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東京箱根間往復大学駅伝競走

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東京箱根間往復大学駅伝競走(とうきょうはこねかんおうふくだいがくえきでんきょうそう)は、1920年に開始された、毎年1月2日と1月3日の2日間で開催する関東地方の大学駅伝競技会(地方大会)である。関東学生陸上競技連盟(以下「関東学連」という。)が主催し読売新聞社が共催する。箱根駅伝(はこねえきでん)とも俗称され、真の日本一を決める大会として広く知られる。実施は関東学連が定める「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」(以下「内規」という。)に定める。

現在開催されている駅伝の中で4番目に長い 距離を持ち、1987年からテレビ中継を開始した。

「箱根駅伝」は読売新聞東京本社の登録商標(登録番号: 第5565518号)である。

概要[編集]

出場校は20校で、これとは別に出場校以外の競技者による関東学生連合チーム(オープン参加)が参加する(2015年の第91回大会以降の編成)。2019年の第95回記念大会では「関東インカレ」成績枠が設けられた が、同回のみで廃止された。

コースは国道1号線、東京都千代田区大手町・読売新聞東京本社ビル前 から、鶴見、戸塚、平塚、小田原の各中継所を経て神奈川県足柄下郡箱根町・芦ノ湖までの往復で、往路107.5km、復路109.6km、計217.1km。1月2日に東京から箱根への往路を、1月3日に箱根から東京への復路を走る。主に通過する路線名称は日比谷通り、国道15号、国道1号、国道134号などである。

第1回大会は、アメリカ大陸の継走での横断を実施するための予選会という位置付けで、1920年2月14日に行われた。これは、1912年のストックホルムオリンピックに出場した日本人五輪選手第1号で1917年に実施された日本初の駅伝競走「東海道駅伝徒歩競走」でアンカーを務めている金栗四三が、「五輪で日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成すること」と発案したことがきっかけである。第二次世界大戦中の1941年から一時中断されたが、1943年に一度だけ戦時下で開催された(靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会)。その後、再び中止となり、戦後の1947年に復活。第32回(1956年)から現在の1月2・3日の開催となった(内規第1条)。

箱根駅伝は、関東地方では従前から人気があったが、警察から駅伝自体の中止を含めた内容変更を迫られるなど、存続の危機に立たされていた。しかし、1987年に日本テレビが全国放送で全区間の生中継(電波を途切れさせない完全中継実施は1989年から)を開始して以降、正月の風物詩(国民的スポーツ大会)として関東地方以外でも知名度・注目度が格段に向上した(詳細は#中継番組を参照)。箱根駅伝出場者からオリンピックや世界陸上などに出場を果たした選手も少なくない(詳細は箱根駅伝の人物一覧を参照)。

箱根駅伝は、関東学連が主催する地方大会であり、10位以内に入ると、同年の出雲全日本大学選抜駅伝競走(同年スポーツの日開催。以下「出雲駅伝」という)に関東代表として出場できる。一般に、出雲駅伝、全日本大学駅伝、そして本大会を併せて「大学三大駅伝」と呼ばれており、同じ年度の全大会に優勝すると「三冠」と称され、大東文化大学(1990年度)、順天堂大学(2000年度)、早稲田大学(2010年度)、青山学院大学(2016年度)、駒澤大学(2022年度)の5校が達成している。ただし、箱根駅伝は全国大会ではないため、関東学連加盟校以外の大学は三冠を達成することはない。大東文化大学は復路優勝を、順天堂大学と早稲田大学は往路優勝を逃しており、箱根駅伝を完全優勝しての三冠を達成した大学は2016年度の青山学院大学と2022年度の駒澤大学の2校である。

出場チームと出場選手[編集]

関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権(後述)を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。第95回(2019年)記念大会では、関東インカレ5年間の総合得点の累計が最も多い大学に出場権を与える関東インカレ成績枠が設けられる とともに予選会からの出場校が11校となり、計23チームが出場した。

競技者の参加資格[編集]

現行[編集]

競技者は次の参加資格を満たしている必要がある。

  1. 競技者の所属校が関東学連加盟校で競技者は当該年度の登録を完了していること(内規第4条)。
  2. 所属する加盟校が関東学連から処分を受けていないこと(内規第5条)。
  3. 本人が関東学連の資格審査委員会によって処分を受けていないこと(内規第6条)。
  4. 出場申込回数が4回(予選会のみ出場の場合も回数に含む)を越えないこと(内規第7条)
「実質5年生」のランナー[編集]

上記の参加資格の例外として、怪我によるエントリー漏れや年度途中での休学などに伴って留年し、「実質5年生」になった4年生ランナーが4回までとなっている参加資格の上限に到達していないことを理由に出場するケースも散見される。この場合には2通りのパターンがある。

  1. 怪我による欠場 - 竹石尚人(青山学院大学)、島崎慎愛(國學院大學)
  2. 年度途中での休学(による留年) - 嶋津雄大(創価大学)
年齢制限(撤廃)[編集]

第68回(1992年)までは28歳以下という年齢制限があったが、第69回(1993年)から撤廃されている。

沿革[編集]

チームエントリーと区間エントリー[編集]

申込み(チームエントリー、区間エントリー)は関東連盟が提示する日時と場所で所定の様式によって行われ、資格審査委員会の審査によって参加資格ありと認められた大学・競技者のみ正式出場が認められる(内規第8条)。

チームエントリーは16名以内で、区間エントリーのチーム編成は正選手10名と補欠選手6名以内である(内規第9条)。ただし、留学生については、エントリー2名以内、出走1名以内に制限されている(内規第9条)。現行の16人エントリーになったのは第79回(2003年)からである。第82回(2006年)までは区間エントリーの際にメンバーを16人から14人に減らす必要があったが、第83回(2007年)より区間エントリーでも16人のまま登録することができるようになった。したがって、補欠選手はそれまでの4人から6人に増えた。

区間エントリーは1区から10区までにエントリーされた正選手とその他の補欠選手とに大別される。そして、正選手には主催者側が用意したナンバーカードが配布される。ナンバーは1区から順に1、2…となり、補欠選手は11番から16番までとなる。ナンバーカードの記載は「(前年の順位・予選会の順位に従い大学に割り振られた番号)-(1番 - 16番)」となり、例えば前年3位の大学の6区にエントリーされた選手は「3-6」となる(第80回より。それ以前は大学ごとの番号は付されなかった)。

変更は正選手と補欠選手との入れ替えのみで、1日に変更できる選手は4名までとされている。区間変更は認められていない(内規第10条2項)。つまり、補欠選手は当日のエントリー変更で正選手と入れ替えとしてどの区間にも入ることができるが、既に区間ごとに配置されている正選手はその区間しか走ることができない(例えば2区に補欠から選手を入れることはできるが、2区と4区の走者を変えることはできない)。通常の駅伝では補欠選手との交代には医師による診断書の提出が義務付けられているが、この大会は長時間の移動への配慮からその必要がないため、戦略的に補欠との選手交代が行われるケースが数多くあり、補欠選手は言わばジョーカー的な意味合いを持つ。逆に区間エントリーで補欠選手と交替した選手は走ることができないため、当て馬的な要素もある。2区にチームで最も力のある選手を置くのが通常であるが、選手層の厚い大学では「つなぎの区間」にエースを配置し、他大学の虚を突くこともある。

