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大丸

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大丸(だいまる、DAIMARU)は、J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店である。

また、株式会社大丸(英: The Daimaru, Inc.)は、2010年2月28日までこれを運営していた企業である。

概要[編集]

京都発祥の老舗百貨店で呉服店を起源とする。大阪(心斎橋・梅田)・京都・神戸・東京・札幌に主力店舗を構えており、心斎橋店が本店にあたる。売上高1000億円を超える店舗は存在しないが、主力店舗はどれも比較的高い売上を誇り、この6店舗だけで単体の91%の売り上げを占めている。特に本店の心斎橋店と、神戸店は高級百貨店として関西において高いブランド力を誇る。

1717年(享保2年)に下村彦右衛門正啓が現在の京都市伏見区京町北8丁目77に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服商を出発点として両替商を兼営していた。1726年に大坂心斎橋筋に進出。1728年に名古屋本町に名古屋店を開き「大丸屋」と称した(のち閉鎖)。幕末には髙島屋に対抗して幕府側についた。

1908年11月、個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換。その際に下村家当主であった第11代下村正太郎が早稲田大学商科出身だった縁から、銀行家杉山義雄を専務理事として迎え入れ改革に乗り出した。杉山は専務理事就任時に資本金50万円のうち3万円を出資し、従業員や別家が20万円を出資していたが、約40軒の別家は旧態依然としていたところに杉山が急激な改革を実施。これが古手の店員や別家の反感を買い、さらに不況と重なったことから杉山は退任に追い込まれる。

その後、1910年に東京信託会社の岩崎一が改革案を作成し、ついで大隈重信の斡旋により、日本生命社長の片岡直温が改革に乗り出す。同年秋には東京・名古屋の両店を閉店する一方で、京都・大阪・神戸店を拡張して再建に乗り出した。下村家も秘蔵の書画骨董を売却して約30万円を調達して資力を増強、1911年1月22日に別宅会を解散して積立金を割り戻す決定をした。1914年には大阪店が不渡り手形を出して京阪2店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発したが、幾度もの困難を乗り越え、1928年に大丸と改称して近代化に成功した。

高度成長期は三越(現:三越伊勢丹ホールディングス、同社傘下の三越伊勢丹ほか)と並び「西の横綱」と呼ばれた。しかし、梅田店出店に関する三菱銀行からの借入金など1000億円もの有利子負債を抱え、経営が一時悪化した。1990年ごろには梅田店や東京店の黒字転換が実現し、神戸店の周辺開発を進めたものの、バブル崩壊後に再度業績は低迷。奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組んだ。一方で2003年には札幌店を開店し軌道に乗せている。結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げた。

なお店名の呼称については、通常「〜てん」と案内されるが、近畿圏の各店舗に関しては以前から「〜みせ」と案内されるのが通例である。直営店では、札幌店・東京店は「〜てん」、心斎橋店・京都店・神戸店・梅田店が「〜みせ」と呼ばれている。近畿圏でも同業他店舗は公式には「〜てん」を使っているところがほとんどで、「〜みせ」の呼称は珍しい。ただし阪急百貨店は本店・メンズ館・食品館を除いてすべて「〜阪急」の呼び方に統一しているほか、髙島屋では一部社員が非公式ながら「〜みせ」を使っている。

名物は、餡入りカステラ饅頭に「大」の焼印が押された「大丸饅頭」であった。元々は神戸店で販売していたが、1995年の阪神・淡路大震災で製造機械が壊れて販売中止となった。その後、震災後10年を記念して2005年に1週間だけ再現された。大丸梅田店のほか、博多大丸福岡天神店でも販売していたが、2022年に梅田店でも販売を終えた。

2007年9月3日、東海地方を拠点とする松坂屋との経営統合を発表。共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」(JFR)を設立した。2010年3月1日に松坂屋を存続会社とする合併を行い「株式会社大丸松坂屋百貨店」が発足した。これに伴い法人としての株式会社大丸は解散している。

沿革[編集]

