明治維新
明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。
同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。
名称:復古・維新・一新・革命[編集]
典拠[編集]
維新は詩経大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新(周は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から御一新・御維ヰッ新(ごいっしん)ともいわれた。
改革の時期[編集]
維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、天保年間(1831 - 1845年)に置く考えがある。天保年間には、天保の大飢饉(天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、天保騒動などの百姓一揆や、大塩平八郎の乱(1837年)が発生した。
また鎖国を批判した渡辺崋山や高野長英を弾圧する蛮社の獄があり、天保の改革でも飢饉対策の成果はなかった。天保13年(1842年)にはアヘン戦争で清が敗れ、イギリス(大英帝国)の強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた。
始期として、黒船来航(嘉永6年、1853年)または不平等条約であった安政通商条約の締結(1858年)に置く見方もある。
1889年(明治22年)に完成した官選史料集『復古記』では、慶応3年(1867年)の大政奉還から明治元年10月28日(1868年12月11日)の東征大総督解任までが扱われた。当初の復古記編纂案では、嘉永7年(1853年)のペリー来航から大政奉還までを前記、大政奉還から東征大総督解任までを正記、戊辰戦争記を外記と区分していた。
文部省・東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料』では、弘化3年(1846年)2月の孝明天皇の践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県に至る25年間が維新資料としてまとめられた。
狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い[要出典]。
終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった西南戦争(明治10年、1877年)や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立・大日本帝国憲法発布(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。
この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権(維新政権)を明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)ともいう。
幕末の情勢と江戸幕府の崩壊[編集]
政治状況[編集]
一般的に、明治維新の始まりは黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つとされる。
19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、フェートン号事件やモリソン号事件などの外圧の高まりに加えて、宝暦事件、明和事件、大塩平八郎の乱といった内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになった。老中松平定信や国学者の本居宣長などは大政委任論を唱え、幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想・尊王論が広まっていった。
19世紀半ばのアヘン戦争以後、欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、水戸学等の国学を基盤として、外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策と幕藩体制を維持しようとする攘夷思想が現れた。しかし江戸幕府は開国・通商路線を選択したため、攘夷思想は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していった。
一方、幕府側の開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革(近代化)を進め、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。イギリス外交官アーネスト・サトウの論文『英国策論』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と討幕を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が英国の外務大臣に提出したものとの類似性が指摘されている。
幕府は公武合体政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に王政復古が宣言され、古代の律令制や中世の建武の新政に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、天皇が欧米列強諸国の君主同様に近代国家の主権者として統治する体制を採る明治政府が誕生した。戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。