全区間が20km超の長距離を考慮し、体調不良など万が一の状況に備えて選手の交替が認められている点が他の主要駅伝とは大きく違う点である。

出場チーム[編集]

先述したように箱根駅伝には関東学連加盟校のうち、前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校と、このほかに関東学生連合チームを加えた21チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。

  1. シード校(10校) - 前回大会で総合順位10位以内
  2. 予選会通過校(10校) - 予選会での成績上位10校
  3. 関東学生連合チーム(1チーム) - 第100回記念大会では編成されない

シード校[編集]

本競技会で10位までに入った大学は「シード校」として次回の本競技会出場権を取得する(内規第13条1項)。つまり、前回の本競技会で総合10位以内に入賞していれば本競技会出場権を取得し予選会出場義務は免除される(シード権、予選免除権)。ただしシード権を確保した大学に重大不祥事が発覚した場合、シード権が剥奪される場合がある。実際に、日本体育大学は2009年4月に大麻で陸上競技部員が退学処分となったため、2010年大会のシード権が取り消されている。

前回大会でシード権を逃した大学と次の大会の予選会で本選出場権を獲得した大学がすべて一致することもあるが、過去に予選枠が6校だった第56回-第57回、第61回-第62回、第63回-第64回と、予選枠が9校だった第82回-第83回と、予選枠が10校になった第94回-第95回の計5回しか起きていない。

シード校の参加は希望制(日本国内での各学連主催の駅伝大会共通)であるが、不参加チームはいまだ発生していない(出雲駅伝では発生例があった)。

第95回記念大会において関東インカレ成績枠の該当校がシード権を獲得しており出場権を確保している場合には繰り上げは行われないこととされていた。

第83回から第90回までは関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選抜するとされていたが(この場合は次年度の出雲全日本大学選抜駅伝競走への推薦校も9校となる)、2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称変更されるとともにオープン参加となっている。

予選会[編集]

現行[編集]

箱根駅伝の予選会は本競技会の2か月以上前に行われ、別に開催要項が定められている(内規第14条1項)。予選会は陸上自衛隊立川駐屯地内の滑走路を周回し、立川市の市街地を通過して、昭和記念公園内をゴールとするハーフマラソン(21.0975 km) のコースを各校10名以上12名以下の走者が走って行われる。

前年の1月1日から予選会申込期日前日までの公認記録で、10000m34分00秒00以内の記録(トラック記録に限る)を有する選手のみに出場資格があるため、この出場資格を有する者を補欠も含めて10人以上揃えなければならない。以前はこのような出場資格はなかったが、参加校の増加で予選会の段階である程度出場校を絞り込む必要が出てきたことから、このような資格が設けられた。

予選会では各校上位10名の合計タイムにより10校を選出する。

予選会での順位を決定する際の記録の扱いは、下記の通りとなっている。

  1. 競技成績での「10名の合計タイム」が少ない大学を上位とする。
  2. 1で同タイムの場合には「上位10名の合計順位」が少ない大学を上位とする。
  3. 2によって順位が決定しない場合には、各校「最上位競技者の順位」が上位の大学を上位とする。
沿革[編集]

箱根駅伝では第23回(1947年)から予選会が実施されている。

当初は関東学生10マイル(約16.1kmコース)の成績を選考材料にしていたが、予選会のコース・距離及び選考方法は、次第に変遷を重ね、第81回からは陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園のコースで開催されている。第97回および第98回の予選会は、新型コロナウイルス感染症対策として立川駐屯地内の滑走路を周回するコースに変更された。第95回からは、距離が従来の20㎞からハーフマラソン(21.0975km)に延長されている。

当初は参加校全校が予選会に参加し上位15校が本戦出場する規定となっていたが、第32回(1956年)まではいずれも参加校が15校以下であり予選参加の全校が本戦出場していた。第33回(1957年)からは規定が変更となり、前回大会の総合成績上位10校にシード権を与え、予選会からの本戦出場は予選上位5校のみとなり、これ以降は予選会で敗退校が出るようになった。第48回(1972年)からは予選会からの出場枠が6校となり、第79回(2003年)以降は予選会上位9校が出場となっている。

第79回から第89回まではインカレポイント制が導入されていた。これは予選会上位6校を合計タイムにより選出し、残る3校はその年の関東インカレの成績に基づくポイント制との併用により選出するものである。7位以下の順位は関東学生陸上競技対校選手権大会の成績に基づくポイント(インカレポイント)による減算タイムを併用して最終順位を決定していた。インカレポイントは、大学の陸上部全体の成績が反映されるため、駅伝だけではなく陸上競技部全体としての取組が成績に影響する。本戦がテレビメディアに大きく扱われるようになって以後は予選会の突破に僅差のタイムが頻発し、特に第83回予選会では、本戦出場を果たした9位の国士舘大学と、予選落ちとなった10位の拓殖大学のタイム差は、インカレポイントを含めて1秒だった。

関東学生連合チーム[編集]

現行[編集]

前年大会でシード権を獲得した大学10校と予選会を通過した大学10校の計20校のほかに関東学生連合チームが出場する(2015年の第91回大会以降の編成)。2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」から「関東学生連合チーム」に名称が変更された。

  • 関東学生連合チームは1校から1名が選出される。
  • 選出選手は10月に行われた予選会に出走し、かつ本大会出場回数が2回を超えないことが要件となっている(第91回大会から適用)。
  • 関東学生連合チームはオープン参加である。個人記録そのものは有効な記録であるが順位は付かず、チーム・個人ともに参考記録となる。
沿革[編集]

第79回(2003年)から関東学連選抜チームの参加が認められることとなり、第82回(2006年)までオープン参加として個人記録のみが認められていた。

5年ごとの記念大会は日本学連選抜チームが関東学連選抜チームに代わって参加することが認められている(内規第12条)。最近では第80回(2004年)で特別に日本学連選抜チーム がオープン参加で出場した。

