慶應義塾大学
慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学。1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。
概説[編集]
慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾」等旧私塾の流れを汲む。
1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年(慶應2年)、親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1867年(慶應3年)12月、木村摂津守の世話により芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶應4年/明治元年)4月に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。
1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設。同年10月には分校「大阪慶應義塾」と「京都慶應義塾」(京都集書院)を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。
1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889年(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。
1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設し、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。
卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年(大正6年)に北里柴三郎を学長に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。
1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ、同年11月には四谷区西信濃町に慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を輩出した。関東大震災の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。
1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した小泉信三塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・藤原銀次郎も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制藤原工業大学が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学工学部となった。
太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の空襲で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく米軍によって日吉を一時接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。
1949年(昭和24年)に新制大学が発足し、文、経済、法、工の4学部を開設。1952年(昭和27年)に新制医学部が発足した。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1972年(昭和47年)工学部が矢上キャンパスに移転。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2001年(平成13年)に看護短大を改組して看護医療学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。
2021年(令和3年)に、高山歯科医学院を前身とする学校法人東京歯科大学と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する事とした。尚、塾員小幡英之助は、1875年(明治8年)内務省より歯科専門の歯科醫術開業免許第1号を得て、築地采女町(現在の東京都京橋)に開業している。
2023年(令和5年)現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。2000年代以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。
大学の特徴[編集]
塾訓、目的[編集]
慶應義塾には、『慶應義塾の目的』という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝の紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を基に、福澤自身が書き直したものである。
また慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」を教育の基本に置く。
教育および研究[編集]
「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行うという意味があり、これを念頭に置いている。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、アメリカ合衆国ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携、協力を行っている。
