You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

慶應義塾大学

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索

慶應義塾大学(けいおうぎじゅくだいがく、英語: Keio University)は、東京都港区三田二丁目15番45号に本部を置く日本の私立大学。1858年創立、1920年大学設置。大学の略称は慶應(けいおう)、慶大(けいだい)。「應」が旧字体のため、報道などでは「慶応」と表記されることもある。

概説[編集]

慶應義塾大学は、中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地鉄砲洲(現在の東京都中央区明石町)の中津藩中屋敷内に、1858年(安政5年)開校した「蘭学塾」を起源に持つ大学である。淵源は、1796年(寛政8年)設置の国学藩校「進脩館」まで遡り、1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」及び江川英龍の「韮山塾」等旧私塾の流れを汲む。

1863年(文久3年)、蘭学塾から英学塾に変わると、旧幕臣の吉田賢輔等を教授に迎え、さらに1866年(慶應2年)、親藩である紀州藩(紀州徳川家)の命を受けて藩士を迎えて塾舎内に「紀州塾」を開設。この他、幕末にかけては「志摩三商会」に脈絡のある三田藩の藩政改革に携わる。1867年(慶應3年)12月、木村摂津守の世話により芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)の有馬家(久留米藩)控屋敷跡を購入し、翌年の1868年(慶應4年/明治元年)4月に移転し、年号をとって「慶應義塾」と塾名を定めた。なお、「義塾」とは英語の「パブリックスクール(public school、共立学校)の訳語とされ、このとき、中津藩江戸藩邸の蘭学塾から近代私学としての一歩を踏み出した。

1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ(翌年払い下げを受ける)、現本部所在地に移った。明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり、また後に私立大学となる学校の中で最初に授業料を徴収した。廃藩後の1880年(明治13年)までの生徒の割合は、慶應義塾の三藩(越後長岡藩、紀州藩、中津藩)を中心とした士族が十中八九であった。1873年(明治6年)に「慶應義塾医学所」を開設。同年10月には分校「大阪慶應義塾」と「京都慶應義塾」(京都集書院)を設立。また福澤諭吉や松下元芳が塾頭を務め、塾生が一部移籍してきた適塾(大阪帝国大学医学部)から受けた影響は特に大きく、大阪とのゆかりが深い。

1873年(明治6年)に修業年限を定めて正則・変則両科を新設。1875年(明治8年)に本科・予備科となる。1876年(明治9年)に土佐立志学舎(高知県)の運営に参画。1877年(明治10年)に神戸商業講習所(兵庫県)を開校。同年に本科第三等以上修了者に徴兵免役の指令が出され、1896年(明治29年)に改正徴兵特典適用、1899年(明治32年)に海軍少主計候補生(主計少尉候補生)の受験資格を得た。1878年(明治11年)には分校「三菱商業学校(明治義塾)」設置に参画。1879年(明治12年)に専門教育課程として夜間法律科(専修学校 (旧制)へ改組:後の専修大学)、理学科、支那語科、簿記講習所を設置。1880年(明治13年)には興亜会へ参画。その他、主な関連校に藍謝堂(高島学校)や高山歯科医学院、耕余義塾、亮天社、三田英学校等がある。西南戦争が起きた1877年(明治10年)頃から多くの塾生が郷里に帰郷した為、慶應義塾は経営難に陥り、福澤も一時は廃塾を真剣に考えたが、義塾存続を望む門人らの尽力により1880年(明治13年)に「慶應義塾維持法案」を作成して財政立て直しを行い、翌年には「慶應義塾仮憲法」が制定され、慶應義塾は理事委員中心の組織経営へと移行した。さらに1889年(明治22年)には「慶應義塾規約」が制定されて社頭と塾長の職掌が明確化されたほか、今日まで続く評議員会の制度が設けられるなどの組織改革が行われた。

1890年(明治23年)に大学部(文学・理財・法律の三科)を開設し、従来の正科・別科を普通部とした。1898年(明治31年)に幼稚舎・普通学科・大学科の一貫教育体制が確立。同時に大学科に政治科を開設した。1904年(明治37年)に大学部が専門学校令による専門学校となり、1907年(明治40年)に学校組織が財団法人として認可された。大学部文学科は1901年(明治34年)に一度廃止されたが3年後に復活し、永井荷風を主幹として1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『三田文学』は日本の文学史上に大きな足跡を残した。

卒業生は明治初期、官吏、教育界が主流であったが、明治十四年の政変の後、漸次に経済人、実業家が勃興するようになる。また、1880年(明治13年)に日本最古の社交倶楽部「交詢社」を設立した。1912年(明治45年)に煉瓦造の創立五十年紀念図書館が開館。そのゴシック式の建築美は慶應義塾のシンボルとなった。慶應義塾に理科系教育部門を開設したいという希望は福澤の存命中からあり、明治末から大正初期に工学科開設案が出たこともあったが、最終的に医学科を開設することに決定し、1917年(大正6年)に北里柴三郎を学長に迎えて医学科予科の授業を開始。翌年看護婦養成所(看護医療学部の起源)を附設した。

