岡田彰布
岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市中央区出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)、プロ野球監督。阪神タイガース第30代及び第35代監督、オリックス・バファローズ第25代監督。
経歴・監督として[編集]
監督としては堅実を重視するスタンスである。岡田は著書で「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と記している。
藤田平からも認められており、「チームを率いる能力、素質を持ち合わせている。」と評価している。
メジャーリーグで開発された確率論を根底にするセイバーメトリクスに近い考え方をベースにしたチーム作りを理想とする。岡田は著書で、セイバーメトリクスに関する本を読んだことはなく、文献や理論の存在を知ったのもあとからであって、自分の実践した野球が「少し、セイバーメトリクスを使った野球に重なっていた」と記し、「セイバーメトリクスの戦略を用いている」という巷間の噂は「正しく言えば、それは間違いである」としている。
阪神監督就任当時少なかったバントが2008年にはリーグトップとなった。これについて「考えが変わったわけではなく、チームの陣容が変わり、チームのストロングポイントを最大限に生かせる確率を追究した結果」と説明している。バントについて基本的には「アウトを何で一つやるのか」という思いが根底にあるとしながらも、状況に応じた必要性は否定していない。ただし、スクイズプレイについては打者に与えるプレッシャーの高さからサインを出さない。2011年8月12日の対西武戦でのスクイズが、阪神時代を含め監督就任953試合目で初めての成功事例になった。
選手のコンディションや相手チームとの相性で打順を組み替えたり、先発ローテーションを崩したりすることは基本的には好まない。ベンチワークの必要のないスタイルの確立されたチームこそ最強という持論がある。岡田は「ベンチで何もしないで、言葉も出さず、気がついたら1対0で勝っていた、そういうゲームができるチームの監督が理想」と記している。2004年に金本知憲を4番に据えてから好不調にかかわらず5年間一度も動かさなかった。これについては、金本が「休まず試合に出るチームの柱」という岡田の考える4番打者にふさわしい選手だからであるとしている。また投手分業のJFKの確立なども、岡田の勝利の方程式を重視する思想が色濃く反映された結果である。
ピンチに陥った投手などに対して、他の監督では自らマウンドに行く光景がしばしば見られるが、岡田の場合は阪神では2005年9月7日の対中日戦・2006年6月1日の対楽天戦の久保田、2006年8月31日の対中日戦・2008年7月18日の対中日戦の藤川、オリックスでは2010年8月22日の対ロッテ戦と、2011年6月15日対横浜戦・2012年7月10日の対楽天戦の岸田護に対しての7度だけである。このうちサヨナラ負けを喫したのは7度目の試合のみである(6度目は延長規定のため引き分け)。岡田は著書『頑固力』の中で「マウンドに行き、投手、もしくはバッテリーにアドバイスを送るのは監督ではなく、ピッチングコーチの仕事である。“任せる”というキーワードが監督とコーチの信頼につながるのだ」と記し、マウンドに行ったケースのうち2005年と2008年の対中日戦はいずれもペナントレースで重要な意味を持つ試合と考えていたと明かした上で、「本来こういうマウンドパフォーマンスは、私には似合わないし、決して好きな行為ではない」と述べている。
自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍の若手選手への思い入れは強い。阪神監督時代は試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されていた。「ファームからも若い選手をしっかりと育てて野球を仕込む。そして監督が、あれこれ手を尽くしてチームの結果を積み重ねていく、そういう監督業こそが面白いのである」という。
自らが現役時代に首位打者まであと一歩に迫りながら逃した経験から、選手起用において個人記録を重視しており、「チームの勝利が最優先であることが大原則」という条件つきながら「監督として手助けできることがあれば最大限に手を貸したつもりである」と述べている。金本の連続試合フルイニング出場、鳥谷敬の連続試合出場の記録更新、坂口智隆の首位打者争いなどにも全面的に協力する姿勢を貫いていた。
阪神一軍監督時代の2008年終盤に「JFKを酷使した」と批判されたことについては、監督を退任した後に著した『頑固力』などを通じて、「常に彼らの疲労度を見ながら起用していた」と反論。「彼らにとっては、その1球、1イニングが自らの年俸や評価をアップさせる生活の糧なのである」と記している。JFKのような救援投手に対しては、阪神の一軍監督へ復帰してからも、3連投を極力回避させるなどの配慮を施している。
