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明治天皇

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明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日〈嘉永5年9月22日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)は、日本の第122代天皇(在位: 1867年2月13日〈慶応3年1月9日〉- 1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日)。諱は睦仁(むつひと)、御称号は祐宮(さちのみや、旧字体: 祐󠄀宮)。お印は(えい)。

倒幕および明治維新の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。国力を伸長させた英明な天皇として「大帝」と称えられる。在位中に皇族以外の摂政(二条斉敬)、太政大臣(三条実美)、左大臣(有栖川宮熾仁親王)、右大臣(岩倉具視)、征夷大将軍(徳川慶喜)が置かれた最後の天皇であり、また内閣総理大臣(伊藤博文)が置かれた最初の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。皇后とともに和歌も多く残しており、その作品数は93,032首に及ぶ。

生涯[編集]

生誕[編集]

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)午の半刻(午後1時頃)に京都石薬師の中山邸の産殿において第121代天皇孝明天皇の第二皇子として生誕した。生母は当時権大納言だった公家中山忠能の娘で権典侍である中山慶子。江戸時代、現在の京都御苑に当たる場所には皇居である禁裏御所を取り囲む形で、公家の屋敷が立ち並ぶ公家町が存在したが、その中の一つである中山邸は御所から北東300メートルほどに位置していた。

生母中山慶子の父である中山忠能は孫の誕生を待ちわびており、娘の慶子が懐妊した時からお産の準備に大わらわとなった。当時、産殿の建設には、総工費100両が必要とされたが、年収200石の公家だった中山家には過重にすぎたため、忠能は朝廷に200両の拝借を願い出たが、関白鷹司政通から前例は100両として退けられ、忠能に100両、大叔母中山績子(孝明天皇の後宮の女官長格の「大典侍」)名義で50両の合計150両が中山家に貸し出され、その資金を使って六畳、十畳二間の産殿を建設した。

慶子は妊娠5か月後の著帯を実家の中山邸で済ませた後、御世話卿として東坊城聡長、御用掛として澤村出雲守、他に侍医たちが付けられた。6か月の時に慶子が高熱を出し、流産しかけるも乗り切り、9か月目の正式な著帯を8月27日(10月10日)に宮中において行った。この日、孝明天皇は風邪で臥せっていたが、略式ながら天皇の部屋で祝の盃を交わし、天皇は「御手づから帯を結びたま」わった。

当時は出産に血の穢れが発生すると考えられており、天皇の配偶者は実家に帰って出産する慣習であったため、慶子も著帯後、中山邸に新設された産殿に入って出産に備えた。忠能は9月に入ると賀茂川の出町橋の北まで産湯の水を汲みに行かせたり(賀茂の水の産湯は長命を保証すると信じられていた)、大和国の永久寺生産社の神璽を祀るなど、たいそうな熱の入れようであった。

邸内に新築された産殿には、七日船鉾町(新町綾小路南)と十四日船鉾町(新町四条南)の町年寄から献上された毎年の祇園会で船鉾に祀られる神功皇后の神面が飾られていた。神功皇后は妊娠中に三韓征伐を乗り切ったという伝説から京の町の人々から安産の守り神として信仰を集めていた。また忠能は神功皇后の安産祈願を行ったことで知られる大阪の坐摩神社に依頼して皇子生誕にあたって安産祈願を執り行った。

慶子の出産が迫ると陰陽頭の土御門晴雄が出産日の月日によって分娩が行われるべき方角を占うなど、出産に関する入念な指示を与えた。

『明治天皇紀』は慶子が出産の兆候を見せた同日辰の刻(午前8時前後)からの動向を詳細に記している。忠能は巳の刻(午前10時前後)に典薬寮医師3人と産婆1人を呼び寄せるとともに、関白鷹司政通、議奏、武家伝奏に書状を出して生誕が間近であることを伝えた。そして午の半刻(午後1時頃)に慶子は無事皇子を出産した。忠能はこれを心底喜び、生誕を知らせる新たな書状を回した。

孝明天皇がその報告を受けたのは常御殿北庭の花壇の菊の花を愛でながら一献傾けていた時で、皇子生誕の吉報にことのほか喜び、さらに杯を重ねたという。孝明天皇にはすでに二人の子が誕生していたが、明治天皇生誕時にはいずれもすでに薨去していた。当時の幼児死亡率は極めて高く、嘉永3年(1851年)11月に生まれた孝明天皇の第一皇女(生母は九条夙子〈英照皇太后〉)は一宮と名付けられるも嘉永5年6月(1852年8月)に3歳で薨去しており(孝明天皇は3日遡って一宮に内親王を追贈し順子の名を与えている)、順子内親王が生まれた直後の嘉永3年12月には第一皇子(生母は坊城伸子)も生まれているが、こちらは名づける前に即日生母ともども薨去している。そのため、孝明天皇にとっては、待望の第二皇子誕生であった。