太平洋戦争終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、四書五経などの研鑽を積んだのち、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。
実学の精神である「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究まで行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。
戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している。
近年における各国の調査による世界大学ランキングでは、イギリスの『THE世界大学ランキング』(2022年)で私立総合大学1位、中国の上海交通大学による『世界大学学術ランキング』で私立総合大学1位、アメリカ合衆国のトムソン・ロイター社による『The World's Most Innovative Universities』で私立総合大学1位と、日本の私立大学ではトップの教育及び研究力を堅持している。
沿革[編集]
前史[編集]
- 寛政9年(1797年) - 豊前国中津藩第5代藩主奥平昌高が藩校進脩館を設置。
- 天保9年(1838年) - 緒方洪庵が大坂船場で適塾を開く。
- 天保10年(1839年) - 佐久間象山が神田お玉ヶ池に象山書院(五月塾)を開く。
- 嘉永6年(1853年) - 黒船来航。
- 嘉永7年(1854年) - 福澤諭吉が蘭学修行を志し、長崎に赴く。
- 安政2年(1855年) - 福澤諭吉が適塾に入る。佐久間象山門弟である中津藩江戸留守居役の岡見彦三が築地鉄砲洲の藩邸内に杉亨二、松木弘安(寺島宗則)らを招いて蘭学授業を行わせる。
- 安政4年(1857年) - 福澤諭吉が適塾の塾長となる。
- 安政5年(1858年) - 福澤諭吉、岡見彦三の推挙により江戸出府(従者は古川正雄、足立寛、原田磊蔵)し、藩邸内の蘭学塾「一小家塾」の講師に就任する。(慶應義塾の起源)。
- 安政6年(1859年) - 福澤諭吉、横浜見物を機に英学転向を決意し、森山栄之助の英語塾に通った後、蕃書調所へ入所するが英蘭辞書を借りられず退所。
- 安政7年/万延元年(1860年) - 福澤諭吉、遣米使節団に随行(第1回洋行)。
- 万延2年/文久元年(1861年) - 鉄砲洲から芝新銭座に移転。
- 文久2年(1862年) - 福澤諭吉、遣欧使節団に随行(第2回洋行)。英国国教会のキングス・カレッジ・スクールを訪問し、慶應義塾設立の着想を得る。
- 文久3年(1863年) - 再び鉄砲洲に移転。蘭学塾から英学塾に改め、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎える。
- 元治元年(1864年) - 福澤諭吉、幕府外国奉行翻訳方となる。
- 慶応2年(1866年) - 紀州藩より多数の入塾生を迎え、同藩の援助を受けて中津屋敷内に紀州塾を建築。
- 慶応3年(1867年) - 福澤諭吉、幕府の軍艦受取委員の随員として渡米(第3回洋行)。
慶應義塾[編集]
- 慶応4年/明治元年(1868年)
- 4月 - 木村摂津守の世話により芝新銭座に移転、英学塾「慶應義塾」を創設。『慶應義塾之記』を発表。
- 5月 - 上野戦争の最中もウェーランド経済書の講義を継続。
- 塾内に病室を設置(校医の起源)。シーソー、ブランコなどを設置(最初の体育設備)。
- 明治2年(1869年)
- 8月 - 汐留の中津藩上屋敷内に汐留出張所を設置。
- 9月 - 『慶應義塾新議』出版。授業料の徴収を規定。
- 秋 - 童子寮(幼年生のための寄宿舎)を設ける。
- 明治3年(1870年)
- 4月 - 汐留出張所を麻布龍源寺に移転。
- 5月 - 芝山内広度院に分塾を設置。
- 9月 - 隣接地江川太郎左衛門屋敷の長屋を借り受けて外塾を設置。
- 10月 - 三田島原藩邸借入につき大納言岩倉具視を訪問して尽力を依頼。
- 11月 - 弘前藩の招聘で英学教師2名派遣契約。
- 明治4年(1871年)
- 3月 - 芝新銭座の校地を近藤真琴の攻玉塾へ譲り、三田の島原藩中屋敷跡地へ移転。
- 4月 - 『慶應義塾社中之約束』を制定。学業勤惰表(成績表)の印行を開始。
- 旧島原藩邸の一室「月波楼」を図書室とする。
- 明治5年(1872年)
- 6月 - 初めて外国人教師として長老派教会の宣教師クリストファー・カロザースを雇い入れる。
- 8月 - 出版局(のち、出版社)開設。
- 1873年(明治6年)
- 1月 - 神山県よりの招請で宇和島、大洲両学校に教師2名派遣契約。
- 3月 - 三田藩に志摩三商会が設立される。
- 4月 - 学課改定、正則科・変則科を新設。
- 10月 - 医学所開校(1880年閉校)。
- 11月 - 大阪慶應義塾を設立。
- 児玉淳一郎により英米法の臨時講義が行われる。
- 明治六年政変(征韓論政変)後に土佐藩の立志学舎へ教員を派遣。
- 1874年(明治7年)
- 1月 - 和田塾(のちの幼稚舎)を置く。
- 2月 - 京都慶應義塾(京都集書院)を設立(翌年閉鎖)。『民間雑誌』創刊(翌年廃刊)。
- 4月 - 卒業の制度を実施。
- 4月 - 英国聖公会福音宣布協会の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが福澤諭吉家の家庭教師と慶應義塾の倫理学教授となり、聖書を教える。
- 6月 - 三田演説会発足。
- 1875年(明治8年)
- 4月 - 正則・変則両科を本科・予備とし、予備を大人・童子両科に区別。本科に数学、予備の大人科に算術を課す。
