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小池百合子

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小池 百合子(こいけ ゆりこ、1952年〈昭和27年〉7月15日 - )は、日本の政治家。東京都知事(第20・21代)。都民ファーストの会特別顧問。

アラビア語通訳者、ニュースキャスターを経て、1992年に政界へ転身した。

テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』キャスター(「小池ユリ子」名義)、参議院議員(1期)、衆議院議員(8期)、総務政務次官、経済企画総括政務次官、環境大臣、内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)、防衛大臣、自由民主党広報本部長、自由民主党総務会長、自由民主党国際人材議員連盟会長、都民ファーストの会代表、希望の党代表を歴任した。

来歴[編集]

兵庫県芦屋市出身。父・小池勇二郎は戦時中、仲小路彰、小島威彦らが創設した思想団体「スメラ学塾」のメンバーとして活動し、石油関連の貿易商として戦後に財を成した。また、政治家への転身を考えていた父親は末次一郎に心酔していた。1959年、末次の主催する日本健青会がエジプトとの交流事業を行い、その一環としてアラブ、アフリカ諸国に視察団を送る。視察団に参加した勇二郎はエジプトのカイロで感激し「自分はここに残って商売がしたい」と言い出した。結局、周囲に説得させられて帰国するが、小池百合子とエジプトの縁はここに端を発した。

芦屋市立岩園小学校、甲南女子中学校を経て、1968年に甲南女子高校に進学。在学中は、テニス部、ソフトボール部、ESS部に所属した。

高校2年の1969年12月、父親の勇二郎は第32回衆議院議員総選挙に、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から無所属で立候補したが落選。業者間転売品の仕事が立ち行かなくなった父親は、1970年にムハンマド・アブドゥル・カーデル・ハーテムが来日すると、日本アラブ協会が主催した歓迎パーティーに出席しハーテムに自分を売り込んだ。帰国したハーテムを追いかけ、同協会に所属する国会議員の紹介状を手にエジプトに飛んだ。さらにハーテムの知遇を得た勇二郎は帰国後の同年10月14日、大阪倶楽部で講演を行う。「中東から日本に入ってくる石油はすべてユダヤ人が経営する企業を経由している。今回の中東訪問で自分は人脈を築いたので、ユダヤ企業を通さず石油を仕入れられるが、足りないのは自前のタンカーである」と述べて投資を募り、商売を続けた。

1971年3月、甲南女子高校卒業。同年4月、関西学院大学社会学部に入学。朝堂院大覚によれば、その後ほどなくして父親の会社が倒産し、一家は東京都の六本木に引っ越して朝堂院の事務所で働いたという。「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事がきっかけでアラビア語通訳を目指し、同年9月に大学を中退して父親の貿易先でもあったエジプトへ留学した。

カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語版)でアラビア語を修めたという。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたことがある。両親は朝堂院(松浦良右)の資金援助でカイロ市で日本食レストランを経営するが、その会社は小池の留学中に倒産した。

1972年6月、カイロ大学に入学。1976年10月、同大学文学部社会学科を卒業。小池の著書によれば「カイロ大学を首席で卒業」と記されている。来日するエジプトのサダト大統領夫人のジハン・サダトをエスコートするために、同年10月11日、一時帰国。11月にまたエジプトに戻り、12月に正式に帰国した。

通訳・ニュースキャスター時代[編集]

帰国後はアラビア語の通訳として活動。父・勇二郎の友人で民族主義者の中谷武世が会長を務める日本アラブ協会の嘱託となり通訳兼アラビア語講師を担当する(1989年には同協会の事務局長に就任)。PLO議長アラファトやリビアのカダフィの会見では、コーディネーター兼インタビュアーを務めた。

1979年から1985年まで、日本テレビのトーク番組『竹村健一の世相講談』でアシスタントキャスターを務めた。『海外ウィークリー』の幸田シャーミンや野中ともよ、『BIG NEWS SHOW いま世界は』の安藤優子より1年早いデビューで、元々フリーから出発した女性キャスターとしては草分け的存在であった。

1984年、ヌスレット・サンジャクリの抗議により「トルコ風呂」の名称が「ソープランド」に改められた際、小池はこの運動を支援しており、本人も後日新聞報道でそれを認めている。小池によれば、トルコ留学生の熱心な訴えを聞き、国家の尊厳を守るという「大義」に加えて、個人的な共感の結果であったという。自ら厚生省に乗り込み、当時大臣だった渡部恒三に「日本中でトルコの名前が出ているが、これはやめてくれ」と直談判、渡部の指導により『トルコ風呂』という名称は使用されなくなった。