第一次阪神監督時代は、日本シリーズやクライマックスシリーズなどの短期決戦で行われるポストシーズンゲームでは、その時の選手のコンディションよりもシーズン当初からのチームの理想形にこだわったとされ、[要出典]成績は芳しくなかった。阪神監督に復帰した2023年のクライマックスシリーズでは、初戦と2戦目ではレギュラーシーズン中の「四球待ち」ではなく初球からの積極的なヒッティングを指示し、「王手」をかけた3戦目では広島がストライクを取りづらいと判断して再び待球作戦に切り替えるなど、スタメン自体はレギュラーシーズンと変えない中で、「相手が手を打ってきたら、それを上回る手を打をしっかり用意している」(大矢明彦)とも評される手法で4勝0敗(リーグ優勝のアドバンテージ1勝を含む)で勝利した。
チームの方針としては「優勝」を目指したチーム作りであるが、シーズン中での「優勝」と明言することは避けている一面をもつ。2009年にオリックス監督に就任した際にも「優勝てよう言わないです。怖いです。そんな簡単に優勝できるとは思ってないです。」とまで発言していた。
- 例として、2010年のオリックス監督時にチームはセ・パ交流戦優勝を狙えるポジションにいた。しかし岡田は選手へ優勝を意識させない為にあえて「優勝」という言葉を封印し、報道陣には「アレ」という言い回しを多用した。するとチームは交流戦首位に立ち、オーナーの宮内義彦に「僕も『アレ』としか言いません」とまで言わせた。そしてチームが交流戦優勝を果たし、チームは記念グッズとして「アレしてもうた」の言葉が入ったシャツやタオルを販売することとなった。
- 2022年10月の阪神監督復帰就任の記者会見でも「『優勝します』とかよう言わないですけど、ずっと優勝は『アレ』しか僕は言ってなかったんで。はっきり『優勝します』とかよう言わないですけど、シーズン終わる頃には楽しみにしてもらったら僕はいいと思いますね」と発言し、同月の秋季練習時には選手にも「アレ」の使用が「浸透している」と報じられた。この結果、2023年のスローガンが「A.R.E.」(読みは「エー・アール・イー」。「Aim」「Respect」「Empower」の頭文字としている)になるまでに至っている(いわゆるバクロニム)。
- 阪神タイガースは過去にもリーグ優勝が期待されながらもシーズン終盤で失速し、優勝を逃がした年が何度もあった。この苦い経験を踏まえ、リーグ優勝が間近となった2023年シーズンの終盤には岡田や阪神球団のみならず、阪神ファンや在阪マスコミの間にも一気に浸透し、「優勝」ではなく、「アレ」と言い換えた上で優勝の瞬間を心待ちにしている事例が多数あった。
2010年のセ・パ交流戦では指名打者制を使用できないビジターゲーム12試合のうち、11試合で投手を8番に置いた。
ドラフト会議ではこれまでのところ、指名重複した場合の抽選でくじ運に恵まれていない。2008年までの阪神監督時代は髙濱卓也を引き当てたのみで通算1勝3敗と外れが先行した。オリックス監督時代も、2010年に1位指名抽選をはずして、史上初めて1回のドラフト会議の1位指名抽選3連敗を喫し、翌2011年も1位指名が競合した高橋周平のくじをはずした。阪神監督に復帰して参加した2022年も通算1勝11敗と岡田同様くじ運に恵まれていなかった巨人・原辰徳監督との直接対決の末浅野翔吾をはずしている。
オリックス監督時代はチームの正捕手だった日高剛のリード面を再三批判した。キャンプ段階での日高のリード面に疑問を持っていたが、シーズンに入ると大量失点を繰り返したこともあり、2010年には打率はそれほど悪くなかったものの3度も二軍に降格させている。2011年以降は捕手に日高をほとんど起用しなかったが、2012年の終盤は伊藤光、齋藤俊雄の2人の捕手を懲罰抹消したことで、自身が休養するまで日高を捕手として起用したが、その日高はアレッサンドロ・マエストリの来日初完投勝利、前田祐二の初先発勝利をアシストするなど好リードを見せ、起用に応えた。日高は岡田の監督退任(2012年のシーズン終了)後に国内FA権の行使によって阪神へ移籍したが、2014年限りで現役を引退してからも「プロスカウト」や「コーチ」の立場で阪神に在籍していて、岡田が阪神の一軍監督へ復帰した2023年シーズンには二軍のコーチを務めている。
野球関係者からの評価[編集]
2004年に投手コーチを務めた佐藤義則は退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈した。
2005年の日本シリーズで阪神と対したロッテ監督のボビー・バレンタインは、シリーズ終了後、その時点の岡田を評して「10年前の私を見ているようだ」とした。