- 5月 - 三田演説館開館。
- 1876年(明治9年)
- 9月 - 本科を五等に区分し、予備科大人科を単に予備科、予備科童子科を単に童子科と改称。
- 11月 - 井上良一の発案で万來舎を設置。
- 協議社・猶興社など結成され演説、文筆活動を行う。土佐の立志学舎の運営に参画。
- 1877年(明治10年)
- 1月 - 東京英語学校(前:開成学校、後:大学予備門)と共に、本科第三等生徒およびそれ以上の者に対する徴兵免役の指令、東京府より出さる(明治9年11月7日東京府宛伺書提出)。
- 4月 - 東京大学開設にあたって義塾出身の濱尾新を総理補に選出。
- 11月 - 県令を受けて神戸商業講習所の経営を引き受ける。
- 西南戦争により塾生減少。教員間の読書研究会として「読書院」発足。
- 1878年(明治11年)
- 3月 - 三菱商業学校設立に参画。
- 4月 - 晩学生のため科外(のち別科)を設置。大久保一翁、勝海舟を訪ね徳川家より義塾維持資金借用のことにつき相談。
- 初めて卒業式を行う。
- 1879年(明治12年)
- 3月 - 官立大学化を望まず、島津氏らの旧大名に維持資金の援助を賜る。
- 9月 - 大人科・童子科を予備科(のち予科)と改称。
- 10月 - 夜間法律科を設置。
- 秋 - 日本初の簿記教育を開始。
- 清国人教師を招き、支那語科を開設(1881年廃止)。
- 1880年(明治13年)
- 1月 - 交詢社を設立(日本最古の社交倶楽部)。
- 2月 - 興亜会へ参画。
- 3月 - 議事講習会(擬国会)を開催。
- 9月 - 福澤諭吉の廃塾宣言。
- 10月 - 岡山商法講習所開設、義塾出身者経営に携わる。
- 11月 - 「慶應義塾維持法案」を発表。大阪商業講習所開設、所長以下らに義塾出身者赴任。
- 大学予備門に倣って予備科(のち三田予備校)を設置。
- 1881年(明治14年)
- 1月 - 「慶應義塾仮憲法」制定。社頭と塾長に関する規定が成文化される。
- 6月 - はじめて留学生を受け入れる。
- 1882年(明治15年)
- 3月 - 『時事新報』創刊。
- 10月 - 物理学会創立(1884年以降断絶)。
- 1883年(明治16年)
- 4月 - 『文学会雑誌』発刊。
- 11月 - 酒井良明により酒井寄宿舎が発足。
- 12月 - 徴兵令改正により兵役免除の特典を失う。
- 1884年(明治17年)
- 2月 - 英国聖公会宣教協会の宣教師ウォルター・デニングが英語教師に就任。
- 1885年(明治18年)
- 2月 - 聖公会の宣教師アーサー・ロイド(後の立教学院総理)がデニングの後任として慶應義塾で教鞭をとるようになる。
- 9月 - 科外を別科と改称し、正科修業年限5ヵ年、別科4ヵ年とする。
- ペンの記章を付け始める。
- 1886年(明治19年)
- 3月 - 帝国大学発足にあたって義塾出身の渡辺洪基を総長に選出。
- 4月 - ロイドが英語学部長として慶應義塾の英語教育を統括する。
- 6月 - 最初の運動会(陸上競技会)を開催。
- 1887年(明治20年)
- 6月 - 福澤諭吉がロイドのために邸宅として西洋館を建て、ロイドが慶應義塾内に喜望教会を創設する。
- 8月 - 第一講堂竣工。講堂内に書籍館を設置。
- 1888年(明治21年)
- 2月 - 正科生による同盟休校事件発生。
- 春 - 三田ベースボール倶楽部発足。
- 第二講堂竣工。
- 1889年(明治22年)
- 1月 - 大学部設置のため「慶應義塾資本金」募集開始。
- 8月 - 「慶應義塾規約」制定。
- 10月 - 第1回評議員会を開催。大学部主任教師としてリスカム、ドロッパーズ、ウィグモアの3名来日。
慶應義塾大学部[編集]
- 1890年(明治23年)
- 1月 - 大学部が発足し、文学・理財・法律の三科を設置。従来の正科・別科を普通部とした。
- 7月 - 大学部設置につき皇室より一千円下賜。第1回衆議院議員総選挙で義塾出身者28名当選。
- 8月 - 理財科学生池田成彬が米国ハーバード大学に留学。
- 1892年(明治25年)
- 5月 - 体育会創設。
- 10月 - 最初の水上運動会を開催。
- 1893年(明治26年)
- 5月 - 日本法律科を新設。
- 12月 - 司法省指定学校となり、大学部法律科修了者に判事検事登用試験の受験資格が与えられる。
- この頃、別科の修業年限二年(三級)となる(従来は三年四ヵ月、五級)。
- 1894年(明治27年)11月 - 初めて炬火行列を行う。
- 1895年(明治28年)
- 8月 - 朝鮮より国王選出の両班出身少壮官吏の留学生入学。
- 10月 - 亮天社と講師派遣契約。
- 1896年(明治29年)
- 9月 - 徴兵に関する特典適用さる。操練部盛んとなり、銃器を整備。普通部学科課程を改正し、高等科を新設。
- 11月 - 福澤諭吉、「慶應義塾の目的」を揮毫する。11月16日の評議員会において大学部廃止案を否決。
- 1897年(明治30年)
- 3月 - 三田理財協会発会(1899年解散)。
- 4月 - 別科廃止。
- 9月 - 学制改革を議決。主力を大学に集中し、大学卒業生の養成を目的とすることを決定(翌年5月より実施)。
- 1898年(明治31年)
- 3月 - 『慶應義塾学報』創刊(1915年『三田評論』と改題)。端艇部艇庫、芝浦製作所構内に竣工(30年11月着工)。
- 5月 - 大学科(高等科と大学部を統合)・普通学科・幼稚舎の16年の一貫教育制度樹立。大学科に政治科を設置。塾長鎌田栄吉の就任披露園遊会を開催。
- 塾旗として三色旗を制定。
- 1899年(明治32年)
- 5月 - 普通学科および大学科卒業生、海軍少主計候補生の受験資格を得る。
- 7月 - 三田篤学会発会。大学科を大学部、普通学科を普通部と改称する。
