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大坂城

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大坂城大阪城(おおさかじょう)は、大阪府大阪市中央区(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった戦国時代の日本の城。現在の天守は1931年に復興された。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。なお、城址を含む一帯は大阪城公園(おおさかじょうこうえん)として整備されている。天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。

概要[編集]

「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。予算の関係で戊辰戦争や空襲で焼失した本丸御殿、櫓、門、土塀を木造復元する予定はない。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。文献等にもよるが、日本三名城の一つに数えられる(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)。

現在は江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復興された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。ちなみに、「おおさかじょう」の表記についてであるが、近代以降「大」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多い。なお「大阪城」は大阪市の町名にもなっている。

歴史・沿革[編集]

上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々この辺りは1098年の難波古地図に描かれてるように、熊野一之王子(現在は天王寺区)、天王寺、高津宮(現在は中央区)、東高津宮(元高津)(現在は天王寺区)、生国魂神社(現在は天王寺区)、坐摩神社(現在は中央区)、難波宮(現在も同じ位置)などがあった地であり古墳時代の古墳もあったと言われている。戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった。

石山合戦終結後の同地は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣した。一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測される 。信澄は本能寺の変の発生後、丹羽長秀に討たれた。その後、清洲会議で池田恒興に与えられるも、恒興がただちに美濃へ国替えとなったため、秀吉の領有となった。



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