吹き替え
吹き替え(ふきかえ、吹替)は、
- 劇映画などで俳優の演技の一部を他の者が成り代わって演じること。危険な演技、性的な演技、楽器演奏や歌や台詞などを俳優より優れた演者で代替する。スタントの分野ではスタントダブル (stunt double) と呼ばれる。
- 劇映画などで台詞の音声を別の言語に差し替えること。アフレコ。例えば、異なる言語の市場で上映・販売するため映像はそのままに元の台詞を市場に合わせた言語に変える。
代役[編集]
草分け時代の無声時代の映画では、危険な場面も俳優自らが代役なしで演じることが活動写真の面白さと考えられた。ハリウッドの三大喜劇俳優チャップリン、ロイド、キートンは「替え玉」を使わず、すべて本人がアクションを演じたことで人気を博した。映画製作会社が企業として健全な歩みを踏み出した頃から、商品価値のある俳優を大切に扱うという意味と、映画スターが芸術家の仲間入りをしたという二つの理由から「替え玉」、「吹替え」という新しい職業が生まれた。
こうして「俳優の代わりを別の俳優が演じる」という、映画における「吹替え」は、トーキー時代に入ったハリウッド映画界で始められた。この時代の著名な「替え玉俳優」にはリチャード・タルマッジ(Richard Talmadge)がいる。ハリウッドでは「吹替え俳優」のことを、これを主題とした1933年のRKO映画『Lucky Devils』(日本公開題名『幸運の悪魔』)から採って、「lucky devil」と呼ばれた。
タルマッジはダグラス・フェアバンクスの替え玉からスターになった俳優だった。のちに主演作を得てフェアバンクスよりも人気が揚がっても、フェアバンクスの映画では必ず替え玉を演じた。その義理堅さはハリウッドでも美談として評判となり、日本にも伝えられた。
日本映画界でこの「吹替え」が採り入れられたのは10年ほど遅れてのことで、当時は「替え玉」とも呼ばれた。このようなアクションシーンだけでなく、撮影日程や俳優のスケジュール事情から吹替え俳優が使われることは多数あったが、大河内傳次郎や阪東妻三郎といった昔の俳優は、どんなに遠くて顔の見えないショットでも「自分の形の見せどころだ」として吹替えは使おうとしなかった。
1959年(昭和34年)の大映の柔道映画『講道館に陽は上る』(田坂勝彦監督)で俳優デビューした本郷功次郎は、自身が柔道家であることから、野外ロケで菅原謙二に投げられる場面で吹替えを断り、自ら7本連続で投げられてみせた。田坂監督はこれに狂喜し、また、これを聞いた永田雅一社長も大喜びして「この男(本郷)をスターにしろ!」と至上命令を下したという。本郷によると当時柔道映画ではすべて吹替えが使われ、本当に柔道技で投げられる俳優はいなかったという。
日本の吹き替え俳優[編集]
トーキー時代の日本での「吹き替え俳優」、「替え玉俳優」としては、松竹蒲田では押本映二、勝見庸太郎、日活では南光明、鈴木傳明、広瀬恒美、マキノ映画では高木新平、隼秀人といった俳優がおり、「冒険俳優」や「鳥人」といったキャッチフレーズで売り出した。
隼秀人は「映画スタア」になりたい一心で、神戸の商館ビルとビルの間にピアノ線を張って、安全具なしのぶっつけ本番で綱渡りを行ったが、このピアノ線は隼が私費で購入し、線を張ったのも本人だった。マキノ映画の鷹羽恵一郎は「替え玉」専門の俳優だったが、京都妙心寺の中門からの飛び降りで脚を骨折し、俳優を辞めて助監督となった。
日本で初めて火達磨になっての吹替えを演じた俳優は中島春雄である。中島が吹替えを演じた昭和20 - 30年代の映画界には、まだ「スタントマン」という言葉は無かったという。