野村克也は、2006年のシーズン前に「(中日監督の)落合のが常識の野球であって、岡田のほうがよほど変わった采配をしている」と評した。野村は2008年の開幕前に刊行した著書『あぁ、阪神タイガース-負ける理由、勝つ理由』(角川書店)の中で、岡田がサインを出さず選手任せにしていると金本知憲から聞き「監督の仕事を放棄している」「理解に苦しむ」と記す一方、JFKのリリーフ陣を構築したことは「新しい方程式を作った」として「素直に評価しなければならない」としている。その上でこの「六回までは選手主導でやらせる」JFKや「選手任せ」は、選手個々の問題意識を高める考え方に基づく可能性があり、もしそうなら名監督となる器かもしれないが、それは今後の阪神の成績が明らかにすると書いている。
これに対して岡田は阪神監督退任後の著書『頑固力』の中で、野村が自分を「何を考えているのかわからない」と言っていることに、「自分では自分なりの野球に対する考え方を持っている」「サインや作戦に関しても状況に応じて作戦は立てている。当たり前のことだ」「どちらかと言えば野村さんと自分の考えは正反対なのかもしれない」と記している。
人物・交友関係[編集]
愛称は「オカ」、「どんでん」。「どんでん」はかつて味の素が販売していた「ほんだし うどんおでんだし」の略称(パッケージで強調されていた)であり、岡田が1998年から1999年に放送された同商品のCMに出演したことが由来する。なお、岡田が発した言葉をどんでんにちなんで「どん語」、コメントを「どんコメ」と言われることもある。
座右の銘は「道一筋」で、周囲の不理解や反対があっても、自分の信じた道を突き進めという意味。これは岡田の父親と親交のあった村山実の座右の銘「球道一筋」から取られている。色紙にサインする時にもこの言葉を添えることが多い。現役時代は自分の数字が残るので、目標を持って「有言実行」を座右の銘としていた。2004年の一軍監督就任時に村山氏の文字をもらおうとしたが、監督1年目で全部の文字をもらうのは失礼にあたると、球の字を外して「道一筋」としてスタートした。また、2023年に日本一を達成したのを機に、2024年1月1日から座右の銘を「球道一筋」に変更する。第三者にこの言葉が商標登録されていて、話題になったこともあった。
口癖は「そらそうよ」。そらそうよの商標権は株式会社阪神タイガースが所有しており(登録商標 第6710506号)、これに由来する「そらそーよ」という焼酎も発売され、「そら、そうよ」として自身の著書のタイトルにもなった。2023年にタイガースの監督に復帰した際には、球団公式グッズとして、「そらそうよタオル」(シークレット全20種)も発売され、運が良ければ岡田本人の顔写真が入っている。また、何を指しているのか分かりにくい「アレ」を多用する癖があり(前述の「優勝」を指す言い換えのようにあえて用いることもある)、阪神監督時代は、何に対して指摘されているのか分からなかった若手選手のために、当時レギュラー選手の赤星憲広が「翻訳」していたこともあった。長男からは「主語を抜いていることが多い」、実母からは「あの子は言葉の真ん中を抜かして話すことが多い」という指摘がなされている。2023年の阪神監督再任時には、相づちとして使っていると推測される「おーん」という間投詞も岡田の口癖として認識されるようになった。こうした岡田の話法が広まった点について、広尾晃は関西出身(もしくは関西の文化に堪能)の「岡田番」の記者がその発言をあまり変えずに紙面に載せ、岡田の側も昔の大阪にいた「旦那衆」のようにそれを咎めない対応を示した結果ではないかと述べている。また、英語教育学者の岡田圭子は、主語の省略や指示語を多用する岡田彰布の話法はわかりにくさがある一方で、「非言語」の部分の口調も含めた独自のコミュニケーションスタイルによって人を引きつけると述べている。
現役時代に務めた日本プロ野球選手会会長時代より一貫して1リーグ8球団制の提唱者である。野球のルール、日程、ドラフトに関してセとパの意見が一致しないため1リーグ制にした上で、さらに独立リーグに将来の展望がないことから独立リーグをなくして三軍制にし、三軍は地域性を重視してすべての都道府県にプロ球団を置く構想を持っている。
クライマックスシリーズについては、「そこで敗れ、日本シリーズ出場ができないと、144試合もの長いシーズンを戦った努力と、過程と評価の価値を否定されることになる」として否定的である。また、数球団を渡り歩く外国人選手が、年俸を高騰させて球団経営を圧迫したり若手日本人選手の働き場所を奪っているとして、外国人出場選手枠の減少(場合によってはゼロ)を、プロ野球改革の試案として示している。
著書ではストレス解消法として飲酒(現在は焼酎党)、カラオケ、手品やニンテンドーDSの脳トレを挙げている。また、吉本系などのお笑い番組もリラックスするときはよく見ており、夫人が録画したビデオテープをリビングに置いてくれたこともあった。西村京太郎トラベルミステリーなど推理ドラマや数独も好むとのこと。
小学校低学年の頃から将棋を趣味としており、2008年1月24日に日本将棋連盟からアマ三段の免状を授与された。将棋を覚えたランディ・バースとは、川藤幸三とともにその相手を務めていた。