第79回(2003年)から参加が認められるようになった関東学連選抜チームのメンバーは、予選会で落選したチームに所属する選手のうち個人成績で上位に位置する選手から、各校最大2名までの枠内で選抜される。第80回(2004年)では日本学連選抜としての参加だったこともあり、6位相当の成績を収めたが、通常の関東学連選抜の場合には下位に低迷することが多かった。もっとも、日本学連選抜チームとしての出場の機会しかない関東以外の各地区の学生が最初から選抜チームのメンバー入りを目指し練習してきたのに対し、関東学連選抜チームの場合、所属大学の一員として箱根駅伝に出たいと言う気持ちがあるのは普通のことであり、予選会で落選したショックからわずか2か月後の本番に選抜チームとして招集されたとしてもモチベーションが上げにくいことも事実である。大学ごとの真剣勝負の場に趣の異なるチームが混じることへの違和感も根強い。このような意見もある一方、選抜チームの経験をチームに持って帰り次回へのモチベーションとすることは大いに意義のあることであり、参加選手からは「この経験を母校に持ち帰り来年に生かす」との声も聞かれ、後年予選会を勝ち抜き本選出場を果たした大学も多い。

第83回(2007年)からはチームとして正式にタイムおよび順位が記録されることになり、関東学連選抜チームが10位以内に入った場合は、シード校は9校となり次回の予選会では10校を選出することとなり、この場合は次年度の出雲駅伝への推薦校も9校とされた。これにより全体のレベル拮抗が予選会参加校のレベル向上へと結びつき、第84回(2008年)では関東学連選抜が総合4位という好成績を収め、続く第85回(2009年)も総合9位となり、2大会連続してシード圏内入りを果たした。予選会出場枠が1枠増えることにより自身の所属大学の翌年の箱根出場の可能性がわずかながらも広がることから、関東学連選抜の存在価値が増し、そのレース順位が大きな意味を持つようになった。第80回(2004年)に出場した日本学連選抜については、東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規第12条において、5年ごとの記念大会での参加が認められてはいるが、第85回(2009年)・第95回(2019年)記念大会では関東学連選抜が選抜チームとして出場している。

関東学連選抜チームについては、第86回(2010年)終了時から廃止・継続または新制度の導入などの議論を重ねた結果、2012年6月6日に行われた関東学連代表委員総会において、第89回(2013年)は現行どおり実施(ただし、各校から1名とし、16校から選出)、第90回(2014年)は不採用。第91回(2015年)以降は、廃止・継続のいずれの可能性も残し検討を重ねた 結果、2013年6月10日に行われた委員総会で当初案の5年ごとの記念大会の編成ではなく、第91回以降も継続して実施することが決定した。

2014年2月の関東学連代表委員総会において「関東学連選抜チーム」からオープン参加の「関東学生連合チーム」に変更された。

第100回(2024年)大会では、予選会に全国の大学が参加可能となる代わりに、本選での「関東学生連合チーム」の編成は行わない。

歴史[編集]

創設当時の関係者達から取材した詳細な記録としては、箱根駅伝が着想されたきっかけは以下のとおりである。1919年10月、東京高等師範学校出身の金栗四三(日本人初のオリンピック選手、「日本マラソン界の父」と呼ばれた)、明治大学競走部の沢田英一(明治大学の出口林次郎と札幌~東京間を22日間で走破)、東京高等師範学校体育課教授の野口源三郎(1924年パリオリンピック出場)の3人が、明治大学競走部の山口六郎次(後の国会議員、大日本体育協会常務理事)から招聘され、山口の母校である埼玉県の鴻巣で行われた小学校の運動会で審判を務めた際、東京との車中での3人の談論の中で、沢田英一がその年の6月に同窓の出口林次郎と二人で札幌・東京間の走破を成し遂げていたことを踏まえ、世界の耳目を集め、日本の長距離選手を育成するような外地での長距離走はできないものかと考えた。このときの結論が「アメリカ大陸横断駅伝」であった。その「予選会」という位置づけで国内での駅伝大会の実施が企図された。アメリカ大陸横断コースで最も大きな障壁となるであろうロッキー山脈の走破を見据え、この「予選会」のコースとして選ばれたのが山越えをコースに含む東京-箱根間であった。金栗らは大学や新聞社を回って参加と協力を訴え、金策に苦労しながら1920年2月14日に第1回箱根駅伝を実施した。箱根駅伝は始まるが、肝心の「アメリカ大陸横断駅伝」は実現しなかった。明治大学の出口林次郎と早稲田大学の生田喜代治らは箱根駅伝の実施に協力を惜しまなかった報知新聞社を訪ねて再び計画への協力を願ったが、実現は難しいという答えしか得られなかった。二人はあきらめず毎日新聞社の資金を得て調査のため1922年にアメリカに渡った。結局「アメリカ大陸横断駅伝」の話はそのまま頓挫した。その後、出口はコーネル大学からベルリン体育大学に学び、母校明治大学で教鞭をとることになった。しかし生田は渡米5年目の1927年メキシコのカンセンシコで事業をめぐるトラブルに巻き込まれて横死している。資料によっては「アメリカに渡った学生が殺害されたため、アメリカ横断駅伝の計画はついえた」という書き方がされていることがあるが、実際には計画は早々に頓挫しており、生田の死によって駅伝計画が中止されたわけではない。

黎明期は現在のように開催期日が固定されていたわけではなかった。「学生の本分は勉強」という理由で、午前中に授業をした後で午後からスタートすることもあった。このためにレース途中で日没となり、中でも5区の選手が暗闇の中を走らなければならなかったが、実際には地元の青年団の団員が松明を持って伴走したために事なきを得た。

山登りの5区は当初はスタートとゴールしか決まっておらず、出場校は箱根山中をできるだけ近道をしようと思っていた。選手を心配した地元住民たちが松明を持って伴走するなど協力を得て近道をするチームはなく、全チームが無事に走り終える。しかし山登りのあまりの苦しさに、道端の木にしがみつき泣きじゃくる選手もいた。

1925年の第6回大会で、日本大学は選手の代わりにタスキをもらった人力車夫が走ったこともあり4人抜きを見せたが、翌年の出場を辞退した(人力車夫事件)。

勤労学生の出場で二重登録による失格処分になったり、ゴール直前で失神した選手を関係者がラインまで引きずり込んだにもかかわらず失格にならなかったりと失格に関する基準も曖昧だった。箱根駅伝関係の書籍に出場校の歴代全成績が掲載されているが、公式順位がついているものの実際には失格扱いになっている大学がいくつかある。かつての成績については資料によって若干の相違点が見受けられる。

第二次世界大戦前は学制の違いもあり、大学予科から大学本科まで入れると5回以上の出場が可能だった。大学専門部から予科を経て本科まで通い、最高で8回出場を果たした選手がいる。

第二次世界大戦前から終戦直後に掛けては学生数の絶対的な不足もあって、1チーム10人のメンバーを組むこと自体が困難だった。そのため、戦後すぐのころまでは他の種目の選手が起用されることは決して珍しいことではなかった。同じ陸上競技である短距離や跳躍、投擲選手が起用されたことはまだいい方で、ラグビーやスキーの選手が登場した例も多かったという。現在でも高校から陸上を始めた選手は多く見受けられ、第82回(2006年)・第83回(2007年)大会に出場した亜細亜大の岡田晃や第84回(2008年)・第85回(2009年)・第86回(2010年)に出場した大東文化大の清野篤のように大学から陸上競技を始めた選手もいる。1970年代ごろまでは実業団経由で入った選手も多かった。