- 8月 - 義塾出身の大学部教員養成のため神戸寅次郎、川合貞一、気賀勘重、名取和作、堀江帰一、青木徹二の6名を欧米に派遣。
- 12月 - 日本法律科廃止。
- エドワード・B・クラークと田中銀之助が慶應義塾でラグビーの指導を行う。
- 1900年(明治33年)
- 2月 - 「修身要領」献上。
- 3月 - 大学部卒業生の中等教員無試験検定資格認可(翌年返上)。
- 5月 - 大学部の文科制廃止。大学部で洋服と記章付き帽子の着用を義務化する。
- 9月 - 寄宿舎竣工。
- 10月 - 台湾人学生8名入学、特別級を設け授業を行う。
- 12月 - 大晦日に世紀送迎会(第1回)開催。
- 1901年(明治34年)
- 2月 - 社頭福澤諭吉死去により、全塾休学服喪。皇室より祭粢料一千円下賜。
- 3月 - 慶應義塾維持会発足。
- 4月 - 大学部文学科廃止(1904年復活)。
- 5月 - 大学部理財科、法律科、政治科の文科制復活。
- 10月 - 庭球部創部。
- 1903年(明治36年)
- 2月 - 三田政治学会発足。
- 4月 - 理財学会発足。
- 9月 - 寄宿舎内に消費組合を設立。
- 11月 - 三田綱町球場を開設。最初の慶早野球戦を同球場で開催。
- 1904年(明治37年)
- 1月 - 大学部が専門学校令による専門学校となる。
- 3月 - 旧塾歌を制定。
- 4月 - 文学科卒業生の中等教員無試験検定資格再認可。
- 1905年(明治38年)
- 4月 - 慶應義塾商工学校開校。
- 9月 - 日露戦争の日本海海戦を勝利に導いた海軍大将東郷平八郎の凱旋を塾長以下教職員、塾生ら新橋駅に迎う。
- 1906年(明治39年)
- 2月 - 大学部の上に大学院設置。星亨の蔵書約1万3千冊の委託保管を引き受ける。
- 11月 - 応援の過熱により慶早野球戦中止(1925年復活)。
- 1907年(明治40年)
- 4月 - 創立50年記念式典を挙行。
- 5月 - 故・福澤諭吉、帝国教育会から六大教育家の一人として顕彰。
- 6月 - 財団法人慶應義塾認可。
- 1908年(明治41年)
- 1月 - 学事評議会設置(1920年廃止)。
- 8月 - 初めて地方巡回講演を行う。
- 10月 - 弁論部結成。
- 1909年(明治42年)
- 2月 - 『三田学会雑誌』創刊。
- 4月 - 開校記念日を4月23日と定める。
- 1910年(明治43年)
- 4月 - 各科に主任制度を設ける。三田史学会、三田哲学会創立。
- 5月 - 『三田文学』創刊。文学科を文学・哲学・史学の3専攻制とする。
- 1911年(明治44年)
- 4月 - 三高との蹴球(ラグビー)試合を網町運動場にて行う(日本最初の蹴球対校試合)。
- 8月 - 弁論部の第1回各地巡回講演を行う(太平洋戦争前まで継続)。
- 1912年(明治45年/大正元年)
- 1月 - 福澤先生記念日を命日(2月3日)から誕生日(1月10日)に改める。
- 5月 - 創立五十年紀念図書館竣工(11月から一般開放)。
- 6月 - ハーバード大学のエリオット総長が来塾。
- 10月 - 亜細亜協会の図書約三千冊の委託保管を引き受ける。
- 12月 - 出版局を義塾直営とする。
- 1913年(大正2年)
- 4月 - 新聞科設置(1917年廃止)。
- 9月 - 表門(現在の東館の場所)を石柱鉄扉の西洋式の門に改める。大学予修科設置(1920年廃止)。
- 1914年(大正3年)10月 - 明大野球部の主唱により慶早明の三大学野球連盟を結成(のちに法政大学、立教大学、東京帝国大学が加わり六大学となる)。
- 1915年(大正4年)
- 4月 - 三田大講堂竣工。
- 7月 - 体育会葉山寄宿舎落成。
- 12月 - 図書館内にステンドグラス(和田英作原画、小川三知制作)を設置。
- 1916年(大正5年)
- 6月 - インドの詩人タゴールを迎えて講演。
- 12月 - 大学部医学科設立認可。
- 1917年(大正6年)
- 1月 - 医学科開設につき皇室より3万円下賜。
- 3月 - 大学部各科主任を学長と改称(翌月実施)。
- 4月 - 医学科予科授業開始(学長・北里柴三郎)。普通部が三田綱町(現在の中等部所在地)に移転。
- 7月 - 日本初の学生新聞『三田新聞』創刊。
- 9月 - 広尾寄宿舎竣工(のちの幼稚舎校地の一部)。
- 1918年(大正7年)
- 3月 - 医学科予科校舎竣工(三田の寄宿舎跡)。
- 4月 - 医学科附属看護婦養成所開設。
- 8月 - 中華民国出身学生のため特別予科を設置(1938年廃止)。
- 11月 - 原内閣成立を祝う「政党内閣祝賀大園遊会」を三田大講堂で開催。原敬首相、憲政会、立憲政友会関係者ら参加者5千人超。
- 1919年(大正8年)
- 4月 - 四谷区西信濃町に医学科新校舎を開設。看護婦養成所も同地に移転。大学部は高等試験令第八号に関し、高等学校大学予科と同等以上と認定され、卒業生は高等文官予備試験を免除される。
- 8月 - 大学設立認可申請書を提出。
旧制慶應義塾大学[編集]
- 1920年(大正9年)
- 2月 - 大学令による慶應義塾大学(旧制)設立認可。
- 4月 - 文学部、経済学部、法学部、医学部を設置。各学部に部長を置く。3年制の予科および大学院を附設。
- 5月 - 大学評議会設置。
- 8月 - アントワープ五輪のテニス競技で熊谷一弥(旧理財科卒)が日本人初のメダリストとなる。
- 9月 - 予科鉄筋校舎竣工。
- 11月 - 慶應医学会発足(翌年『慶應医学』創刊)。大学病院開院。
- 1921年(大正10年)
- 7月 - 学位規程認可。
- 11月 - 法学研究会発足(翌年『法学研究』創刊)。三田史学会機関誌『史学』創刊。
- 1922年(大正11年)
