日本万国博覧会
日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英: Japan World Exposition Osaka 1970, Expo'70)は、1970年(昭和45年)3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。略称は開催地・開催年から大阪万博あるいは70年万博、一般的な英語表記としてはEXPO'70が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。
概要[編集]
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77か国が参加し、終戦25周年記念として、戦後の高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。主催は財団法人 日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣・佐藤栄作。コンセプトは「規格大量生産型の近代社会」。その日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。大阪市など会場周辺市街地では開催へ向けて道路や鉄道・地下鉄の建設などといった大規模開発・整備がなされ、日本政府の万国博関連事業として6500億円あまりが支出された。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。
常識を覆すような超巨大プロジェクトゆえに日本全国で物議を醸したが、世界各国の新技術や文化を結集し、一時の未来世界を作り上げたことで6422万人が来場し、大成功を収めた。本博覧会では、サインシステム、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなど、21世紀の現代社会で普及している製品やサービスが初めて登場した。本博覧会を機に広く有用性が認知され、直後に日常生活にも広がっていった製品は少なくない。しかし、技術的な難易度が高く、現代でも実用化に至っていない製品もある。レトロフューチャー的な施設デザインは、清潔感があることから、のちの展示会などでも大きな影響を与えた。閉会後半世紀経つ今なおイベントの知名度は高く、高度経済成長期の日本を代表する出来事として取り上げられることが多い。
テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの人気パビリオンでは、数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。特にアポロ12号が持ち帰った「月の石」 を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがある。また、国際博覧会史上初めて黒字となった。
- 名称:日本万国博覧会 (Japan World Exposition, Osaka 1970)
- テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)
- サブテーマ
- 「よりゆたかな生命の充実を」(Toward fuller enjoyment of life)
- 「よりみのり多い自然の利用を」(Toward more bountiful fruits from nature)
- 「より好ましい生活の設計を」(Toward fuller engineering of our living environment)
- 「より深い相互の理解を」(Toward better understanding of each other)
- 開催期間:1970年3月15日 - 9月13日(183日間)(開会式は3月14日)
- 区分:国際博覧会条約に基づく第1種一般博 (General/first category)
- 会場運営:財団法人 日本万国博覧会協会
- 面積:330万平方メートル
- 総入場者数:6421万8770人(うち外国人約170万人)
- 目標入場者数:3000万人(その後4500万人に上方修正)
- 参加国数:77か国4国際機関6州3市1政庁
- モノレール乗客数:約3350万人
- 売上金額
- 入場券:約373億6113万円(前売約1065万枚、当日約5295万枚、払戻除く合計約6360万枚)
- 食堂・売店関係:約525億6433万円
- 1日入場者数
- 最高:83万5832人(9月5日)
- 最低:16万3857人(3月16日)
- 平均:35万922人
- 迷い人:大人 12万5778人・子ども 4万8139人
- 落し物:5万4154件(そのうち、金銭は4892万4577円)
- 食中毒:43件 計388人
大阪万博の最終的な総入場者数は約6422万人で、2010年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまでは万博史上最多であった(上海万博は約7309万人)。また、愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博=つくば博、花の万博=大阪花博、愛知万博=愛・地球博)。
なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京で開催される予定で、日中戦争の激化などを受けて開催延期された「紀元2600年記念日本万国博覧会」の前売り券が本博覧会で代替として使用できたため、約3000枚が実際に使用された。