  • 1717年(享保2年) - 下村彦右衛門正啓、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」開業(大丸創業)。
  • 1726年(享保11年) - 大坂木挽町北之丁に大坂店(おおさかだな)「松屋」を開店、現金正札販売を始める(現:心斎橋店所在地)。
  • 1728年(享保13年) - 名古屋本町四丁目に名古屋店(なごやだな)を開店、初めて「大丸屋」を称する。
  • 1736年(元文元年) - 京都・東洞院船屋町に大丸総本店「大文字屋」開店。経営理念を「先義後利」と定める。
  • 1743年(寛保3年) - 江戸日本橋大伝馬町三丁目に江戸店(えどだな)開店。
  • 1748年 (寛延元年) 5月15日 - 創業者の下村彦右衛門正啓が逝去。
  • 1895年 (明治28年) 10月15日 - 3日間大売出し。20円以上買上げ客2000人余に食事を出し、話題になる。
  • 1907年(明治40年)12月 - 資本金50万円で「株式合資会社大丸呉服店」を設立。本店は東京市日本橋区通旅籠町。
  • 1910年(明治43年) - 本店を東京市から京都市へ移転。東京店、名古屋店を閉店。
  • 1912年(明治45年) - デパート形式「京都大丸」開店(現:京都店所在地)。鉄筋木造3階建て。
  • 1913年(大正2年) - 神戸・元町に神戸支店開業。商標マークを改め登録。女子販売員を採用。
  • 1914年(大正3年) - 本店を京都市から大阪市へ移転。京都店を「合資会社大丸呉服店」として分離独立。
  • 1920年(大正9年)4月16日 - 資本金1,200万円で「株式会社大丸呉服店」を設立。本店は大阪市南区心斎橋筋。
  • 1925年(大正14年) - 定款の営業目的を「百貨陳列販売業他」に変更。
  • 1927年(昭和2年) - 神戸店が明石町(現在地)に移転。
  • 1928年(昭和3年)
    • 6月1日 - 「株式会社大丸呉服店」を「株式会社大丸」に商号変更。
    • 12月1日 - 「合資会社大丸呉服店」を「株式会社京都大丸」に商号変更。
  • 1931年(昭和6年)7月1日 - 「株式会社大丸」が「株式会社京都大丸」を吸収合併し、京都店とする。
  • 1947年(昭和22年) - 高知大丸開店。
  • 1949年(昭和24年) - 鳥取大丸を関係百貨店とする。
  • 1949年(昭和24年) - 大丸ドレスメーカー女学院(現:ディーズファッション専門学校)を京都店6階に開校。
  • 1950年(昭和25年) - 下関大丸開店。
  • 1951年(昭和26年) - 別子大丸を関係百貨店とする。
  • 1953年(昭和28年) - 博多大丸開店。文化服装学院がフランスからクリスチャン・ディオールを招き大阪でもファッションショーを開催したことをきっかけに、ディオールと独占契約(1964年まで)。
  • 1954年(昭和29年) - 東京駅八重洲口に東京店開店。初日に20万人が来店。日本初のパートタイマー制を導入。
  • 1959年(昭和34年) - オリジナル紳士服「トロージャン」誕生。
  • 1960年(昭和35年) - スーパーマーケット業態のピーコック産業株式会社(現:イオンマーケット)を設立。
  • 1961年(昭和36年) - 日本の小売業界で売上ナンバー1を達成(1960年下期から1968年下期まで連続)。
  • 1964年(昭和39年) - ジバンシィと独占契約。
  • 1968年(昭和43年) - 発送代行業務の子会社「大興運輸株式会社」設立。
  • 1971年(昭和46年) - 町田店開店。和歌山店開店。米子大丸を関係百貨店とする。
  • 1972年(昭和47年) - 松坂屋と共同配送開始。
  • 1974年(昭和49年) - 今治大丸を関係百貨店とする。
  • 1975年(昭和50年) - 別子大丸を新居浜大丸へ社名変更。
  • 1976年(昭和51年) - デパート業界初の商品のデメリット表示を実施。
  • 1977年(昭和52年) - 新長田店開店。
  • 1980年(昭和55年)
    • 3月1日 - 須磨店と芦屋店が開店。
    • - 町田店を町田大丸へ分社化。
  • 1983年(昭和58年)
    • 3月1日 - CISを導入、新しいマークを制定。
    • 4月27日 - 梅田店開店。
    • - ホームショッピング事業部(現:大丸ホームショッピング)新設。
  • 1984年(昭和59年) - クレジット事業部(現:JFRカード)新設。
  • 1987年(昭和62年) - 神戸店周辺店舗1号店(現:旧居留地38番館)開店。米子大丸閉店。
  • 1988年(昭和63年) - 株式会社大丸クレジットサービス、株式会社大丸ホームショッピング、株式会社大丸情報センターを設立。長崎大丸開店。
  • 1990年(平成2年) - 株式会社大丸友の会を設立。
  • 1992年(平成4年) - 大興運輸株式会社が株式会社アソシアに商号変更。
  • 1993年(平成5年) - 大阪・ミナミのアメリカ村にビッグ・ステップをオープン。
  • 1995年(平成7年)
    • 1月17日 - 阪神・淡路大震災で神戸店が被災。
    • 明石市への出店を断念。
  • 1997年(平成9年)- 神戸店が復興グランドオープン。
  • 1998年(平成10年) - 和歌山店閉店。
  • 2000年(平成12年) - 町田大丸閉店。
  • 2001年(平成13年) - 新居浜大丸閉店。
  • 2003年(平成15年) - 札幌店開店。
  • 2005年(平成17年) - 大丸Dカードを発行。
  • 2006年(平成18年) - アソシア株を日本郵政公社へ譲渡、株式会社JPロジサービスへ商号変更。
  • 2007年(平成19年)
    • 9月3日 - 株式会社松坂屋と経営統合。持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。
    • 京都店「日本生命四条ビル」「京都ダイヤビル」に周辺店舗をオープン。
    • 神戸店「NTT西日本神戸ビル」「ブロック44(神戸御幸ビル)」に周辺店舗をオープン。
  • 2008年(平成20年) - 今治大丸閉店。
  • 2010年(平成22年)3月1日 - 株式会社松坂屋と合併し、新会社「株式会社大丸松坂屋百貨店」発足。存続会社は松坂屋で、法人としての大丸は解散。
  • 2020年(令和2年)3月1日 - 株式会社下関大丸を吸収合併し、下関大丸を直営店化。店名を大丸下関店に改称。