1988年、テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターに就任。1990年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞。

日本新党公認で参議院議員に初当選[編集]

1992年7月の第16回参議院議員通常選挙を前に、複数の政党から立候補の誘いを受ける。細川護熙は同年5月発売の『文藝春秋』に「『自由社会連合』結党宣言」と題する論文を寄稿し、新党旗揚げを発表した。ニュース番組に次々と出演するが、その中のひとつに小池がメインキャスターを務める『ワールドビジネスサテライト』があった。番組出演後、元『朝日ジャーナル』編集長の伊藤正孝が間に入り、細川に小池を新党に誘うよう話を進めたと言われている。細川が参議院議員候補として小池に白羽の矢を立てると、「政治を変えるには大きな中古車を修理するのではなく、小さくても新車の方がいい」との理由で、5月22日に結成された日本新党に、野田佳彦、前原誠司らとともに入党した。

当時の参議院比例区は拘束名簿式であったが、党代表の細川は公示日前日の7月7日に比例順位をようやく立候補者に伝えた。1位の細川に次いで2位に記載されたのは小池だった。日本新党の政策を立案した組織委員長の松崎哲久は5位、「ニコニコ離婚講座(現・離婚と母子の110番)」の創立者の円より子は7位、テニス選手の佐藤直子は9位に記載された。この措置に対し、小池が参加する前から細川を支えてきた党員の一部から強い不満の声が上がる。佐藤は、小池より自分が下位に置かれたことにショックと怒りを覚え、比例順位が伝えられたその日に出馬を取り止めてしまった。

ニュースキャスター時代から脚を見せることを好んだ小池は、自分の強みで選挙戦を優位に進めようと考えた。マスコミに向かって「選挙もハイヒールとミニスカートで通します」と宣言し、街宣車のはしごに足をかけるときはローアングルで構えるカメラマンたちに「それ以上、近づいちゃだめよ」と笑顔で注意した。7月26日に行われた参院選で日本新党は比例区で4議席を獲得し、初当選。当選後、小池はいきなり週刊誌3誌で連載コラムを持った。そのうちの一つ『週刊ポスト』のコラムのタイトルは「ミニスカートの国会報告」であり、毎回ミニスカート姿の写真を添えた。

翌1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で鞍替え立候補し、旧兵庫2区(定数5)において日本社会党元委員長の土井たか子に次ぐ得票数2位で当選した。自由民主党は選挙前の党分裂により減少した議席数を回復できなかったのに対して、日本新党は躍進し、非自民非共産の連立による細川内閣が成立した。小池は総務政務次官に就任するが、連立政権は1年足らずで崩壊する。

1994年、日本新党を含む旧連立派各党を糾合した野党第一党となる新進党の結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制の導入に伴い兵庫6区(伊丹市、宝塚市、川西市)から出馬し、自民党の阪上善秀に競り勝ち再選。新進党では、初代幹事長でありのちに新進党党首に就任した小沢一郎の側近となり、1997年の新進党解党後は小沢率いる自由党に参加。

自由党・保守党時代[編集]

1999年、自民党と自由党の連立(自自連立)に伴う小渕第2次改造内閣の発足に際して経済企画政務次官となり、第1次森内閣まで務める。

2000年の自由党分裂に際して小沢と決別して連立与党に残留、保守党結党に参加した。

同年6月の第42回衆議院議員総選挙では保守党公認に加えてコスタリカ方式を条件とする連立与党の推薦を受け当選(3選目)し、今回比例単独に回った自民党の阪上に次回選挙の選挙区出馬枠を譲ることとした。

自由民主党に入党、女性初の総裁選出馬[編集]

2002年12月、民主党を離党した熊谷弘らの合流に伴う保守新党結成を前に、党首の野田毅および月原茂皓と共に、保守党を離党。保守クラブ(自民党へ合流するため、一時的に結成した形式上の政治団体)を経て自由民主党に入党。党内派閥に関しては、野田と月原が近未来政治研究会に入会したのに対し、小池は清和政策研究会(当時は森派)に入会した。