モータリゼーション化で交通渋滞が増えてきたのが高度経済成長のころ。全国的な知名度はまだ低かったがコース沿線地域での人気は高かったため、コース周辺の交通渋滞に警察からも開催中止要請が出たこともあった。主催者側と警察側との折衝で15校制や繰り上げスタートなどのルール改正がなされたことにより、中止要請は出なくなり15校制は第78回(2002年)まで続いた。

1960年代から1970年代に体育系学部を擁する大学が台頭したが、この頃は学生運動の時期と重なり好成績にも影響しているとする説もある。

歴代大会[編集]

注:出場校数に学連選抜チームは含まない。

回次 西暦 / 和暦
日程 往路

復路

総合優勝校 優勝回数 出場

校数

初出場校 概要
第1回 1920年

大正9年

2月14日

2月15日

東京高等

師範学校

初優勝 4 慶應義塾大学

東京高等師範学校 (現:筑波大学) 明治大学 早稲田大学

4校が出場。

呼びかけられた多くの大学・旧制専門学校・師範学校は選手を10人そろえられず、参加を断念。 午前中は授業を行い午後にスタートしたため、ゴールしたときには夜になっていた。

第2回 1921年

大正10年

1月8日

1月9日

明治大学 初優勝 7 中央大学

東京農業大学 法政大学

第3回 1922年

大正11年

1月7日

1月8日

早稲田大学 初優勝 10 東大農学部実科

(現:東京農工大学) 日本大学 日本歯科大学

第4回 1923年

大正12年

1月6日

1月7日

早稲田大学 2年連続2度目 9 - この回から夜間部在籍選手の出場が禁止される

(人力車夫などが学籍を置いて出場するケースがあったため)。

第5回 1924年

大正13年

1月12日

1月13日

明治大学 3年ぶり2度目
第6回 1925年

大正14年

1月6日

1月7日

明治大学 2年連続3度目 10 大会後、日本大学が3区の走者としてエントリー選手ではない選手を出したことが発覚、

順位成績取消は免れたものの、翌年の大会参加を辞退。

第7回 1926年

大正15年

1月9日

1月10日

中央大学 初優勝 7
第8回 1927年

昭和2年

4月9日

4月10日

早稲田大学 4年ぶり3度目 5 大正天皇崩御の影響により4月開催。そのため参加校は5校のみとなった。

早稲田大学が初の完全制覇(総合、往路、復路の全部門で優勝)。

第9回 1928年

昭和3年

1月7日

1月8日

明治大学 3年ぶり4度目 10 明治大学が初めて13時間台の総合成績を記録。

関西大学を特別招待。

第10回 1929年

昭和4年

1月5日

1月6日

明治大学 2年連続5度目 9
第11回 1930年

昭和5年

1月4日

1月5日

早稲田大学 3年ぶり4度目 9区で日本大学が正規選手の走行不能により初の補欠による再走。
第12回 1931年

昭和6年

1月10日

1月11日

早稲田大学 2年連続5度目 10 関西大学を特別招待。

1区で東京文理科大学、4区で明治大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。

第13回 1932年

昭和7年

1月9日

1月10日

慶應義塾大学 初優勝 9 関西大学を特別招待。
第14回 1933年

昭和8年

1月7日

1月8日

早稲田大学 2年ぶり6度目 11 拓殖大学

東洋大学

早稲田大学が初めて12時間台の総合成績を記録。
第15回 1934年

昭和9年

1月6日

1月7日

早稲田大学 2年連続7度目 13 専修大学

立教大学

第16回 1935年

昭和10年

1月5日

1月6日

日本大学 初優勝 - 日本大学が完全優勝。
第17回 1936年

昭和11年

1月4日

1月5日

日本大学 2年連続2度目 14 横浜専門学校

(現:神奈川大学)

日本大学が2年連続完全優勝。
第18回 1937年

昭和12年

1月9日

1月10日

日本大学 3年連続3度目 - 日本大学が完全優勝で3連覇を達成し、当時の大会規約により優勝旗が授与された。

その後大戦による混乱で紛失し、竿だけが大学内に保管されている。

第19回 1938年

昭和13年

1月8日

1月9日

日本大学 4年連続4度目 12 戦前唯一の4連覇。

2着の明治大学が6区の走者の資格疑義(夜間部に在籍する学生で二重登録に該当)

により失格、以下順位が繰り上がる。

第20回 1939年

昭和14年

1月7日

1月8日

専修大学 初優勝 10
第21回 1940年

昭和15年

1月6日

1月7日

日本大学 2年ぶり5度目
- 1941年

昭和16年

- - - - 第二次世界大戦の激化により東海道・箱根路の使用が禁止され大会中止。

代替駅伝として明治神宮水泳場前-青梅熊野神社間往復駅伝を1月と11月に実施 (歴代大会には含めない)。

- 1942年

昭和17年

戦時命令により日本学連が解体する。
第22回 1943年

昭和18年

1月5日

1月6日

日本大学 2期連続6度目 11 青山学院

(現:青山学院大学)

戦時中により従来の東京-箱根間大学駅伝に代わり

靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会を第22回大会として実施。

- 1944年

昭和19年

- - - - 戦況激化・終戦後の混乱により再び中断。
- 1945年

昭和20年

- 1946年

昭和21年

第23回 1947年

昭和22年

1月4日

1月5日

明治大学 18年ぶり6度目 10 神奈川師範学校

(現:横浜国立大学)

駅伝大会を復活。

初めての予選会(第1回関東大学高専10マイル)を前年12月に実施。 読売新聞社が共催に入るが、「学生の大会を私企業が催すことは好ましくない」と GHQからの指導があり、後援となる。

第24回 1948年

昭和23年

1月6日

1月7日

中央大学 22年ぶり2度目 12 - この年の大会からスタート・ゴールを当時の銀座の読売新聞社前(現在のプランタン銀座)とする。
第25回 1949年

昭和24年

1月5日

1月6日

明治大学 2年ぶり7度目 日本体育専門学校

(現:日本体育大学)

神奈川師範学校(現:横浜国立大学)が大会史上初の途中棄権〈3区〉。

報知新聞社が後援につく。

第26回 1950年

昭和25年

1月5日

1月6日

中央大学 2年ぶり3度目 14 - 前年4月に新制大学が発足し、参加チームも再編の影響をうけ新しい校名で参加

(神奈川師範学校→横浜国立大学、文理科大学・東京体育専門学校→東京教育大学、 日本体育専門学校→日本体育大学、横浜専門学校→神奈川大学)。早稲田大学篠田正浩が出場。