歴代社長[編集]

大丸呉服店社長
  • 11代 下村正太郎:1907年 - 1928年
大丸社長
  • 11代 下村正太郎:1928年 - 1941年
  • 里見純吉:1941年 - 1950年
  • 北沢敬二郎:1950年 - 1963年
  • 井狩彌治郎:1963年 - 1984年
  • 12代 下村正太郎:1984年 - 1997年
  • 奥田務:1997年 - 2003年
  • 山本良一:2003年 - 2010年

創業者 下村彦右衛門正啓[編集]

1688年(元禄元年)、京都伏見京町北八丁目に生まれる。1748年 (寛延元年) 5月15日没。

父・下村三郎兵衛兼誠は摂津国茨木の武将中川氏の家臣の子孫で、大坂の陣の後で商人になった。正啓はその第五子で三男として後継ぎとなり、19歳の時に父祖の古着屋「大文字屋」を継いで行商を始めた。30歳で京都伏見に小店舗を開いたのち、八文字屋甚右衛門と共同出資で心斎橋筋に「下村松屋」を開店、名古屋店から「大丸」を名乗り、1731年から単独経営となった。律儀で誠実な性格で、「現金正札販売」をモットーに豪商となっても先義後利の人であったことから、大塩平八郎の乱の際にも義商であるとして襲撃を免れたと言われる。

背が低く頭が大きく、耳たぶが垂れ下がった風貌で、人情に厚く商売を成功させたことから、「福助人形伝説」の一人として伝えられるようになった。

経営理念「先義後利」[編集]

創業者の下村彦右衛門正啓が、1736年(元文元年)、大丸総本店「大文字屋」開店時に定めた経営理念。

先義(而)後利(者栄)=義を先にして利を後にする者は栄える。

「義」とは「商売における正しい道」「公共のために尽くす気持ち」を意味し、「顧客第一主義に徹すれば、利益は自ずからついてくる」という考え方に徹した。

下村は毎年冬になると施餓鬼(せがき)として、貧しい者に食べ物や古着や金銭を施し、人の集まる寺社に大丸マークつきの灯籠や手ぬぐいを大量に寄付するなど、今で言うボランティア活動を行って利益を社会還元していた。

このため1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱では、百姓一揆により利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちに遭っていたのに対し、「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じていたため、焼き討ちを免れたと伝えられている。

この精神は、現在も大丸の企業理念として継承されている。

商標大丸マーク[編集]

創業時の「大文字屋」の名は、京都五山の送り火の「大文字」にちなんで付けられた。名古屋進出にあたり「丸」の中に「大」の字をあしらった商標を使い始め、広く一般に「大丸」と呼ばれるようになった。「丸」は宇宙を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、「天下一の商人になろう」という志を示した。

江戸進出に際しては、このマークを染め抜いた萌黄地の風呂敷を大量に作り商品を包んで運んだ。その風呂敷が派手で非常に目立つものだったため、江戸っ子の間で話題となり、開店前から多くの人に認知されるようになった。風呂敷自体が江戸前期には銭湯に行くときにすら使われていなかったのにもかかわらず、大流行することになった。

大丸屋江戸店での風呂敷の売上は、1750年(寛延3年)には14,500枚だったが、1828年(文政11年)には60,670枚と4倍に増加。商人ばかりでなく、一般庶民が品物を運ぶ際に使う当たり前の道具として定着することになった。かくして大丸屋は、越後屋(現:三越)、白木屋(現:東急百貨店)と並ぶ江戸三大呉服店と称されるまでになったのだった。