2003年9月、第1次小泉第2次改造内閣で環境大臣として初入閣。同年10月の第43回衆議院議員総選挙では、保守党時代のコスタリカ方式の約束により自民党から比例単独で立候補。比例近畿ブロックの自民党候補名簿で重複組のひとつ上の3位に記載され、比例近畿で自民党が9議席獲得したため4選。第2次小泉改造内閣より内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。環境大臣は第3次小泉改造内閣まで務め、2005年夏の軽装化キャンペーン「クール・ビズ」の旗振り役を務める。

2005年8月8日、参議院本会議で郵政民営化関連法案が否決。同日、小泉純一郎は衆議院を解散し、「反対票を投じた自民党議員は公認せず、全員に対立候補を立てる」と発表した。小池は素早く内閣総理大臣秘書官の飯島勲の携帯電話に連絡を入れ、「小林興起の対立候補として東京10区に立ちます」と告げた。以前から東京に選挙区を替えたがっていた小池にとって、郵政法案反対派の急先鋒として各種メディアで認知度が高まっていた小林は恰好のターゲットだった。小泉に恩は売れるし、マスコミには自分を宣伝できると考えた。刺客として東京10区から出馬した第44回衆議院議員総選挙で民主党の鮫島宗明や新党日本の小林を大差で破り、

2006年に発足した第1次安倍内閣では、内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に任命される。その後、2007年7月3日、防衛大臣久間章生が自身の失言のために辞任したことにより、後任として就任。女性初の防衛大臣となった。在任中、テロ対策特別措置法の延長問題に関して、民主党が求めている自衛隊派遣に関する国会の事前承認について「国会がチェック機能を果たす観点から1年ごとの(法改正による)延長という仕切りがある。今の制度でも十分役割を果たしている」と否定的な見方を示した。 2007年8月、米下院慰安婦決議可決を受けての日米関係の動揺を防ぐため、第167回国会を欠席して米国を訪問し、国防長官ロバート・ゲーツや副大統領ディック・チェイニーと会談する。野党がテロ対策特別措置法の延長に反対している状況を説明した上で、「これからも引き続き、役割を果たしていきたい」と、インド洋での自衛隊の給油活動を継続する方針を伝えた。国務長官コンドリーザ・ライスとの会談では「私は『日本のライス』と呼ばれているようですが、日本でライスは米(こめ)になります。よって、マダム・スシと呼んでみてはいかがでしょうか」などと英語でジョークを飛ばした。なお、訪米のための国会欠席について8月9日に行われた自民党国防部会などの合同会議で、山崎拓から「いささか当を得ない行動ではないか。今、党はテロ対策特別措置法を抱えている」と批判されている。 イージス艦機密情報漏洩事件について、「防衛省内で誰も責任を取っていない。私は責任を取りたい」として、内閣改造で自身の再任を固辞、離任した。

2008年9月、福田康夫首相の辞任に伴って実施された自由民主党総裁選挙に立候補した。自民党結党以来、女性の自民党総裁選出馬は史上初であった(推薦人代表は衛藤征士郎。選挙責任者は杉浦正健)。ただ憲政史上初の女性総理誕生とはならず、結果は、麻生太郎、与謝野馨に次ぐ3位。党員票は麻生に次ぐ2位であったが、地方票は0票であった。

2009年の第45回衆議院議員総選挙では自民党への逆風を受けて小選挙区では民主党新人の江端貴子に敗れ、比例東京ブロックで復活当選した。政権交代により野党議員となって9月3日、「派閥単位でなく、党全体で結束すべき」として町村派を退会し、無派閥となった。麻生退陣に伴う2009年自由民主党総裁選挙で推薦人に名を連ねた谷垣禎一が当選(首相を兼任しない自民党総裁としては、河野洋平以来2人目)、谷垣総裁の下で党広報本部長を務める。2010年6月9日の自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)設立総会で、相談役に就任した。

2010年9月の党役員人事で、自由民主党総務会長に就任した。党三役に女性が就任するのは結党以来初めてであった。2011年9月退任。

安倍晋三総裁率いる自民党が政権を奪還した2012年の第46回衆議院議員総選挙では、東京10区で前回敗れた江端を大差で破り7選。選挙後、自由民主党広報本部長に就任する。2014年の第47回衆議院議員総選挙で8選。

2016年2月、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシエを受章。

人物[編集]

政党遍歴[編集]