第27回 1951年

昭和26年

1月5日

1月6日

中央大学 2年連続4度目 11 駅伝有害論の影響により慶應義塾大学が大会参加を取りやめを決定

(不参加に因る選手数の影響もあり、慶應義塾大学は以後約10年間出場せず)。 東京農業大学が復路で失格。

第28回 1952年

昭和27年

1月6日

1月7日

早稲田大学 18年ぶり8度目 14 成蹊大学
第29回 1953年

昭和28年

1月4日

1月5日

中央大学 2年ぶり5度目 - NHKラジオによる全国放送を開始。
第30回 1954年

昭和29年

1月6日

1月7日

早稲田大学 2年ぶり9度目 15 横浜市立大学 3区で日本体育大学、8区で法政大学がそれぞれ正規選手走行不能のため補欠による再走を実施。
第31回 1955年

昭和30年

1月2日

1月3日

中央大学 2年ぶり6度目 - 交通事情を考慮し大会日程を1月2日及び3日に変更。
第32回 1956年

昭和31年

中央大学 2年連続7度目 東京学芸大学 前年11月の予選会で初めて下位成績の4校が予選会落選。予選上位15校が本大会に出場。
第33回 1957年

昭和32年

日本大学 14年ぶり7度目 国士舘大学 第33回大会からシード権制度を初めて適用。前回大会の上位10校を予選会を免除して参加可能とする。

順天堂大学が本大会でチーム編成が不能となったため、神奈川大学が繰り上がりで出場。

第34回 1958年

昭和33年

日本大学 2年連続8度目 順天堂大学 横浜市立大学が途中棄権〈9区〉。
第35回 1959年

昭和34年

中央大学 3年ぶり8度目 16 埼玉大学 予選会5位が神奈川大学、6位が埼玉大学であったが後に計算ミスが発覚し

順位が入れ替わる事態となった為、特例で両校の出場が認められる。 この大会のみ16校が出場。

第36回 1960年

昭和35年

中央大学 2年連続9度目 15 - 中央大学が初めて11時間台の総合成績を記録。
第37回 1961年

昭和36年

中央大学 3年連続10度目 防衛大学校
第38回 1962年

昭和37年

中央大学 4年連続11度目 -
第39回 1963年

昭和38年

中央大学 5年連続12度目 中央大学が初の5連覇達成。
第40回 1964年

昭和39年

中央大学 6年連続13度目 17 最終10区で追う中大若松軍蔵が日大高野俊雄を青物横丁で遂に捉え、中央大学が初の6連覇達成。

第40回を記念して立命館大学と福岡大学を招待(オープン参加)し全17校にて実施。福岡大学の重松森雄が2区区間賞相当(参考記録)の走りを見せた。

第41回 1965年

昭和40年

日本大学 7年ぶり9度目 15
第42回 1966年

昭和41年

順天堂大学 初優勝 復路スタートを全校一斉スタートに変更。

予選会会場を千葉市の検見川ロードレースコースに変更。

第43回 1967年

昭和42年

日本大学 2年ぶり10度目 亜細亜大学

駒澤大学

第44回 1968年

昭和43年

日本大学 2年連続11度目 大東文化大学
第45回 1969年

昭和44年

日本体育大学 初優勝 - 日本体育大学が初優勝。
第46回 1970年

昭和45年

日本体育大学 2年連続2度目
第47回 1971年

昭和46年

日本体育大学 3年連続3度目 シード権枠を9校に変更。
第48回 1972年

昭和47年

日本体育大学 4年連続4度目 予選会会場を八王子市内の富士森競技場付属コースに変更。
第49回 1973年

昭和48年

日本体育大学 5年連続5度目 東海大学 日本体育大学が5連覇を達成。

自衛隊車両が大会関係車両として登場。 この回のみ、NHKは後述の理由でラジオ中継を中止している。

第50回 1974年

昭和49年

日本大学 6年ぶり12度目 20 - 第50回を記念して全20校で実施。過去の全優勝校を参加させるためにシード9校以外で

過去に優勝した5校を招待参加とし、残り枠6を予選通過校とした。

第51回 1975年

昭和50年

大東文化大学 初優勝 15
第52回 1976年

昭和51年

大東文化大学 2年連続2度目 復路スタートで上位数チームを時差スタートに変更。

青山学院大学が途中棄権〈10区、ゴール前150m地点での棄権〉。

第53回 1977年

昭和52年

日本体育大学 4年ぶり6度目 1区から一度も首位を譲らず完全優勝。
第54回 1978年

昭和53年

日本体育大学 2年連続7度目 予選会会場を大井埠頭周回コースに変更。
第55回 1979年

昭和54年

順天堂大学 13年ぶり2度目 東京12チャンネルが初めてテレビ中継を行う(ダイジェスト版で、最後のゴールのみ生放送)。
第56回 1980年

昭和55年

日本体育大学 2年ぶり8度目 2区のみNHKテレビが中継する。中央大学が7区と8区の走者の区間エントリーミスにより、

7・8区の区間記録、復路及び総合の順位、記録が無効となる。

第57回 1981年

昭和56年

順天堂大学 2年ぶり3度目
第58回 1982年

昭和57年

順天堂大学 2年連続4度目
第59回 1983年

昭和58年

日本体育大学 3年ぶり9度目
第60回 1984年

昭和59年

早稲田大学 30年ぶり10度目 20 東京大学 第60回を記念して全20校で実施。

本大会では過去の優勝校を無条件で参加させるのではなく、制限タイムつきでの予選会突破を 義務付けたが、対象3校(中央・慶應・明治)はいずれも予選会を突破。

第61回 1985年

昭和60年

早稲田大学 2年連続11度目 15 -
第62回 1986年

昭和61年

順天堂大学 4年ぶり5度目
第63回 1987年

昭和62年

順天堂大学 2年連続6度目 山梨学院大学 日本テレビによる生中継放送が開始。

日本テレビが後援、サッポロビールが協賛につく。 最終10区で順天堂大学の工藤康弘が、突然飛び出してきた男性との接触により転倒。

第64回 1988年

昭和63年

順天堂大学 3年連続7度目 -
第65回 1989年

昭和64年

順天堂大学 4年連続8度目 留学生選手が初めて登場。
第66回 1990年

平成2年

大東文化大学 14年ぶり3度目 伴走車(監督車)が交通事情により廃止。
第67回 1991年

平成3年

大東文化大学 2年連続4度目 大東文化大学が、出雲駅伝、全日本大学駅伝と合わせて史上初の大学駅伝三冠達成。