岡田が北陽高に在籍していた当時は、いわゆる校内暴力が非常に盛んだった時期でもあり、校舎の窓ガラスの大半が割られていたが、「半分はやんちゃな人、もう半分が岡田さんがホームランで割った」という伝説が残っているという。高校の1年後輩に前田日明がいる。ちなみに関西では「前田と赤井英和が電車の中で喧嘩して、見かねた岡田が仲裁に入った」という話が広まっているが、これについては前田が「赤井くんとは沿線が違い、当時は会ったこともなかった」と否定している。
ルーキーの頃に、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と岡田に賛辞を送って以来、ブッチャーとは交友がある。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は今でも恩を感じており、2005年の阪神のリーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった。
シンガーソングライターの吉田拓郎が岡田のファンとされるが、岡田自身はフォークソングに全く興味がないという。
元サッカー日本代表監督の岡田武史とは同じ大阪市出身、同姓、早稲田大学の同級生、プロスポーツ監督と共通点も多い。また、共にタイガースファンである。武史の方が1歳上であるが、武史は1年浪人しており、そのため彰布と同級生であり、同時期に野球部とサッカー部の主将をそれぞれ務めた。両者の直接的な接点はなかったが、2009年に雑誌「Sports Graphic Number」の「早稲田力」特集で初対面の両者による対談が行われ、以後交友を持った。また、元サッカー選手で現在サッカー解説者の長谷川治久は高校の同級生にあたり、こちらも現在でも親交がある。
1982年12月11日に結婚式を挙げる。また、同年には実母がニッスイのちくわのCMに出演している(ちくわ入りの八宝菜を作り岡田に呼びかける内容となっている)。
2023年現在は西宮市在住であり、2023年11月27日に西宮市の六湛寺公園で開催された「阪神タイガース日本一西宮市民報告会」において、「(市役所に)この間も期日前投票に来ました。ちゃんとしていますから。マイナンバー(カード)も取りに来ましたから」などと語っている。
2023年に再度阪神監督就任後に度々パインアメを食べていることが話題となった。製造元のパイン株式会社は、阪神タイガースとコラボし2023年の阪神のチームスローガンである「ARE」にちなんだ「パインアレ」書かれたタオルやパインアメ24粒入の巾着などのグッズなどが販売された。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二
塁 打 |
三
塁 打 |
本
塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗
塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併
殺 打 |
打
率 |
出
塁 率 |
長
打 率 |
O
P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1980 | 阪神 | 108 | 403 | 376 | 44 | 109 | 19 | 0 | 18 | 182 | 54 | 4 | 2 | 1 | 0 | 23 | 6 | 3 | 45 | 6 | .290 | .336 | .484 | .820 |
1981 | 130 | 524 | 485 | 70 | 140 | 23 | 3 | 20 | 229 | 76 | 1 | 0 | 2 | 4 | 28 | 3 | 5 | 43 | 13 | .289 | .331 | .472 | .804 | |
1982 | 129 | 521 | 466 | 57 | 140 | 22 | 1 | 14 | 206 | 69 | 10 | 5 | 2 | 5 | 44 | 12 | 4 | 30 | 13 | .300 | .362 | .442 | .804 | |
1983 | 79 | 289 | 246 | 44 | 71 | 9 | 0 | 18 | 134 | 44 | 7 | 3 | 1 | 5 | 36 | 5 | 1 | 23 | 3 | .289 | .375 | .545 | .920 | |
1984 | 115 | 366 | 323 | 38 | 96 | 14 | 2 | 15 | 159 | 51 | 3 | 1 | 0 | 7 | 33 | 4 | 3 | 41 | 13 | .297 | .361 | .492 | .853 | |
1985 | 127 | 532 | 459 | 80 | 157 | 24 | 3 | 35 | 292 | 101 | 7 | 3 | 0 | 6 | 64 | 3 | 3 | 41 | 11 | .342 | .421 | .636 | 1.057 | |