日本新党、新進党、自由党、保守党、自由民主党と5つの政党に所属し、「政界渡り鳥」と呼ばれることがある。ただし、日本新党、新進党は党そのものが解党しており、自発的な離党は自由党および保守党を離党した時である。また、自由党からの離党は自自公連立政権からの離脱の是非を巡り党が分裂したことに伴うものであり、海部俊樹、扇千景、野田毅、二階俊博など小池を含めて26名の議員が共に離党している。これは自由党に残留した側の人数を上回る。

小池は『文藝春秋』(2008年1月号)への寄稿で、「政界再編の荒波の中で生きてきた結果、自慢にはならないが、新党の立ち上げはお手のものだ。党名、綱領、政策、キャッチフレーズに、党名ロゴ作りまで、三日もあればまとめる芸当さえ身に付けたが、もうたくさんである」と回想している。立ち上げから参加した日本新党のシンボルカラーは自身のものと同じ緑である。なお新進党結党時には公式の英語党名として「New Progressive Party」(直訳すると新進歩党)提案したが、異論があり「New Frontier Party」(直訳すると新開拓領域党)となった。2016年7月に東京都知事選挙への立候補を表明した際には、「このところいろいろと私のこれまでの経歴などをご紹介いただく放送などを見ていて、『政党がコロコロ替わる』というようなご指摘もいただいている。しかし、改めて申し上げると、それは政党の離合集散の結果であって、政党名が変わっただけであって、私の主張、思想、そして信念は一度も変えたことがない。改めて思うと、政党というのはあくまで機能体であって、仲間内の運命共同体ではないと思う」と自ら説明している。

防衛事務次官更迭問題[編集]

2007年に防衛大臣に就任した小池は、内閣総理大臣補佐官時代からの懸案であった防衛省の「情報保全」システムの確立を理由に、防衛事務次官守屋武昌を退任させ、警察庁出身の官房長西川徹矢を防衛事務次官に起用する人事案を作成した。しかしこの人事情報が防衛省中枢からマスコミに漏洩され、更に守屋が小池の頭越しに内閣総理大臣安倍晋三や内閣官房長官塩崎恭久に対して直接、人事案の撤回を直訴。塩崎が小池に対し、人事案の再考を求める事態に発展した。小池は人事案の撤回を迫られ、安倍・塩崎らは守屋留任でも西川でもない「第三の(人事)案」を小池に要求して事態の収拾を図り、守屋同様防衛省プロパー(他省庁からの出向ではない、生え抜きの防衛官僚)である人事教育局長増田好平を後任の事務次官に起用する「第三の案」で決着させ、マスコミは「痛み分け」「けんか両成敗」などと評した。なお守屋は事務次官を退任後、山田洋行事件によって国会での証人喚問の後に逮捕、起訴された。小池は「オンナの直感で『これはよろしくない』と思った」と述べた。

「臥薪嘗胆ヘア」と断髪式[編集]

小池は高校時代以来髪を伸ばしたことがなく、一貫してショートカットであった。自民党が政権を失った後、政権に復帰するまで髪を切らないと宣言した。小池は「つらいこと(=伸びた髪)を自分に課そうと思った」と語り、自ら「臥薪嘗胆ヘア」と名付けた。

2012年12月16日に行われた衆議院議員総選挙において自民党が政権に復帰し、小池自身も2期ぶりに小選挙区からの当選を果たした。この結果を受け、同年12月19日、後援会関係者らが参加して「断髪式」が行われた。1年2ヶ月の間切らなかった髪は肩下まで伸びていたが、自民党の河村建夫選対局長や三原じゅん子参院議員ら50人以上が大相撲の断髪式にならって髪にハサミを入れ、元のショートカットに戻った。会場は最初両国国技館での開催を希望したが、都内のホテルで行われた。

その他[編集]

