将軍
将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。
古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。
語源[編集]
将軍は中国において発祥した語であるが、その意味は文字通り、「軍をいる」ことであり、軍勢を指揮する司令官の官名として使用されたのがはじまりである。その用例は古くは春秋時代にまで確認することができる。後に「司馬」に代わって軍隊の指揮官の名称として用いられるようになる。漢では将軍職は常設ではなく、臨時の官として任ぜられた。
4世紀〜6世紀には、高句麗・百済・新羅・倭などの諸国が中国王朝(南朝宋ほか)と外交を結び、より位階の高い将軍号を求めて競い合った。
古代[編集]
日本では日本書紀の記述する時代から使われている。中国の南北朝時代の史書には、倭の五王が南朝の皇帝から安東大将軍などの将軍号を受けたり、自称したという記録がある。なお、将軍を和語で訓ずる場合は「いくさのかみ」である。
日本の律令制では、軍防令24条に将軍の規定がある。それによれば、将帥が出征するとき兵一万人以上なら将軍一人、副将軍二人を置く。また、三軍ごとに大将軍一人を置く。しかし実際の任命はこの兵数には基づかず、特に大将軍の下に複数の将軍を置くという形態は一度もとられなかった。将軍は原則として臨時任命であり、任命された事態は、東の蝦夷に対する遠征、南西の隼人や外国に対する遠征、天皇の行幸の護衛、都に来た外国使節や蝦夷・隼人の迎接の四つである。各将軍はそれぞれ異なる称号を冠し、単なる「将軍」だけの官名はなかった。例示すれば、対蝦夷戦では陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍・征狄将軍・征東将軍・征夷将軍など、対隼人戦では討卑賊将軍・征隼人持節度大将軍、外国には征新羅大将軍など、行幸と迎接では左将軍・右将軍・御前騎兵将軍・御後騎兵将軍・騎兵大将軍などである。唯一常設されたのが鎮守将軍(後に鎮守府将軍)で、蝦夷に対する防備についた。
常置された武官には近衛府・兵衛府があり、特に顕官である近衛大将は「将軍」と呼ばれた。唐名には「親衛大将軍・羽林大将軍・千牛大将軍・唐牙大将軍」がある。また兵衛府の次官である兵衛佐の唐名も「武衛将軍」である。
中世[編集]
東国に武家政権を築いた源頼朝は、右近衛大将を辞任してから後、「大将軍」の地位を望んだ。頼朝の要請を受けた朝廷は先例を調査し、1192年に征夷大将軍に任じた。頼朝の継承者である鎌倉幕府将軍は代々征夷大将軍の職にあり、他の将軍職は任じられなかったため、将軍は征夷大将軍の略称として通用されるようになった。将軍は武士の頂点にある存在として認識されるようになり、御所と尊称されるようになっていった。
南北朝時代には鎮守府将軍が復活する。南朝方の北畠親房はわが子、北畠顕家が陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられるにあたり、三位以上の将軍は鎮守大将軍とするように奏請。これにより顕家は鎮守大将軍として記録されている。しかし南朝方の勢力減退に伴い、室町時代においては征夷大将軍である室町幕府将軍の存在のみとなった。この頃から将軍を指して公方と呼称されるようになり、鎌倉公方などの呼称も派生している。
近世[編集]
江戸時代における将軍は征夷大将軍である江戸幕府将軍のみであった。外交呼称として対外的に「日本国王」「日本国大君」を称した場合もある。
しかし、1867年(慶応3年)に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、王政復古の大号令により征夷大将軍の職を廃止された。その後、仁和寺宮嘉彰法親王が征討大将軍に任ぜられたが、短期間で廃止されている。西欧語に借用された shogun は、特に日本の征夷大将軍を指す言葉であり、江戸幕府は英語: Tokugawa shogunateと呼称される。
近現代[編集]
明治時代になって近代軍制が敷かれると、士官は将佐尉の三等に大別され、その最上位の将には大将・中将・少将の三階級が置かれた。この職にあった軍人はときに将軍とも呼称された。三浦梧楼を指す「観樹将軍」、林銑十郎を指す「越境将軍」などがある。また外国の当該階級にある軍人に対しても「将軍」の呼称を使う例が現れた。自衛隊においては幕僚長たる将・将・将補の将官が存在するが、通常将軍とは呼称されない。