第68回 1992年

平成4年

山梨学院大学 初優勝
第69回 1993年

平成5年

早稲田大学 8年ぶり12度目
第70回 1994年

平成6年

山梨学院大学 2年ぶり2度目 20 関東学院大学

中央学院大学

山梨学院大学が初めて総合成績10時間台を記録。

第70回を記念して例年より5校多い11校を予選通過とし20校にて実施。 特例として慶應義塾大学、筑波大学が出場。

第71回 1995年

平成7年

山梨学院大学 2年連続3度目 15 - 順天堂大学が途中棄権(10区)。
第72回 1996年

平成8年

中央大学 32年ぶり14度目 史上初の2校(神奈川大学〈4区〉、山梨学院大学〈4区〉)途中棄権。
第73回 1997年

平成9年

神奈川大学 初優勝 前年途中棄権からの優勝、予選会突破からの優勝は初めて。

監督会議にて給水の必要性が議論され、以後14キロ過ぎに給水ポイントを設置することが決まる。

第74回 1998年

平成10年

神奈川大学 2年連続2度目 帝京大学
第75回 1999年

平成11年

順天堂大学 10年ぶり9度目 - 10区のコースを日本橋経由に変更。
第76回 2000年

平成12年

駒澤大学 初優勝 5区と6区のコースが一部変更。元の東海道を通るコースになる。
第77回 2001年

平成13年

順天堂大学 2年ぶり10度目 國學院大學

平成国際大学

順天堂大学が史上2校目の大学駅伝三冠達成。

東海大学が途中棄権〈2区〉。 予選会会場を国営昭和記念公園に変更。

第78回 2002年

平成14年

駒澤大学 2年ぶり2度目 - 法政大学が途中棄権(2区。スタートから最短地点(2014年現在)での途中棄権)。
第79回 2003年

平成15年

駒澤大学 2年連続3度目 19 前年度成績上位校によるシード枠を10校、予選会からの出場枠を9校に増加、

さらにオープン参加として関東学連選抜チームを加えて20チームとする。 エントリー人数が16人に拡大。運営管理車の導入など大幅な変更。

第80回 2004年

平成16年

駒澤大学 3年連続4度目 城西大学 第80回を記念して同年のみ関東学連選抜に代わり、日本学連選抜がオープン参加した。

この大会から、最も優秀な記録を出した選手に最優秀選手賞として、金栗四三杯が授与される。 この大会で陸上自衛隊第1師団からの車両・要員支援が終了。 読売新聞社が共催に復帰。 箱根町の要望により第80回を記念し、予選会をこの回限定として芦ノ湖畔コースで実施。 年末にかけてシンポジウムやトークショーなどの記念行事が行われた。

第81回 2005年

平成17年

駒澤大学 4年連続5度目 - 距離を再計測し、全区間の距離表示を変更(ルート自体は変更せず)。

表彰式を東京ドームホテルで公開して開催。 箱根駅伝ミュージアムが往路ゴール脇に完成。 予選会での外国人枠は2人までに限定(実際に走るのは1人のみ)。 駒澤大学が平成初の4連覇を達成。 予選会のコースが陸上自衛隊立川駐屯地→立川市街地→国営昭和記念公園のルートに変更された。

第82回 2006年

平成18年

亜細亜大学 初優勝 中距離及びマラソンランナーの育成を目的として往路の小田原中継所を東京寄りの位置に変更。

4区が20kmを切る最短区間(18.5 km)、5区が2区や9区を上回る最長区間(23.4 km)になる。

第83回 2007年

平成19年

順天堂大学 6年ぶり11度目 関東学連選抜が正式参加となる。
第84回 2008年

平成20年

駒澤大学 3年ぶり6度目 史上初の3校(順天堂大学〈5区〉、大東文化大学〈9区〉、東海大学〈10区〉)途中棄権。

関東学連選抜が4位に入り、シード枠を1校分減らしたため、次年度の予選会枠が1つ増えた。

第85回 2009年

平成21年

東洋大学 初優勝 22 上武大学 第85回を記念して全23チームで実施。シード校9校と選抜チーム以外の13校を予選会で選考。

青山学院大学が33年ぶりの出場。 城西大学が途中棄権〈8区〉。 関東学連選抜が9位に入ったほか、3位の日本体育大学が跳躍選手の 不祥事(大麻使用歴及び偽札製作)によりシード権が剥奪されたため、次年度の予選会枠が2つ増えた。

第86回 2010年

平成22年

東洋大学 2年連続2度目 19 -
第87回 2011年

平成23年

早稲田大学 18年ぶり13度目 早稲田大学が史上3校目の大学駅伝三冠達成。

史上2回目、当時においてコース初の総合成績10時間台を記録。

第88回 2012年

平成24年

東洋大学 2年ぶり3度目 東洋大学が完全優勝。

往路成績、復路成績、総合成績の全部門で記録更新。 日本テレビが特別後援となる。

第89回 2013年

平成25年

日本体育大学 30年ぶり10度目 城西大学〈5区〉、中央大学〈5区〉が途中棄権。
第90回 2014年

平成26年

東洋大学 2年ぶり4度目 23 第90回大会を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の最多23校で実施。

関東学連選抜は今大会のみ編成せず。 東洋大学が完全優勝。復路成績で記録更新。 山梨学院大学が途中棄権〈2区〉。 予選会でのインカレポイント制度廃止。

第91回 2015年

平成27年

青山学院大学 初優勝 20 創価大学 関東学連選抜が関東学生連合に名称変更し、オープン参加となる。

函嶺洞門が通行禁止になったため函嶺バイパスにコース変更、 それまでの第5区・第6区の区間記録、往路・復路・総合記録は参考記録とされた。 競走路の再計測に伴い、第1区、第2区、第3区、第8区、第9区、第10区の距離表示が変更された。 青山学院大学が完全優勝。

第92回 2016年

平成28年

青山学院大学 2年連続2度目 東京国際大学 青山学院大学が1区から一度も首位を譲らず完全優勝(39年ぶり)。
第93回 2017年

平成29年

青山学院大学 3年連続3度目 - 青山学院大学が完全優勝で3連覇(80年ぶり)、史上4校目の大学駅伝三冠達成。

完全優勝をしての三冠は史上初。 中央大学が予選会11位で敗退。連続出場記録が87で途切れた。 総合成績による第5区の貢献度が大きすぎる等の理由により 往路の小田原中継所を箱根寄りの位置に変更。 4区が20.9km、5区が20.8kmになる。 それまでの第4区・第5区の区間記録、往路・総合記録は参考記録とされた。