  • 東京都練馬区桜台在住。
  • エジプトに留学していた21歳の頃、日本人留学生の一般人男性と結婚し、離婚している。
  • 小池によれば、顔の頬の部分に痣があり、キャスター時代は化粧で隠すことに苦労したという。都知事選時に石原慎太郎が小池を「厚化粧の女」と発言した際は、「ちょっとぐさっときたかな」と思ったという。小池によれば、猪瀬直樹の後継都知事選挙では、事前に石原から出馬の打診があったという。
  • かつては喫煙者であり、1980年代には高須克弥とともに「愛煙家のためのシンポジウム」に参加し、マスコミの前でたばこをふかすパフォーマンスを披露することもあった。国会議員時代は愛煙家議員連盟もくもく会にも所属していたが、東京都知事になる頃には禁煙をしており、受動喫煙防止の旗振り役を担っている。
  • 1997年末には盲腸の手術を、翌1998年5月には子宮筋腫の手術を受けた。子宮全摘出で3週間入院した。
  • 2006年3月29日、肺炎により40度近い熱を出し脱水症状で入院したが、4月14日に退院して公務に復帰した。 
  • 2014年の第186回国会において、過去に、大臣、副大臣、政務官、補佐官、議長、副議長、委員長の要職にあった衆議院議員で、質問、議員立法、質問主意書のいずれかの提出がなかった24人の議員(野田佳彦、小沢一郎、野田毅、亀井静香、鳩山邦夫、中村喜四郎、浜田靖一、高村正彦、平沼赳夫、丹羽雄哉、額賀福志郎、大島理森、川崎二郎、金子一義、山口俊一、山本有二、大畠章宏、小池百合子、細田博之、塩谷立、渡海紀三朗、林幹雄、伊藤達也、佐藤勉)の一人として紹介されている
  • 2016年に第29回小学館DIMEトレンド大賞では、創刊30年記念として創設された「DIME創刊30周年記念 トップリーダー賞」を受賞。また、「VOGUE JAPAN Women of the Year 2016」 、第45回ベストドレッサー賞(政治部門)を受賞。
  • 2017年4月、アメリカ合衆国の雑誌『タイム』が選ぶ2017年の世界で最も影響力のある100人に選出された。

役職[編集]

  • 特定非営利活動法人中央アジア・コーカサス研究所(理事長)
  • 公益財団法人日本国際フォーラム(評議員、政策委員)
  • 日本ウエイトリフティング協会会長
  • 東京都銃剣道連盟(会長)

所属議員団体[編集]

  • 日本会議国会議員懇談会(副会長)
  • 自民党国際人材議員連盟(会長)
  • 自由民主党資源・エネルギー戦略調査会(顧問)
  • 自由民主党無電柱化小委員会(委員長)
  • 自由民主党税制調査会(副会長)
  • 自由民主党環境・温暖化対策調査会(顧問)
  • 自由民主党安全保障調査会(顧問)
  • 自由民主党観光立国調査会(顧問)
  • 自民党どうぶつ愛護議員連盟(会長)
  • 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(顧問)
  • 国際連帯税創設を求める議員連盟(副会長)
  • 日韓議員連盟
  • 日華議員懇談会
  • 衆議院日仏友好議員連盟(副会長)
  • シリア難民支援議員連盟(会長)
  • 無電柱化推進議員連盟(会長代理)

年譜[編集]