1986 | 129 | 551 | 474 | 67 | 127 | 21 | 0 | 26 | 226 | 70 | 11 | 3 | 0 | 4 | 70 | 5 | 3 | 57 | 14 | .268 | .363 | .477 | .840 | |
1987 | 130 | 518 | 474 | 54 | 121 | 24 | 3 | 14 | 193 | 58 | 5 | 2 | 0 | 2 | 40 | 2 | 2 | 75 | 12 | .255 | .315 | .407 | .722 | |
1988 | 127 | 524 | 454 | 65 | 121 | 22 | 1 | 23 | 214 | 72 | 10 | 5 | 0 | 5 | 63 | 6 | 2 | 75 | 16 | .267 | .355 | .471 | .826 | |
1989 | 130 | 557 | 492 | 66 | 138 | 20 | 1 | 24 | 232 | 76 | 8 | 3 | 0 | 7 | 57 | 3 | 1 | 81 | 15 | .280 | .352 | .472 | .823 | |
1990 | 130 | 571 | 486 | 75 | 129 | 27 | 0 | 20 | 216 | 75 | 7 | 2 | 0 | 4 | 74 | 5 | 7 | 87 | 12 | .265 | .368 | .444 | .812 | |
1991 | 108 | 428 | 383 | 45 | 92 | 11 | 0 | 15 | 148 | 50 | 1 | 3 | 0 | 3 | 40 | 3 | 2 | 68 | 9 | .240 | .313 | .386 | .700 | |
1992 | 70 | 212 | 185 | 9 | 35 | 11 | 0 | 2 | 52 | 19 | 1 | 0 | 0 | 3 | 22 | 1 | 2 | 48 | 3 | .189 | .278 | .281 | .559 | |
1993 | 42 | 62 | 53 | 2 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 24 | 0 | .170 | .290 | .245 | .536 | |
1994 | オリックス | 53 | 117 | 101 | 10 | 28 | 3 | 0 | 2 | 37 | 12 | 1 | 1 | 0 | 1 | 14 | 0 | 1 | 20 | 3 | .277 | .368 | .366 | .734 |
1995 | 32 | 46 | 39 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 9 | 1 | .179 | .304 | .179 | .484 | |
通算:16年 | 1639 | 6221 | 5496 | 729 | 1520 | 251 | 14 | 247 | 2540 | 836 | 76 | 33 | 6 | 56 | 624 | 59 | 39 | 767 | 144 | .277 | .351 | .462 | .813 |
年度別監督成績[編集]
- レギュラーシーズン
年
度 |
球
団 |
順
位 |
試
合 |
勝
利 |
敗
戦 |
引
分 |
勝
率 |
ゲ
| ム 差 |
本
塁 打 |
打
率 |
防
御 率 |
年
齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | 阪神 | 4位 | 138 | 66 | 70 | 2 | .485 | 13.5 | 142 | .273 | 4.08 | 47歳 |
2005 | 1位 | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | - | 140 | .274 | 3.24 | 48歳 | |
2006 | 2位 | 146 | 84 | 58 | 4 | .592 | 3.5 | 133 | .267 | 3.13 | 49歳 | |
2007 | 3位 | 144 | 74 | 66 | 4 | .529 | 4.5 | 111 | .255 | 3.56 | 50歳 | |
2008 | 2位 | 144 | 82 | 59 | 3 | .582 | 2.0 | 83 | .268 | 3.29 | 51歳 | |
2010 | オリックス | 5位 | 144 | 69 | 71 | 4 | .493 | 7.5 | 146 | .271 | 3.97 | 53歳 |
2011 | 4位 | 144 | 69 | 68 | 7 | .504 | 20.5 | 76 | .248 | 3.33 | 54歳 | |
2012 | 6位 | 144 | 57 | 77 | 10 | .425 | 17.5 | 73 | .241 | 3.34 | 55歳 | |