第94回 2018年

平成30年

青山学院大学 4年連続4度目 青山学院大学が史上6校目の4連覇。初優勝からの4連覇は史上3校目(56年ぶり)。

現コース初の総合成績10時間台を記録。

第95回 2019年

平成31年

東海大学 初優勝 22 第95回を記念して全22チームで実施。シード校10校と選抜チーム以外の11校を予選会で選考。

日本大学は関東インカレ成績枠として出場。

第96回 2020年

令和2年

青山学院大学 2年ぶり5度目 20 7区間で13選手が区間新記録を樹立。

東京国際大学(総合5位)と創価大学(総合9位)がシード権を獲得。

第97回 2021年

令和3年

駒澤大学 13年ぶり7度目 新型コロナウイルス感染拡大防止の為、沿道応援の自粛を要請。

前回大会でシード権を獲得した創価大学が史上19校目の往路優勝・総合2位と大躍進。

第98回 2022年

令和4年

青山学院大学 2年ぶり6度目 駿河台大学 新型コロナウイルス感染拡大防止の為、前回大会に続き沿道応援の自粛を要請。

大会最多優勝の中央大学が10年振りにシード権を獲得し、古豪復活を印象付ける。 青山学院大学が復路記録・大会記録を更新した。

第99回 2023年

令和5年

駒澤大学 2年ぶり8度目 - 3年ぶりに沿道での応援が解禁された。観戦者は91万人。

立教大学が史上最長となる55年ぶりの出場。襷を繰り上げスタートで途切れることなく最後まで繋いだ。 関東学生連合の1区・育英大学のランナーがスタート直後、飛び出して話題となる。 駒澤大学が史上5校目の大学駅伝三冠達成。3月に勇退が決まっていた28年駒澤一筋の大八木弘明監督が有終の美を飾った。 前回大会に10年振りのシード権を獲得した中央大学は更に躍進し準優勝、完全復活を果たした。

第100回 2024年

令和6年

青山学院大学 2年ぶり7度目 23 第100回大会を記念して、シード校10校と予選会を通過した13校の23校で実施。

関東学生連合が廃止。 史上最多タイとなる16校が復路一斉スタート。 青山学院大学が完全優勝。往路成績、総合成績で記録更新。

成績・表彰・式典[編集]

表彰[編集]

以下のような表彰がある。

  • 総合優勝校には、賞状、優勝カップ、金メダル、優勝旗などを授与(内規第24条第1項)。優勝校監督には記念品を授与(内規第24条第6項)。
  • 準優勝校、3位校には、賞状、カップ、メダルを授与。
  • 総合1位から10位までのチームを入賞として賞状とトロフィーを授与(内規第24条第2項)。第78回(2002年)までは入賞は8位までとされていた。
  • 往路優勝校、復路優勝校には賞状とトロフィーと副賞を授与(内規第24条第3項)。往路優勝校に関しては往路ゴール後に箱根町から提供される地元の名産寄木細工のトロフィー(箱根町長杯)が第73回(1997年)より授与されている。
  • 区間賞者(各区間1位の者)には賞状とトロフィーを授与(内規第24条第4項)。
  • 最優秀選手には金栗四三杯が授与される(内規第24条第5項)。「日本マラソンの父」と評された金栗四三の功績を讃えるため、第80回(2004年)に新設された最優秀選手賞。最も優秀な記録を出した選手に授与される。金栗四三杯の名称は富士登山駅伝でも用いられておりこちらの方が先に命名されている。山登りの5区を中心に往路から選出されることが多い一方、復路からは第84回(2008年)の篠藤淳(中央学院大学)、第90回(2014年)の大津顕杜(東洋大学)、第93回(2017年)の秋山清仁(日本体育大学)、第94回(2018年)の林奎介(青山学院大学)、第95回(2019年)の小松陽平(東海大学)、第98回の中村唯翔(青山学院大学)の6名しかいない。現在のところ3区(戸塚 ⇒ 平塚間)からの選出はない。

金栗四三杯受賞者

式典[編集]

表彰(優勝校・入賞校・区間賞・金栗四三杯等)は「閉会式」の会場で行われるが、往路優勝の表彰については芦ノ湖の特設会場の「往路表彰式」で行われる。閉会式は1月3日の大会終了後によみうり大手町ホールで行われている。

大会運営[編集]

本大会[編集]

現在[編集]

  • 主催 - 関東学生陸上競技連盟
  • 共催 - 読売新聞社
  • 特別後援 - 日本テレビ放送網
  • 後援 - 報知新聞社
  • 特別協賛 - サッポロホールディングス
    • 第63回(1987年) - 第79回(2003年):サッポロビール(旧法人、現・サッポロホールディングス)。
    • 第80回(2004年) - 第93回(2017年):サッポロビール(新法人)
  • 協賛 - トヨタ自動車、ミズノ、セコム、(第93回以降)敷島製パン(Pasco)
  • 運営協力 - 東京陸上競技協会、神奈川陸上競技協会、名橋日本橋保存会、箱根町、陸上競技社
  • 警察 - 選手の先導及び安全確保任務のため選抜された白バイ隊員は、このために事前に特別訓練を行なって本番に臨んでいる。
    • 警視庁第一方面交通機動隊:大手町 - 六郷橋(先導担当は各方面隊から特に選抜された隊員が担当)
      • 第88回(2012年)の10区では、かつて箱根を走った日大陸上部OB(第九方面隊所属、1年次に7区で区間賞、4年次に主将を務め総合4位に貢献)が先導を担当するというエピソードが生まれた。
    • 神奈川県警察(先導担当隊員は全国白バイ安全運転競技大会にて優勝など優秀な成績を収めた隊員が選抜される)
      • 六郷橋 - 遊行寺坂付近:第一交通機動隊
      • 遊行寺坂付近 - 芦ノ湖:第二交通機動隊
  • その他協力
    • ウェザーニューズ - 気象面で運営をバックアップしている。具体的には、各中継地点で、気象情報を収集し、日本テレビに報告、大会運営や実況中継コメントなどで活用されている。第86回(2010年)からはテレビ中継の各中継地点の気象情報表示時に「気象情報 ウェザーニューズ」のクレジットが表示されている。
    • 医師 - 順天堂大学OB

過去[編集]

  • アシックス(第39回(1963年) - 第70回(1994年))
  • 日産自動車(第63回(1987年) - 第68回(1992年))
  • マツダ(第69回(1993年))
  • 三菱自動車工業(第70回(1994年) - 第79回(2003年))
  • 本田技研工業(第80回(2004年) - 第86回(2010年))

運営車両の変遷[編集]

運営車両は以下の編成

  • 大会会長車:審判長が乗車
  • 大会本部車:審判員が乗車
  • 技術総務車:走路の安全確認
  • 広報車:選手の接近を告知
  • 運営管理車:各大学の監督が乗車し、選手に指示を送る。監督・アシスタント・大会運営側委員が乗車。乗車人数が多い為、ミニバンが選ばれる。
  • 緊急対応車:3台投入。走路の最後尾を走り、選手のトラブルなどに対応
  • 医務車

その他、報道関係車両(日本テレビ所有のテレビ中継車とバイク中継車、NHK(日本放送協会)所有のラジオ中継車、共同カメラ車(小型トラック)、新聞社の報道車)や、警視庁・神奈川県警察の警察車両が隊列を組む。

第78回までは陸上自衛隊が担当。陸自撤退後の第76回からは三菱自動車が運営車両を提供していたが、リコール隠し騒動の影響で第79回(2003年)をもって撤退。第80回(2004年)から第86回(2010年)まではホンダが運営車両を提供した。この間は大会本部車に、ホンダで開発していた燃料電池自動車を冬季公道走行試験を兼ねて投入していた。