  • 1971年(昭和46年) - 甲南女子高等学校卒業。関西学院大学社会学部に入学(のちに中退)。
  • 1976年(昭和51年) - カイロ大学文学部社会学科卒業
  • 1979年(昭和54年) - 日本テレビ『竹村健一の世相講談』キャスターに就任( - 1985年3月)。
  • 1985年(昭和60年) - テレビ東京『マネー情報』キャスターに就任。
  • 1988年 (昭和63年) - テレビ東京『ワールドビジネスサテライト』初代メインキャスターに就任。
  • 1992年(平成4年)7月 - 参議院議員に初当選(日本新党公認・比例区)。
  • 1993年(平成5年)
    • 7月 - 衆議院議員に初当選(日本新党公認・旧兵庫2区)。
    • 8月12日 - 総務政務次官に就任( - 1994年4月28日)。
  • 1994年(平成6年)
    • 12月10日 - 日本新党解党、新進党結成に参加。
  • 1996年(平成8年)10月 - 衆議院議員に再選(新進党公認・兵庫6区)。
  • 1997年(平成9年)12月 - 新進党解党。
  • 1998年(平成10年)1月 - 自由党結成に参加。
  • 1999年(平成11年)10月5日 - 経済企画総括政務次官に就任。
  • 2000年(平成12年)
    • 4月 - 自由党離党、保守党結党に参加。
    • 4月5日 - 経済企画総括政務次官に再任( - 7月4日)。
  • 2000年(平成12年)6月 - 衆議院議員3選(保守党公認・兵庫6区)。
  • 2002年(平成14年)12月 - 保守党解党、自由民主党に入党。
  • 2003年(平成15年)
    • 9月22日 - 環境大臣に就任。
    • 11月 - 衆議院議員4選(自由民主党公認・比例近畿ブロック)。
  • 2003年(平成15年)11月19日 - 環境大臣に再任。
  • 2004年(平成16年)9月27日 - 内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)を兼任。
  • 2005年(平成17年)
    • 9月 - 衆議院議員5選(自由民主党公認・東京10区)。
    • 9月21日 - 環境大臣・内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策)に再任。
  • 2006年(平成18年)9月26日 - 内閣総理大臣補佐官(国家安全保障問題担当)に就任。
  • 2007年(平成19年)
    • 7月4日 - 防衛大臣に就任( - 8月28日)。
  • 2008年(平成20年)9月 - 自由民主党総裁選挙に立候補。麻生太郎、与謝野馨に次ぐ得票数3位で落選。
  • 2009年(平成21年)
    • 8月 - 衆議院議員6選(自由民主党公認・比例東京ブロック)。
    • 10月 - 自由民主党広報本部長に就任。
  • 2010年(平成22年)9月 - 自由民主党総務会長に就任( - 2011年9月)。
  • 2012年(平成24年)12月 - 衆議院議員7選(自由民主党公認・東京10区)、自由民主党広報本部長に就任。
  • 2013年(平成25年)
    • 4月 - ルノー社外取締役に就任。
    • 6月 - 日本ウエイトリフティング協会の新会長に選任(女性初)( - 2016年9月)。
  • 2014年(平成26年)12月 - 衆議院議員8選(自由民主党公認・東京10区)。
  • 2016年(平成28年)
    • 7月 - 東京都知事選挙に大臣経験がある初の女性国会議員として立候補し当選。立候補に伴い衆議院議員を自動失職。
    • 8月 - 東京都知事に就任(女性初)。
  • 2017年(平成29年)
    • 4月 - 地域政党「都民ファーストの会」の特別顧問に就任。
    • 6月 - 都民ファーストの会代表に就任。
    • 7月 - 都民ファーストの会代表を辞任。特別顧問に就任。
    • 9月 - 国政政党「希望の党」を設立し、代表に就任。
    • 11月 - 希望の党代表を辞任。特別顧問に就任。
  • 2020年 (令和2年)
    • 7月 - 東京都知事選挙に再選。

選挙歴[編集]

当落 選挙 執行日 選挙区 政党 得票数 得票率 定数 得票順位/候補者数 政党内比例順位/政党当選者数
第16回参議院議員通常選挙 1992年7月26日 比例区 日本新党 50 / 2/4
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 旧兵庫2区 日本新党 13万6000票 15.1% 5 2/7 /
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 兵庫6区 新進党 8万9672票 38.3% 1 1/5 /
第42回衆議院議員総選挙 2000年6月25日 兵庫6区 保守党 8万4647票 33.8% 1 1/5 /
第43回衆議院議員総選挙 2003年11月9日 比例近畿 自由民主党 29 / 3/9
第44回衆議院議員総選挙 2005年9月11日 東京10区 自由民主党 10万9764票 50.0% 1 1/4 /
比当 第45回衆議院議員総選挙 2009年8月30日 東京10区 自由民主党 9万6739票 43.3% 1 2/3 4/5
第46回衆議院議員総選挙 2012年12月16日 東京10区 自由民主党 10万8983票 53.7% 1 1/4 /
第47回衆議院議員総選挙 2014年12月14日 東京10区 自由民主党 9万3610票 50.7% 1 1/5 /
2016年東京都知事選挙 2016年7月31日 ―― 無所属 291万2628票 44.5% 1 1/21 /
2020年東京都知事選挙 2020年7月5日 ―― 無所属 366万1371票 59.7% 1 1/22 /

受賞歴[編集]

  • 2016年2月 - フランス レジオン・ドヌール勲章オフィシエ
  • 2021年 五輪オーダー功労章金章

著作[編集]

単著[編集]

