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慶應義塾

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慶應義塾(けいおうぎじゅく)は、日本の学校法人。福澤諭吉が1858年に中津藩江戸藩邸で開いた蘭学塾が起源。シンボルマークは、ペンマーク。

「義塾」の意味[編集]

中国においては、「義塾」とは公衆のために義捐金で運営される学費不要(無月謝)の学塾を意味し、14世紀半ばの元末に書かれた陶宗儀『輟耕録』にみられるという。

日本における「義塾」の先駆は、天明7年(1787年)、のちに蝦夷地探検で功績を挙げる当時17歳の近藤重蔵が、同志と協力して年少子弟のために開いた私塾の名称「白山義塾」であるとされる。また、掛川藩儒員松崎慊堂の日記「慊堂日暦」の文政8年(1825年)1月25日の条に、慊堂が桑名藩の儒者広瀬蒙斎を訪れて「義塾の事を議す」とあり、さらに、寺門静軒が天保3年(1832年)に著した「江戸繁盛記」4篇学校の項には、「官学外儒門の義塾」との用例があるという。

蓋此學を世に拡めんには学校の規律を彼に取り生徒を教道するを先務とす。仍て吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ、一小区の学舎を設け、これを創立の年号を取て仮に慶應義塾と名く

「彼の共立学校の制」とは、英国のパブリックスクールを指すものとされ、従って慶應義塾の「義塾」とは、中国伝統の語に英国の近代私立学校の概念を付加したものと解されている。

明治時代には、慶應義塾の影響により日本全国で「義塾」を称する私塾が設立されたが、『慶應義塾百年史』 下巻によれば、同塾以外にも、幕末期に「義塾」を称する私塾が少なからず創立していたことが判明している。

概説[編集]

慶應義塾の設立

18世紀後半の中津藩江戸藩邸では、第3代藩主奥平昌鹿の下で本草学や蘭学研究が行われた。明和8年(1771年)、青木昆陽の門人である藩医・前野良沢が中川淳庵、杉田玄白と『解体新書』の底本となった解剖学書『ターヘル・アナトミア』の解読を始めたのは、この中屋敷内であった。その同じ中屋敷内に80年余を隔て成立した「蘭学塾」が慶應義塾の原点である。その後、藩主が変わった中津藩では主に国学、漢学が重視され、幕末の藩政改革では長崎の警備を任ぜられた。三重津海軍所を設置した鍋島閑叟侯の肥前藩や薩摩藩といった西南の雄藩から見ると中津藩は立ち遅れた状況にあった。

幕末の中津藩江戸藩邸では、当主、奥平昌服が江戸汐留の上屋敷に居住し、祖父で薩摩藩島津家より養子に入った奥平昌高が中屋敷に隠居所を構えていた。昌高は蘭癖大名と評されていたが、単なる物好き程度ではなく、日蘭辞書『蘭語訳撰』(『中津辞書』)の刊行に尽力するなど本格的な蘭学研究者であった。その影響があってか、のちに統計学者として有名になる杉亨二が中津藩に招かれ、中屋敷において藩士に蘭学教授を行っていた。しかし、1853年(嘉永6年)のマシュー・ペリー黒船来航の時、米国の開国要求に対する江戸幕府の対応をめぐって、昌高が7月に開国論を、翌月当主の昌服が鎖国論を主張した。この両者の対立は、藩の中を二分するほど大きな対立を生み、その後、杉亨二の辞任を引き起こす結果となった。このとき、中津藩砲術師範を務めていた佐久間象山の下で西洋砲術を学んだ中津藩士・岡見彦三は、蘭学教育の継続を強く望み、知人の薩摩藩蘭医・松木弘安(のち寺島宗則)に、安政2年の大地震(安政の大地震)で失った住居の代わりとして、岡見所有の築地小田原町の持ち屋を無償で貸すことを条件に、蘭学教授の仕事を依頼した。しかし、安政4年4月になると、松木は参勤交代による藩主の就国に侍医として随行することになり、蘭学教授の仕事を続けることができなくなった。そこで、当時大坂の適塾(大阪大学の源流)で塾長を務めていた福澤諭吉に白羽の矢が立ち、福澤は藩から江戸での蘭学教授の仕事を命ぜられるに至ったのである。現在、開塾の地の近くには創立100年を記念して、『慶應義塾発祥の地記念碑』が建てられている。1839年(天保10年)に開塾した「象山書院」および江川英龍の「韮山塾」等の旧私塾の流れを汲んでいる。



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