尾張徳川家に関係の深い豪商・素封家の発起により、1896年3月に第十一国立銀行(1877年4月設立)と第百三十四国立銀行(1878年11月設立)の2行が合併、両行の営業を引き継いで設立された。1914年から1918年の間に、関戸銀行・一宮銀行・東美銀行・大垣銀行・北方銀行・枇杷島銀行を合併している。
株式会社名古屋銀行は、1882年7月に名古屋区長吉田禄在の呼びかけで、有力実業家10人の発起により設立された。1907年からの10年間に、津島銀行・笠松銀行・金城銀行などを合併している。
株式会社伊藤銀行は、名古屋の富豪伊藤家の金融事業(個人経営の伊藤為替方)に端を発し、1881年6月、名古屋最初の私立銀行本店として設立され、いわゆる伊藤財閥の中核として機能した。1938年と1939年に中埜銀行・知多銀行を合併している。
上記3行は、中部圏の商工業の興隆、他銀行の買収・合併などによって着実に業容を拡大し、1940年末における愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行の預金量は、全国普通銀行292行中それぞれ第10位・12位・32位であった。
1941年6月、大蔵省の「一県一行主義」の方針に従って上記の3行が新設合併し、資本金3760万円で株式会社東海銀行が設立された。主導したのは日本銀行出身で伊藤銀行に転じていた佐々部晩穂である。東海銀行の設立は軍部の圧力でできたものとみる向きが多いが、将来の名古屋の産業発展のために過当競争を避け、経営の合理化を進めて資金コストを下げるために、基盤の強固な本店銀行が名古屋に必要だという佐々部の信念だった。当時の業容は、預金8億9300万円、貸出金4億0300万円、店舗数141カ店、従業員3468人であった。その後、東海銀行は銀行業整備の国策に基づいて、1945年に中央信託・信託部門の営業を譲り受け、同時に愛知県内の岡崎銀行・稲沢銀行・大野銀行の地元銀行を相次いで合併し、県下唯一の本店銀行となった。設立から終戦までの同行は、中部圏の地場産業等に対する戦時統制の制約を受けながらも、預金、貸出を順調に拡大させた。