  • 1983年5月 『3日でおぼえるアラビア語』 学生社、ISBN 4311700148 / 第2版、1998年10月、ISBN 4311710011
  • 1985年4月 『おんなの人脈づくり サクセスウーマンのPassport』 太陽企画出版、ISBN 4884660749
  • 1994年6月 『永田町ブロードキャスター』 朝日新聞社、ISBN 4022567430
    • 週刊朝日に連載した「永田町リポート」と、書き下ろした「日本新党の行方」を収録。
  • 2007年4月 『小池式コンセプト・ノート プロジェクトは「大義と共感」で決まる!』 ビジネス社、978-4828413518
  • 2007年10月 『女子の本懐 〜市ヶ谷の55日〜』 文春新書、ISBN 9784166606023
  • 2008年10月 『もったいない日本』 主婦と生活社、ISBN 978-4391136609
  • 2009年7月 『ふろしきのココロ』 小学館、ISBN 978-4093878487
  • 2009年10月 『議員と官僚は使いよう』 小学館101新書、ISBN 978-4098250554
  • 2011年6月 『発電する家「エコだハウス」入門』 プレジデント社、ISBN 978-4833419550
  • 2014年9月 『自宅で親を看取る 肺がんの母は一服くゆらせ旅立った』 幻冬舎、ISBN 978-4344026469

共著[編集]

  • 1995年12月 パラダイム・ファクトリー著『日本破局のシナリオ 待ったなし、日本再生構想』 新講社、ISBN 4915872106
  • 2001年8月 相澤英之ほか編『一問一答金庫株解禁等に伴う商法改正』 商事法務研究会、ISBN 4785709553
    • 共編集。他の編集者:長勢甚遠、谷口隆義、金子一義、根本匠、漆原良夫。
  • 2001年12月 『対論:テロは日本を変えたか』 広済堂出版、ISBN 4331508579
    • 古森義久との共著。
  • 2002年11月 山本一太監修『私が総理になったなら 若き日本のリーダーたち』 角川書店、ISBN 4048837877
    • 浅尾慶一郎、安倍晋三、荒井広幸、石破茂、石原伸晃、枝野幸男、大村秀章、岡田克也、小池百合子、河野太郎ほか29名による共著。
  • 2005年4月 環境ビジネスウィメン懇談会編著『環境ビジネスウィメン』 日経BP社、ISBN 4822208575
    • 小池百合子、染谷ゆみ、善養寺幸子、堤恵美子、キャシー松井、薗田綾子、安井悦子、鈴木敦子、枝廣淳子、崎田裕子、谷みどりによる共編著。
  • 2008年7月 TPL著『東京WOMEN大作戦』 小学館、ISBN 9784093877947
    • 小池百合子、猪口邦子、佐藤ゆかりによる共著。
  • 2009年7月 『南地中海の新星リビア 高まる日本への期待』 同友館、ISBN 978-4496045516
    • 畑中美樹との共著。
  • 2013年12月 『異端のススメ』 宝島社、ISBN 978-4800215437
    • 林修との共著。
  • 2015年7月 『無電柱革命』 PHP新書、ISBN 978-4569825120
    • 松原隆一郎との共著。

対談等[編集]

  • 1992年10月 牟田口義郎著『カイロ 世界の都市の物語 10』 文藝春秋、ISBN 978-4-16-509620-7
    • 「ケイオスティック・カイロ」を寄稿。
  • 1993年9月 佐高信著『日本人の死角』 徳間書店、ISBN 4191452908
    • 対談「私は政治改革のモルモット」を収録。
  • 1999年3月 大前研一、政策学校〈一新塾〉著『新しい日本をつくるために私ができることあなたができること』 ダイヤモンド社、ISBN 4478180202
    • 第3章に「政治を変える、日本を変える」 を寄稿。
  • 2001年2月 佐和隆光、浅田彰著『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』 ダイヤモンド社、ISBN 4478200653
    • 鼎談「機能不全に陥った日本型システム」を収録。

監訳書[編集]

  • 2017年 ジョン・コッター、ホルガー・ラスゲバー著、大塚玲奈訳『ナディアが群れを離れる理由』ダイヤモンド社

論文[編集]

  • CiNii収録論文 国立情報学研究所

秘書・支援者[編集]

氏名 小池との関係 肩書
中田宏 元秘書(1992年就任) 参議院議員、元横浜市長、元衆議院議員
中山泰秀 元政策担当秘書(2001年就任) 衆議院議員
荒木千陽 元公設秘書、元私設秘書 元東京都議会議員、元都民ファーストの会代表
野田数 元秘書 東京水道代表取締役、元東京都議会議員
尾島紘平 元秘書、元インターン 東京都議会議員
天風いぶき 元秘書 元タカラジェンヌ
森口つかさ 元秘書(2008年に小池事務所入所) 東京都議会議員
樋口高顕 元インターン 千代田区長
宮内義彦 後援会会長 元オリックスCEO
杉浦正健 「百乃会」代表 元衆議院議員


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