- 4月 - 専門学校令による大学部を専門部と改称(予科1年・本科3年の4年制)。医学部附属産婆養成所開設。
- 11月 - 三田大講堂でアインシュタインの日本初講演を開催。第1回ラグビー慶早戦を開催(三田綱町グラウンド)。
- 1923年(大正12年)
- 4月 - 大学令による慶應義塾大学最初の卒業式を挙行。
- 7月 - 慶應義塾協議会を設置。庭球部大森コート開設。
- 9月 - 関東大震災で大学病院が救護活動を行う。貞明皇后、病院収容の被災者を慰問(9月17日には竹田宮妃の慰問あり)。
- 1924年(大正13年)
- 4月 - 専門部が高等試験令第八条の認定を受け、卒業生は高等文官予備試験を免除さる(文部省告示第二百九十号)。
- 11月 - 食養研究所設立(1990年廃止)。
- 1925年(大正14年)
- 2月 - 専門部を高等部と改称。
- 9月 - 東京六大学野球連盟結成。
- 10月 - 慶早野球戦復活(早大戸塚球場)。
- 1926年(大正15年/昭和元年)
- 6月 - 東京府荏原郡矢口村に新田運動場開設。
- 9月 - 現在の塾監局竣工。望月軍四郎より支那研究基金設立。
- 10月 - 三田哲学会機関誌『哲学』創刊。
- 1927年(昭和2年)
- 11月 - 慶早戦のラジオ実況放送始まる。応援歌『若き血』誕生(堀内敬三作詞・作曲)。
- 12月 - 大学評議会、予科と普通部、商工学校、幼稚舎の郊外移転方針決定。
- 体育会山中山荘を開設。
- 1928年(昭和3年)
- 4月 - 文学部を15専攻制とする。
- 8月 - 関東大震災で破損した図書館の増修築工事竣工。
- 10月 - 東京横浜電鉄から神奈川県橘樹郡日吉村の土地7万2千坪(約24万m2)の無償提供を受ける。
- 11月 - 林毅陸塾長が私立大学を代表して即位礼に参列。
- 1929年(昭和4年)
- 4月 - 予防医学教室竣工。
- 4月 - 福澤先生誕生地記念碑を建立(大阪)。
- 1930年(昭和5年)
- 4月 - 綱町プール竣工。
- 11月 - 第1回連合三田会大会を開催。
- 1931年(昭和6年)
- 1月 - 高等部同盟休校事件発生。
- 4月 - 高等部予科を廃止し、3年制とする。
- 5月 - 三田史学会により日吉台遺跡群発掘調査開始(~1936年)。
- 1932年(昭和7年)
- 5月 - 創立75年記念式典挙行。秩父宮雍仁親王、犬養毅首相など3千名参列。
- 7月 - 『福澤諭吉伝』全4巻を皇室に献上。
- 1934年(昭和9年)
- 5月 - 文・経済・法学部予科が日吉に移転。
- 11月 - 日吉校舎第一期工事完成。「福澤先生誕生百年並に日吉開校記念祝賀会」を挙行。
- 1935年(昭和10年)
- 4月 - 塾長の諮問機関として学事顧問制度を設ける(林毅陸、神戸寅次郎、川合貞一、気賀勘重が就任)。
- 6月 - 日吉予科図書室開設。
- 1936年(昭和11年)
- 4月 - 医学部予科が日吉に移転。
- 6月 - 高松宮・同妃、医学部を視察。
- 三田の木造校舎4棟を解体。
- 1937年(昭和12年)
- 8月 - 日吉寄宿舎竣工。
- 9月 - 三田第一校舎(大学学部用)竣工。
- 10月 - 北里博士記念医学図書館開設(1944年慶應義塾に寄贈)。
- 1938年(昭和13年)
- 4月 - 文学部を文学科・哲学科・史学科、経済学部を経済学科・商業学科に分かつ。医学部に研究生制度を設ける。
- 2月 - 天皇、皇后の御真影、および教育勅語謄本下賜、奉戴式挙行。
- 5月 - 学術調査団として史学科考古学班を中国大陸に派遣。
- 9月 - 運動場用地として神奈川区下田町(現・港北区下田町および日吉本町)の土地約2万坪を購入。
- 女子聴講生を受け入れる。
- 1939年(昭和14年)
- 3月 - 北京公館および中支研究所設立。
- 6月 - 藤原工業大学(工学部の前身)開校。歯科医学会結成。海南島学生医療奉仕隊出発。
- 1940年(昭和15年)
- 1月 - 三田綱町1番地の徳川達孝伯爵邸跡に綱町研究所を開設。
- 7月 - 藤原工業大学の学部用地として日吉台北東の土地を購入。
- 10月 - 小泉信三塾長、「居常心得」訓示。
- 11月 - 現塾歌を制定(翌年発表)。
- 秋 - 下田グラウンド開設。
- 1941年(昭和16年)
- 6月 - 各学部の選択科目として国防学を開講。
- 8月 - 慶應義塾報国隊を結成。月ヶ瀬温泉治療学研究所開設(1958年廃止)。
- 1942年(昭和17年)10月 - 語学研究所設置。外国語学校を開設。
- 1943年(昭和18年)
- 4月 - 大学予科の修業年限を2年に短縮。
- 7月 - 亜細亜研究所設立(1946年廃止)。
- 10月 - 大学院特別研究生制度実施。出陣学徒壮行慶早戦を行う。『三田評論』休刊(1951年復刊)。
- 11月 - 塾生出陣壮行会を挙行。
- 上智大学商学部と立教大学文学部の学生を委託学生として編入。
- 1944年(昭和19年)
- 1月 - 名誉教授制設定。
- 2月 - 高等部廃止決定、1944年度より学生募集停止。
- 4月 - 大学附属医学専門部を設置。慶應義塾獣医畜産専門学校開設。
- 8月 - 藤原工業大学が慶應義塾に寄付され、慶應義塾大学工学部となる。
- 連合艦隊司令部などの海軍諸機関が日吉台地下壕に移転。
- 1945年(昭和20年)
- 4月 - 医学部附属看護婦養成所と産婆養成所が合併し、看護婦産婆養成所となる。農学研究所を設ける(1948年廃止)。空襲により日吉キャンパス被災。
- 5月 - 空襲により三田・四谷の両キャンパス被災。
- 7月 - 戦時教育令および同施行規則に基づき学徒隊規程制。
- 9月 - 米軍によって日吉キャンパスが接収される。高等部廃止。
- 10月 - 旧陸軍登戸研究所跡地を借用(登戸仮校舎、1950年まで)。
- 1946年(昭和21年)