1920年(大正9年)には大学令による日本最初の私立大学(旧制大学)として新発足し、文学部、経済学部、法学部、医学部の4学部からなる総合大学となり、予科と大学院を附設した。このとき、学事に関する最高意思決定機関として大学評議会が設けられ、同年11月には四谷区西信濃町に慶應義塾大学病院も開院した。従来からの専門学校令による課程は高等部(当初は専門部)に改組され、1945年(昭和20年)に廃止されるまでに4,419名の卒業生を輩出した。関東大震災の被害復旧の目途が立った大正末期頃から校地拡張の議が起こり、1934年(昭和9年)に日吉キャンパスを開設した。

1936年(昭和11年)に米国諸大学を視察した小泉信三塾長は工学教育の必要性を痛感し、その立案に着手したところ、塾員・藤原銀次郎も同様の企画を進め、適当な時期にこれを義塾に寄附する意向を示したため、義塾はその計画をすべて藤原に譲ることとし、1939年(昭和14年)に旧制藤原工業大学が日吉構内に開校した。その後、旧制藤原工大は当初の構想通りに慶應へ寄附され、1944年(昭和19年)に慶應義塾大学工学部となった。

太平洋戦争下の1942年(昭和17年)に中国大陸および南方の農業開発を目指して農学部を増設しようとしたことがあり(獣医畜産専門学校)、戦後の1947年(昭和22年)には獣医師の免許を得ていた。戦時下の空襲で三田・日吉・信濃町の各キャンパスは甚大な被害を受け、さらに終戦後まもなく米軍によって日吉を一時接収されたため、戦後の大学再建には大きな困難を伴った。

1949年(昭和24年)に新制大学が発足し、文、経済、法、工の4学部を開設。1952年(昭和27年)に新制医学部が発足した。1957年(昭和32年)に商学部を開設。1972年(昭和47年)工学部が矢上キャンパスに移転。1990年(平成2年)、湘南藤沢キャンパスに総合政策学部と環境情報学部を開設。2001年(平成13年)に看護短大を改組して看護医療学部を開設。2008年(平成20年)4月に共立薬科大学が合併したことにより、新たに薬学部・薬学研究科を設置した。

2021年(令和3年)に、高山歯科医学院を前身とする学校法人東京歯科大学と2023年(令和5年)4月を目途に歯学部統合および法人の合併に協議を開始したが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を踏まえ、統合目途を設けずに協議を継続する事とした。尚、塾員小幡英之助は、1875年(明治8年)内務省より歯科専門の歯科醫術開業免許第1号を得て、築地采女町(現在の東京都京橋)に開業している。

2023年(令和5年)現在の大学は10学部、大学院は14研究科となっている。2000年代以降に研究所や社会人教育拠点などの全国展開も行われ、丸の内・大阪の両シティキャンパス、新川崎・殿町・鶴岡の各タウンキャンパスが設けられた。

大学の特徴[編集]

塾訓、目的[編集]

慶應義塾には、『慶應義塾の目的』という文章が伝わっている。これは、1896年(明治29年)11月1日に、芝の紅葉館で開催された懐旧会(慶應義塾出身者との懇親会)において、福澤諭吉が行った演説を基に、福澤自身が書き直したものである。

また慶應義塾では、塾訓である「独立自尊」を教育の基本に置く。

教育および研究[編集]

「義塾」の「義」は社会公共のため協力して事を行うという意味があり、これを念頭に置いている。大きな柱は「医療」と「研究」である。蘭学から適塾(後の大阪大学)、慶應義塾医学所、北里柴三郎による伝染病研究所、北里研究所、満鉄衛生研究所までの歴史を汲む慶應義塾伝統の学問に立脚する医学は今日、アメリカ合衆国ハーバード大学医学大学院と1890年(明治23年)以来の長年の研究リンクを持ち、伝染病研究所を母体とする歴史を持つ理化学研究所と連携、協力を行っている。

太平洋戦争終戦後は旧中島飛行機株式会社青年学校へ基礎学科の研究室を約十年間移し、研究活動を行っていた(のちの武蔵野分校)。グローバルCOEプログラム取得や慶應医学賞設立も行っている。大学部時代の各学科の特徴としては、四書五経などの研鑽を積んだのち、数学を基礎学とした有形学から入って、無形の学へ進む編成が成されており、この伝統は当世の各学問分野においても根付いている。 

実学の精神である「実証に基づく理論的、合理的な科学(サイエンス)」(窮理図解)や「自我作古」の精神等から伝統的な学術研究に加え、医療、産官学連携や知財活動などを通した研究まで行っており、科学研究費補助金は全体の10%に過ぎない。

戦前には枢密顧問官へ定期的に器量人を輩出、昨今は日本人宇宙飛行士を2名輩出している。文系では、その他の官公私立大などが行うマスプロ教育を忌避しており、ゼミナールを中心とした少人数教育を一貫して追求している。

近年における各国の調査による世界大学ランキングでは、イギリスの『THE世界大学ランキング』(2022年)で私立総合大学1位、中国の上海交通大学による『世界大学学術ランキング』で私立総合大学1位、アメリカ合衆国のトムソン・ロイター社による『The World's Most Innovative Universities』で私立総合大学1位と、日本の私立大学ではトップの教育及び研究力を堅持している。



Read or create/edit this page in another language[編集]