第89回(2013年)まではホンダが車両提供契約を締結していたが、第87回(2011年)以降はトヨタが運営車両全て(医務車と一部の車両を除いてハイブリッドカー)を提供。また第90回(2014年)以降の運営管理車には、各チームのたすきと同じ色のラインテープによる装飾(ボンネット・リアハッチ・左側面)が行われている。

予選会[編集]

  • 主催 - 関東学生陸上競技連盟
  • 共催 - 読売新聞社
  • 特別後援 - 日本テレビ放送網
  • 後援 - 報知新聞社、国営昭和記念公園、立川市、立川商工会議所
  • 特別協賛 - サッポロホールディングス
    • 第63回(1987年) - 第79回(2003年):サッポロビール(旧法人、現・サッポロホールディングス)。
    • 第80回(2004年) - 第93回(2017年):サッポロビール(新法人)
  • 協賛 - トヨタ自動車、ミズノ、セコム、 (第93回以降)敷島製パン(Pasco)
  • 運営協力 - 東京陸上競技協会、陸上自衛隊立川駐屯地

学生スタッフ[編集]

大会を支えているのは関東学連に加盟している加盟校である。創設以来の学生主体を現在も守り、沿道の走路員スタッフとして学生が起用されている。

箱根駅伝に出場するチームで選手や付き添い以外の部員、予選会で落選したチームの選手のほかにも1年生を多数スタッフとして送り込んでくる大学、トラック&フィールドも抱える大所帯の大学からも多数のスタッフが派遣されており、過去には末續慎吾、為末大なども走路員としてスタッフに加わった。

医療スタッフ[編集]

駅伝に出走する選手のアクシデント等への対応のため、走者に車で伴走する医者のほか、各中継所に数人程度の医者が待機している。1992年より、順天堂大学医学部同窓会「順神会」の有志がメディカルボランティアを行っている。

かつてはスタートとゴールのみに医師がいる状態で、大手町側は読売新聞社の産業医が担当していたが、読売新聞本社ビルの建て替えのため対応できなくなった。昭和年代にも、途中棄権者が出た際に医師が不在であることが問題になったこともあり、関東学連と順天堂大学医学部OBの宮川政久(2022年現在は川崎市の宮川病院院長)が医学部を持つ大学への協力を求めたが、無報酬であることなどがネックとなり協力を得られなかった。やむなく宮川が順大同窓会に助けを求め、1992年から同窓会が医師の派遣を行うようになった。

出場チームの取り組み 〜1年間の流れ〜[編集]

  • 3月頃まではハーフマラソンなどのロードレース(英語版)に出て刺激を受ける選手も多い。そのうちに少しずつスピード練習を取り入れていくが、急激な練習の変化で肉離れなどが起きやすいともいわれる。近年は、この時期に合宿を組む大学も現れている。
  • 4月に新1年生部員が入部。春の目標は5月中旬の関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)である。参加標準記録があり、種目ごとのエントリー人数も限りがあるので、それまでは各大学などで行われる記録会で標準記録を突破する必要がある。日本体育大学、東海大学、順天堂大学などが主催して大学内で行う長距離記録会が有名で、箱根出場大学や一部の実業団選手、高校生も出場する(この標準記録も有効期限内のものでなければいけない。大体至近2年ぐらいであることが多いようである)。関東インカレ男子は1部校と2部校(ならびに大学院生の3部校)に分かれ、毎年1部校下位2校と2部校上位2校が入れ替わる仕組みとなっているが、長距離部員のみの大学も多く、総合的なポイント獲得が難しいため、必ずしも強豪校が1部校というわけではない。
  • 6月中旬には全日本大学駅伝関東地区選考会が開催され、シード校を除く多くの大学が顔を合わせる。
  • 一部のトップ選手の場合には日本選手権など世界陸上やオリンピックへの出場を目指して実業団選手と走ることもある。近年は関東学連による海外遠征に参加する選手もいる。
  • 大学によって時期のずれはあるが、試験の終わる7月下旬からが夏合宿となる。長期間の合宿を組むところや、何回かに分けて練習場所を変えるところもある。選手の状態に合わせてAグループとBグループに分け、全く別の場所で行うところもあり、練習のスタイルも異なる。しかし月間で1000kmを超えることは珍しくなく、徹底した走りこみを行うことが特徴である。合宿の場所は北海道や東北地方、長野県などの高地や避暑地などが多い。前出の世界大会などに出場する選手は、チームを離れて別メニューとなることが多い。4年生は就職活動や卒業論文などと並行しながら行っている。教員免許をとる選手の場合には、夏又は秋以降に教育実習もあるためにチームを離れることも多くコンディションづくりも容易ではない。
  • 9月上旬には日本学生陸上競技対校選手権大会(日本インカレ)が開催される。出場のハードルは関東インカレよりも更に高い。しかし、箱根駅伝を最大の目標とする関東の大学は夏合宿での走りこみを重視し、この大会にピークを合わせることはしない。結果的に関東インカレよりもレベルの低いメンバーしか集まらないこともあり、後述される駅伝偏重につながる批判の矢面に挙げられている。
  • 下半期になると各大学のスタイルは、記録会にほとんど出ないところ、予選会突破を目指すところ、出雲駅伝や全日本大学駅伝を目指すところ、というように分かれてくる。特に駅伝では未経験者を試しに使ったり、様々なオーダーを試したりする使い方をする。9月ごろからは再び頻繁に記録会がある。
  • 予選会に出る大学にとっては、10月中旬の本番までに最高の状態にピークを持っていかなければならない。予選会を突破することが最優先のため、本番の準備(特に5区、6区の山の区間)が遅れがちになる傾向にある。
  • 全日本大学駅伝の後から短期の合宿を組むところもある。候補としては伊豆大島や房総半島など温暖な場所が挙げられる。
  • 11月下旬に各地で開催されるハーフマラソンや記録会が、事実上メンバー選考の舞台となることが多い。エースクラスはともかく、当落線上の選手達にとってはここが正念場である。多くの大学が一堂に会するので、次第に大学間の力関係も浮き上がってくる。ここでの選手記録上位校がスポーツ新聞などの「下馬評」で上位校として取り上げられることが多い。
  • 12月10日(第82回は2005年12月9日)までに出場校(チーム)は計16名以内のエントリーを関東学連に提出する。この最大16人がすなわち箱根駅伝本番への出場権を得た選手と言える。これ以外の選手は付き添いなど、裏方として本番までを過ごす。当日午後から出場校の監督・コーチとマネージャーがマスコミ向けに記者会見を行う。
  • 12月29日にエントリーした最大16人の区間エントリーを行う。16人のうち10人を1区から10区までの区間ごとに、残る6人を補欠選手として登録する。
  • 1月2日午前6時50分に往路のエントリー変更を締め切る。
  • 1月3日午前6時50分に復路のエントリー変更を締め切る。


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