- 4月 - 常議員会を設置。大学予科の修業年限を3年に復旧。大学予科主任を大学予科長と改称。女子の大学入学許可。
- 5月 - 工学部が溝ノ口仮校舎に移転(1949年まで)。医学部1、2年と医学専門部が武蔵野分校に移転。
- 6月 - 東京高等工学院の校舎を借用(三ノ橋仮校舎、1949年まで)。
- 7月 - 第1回文化講座を開催。
- 10月 - 新聞研究室設立。
- 1947年(昭和22年)
- 2月 - 社頭福澤八十吉死去。以後社頭は空席となる。
- 4月 - 名誉教授規程設定。
- 5月 - 創立90年記念式典を挙行(昭和天皇臨席)。
- 9月 - 福澤邸跡地に福澤記念園開園。
- 10月 - 三田キャンパス北側低地848坪余を購入(現在の北館所在地)。
- 11月 - 慶應義塾通信教育図書株式会社設立。
- 年末 - 獣医畜産専門学校が埼玉県北足立郡志紀町(現志木市)に移転。
- 1948年(昭和23年)
- 1月 - 大学通信教育講座(現:通信教育課程)開講。
- 4月 - 新制第一高校・第二高校(三ノ橋)、農業高校(志木)を設置。
- 7月 - 第1期ハーバード講座を開催。
- 8月 - 慶應工業会発会。
- 1949年(昭和24年)
- 2月 - 学事振興資金規程制定。
- 3月 - 旧制獣医畜産専門学校廃止。
新制慶應義塾大学[編集]
20世紀[編集]
- 1949年(昭和24年)
- 4月 - 学制改革により新制大学となる。工学部が北多摩郡小金井町に移転。第一・第二高校を統合、慶應義塾高校設置。
- 5月 - 三田四号館(のちの第三校舎、現在の研究室棟西側付近)・五号館(のちの第二校舎、現在の図書館新館付近)落成式を挙行。三田図書館の修復工事完了。
- 10月 - 日吉キャンパスの接収解除、返還される。
- 11月 - 学生ホール(三田)竣工。館内に猪熊弦一郎の壁画「デモクラシー」を設置。
- 義塾賞と福澤賞を制定。
- 1950年(昭和25年)
- 1月 - 日吉図書室の復旧工事完了。
- 3月 - 新制大学通信教育課程(文・経済・法学部)認可。
- 4月 - 慶應義塾女子高校開校。看護婦産婆養成所を厚生女子学院に改組。
- 9月 - 旧制大学の繰り上げ卒業式を挙行。
- 1951年(昭和26年)
- 2月 - 学校組織を財団法人から学校法人に改める。
- 4月 - 新制大学院修士課程(文学・経済学・法学・社会学・工学の5研究科)を設置。文学部図書館学科を開設。
- 5月 - 三田の旧予科鉄筋校舎を改修し、第一研究室とする。
- 6月 - 塾史編纂所設置。
- 7月 - 連合国軍最高司令官リッジウェイ大将夫妻来塾。
- 8月 - 三田第二研究室竣工(谷口吉郎とイサム・ノグチの合作)。
- 10月 - 戦後最初の連合三田会大会を開催。
- 1952年(昭和27年)
- 3月 - 旧制医学専門部廃止。
- 4月 - 新制医学部設置。
- 9月 - 三田第三研究室(現在の大学院校舎付近)竣工。
- 1953年(昭和28年)
- 4月 - 大学院博士課程(5研究科)を設置。
- 7月 - 海外留学制度復活。
- 1954年(昭和29年)1月 - 三田キャンパスに福澤諭吉胸像を設置。
- 1956年(昭和31年)
- 4月 - 大学院医学研究科(博士課程)を設置。
- 5月 - 5月15日を福澤先生ウェーランド経済書講述記念日と定める。
- 塾長・学長分離問題起こる。
- 1957年(昭和32年)
- 4月 - 商学部を開設。工学部に計測工学科を設置。
- 5月 - 三田大講堂の残骸を解体。
- 10月 - インドのネルー首相来塾。
- 11月 - 日本ワックスマン財団設立。
- 12月 - 「平和来」の青年像を建立(三田)。
- 1958年(昭和33年)
- 4月 - 慶應義塾発祥の地記念碑除幕。『三田商学研究』創刊。
- 9月 - 藤山記念日吉図書館竣工(現藤山記念館)。
- 10月 - 日吉記念館竣工(2017年解体)。
- 11月 - 創立100年記念式典を挙行(昭和天皇臨席)。
- 1959年(昭和34年)
- 4月 - 工学部に管理工学科を設置。
- 5月 - 三田南校舎・西校舎第一期工事竣工。三田キャンパス南門(新設)が正門となる。
- 6月 - 慶應義塾労働組合結成。
- 9月 - 慶應義塾大学産業研究所 (KEO) 開設。
- 第1回三田祭を開催。
- 1960年(昭和35年)
- 4月 - 西独アデナウアー首相来塾。
- 10月 - アジア教育者会議を開催。
- 12月 - 斯道文庫設立。
- 1961年(昭和36年)
- 1月 - 大学体育研究所設置。
- 4月 - 大学院商学研究科設置。新聞研究室を新聞研究所に改組。
- 7月 - 福澤諭吉記念基金を設置。
- 9月 - 旧制慶應義塾大学廃止。
- 1962年(昭和37年)
- 4月 - ビジネススクール設置。
- 6月 - 三田西校舎第二期工事竣工。語学研究所を言語文化研究所と改称。
- 7月 - 館山合宿所開設。
- 9月 - 慶応工学会が法人化される。
- 11月 - 慶早戦の応援キャラとしてユニコンが登場する。
- 1963年(昭和38年)
- 4月 - 文学部社会・心理・教育学科を開設。電子計算室を設置(三田)。
- 5月 - 大学病院中央棟竣工。
- 1964年(昭和39年)
- 2月 - 塾旗の規準を定める。
- 4月 - 国際センター発足。
- 6月 - 芝新銭座の慶應義塾跡に福澤・近藤両翁学塾跡記念碑を建立。名誉博士規程制定。
- 1965年(昭和40年)
- 1月 - 学費改訂と塾債発行から大学紛争が起こる。
- 4月 - 大学病院1号棟竣工。
- 9月 - 財団法人慶應がんセンター発足。
- 10月 - 工学部図書館分室(小金井)が工学図書館に昇格。
- 1967年(昭和42年)
- 3月 - 小泉信三記念慶應義塾学事振興基金規程制定。
- 6月 - 三田演説館が重要文化財に指定される。