生誕直後に胞衣(胎盤など)とともに請衣に包まれる儀式を受けた。ついで誕生の奏上の後に継入の湯に入れられた。それが終わった後、中山邸にある火は全部廃棄され、禁裏御用を務める餅屋川端道喜から新たに火が取り寄せられた。火も出産の穢れとされていたためである。川端道喜の家は室町時代後期から宮中のお出入りとなって代々朝廷から特別の待遇を受けていた商家で、その家で使われる火は「清火」とされて宮中釜殿でも使われていた。

臍帯を切ってこれを縛り、創痕を焼灼する儀式が行われた後、賀茂の水の産湯に入れられた。皇子生誕に当たって勧進のために陰陽頭土御門晴雄が中山邸に派遣されていたが、土御門邸は御所からかなり距離があったために晴雄が中山邸に到着した際にはすでに皇子は産湯を終えており、晴雄の占い結果の内容の大半はもう済んでいたが、胞衣の埋蔵場所の問題だけ残っており、晴雄の占いの結果に従って洛東吉田神社に埋蔵された。

産衣を着るまでの数日間は襦袢と袖無し、御巻と呼ばれる請衣に似た白羽二重で包まれた。皇子の寝室は産所正室の片高(厚畳を斜めに削いだもので、竹の高い方を枕にした)に設けられた。その身辺服飾調度品はほとんどが白一色で「色直しの儀」でこれらが彩色した物に替えられた。

9月28日に「七夜の礼」が予定されていたが、その日は姉の順子内親王の百箇日にあたったため、その翌日に延期された。9月29日に七夜の礼が行われ、父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。これは明治天皇の曽祖父である119代天皇光格天皇と同じ幼名であり、『周易』の「自天祐之、吉无不利」(「天佑があって、吉であり万事に有利」)に由来し、孝明天皇が深慮あって選んだものである。というのも、光格天皇は、在位中は諸朝儀・神事の再興復古による朝廷再興に邁進し、そのためには江戸幕府に強い姿勢をとり、時に軋轢を起こしながらも奮闘した天皇だったのである。また、天皇が身に付けるべき諸芸能に励むことにより宮廷文化の振興にも努めた。譲位して上皇となっても、朝廷の政務処理や意思決定に重要な役割を果たし続け、幕府から頼られる存在となった。光格天皇の努力の結果、天皇・朝廷の権威は高まり、幕末になると、孫の孝明天皇は高い権威を帯び、幕府と反幕府勢力の双方から担がれて政治の頂点に浮上することになった。孝明天皇にとって光格天皇は理想の天皇の一人だったのである。

祐宮は、無事に育てば、将来、孝明天皇の後を継いで天皇になる可能性があったが、この時点では、それは確定したものではなかった。祐宮を産んだ中山慶子の実家中山家は羽林家であり、慶子は天皇の正室になれる五摂家の娘ではなかったからである。すでに孝明天皇には正室・九条夙子(英照皇太后)があり、夙子は女御から准后、皇后へと昇格していくことになっていた。そのため、夙子に皇子が生まれ成長したなら、祐宮が将来に即位する可能性は低くなってしまう状況であった。また、有栖川宮幟仁親王(男系で霊元天皇の4世孫)は、光格天皇の猶子(養子)として仁孝天皇から親王宣下を受け、有栖川宮熾仁親王(男系で霊元天皇の5世孫)・伏見宮貞教親王(男系で崇光天皇の15世孫、女系で霊元天皇の6世孫)は、仁孝天皇の猶子として、孝明天皇から親王宣下を受けていた。これら三人の親王は、いずれも皇位継承の有力候補であった。したがって、夙子に皇子が生まれなくとも、祐宮が親王になる以前に、孝明天皇が崩御した場合、三人の親王の一人が皇位を継承する可能性もあった。以上のような事情があったものの、孝明天皇は、自身の祖父・光格天皇の幼名を与えるほど、唯一の皇子である祐宮に大きな期待を抱いていた。

生後30日目の10月22日、参内始で、祐宮は初めて孝明天皇に会った。この時、孝明天皇は祐宮に人形を与え、祐宮は生母の中山慶子の局(部屋)を宮中での在所とすることになった。

もっとも、祐宮は四歳になるまで、中山邸で育てられた。これは、宮中では神事が多く、幼児の養育をする生母をはじめとする女性は、生理の関係で「穢れ」の原因となりがちで、その度に宮中から退出する必要があり、責任を持って幼児を育てることができないと考えられていたからである。そのため、皇子は生母の実家でしばらく育てられた後に御所に戻る慣習があった。祐宮は中山邸に居所を構えながら折りにふれて御所に参内するという生活を4年間続けた。



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