1913年(大正2年)に類似商標と区別するため、おめでたい「七五三」にちなんで「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本のひげをつける改定を行って登録、以来70年に渡って親しまれた。

1983年のCIによりシンボルマークは「孔雀(ピーコック)」をデザイン化したものに変更され、現在に至っている。ただし正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」で、呉服の包装・一部店舗(心斎橋店・南館屋上や下関店など)の外装にも残されている。

2010年3月の大丸松坂屋百貨店の発足後は、各店の正面入口脇の店名の銘板の表示も、「丸に大」のマークと「大丸 創業1717年」と記されるようになった。ちなみにそれ以前の銘板は、上部に「丸に大」のマークが孔雀の羽で縁取られ、その下に「株式会社大丸 The Daimaru, Inc. 」と記されたものであった。特に心斎橋店のものは「創業1717年」の文言が当初から記されていた。なお、梅田店の正面入口の銘板は孔雀をモチーフとしたCIマークに「DAIMARU UMEDA」と記されたものであったが、2011年4月19日の増床グランドオープンに合わせ「丸に大」のマークのものに変更された。

日本国外ブランドの独占契約・プライベートブランドの開発[編集]

大丸は積極進取の側面もあり、早くから日本国外ブランドとのライセンス契約や、プライベートブランドの開発も行ってきた。ただし、新・百貨店モデルへの移行により、プライベートブランドはほぼ廃止されている。

クリスチャン・ディオール[編集]

1953年(昭和28年)にクリスチャン・ディオールと独占契約を結び、ライセンスによる国内生産が始まった。店内に「ディオール・サロン」を開設、輸入されたディオールの型紙を使用し、自社でオーダーメイドの服を製造した。そのお披露目として、大阪、京都、神戸で初のファッションショーも開催している(東京初のファッションショーは1927年の三越銀座店)。これは日本初の海外デザイナーとの提携となり(従来は外資法により禁じられていた)、他の百貨店も追従したばかりではなく、アパレル業界全体に広がっていった。

買付と京都地区での製作を担当した礒村春を校長として、その洋裁教育を伝搬すべく、大丸ドレスメーカー女学院(現:ディーズファッション専門学校)を京都店6階に開校した。

1964年からはカネボウがディオールの独占販売権を獲得、1997年秋からはクリスチャン・ディオール・ジャポン社が独自に店舗展開を開始。現在、大丸各店にはショップを出店する形(鳥取を除く)になり、大丸以外の百貨店にも出店している。

ジバンシィ[編集]

ディオールと入れ替わりに1964年からジバンシィと独占契約。オードリー・ヘプバーン御用達ブランドで、長らく大丸の顔ともいうべきブランドだった。

独占契約の関係により、12代目下村正太郎は日産・ローレル ジバンシィバージョン(C31型)を保有しており、1983年にユベール・ド・ジバンシィとオードリー・ヘプバーンが大丸でのイベントのために来日した際には移動用車両として使われた。その後、長らく大丸ヴィラにてナンバーがない状態で保管されていたが、2022年に日産自動車へ寄贈されヘリテージコレクションに収蔵されている。

紳士服トロージャン[編集]

トロイの戦士」を意味する大丸の紳士服で、日本で最初のプライベートブランドである。1959年に開始され、既製紳士服の先駆けとなった。十字屋提携時代は十字屋・清水屋でも取り扱いがあった。J.フロント リテイリングになってからは松坂屋でも取り扱うようになった。

当時の日本には、既製服製造のための大規模な工場が少なく生産効率が低かった。このため既製服のサイズは「特大」「大」「中」「小」の4種類に限定されており、紳士服はテーラーで注文して作ることが一般的だった。

大丸は「日本人の体型によりフィットする洋服」として開発すべくアメリカ既製服界に精通し、自らもテーラーを経営する奈古済一(なこせいいち)を招聘し技術指導を要請した。当時最新鋭の20数種のプレスマシンなどの技術を導入し、アメリカ式の流れ作業のシステムで製造工程の合理化を行った。

サイズの呼称も、「Y体」「A体」「AB体」「B体」など29種類を展開したのもトロージャンが初で、それが業界全体に広がることになった。日本人の前屈体型にフィットさせるため肩の形状も変更し、これに合わせて湾曲したハンガーも開発した。これも業界初の試みだった。

発売時の価格は、ウール100%の生地を使用したスーツで13,000円からで、オーダースーツと変わらない価格水準で大成功を収めた。

CMには、1966年にダーク・ダックス、1970年代はジュリアーノ・ジェンマなどを起用し話題を呼んだ。晩年にも「お台場仕立て、脇ざし、尻シック、キュプラ裏地」などワンランク上の仕様を採用するなど、進化を続けていた。しかし、2020年夏に突如取り扱いを終了した。[要出典]



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