また、入場料の引き下げのために、政府の万国博関係閣僚協議会の要請のもとモーターボート競走業界より21億円あまりの協賛金が拠出されたほか、日本船舶振興会(現・日本財団)もその他に補助金を交付するなど、万博への協賛が実施された。このほか、日本自転車振興会は広報事業・協会本部ビル・動く歩道・オペレーションコントロールセンター・昇降機・公式記録・記録映画の事業費として20億円あまり、日本小型自動車振興会は電光案内板資金として1000万円あまり、競馬業界では万国博と馬匹や畜産の関連性の薄さから中央競馬からの支援はなかったものの、大阪府都市競馬組合・兵庫県・和歌山県から1億6200万円の寄付が寄せられた。
演出者[編集]
財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(元通産省官僚、のちに実業家)。新井はテーマの画策、テーマ館の総合プロデューサーを岡本太郎に依頼、説得するなど奔走したが、1967年の夏に志半ばで更迭された。2代目は鈴木俊一(のちの東京都知事)。
開会式の演出は内海重典(宝塚歌劇団演出家)、閉会式演出は内海と同じく宝塚歌劇団の高木史朗が担当した。
SF作家の小松左京は自発的にプロジェクトに参画し、1965年7月に文化人類学者の梅棹忠夫、社会学者の加藤秀俊らと「万国博を考える会」を発足。同年10月に第1回総会を開催、その後BIE(パリの博覧会国際事務局)に提出するテーマと基本理念づくりのため草案を練り、テーマが「人類の進歩と調和」に決まった。小松はその後、テーマ展示プロデューサーに就任した岡本太郎との個人契約という形で、テーマ展示サブプロデューサーとして太陽の塔の地下展示を作り上げた。
万博会場の総合設計を行ったのは建築家の丹下健三であった。
ベンチや案内表示、照明、ゴミ箱などのストリート・ファニチャー(英語版)の基本設計は、榮久庵憲司をディレクターとしてGKインダストリアルデザイン研究所、剣持勇デザイン研究所、トータルデザインアソシエーツが共同で担当した。このようなストリート・ファニチャーをはじめとした環境デザインの考え方は全国の駅や都市計画へと普及していった。
会場やパビリオンには随所にメタボリズムの意匠が見て取れる。黒川紀章や菊竹清訓らメタボリストたちは、広大な敷地に会期の間だけ「都市」を出現させ、終わったらすべてを無に帰すという博覧会の特徴が上手くメタボリズムと適応したためか、大阪万博以降の博覧会(沖縄海洋博など)にも関与した。
シンボルマーク[編集]
- 大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛。5つの花びらは五大州・世界を表し世界が手を取り合い万国博へ参加しようとする意図、中央の円は日本の日の丸と周囲の白抜き部分は発展と進歩への余裕、全体の安定した印象は品位と調和を示し世界の催しであることを力強く表現するものとした。なお、日本館はこのシンボルマークを模って5棟構成で建設された。
- メインカラーは全人類・全宇宙的広がりと若さや発展を表す冴えた青、サブカラーには平和と安定と調和を表す冴えた緑、情熱と万国博の楽しさと進歩を表す冴えた赤とした。
- マークと組み合わせる「EXPO'70」「日本万国博覧会」のレタリングは早川良雄と原弘が担当。鼠色 N2.8/ の配色とし、英文タイトル「EXPO'70」は活字体に近くし固有名詞としての力強さを表現すべく「EXP」の三文字を接続し「O」(オー)と「0」(ゼロ)を同一化するといった造形的感覚を先行させた形とし、和文タイトル「日本万国博覧会」はリズミカルな力強さを表現するべく直線のみで造形化した。
- このほか、当初は西島伊三雄のデザインによる鉄アレイ状にくっついた2つの球の上に丸を描いた形のマークが採用され、下部は東西世界や対立する人間関係が手を取り合うイメージ、上部は日本を示す日の丸や次世代の平和な世界を表すとの説明であったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいていると受け取られる」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。その後、改めてデザインが行われ、桜をイメージしたマークとなった。
参加した国・地域・国際機関[編集]
国際博覧会史上アジアで初めて開催される大阪万博に、できるだけ多数の国の参加を得て充実した意義あるものとするため、在外公館を通じて未参加国に対して参加勧奨に努めるとともに、総理大臣または万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか博覧会協会幹部職員などを派遣して折衝を行った。
招請活動を行った当初はこれに応じる国は少なくその要因の一つは、アジア・アフリカ・中南米諸国が十分な資金を捻出するのが困難なことであった。日本はこれに対する独自案として、日本が参加国に代わりパビリオンを建設して提供する国際共同館(インターナショナル・プレース)構想を表明、これに応じて参加を希望する国々が出てきた。
こうした活動の結果、1969年中には新たに中央アフリカ共和国ほか25か国が参加を決定し、参加決定国は合計81か国に上ったが、他面、参加申し込み後にオーストリア、イスラエル、ポーランド、ボリビア、レバノン、コンゴ・キンシャサ(現コンゴ民主共和国)、ハイチ、ガイアナが参加を取り消した。最終的には、77か国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市が参加した。