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弥生時代

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弥生時代(やよいじだい、旧字体: 彌生時代)は、日本列島における時代区分の一つであり、「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代」とされる。年代としては紀元前10世紀から紀元後3世紀中頃までにあたる。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海・北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立した。一般的に3世紀中頃古墳時代に移行したとされるが、古墳時代の開始年代には異論もある。

名称[編集]

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に弥生町遺跡で発見された土器が発見地に因み「弥生式土器」と呼ばれたことに由来する。当初は「弥生式土器」の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれたが、その後佐原真の提言などで土器や年代の名称に「式」を使うことの不合理が説かれ、「弥生土器」の呼称が提唱され、徐々に「式」を省略する呼称(弥生土器・弥生時代)が一般的となった。

概要[編集]

紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃(後述)に、大陸から北部九州へと伝来した水稲耕作技術を中心とした生活体系へ移行し、やがて九州・四国・本州に広がった。初期の水田は現在日本最古の水稲耕作遺跡となる佐賀県唐津市菜畑遺跡の他、福岡県博多区板付遺跡などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米などの存在が北部九州に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。

1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている。なお弥生時代の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴建物に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。

道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

「倭・倭人関連の中国文献」も参照

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さな国が生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国の女王が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた。

「先島諸島の歴史」、「奄美群島の歴史」、および「沖縄県の歴史」も参照

一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

時期区分[編集]

弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、「弥生式土器が使われている時代」という意味であった。ところが、弥生土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である狩猟・採集の混合経済であった縄文時代とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

開始時期[編集]

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。したがって、弥生時代前期前半より以前に少なくとも北部九州地域には水稲農耕技術を伴う社会が成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

時代区分: 早期・前期・中期・後期の4期区分[編集]

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀中頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている。

炭素同位体法による年代の革新[編集]

2003年に国立歴史民俗博物館が放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化物の測定結果を発表した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。放射性炭素年代測定の誤差が大きいことから、利用は進んでいなかったが、1970年代末に登場したAMS法の登場により精度が向上し活用が進んだ結果である。

当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があったが、2015年現在では多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきているとの意見がある。一方、歴博の新見解を考古学会や考古学者達は認めていないのにもかかわらず、広く喧伝されていて異常な状態になっているとの意見もある。海洋リザーバ効果の影響や不安定な年輪年代測定などの問題もあり、正確な時期は確定していない。また、いままで稲作の伝来は春秋戦国時代の動乱、朝鮮系渡来人の来住は百済・高句麗の滅亡と古代の東アジア史と関連付けての説明が成り立っていた。しかし、本説を採用するならばこの理論が破綻することになる。

東アジアとの関係[編集]

春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。また、医学者である崎谷満と研究者の宝賀寿男、心理学者の安本美典は弥生時代と長江文明の関連性について様々な説を提唱した。しかし、o1b2が中国南部には殆ど存在しないこと、弥生時代の墓制と関連性が見られないことによって、彼らの説は日本の歴史学者の支持を受ける説ではない。また、彼らの説に対して「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」との疑問も指摘されている。つまり殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる。



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