2023 | 阪神 | 1位 | 143 | 85 | 53 | 5 | .616 | - | 84 | .247 | 2.66 | 66歳 |
通算:9年 | 1284 | 666 | 574 | 44 | .537 | Aクラス5回、Bクラス4回 |
- ※1 2012年、9月25日より休養。監督代行は、森脇浩司
- ※2 2012年、欠場した9試合(7勝2敗)は監督成績に含まない
- ※3 太字は日本一
- ポストシーズン
年度 | チーム | 大会名 | 対戦相手 | 勝敗 |
---|---|---|---|---|
2005 | 阪神 | 日本シリーズ | 千葉ロッテマリーンズ | 0勝4敗=敗退 |
2007 | セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ2位) | 0勝2敗=敗退 | |
2008 | セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ |
中日ドラゴンズ(セ・リーグ3位) | 1勝2敗=敗退 | |
2023 | セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ |
広島東洋カープ(セ・リーグ2位) | 3勝0敗=日本シリーズ出場 | |
日本シリーズ | オリックスバファローズ | 4勝3敗=日本一 |
表彰[編集]
- 新人王(1980年)
- ベストナイン:1回(二塁手部門:1985年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回(二塁手部門:1985年)
- 正力松太郎賞:1回(2023年)
- 月間MVP:2回(1985年8月、野手部門:1989年6月)
- オールスターゲームMVP:2回(1980年第1戦、1988年第2戦)
- セ・リーグ 特別表彰:2回(最優秀監督賞:2005年、2023年)
記録[編集]
- 初記録
- 初出場:1980年4月11日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(阪神甲子園球場)、9回裏に深沢恵雄の代打で出場
- 初打席:同上、9回裏に平松政次の前に三振
- 初先発出場:1980年4月22日、対横浜大洋ホエールズ3回戦(横浜スタジアム)、8番・三塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、8回表に加藤英美から左前適時打
- 初本塁打:1980年5月1日、対読売ジャイアンツ5回戦(阪神甲子園球場)、2回裏に新浦壽夫から左中間越3ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1985年7月13日、対読売ジャイアンツ15回戦(後楽園球場)、9回表に木戸克彦の代打で出場、西本聖から左越ソロ ※史上139人目
- 150本塁打:1987年6月27日、対広島東洋カープ12回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に長冨浩志から左越2ラン ※史上83人目
- 1000安打:1988年5月26日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、10回表に伊東昭光から左前適時打 ※史上150人目
- 1000試合出場:1988年6月22日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、4番・二塁手として先発出場 ※史上277人目
- 200本塁打:1989年8月3日、対横浜大洋ホエールズ15回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に遠藤一彦から左越ソロ ※史上58人目
- 1500試合出場:1992年8月9日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)、12回表に弓長起浩の代打で出場 ※史上102人目
- 1500安打:1994年6月29日、対近鉄バファローズ12回戦(日生球場)、2回表に江坂政明から中前安打 ※史上68人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:8回(1980年 - 1982年、1985年、1986年、1988年 - 1990年)
- 監督としての節目の記録
- 500勝:2011年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ14回戦(QVCマリンフィールド)、7-2で勝利 ※史上28人目
- 600勝:2023年5月13日、対横浜DeNAベイスターズ7回戦(阪神甲子園球場)、7-2で勝利 ※史上25人目
背番号[編集]
- 16(1980年 - 1993年)
- 10(1994年 - 1995年)