- 9月 - 大学特別研究期間制度実施。
- 1968年(昭和43年)
- 5月 - 慶應義塾命名100年記念式典を挙行。工学部の矢上台への移転が評議員会議にて正式に承認。
- 6月 - 米軍資金紛争で学生らが塾監局を一時占拠する。
- 1969年(昭和44年)
- 3月 - 慶應義塾図書館が重要文化財に指定される。
- 4月 - 情報科学研究所発足。塾史編纂所を塾史資料室に改組。
- 9月 - 三田西校舎2階で火災。自治会室、学生集会室など約200m2が焼失(9月16日)。
- 11月 - 研究室棟竣工(三田)。
- 1970年(昭和45年)4月 - 研究・教育情報センター発足。
- 1971年(昭和46年)
- 3月 - 福澤邸跡地に福澤諭吉終焉之地記念碑を建立。
- 10月 - 工学部機械工学科と応用化学科が矢上キャンパスに移転。
- 1972年(昭和47年)
- 2月 - 保健管理センター新設。
- 3月 - 工学部の矢上キャンパスへの移転完了。
- 4月 - 国際医学情報センター設立。
- 第二次学費改定紛争が起こり、翌年度の入学式中止などの影響が出る。
- 1973年(昭和48年)7月 - 立科山荘開荘。
- 1974年(昭和49年)
- 4月 - 工学部に数理工学科を設置。伊勢慶應病院開院(2003年閉院。現・伊勢ひかり病院)。
- 12月 - 図書館のステンドグラス復元。
- 1975年(昭和50年)
- 9月 - 中等部にてユニコン像復元。
- 11月 - 独立自尊記念時計塔を建立(三田)。
- 1976年(昭和51年)
- 5月 - 小泉信三賞を設ける。
- 10月 - カナダのピエール・トルドー首相来塾、カナダ講座設置。
- 1977年(昭和52年)4月 - 厚生女子学院(看護専門課程)開設、専修学校となる。月が瀬リハビリテーションセンター開設(2011年閉院)。
- 1978年(昭和53年)
- 4月 - 大学院経営管理研究科設置。
- 7月 - 大学帰国子女入学規程制定。
- 第1回四谷祭を開催。
- 1979年(昭和54年)4月 - 文学部史学科民族学考古学専攻設置。
- 1981年(昭和56年)4月 - 工学部を理工学部に改組(数理工学科を数理科学科に改編、物理学科・化学科を設置)。
- 1982年(昭和57年)4月 - 慶應義塾図書館(新館)開館。
- 1983年(昭和58年)
- 4月 - 塾史資料室を福澤研究センターに改組。
- 5月 - 創立125年記念式典を挙行。
- 6月 - 教職課程センター発足。
- 1984年(昭和59年)
- 4月 - 文学部社会・心理・教育学科を人間関係学科と改称。
- 5月 - 日吉キャンパス開設50年記念式典を挙行。
- 東京工業大学および東京大学との間でネットワーク接続が行われる (JUNET)。
- 1985年(昭和60年)
- 1月 - 福澤諭吉生誕150年記念式典を挙行。日吉新図書館・事務棟竣工。
- 2月 - 三田大学院校舎竣工。
- 4月 - 大学院理工学研究科開設。
- 1986年(昭和61年) - 大学病院新棟(現:2号館)開院。
- 1988年(昭和63年)4月 - 女子厚生学院を改組して慶應義塾看護短期大学看護学科が開学(募集は平成12年度まで)。
- 1989年(昭和64年/平成元年)4月 - スポーツ医学研究センター開設(日吉)。
- 1990年(平成2年)4月 - 湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を新設。
- 1991年(平成3年)
- 4月 - KOSMOS(図書館システム)稼働。
- 総合政策研究所、環境情報研究所、言語コミュニケーション研究所開設。
- 山食(学生食堂)が三田西校舎内に移転。
- 1992年(平成4年) - 第1回秋祭 (SFC) を開催。
- 1993年(平成5年)
- 3月 - 三田キャンパス西館竣工。
- 4月 - 研究・教育情報センターと大学計算センターおよび湘南藤沢メディアセンターの統合によりメディアネット発足。
- 1994年(平成6年)
- 3月 - 三田キャンパス北館竣工。山中資料センター開設。
- 4月 - 大学院政策・メディア研究科修士課程開設。大学院医学研究科(修士課程)設置。
- 1996年(平成8年)
- 4月 - 大学院政策・メディア研究科後期博士課程開設。HUMIプロジェクト発足。
- 7月 - 総合政策研究所・環境情報研究所・言語コミュニケーション研究所をSFC研究所に改組。
- 12月 - 第1回慶應医学賞授賞式。
- 新聞研究所をメディア・コミュニケーション研究所(メディアコム)に改組。
- 1998年(平成10年)11月 - 還らざる学友の碑を建立(三田)。
- 1999年(平成11年)3月 - 創想館竣工(矢上)。
- 2000年(平成12年)
- 4月 - 三田キャンパス東館竣工。「幻の門」を移設。文学部5学科を人文社会学科に統一。 新川崎タウンキャンパス開設。
- 第1回矢上祭を開催。
- 12月 - 世紀送迎会(第2回)開催。
21世紀[編集]
- 2001年(平成13年)
- 4月 - 看護短大を看護医療学部に改組。先端生命科学研究所設立。丸の内シティキャンパス開設。福澤公園に旧制四学校(商業学校・商工学校・工業学校・高等部)記念碑を建立。
- 5月 - 鶴岡タウンキャンパス開設。
- 10月 - 総合医科学研究センター設立。
- 2002年(平成14年)
- 1月 - 日吉キャンパスに来往舎(研究棟)竣工。
- 4月 - 理工学部に生命情報学科を設置。湘南藤沢キャンパスに教職課程設置。
- 2003年(平成14年)
- 8月 - 看護短大廃止。
- 11月 - 中等部綱町グラウンドに慶早戦100周年記念碑を建立。
- 2004年(平成16年)
- 4月 - 大学院法務研究科(法科大学院)を開設。
- 6月 - メディアネットを廃止し、メディアセンターとして独立。
- 2005年(平成17年)
- 1月 - 国際連携推進機構(OGI)ならびに国際連携推進室設置。
- 3月 - 三田キャンパス南館竣工。
- 4月 - 大学院健康マネジメント研究科修士課程開設。
- 2006年(平成18年)3月 - 下田学生寮開設。
- 2007年(平成19年)
- 2月 - 先導研究センター設立(2020年廃止)。
- 4月 - 大学院健康マネジメント研究科後期博士課程開設。
- 7月 - 図書館蔵書デジタル化でGoogle社と提携。
- 2008年(平成20年)
- 4月 - 学校法人慶應義塾と学校法人共立薬科大学が合併、薬学部と大学院薬学研究科を設置。同年大学院システムデザイン・マネジメント研究科と大学院メディアデザイン研究科を開設。
- 5月 - 大阪市福島区中之島の再開発地区「ほたるまち」に「慶應大阪リバーサイドキャンパス」を設置。
- 6月 - G8大学サミット開催(北海道大学)。
- 8月 - 協生館竣工(日吉)。
- 10月 - イギリスのチャールズ3世(当時皇太子)が三田キャンパスを訪問。
- 11月 - 慶應義塾創立150年記念式典にて上皇明仁・上皇后美智子が臨席、天皇が「おことば」を述べる。
- 2009年(平成21年)
- 1月 - ダボス会議にて「東大・慶應レセプション」を開催。
- 3月 - 第4校舎独立館竣工(日吉)。
- 10月 - 東京工業大学との副専攻制度、単位互換、学生交流が開始。東京医科歯科大学を幹事とした医学系大学産学連携ネットワーク協議会(現:医療系産学連携ネットワーク協議会)(medU-net) を開設。
- 11月 - 三田キャンパス南校舎解体。
- 2010年(平成22年)1月 - MBA連携協定を、京都大学経営管理大学院、神戸大学大学院経営学研究科の3校で締結。
- 2011年(平成23年)
- 2月 - 矢上キャンパスで弥生時代から奈良時代の大集落、60棟以上の竪穴建物跡等を検出。
- 3月 - 東日本大震災の影響で2010年度卒業式が中止、2011年度入学式が5月に延期。
- 4月 - 三田キャンパス新南校舎竣工。
- 5月 - 塾長任期を2期8年までとする。
- 2012年(平成24年)4月 - 慶應義塾図書館開館100年記念式典開催。
- 2013年(平成25年)
- 4月 - 大学部理財科発足125年を記念し、4月1日付けで慶應義塾大学経済研究所(所長:吉野直行)を設置。
- 5月 - 慶應大阪シティキャンパス開設(慶應大阪リバーサイドキャンパスを移転)。
- 2014年(平成26年)3月 - 日吉塾生会館前に藤原工業大学開校の地記念碑を設置。
- 2015年(平成27年)
- 10月 - 大学部開設125年記念式典・講演会開催。
- 11月 - 野村ホールディングスと共同で、ベンチャーキャピタル・株式会社慶應イノベーション・イニシアティブ (KII) を設立。
- 2016年(平成28年)4月 - 川崎市川崎区のキングスカイフロント内に殿町タウンキャンパスを開設。
- 2017年(平成29年)
- 2月 - 三田の福澤諭吉胸像を図書館旧館前から演説館前に移設。
- 6月 - 三田インフォメーションプラザ開設。
- 2018年(平成30年)
- 5月 - 大学病院1号館(新病院棟)開院。
- 11月 - グローバル本部発足。
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 5月 - 慶應義塾図書館旧館の耐震補強および保存修理工事完了。
- 9月 - 慶應義塾大学メディアセンターと早稲田大学図書館の間で図書館システム共同運用開始。
- 2020年(令和2年)
- 3月 - 新・日吉記念館竣工。
- COVID-19の流行拡大による影響で、2019年度卒業式が中止、2020年度入学式が延期となった。
- 2021年(令和3年)
- 4月 - 三田東別館にミュージアム・コモンズ (KeMCo) 開館。
- 7月 - 図書館旧館内に福澤諭吉記念慶應義塾史展示館開館。
- 2022年(令和4年)
- 5月 - 医学部開設100年記念事業による慶應義塾大学病院グランドオープン。
- 7月 - 綱町グラウンドが日本野球聖地・名所150選に選定される。
- 2023年(令和5年)11月 - 予防医療センターが麻布台ヒルズに移転。
基礎データ[編集]
所在地[編集]
東京都と神奈川県に6キャンパスを擁するほか、全国各地にタウンキャンパスなどを展開している。
- 三田キャンパス(東京都港区、北緯35度38分57.3秒 東経139度44分34.2秒)
- 日吉キャンパス(神奈川県横浜市港北区、北緯35度33分16.3秒 東経139度38分55.3秒)
- 矢上キャンパス(横浜市港北区、北緯35度33分20.8秒 東経139度39分12.8秒)
- 信濃町キャンパス(東京都新宿区、北緯35度40分56.7秒 東経139度43分04.5秒)
- 湘南藤沢キャンパス(神奈川県藤沢市、北緯35度23分17.4秒 東経139度25分38.4秒)
- 芝共立キャンパス(東京都港区、北緯35度39分31.3秒 東経139度45分05.7秒)
- 新川崎タウンキャンパス(神奈川県川崎市、北緯35度32分49.4秒 東経139度40分17.3秒)
- 殿町タウンキャンパス(神奈川県川崎市)
- 鶴岡タウンキャンパス(山形県鶴岡市、北緯38度43分37.0秒 東経139度49分20.1秒)
- 浦和共立キャンパス(埼玉県さいたま市、北緯35度54分28.5秒 東経139度41分43.1秒)
- 慶應大阪シティキャンパス(大阪府大阪市北区、北緯34度42分24.4秒 東経135度29分40.6秒)
- 慶應丸の内シティキャンパス(東京都千代田区、北緯35度40分47.7秒 東経139度45分48.9秒)