- 85(1996年 - 1997年)
- 80(1998年 - 2008年、2010年 - 2012年、2023年 - )
関連情報[編集]
野球以外での表彰[編集]
- ベスト・プラウド・ファーザー賞 in 関西(2013年)
- ユーキャン新語・流行語大賞 年間大賞(2023年、「アレ(A.R.E.)」)
- Yahoo!検索大賞2023 スペシャル部門(2023年)
出演番組[編集]
野球解説者時代のレギュラー番組に限定。
- DRAMATIC BASEBALL - 日本テレビ系列における、プロ野球中継の現行タイトル。
- ABCフレッシュアップベースボール(朝日放送ラジオ)
- 阪神の一軍監督へ復帰した2023年以降は、「タイガース(戦)聴くなら『ABCフレッシュアップベースボール』 そらそうよ」というフレーズで声を吹き込んだ音源が、スポットCMや阪神戦中継内のジングルに使われている。
- 熱視線KHBスーパーベースボール「オリックス×楽天(東日本放送、2017年 - )- 野球解説。
- もえスポ(東日本放送、2018年 - )- 野球解説(番組上の肩書きは「最高顧問」となっている。)
歌[編集]
いずれも現役時代にリリース。
- 逢えば涙になるけれど(1982年、ミノルフォンレコード、KA-2032)
- 阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
- ビクトリー(1984年4月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
- 原辰徳・高橋慶彦・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔とともにコーラス参加。
連載コラム[編集]
- 『週刊ベースボール』「岡田彰布のそらそうよ」
- 野球解説者時代の2009年8月 - 11月および、2014年12月 - 2022年10月に「阪神元監督OKADA野球論 岡田彰布のそらそうよ」というタイトルで週に1回連載。「そらそうよ」というタイトルに加えて、本人の口癖が本文の随所に表れている。
- 阪神一軍監督への復帰が決まった2022年11月以降も、「阪神新監督OKADA野球論 岡田彰布のそらそうよ」に改題したうえで、執筆と連載を続けている。監督としての活動を本格的に再開した2023年の2月(春季キャンプ期間)以降は、シーズン中を含めて月1回の連載へ移行する代わりに、ページ数を「阪神元監督」時代の2ページから4ページに増やすことで対応。
著書[編集]
単著[編集]
- 『頑固力 〜ブレないリーダー哲学』 角川・エス・エス・コミュニケーションズ〈角川SSC新書〉、2008年11月28日第1版発行(11月13日発売)、ISBN 978-4-8275-5051-1
- 『オリの中の虎 〜愛するタイガースへ最後に吼える』 ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン新書〉、2009年11月20日第1版第1刷発行、ISBN 978-4-583-10231-3
- 『動くが負け 〜0勝144敗から考える監督論』 幻冬舎〈幻冬舎新書〉、2010年7月30日第1刷発行(7月28日発売)、ISBN 978-4-344-98178-2
- 『なぜ阪神はV字回復したのか?』 角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2013年9月12日発売、ISBN 978-4-04-110532-0
- 『そら、そうよ 勝つ理由、負ける理由』 宝島社、2014年3月21日第1刷発行(3月7日発売)、ISBN 978-4-800-21796-7
- 『プロ野球構造改革論』 宝島社、2014年8月23日第1刷発行(8月9日発売)、ISBN 978-4-8002-2882-6
- 『金本・阪神 猛虎復活の処方箋』 宝島社、2017年4月24日第1刷発行(4月10日発売)、ISBN 978-4-8002-6756-6
共著[編集]
- 江夏豊・岡田彰布 『なぜ阪神は勝てないのか? 〜タイガース再建への提言』 角川書店〈角川ONEテーマ21〉、2009年9月10日初版発行(9月9日発売)、ISBN 978-4-04-710206-4
- 張本勲、江本孟紀、岡田彰布、福本豊ほか 『プロ野球史上最高の選手は誰だ? レジェンドOBが選ぶ「実力ナンバーワン」決定戦』 宝島社、2019年7月11日第1刷発行(6月27日発売)、ISBN 978-4-8002-9616-0
CM[編集]
- 日本サンガリアベバレッジカンパニー(現役時代)
- 味の素 ほんだし うどんおでんだし(オリックスコーチ時代、坂田利夫と共演。「どんでんでんねん」の台詞が話題となる。どんでんの愛称はこれに由来)
- オリックス自動車 カーシェアリング事業「プチレンタ」(オリックス監督時代の2010年。大阪府・兵庫県での駅や電車の掲示広告)