名古屋城
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)にある日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
概要[編集]
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城した。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城だった。
大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭では「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金鯱は城だけでなく名古屋の街の象徴である。本丸御殿は元離宮二条城の国宝・二の丸御殿と並ぶ武家風書院造城郭御殿の双璧と評価されていた。
大小天守、本丸御殿の一部は昭和戦前期まで残存していたが、1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している)。戦後に天守、門が鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園の南園として整備されている。
現在、名古屋城の全体整備計画があり、整備計画では史跡としての名古屋城の保存活用と価値を高めたいとしている。2023年現在、計画されている整備計画では、天守閣の木造復元の整備、東北隅櫓の復元整備、本丸表一之門と本丸東一之門と本丸東ニ之門と二之丸の門、二の丸大手ニの門渡櫓の復元、馬出の復元、本丸多聞櫓の復元、二之丸庭園の保存整備と二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、大手門・東門、埋御門と二之丸の櫓の復元整備、展示収蔵施設の整備、御園御門、清水御門、東御門の復元整備、石垣補修などである。
歴史・沿革[編集]
戦国時代[編集]
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。
1538年(天文七年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。
江戸時代[編集]
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めた。この名古屋への移転には木曽川や庄内川を外堀として利用する防衛目的もあったと考えられ、移転決定と前後して木曽川には「御囲堤」、庄内川には「御囲禍堤」が建造されるなど治水工事が進められた。1610年(慶長15年)閏2月、未だ大阪城には豊臣秀頼が居る中、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始された。
造成・整地に当たる普請は普請奉行に滝川忠征、佐久間政実、牧長勝ら5名が任ぜられた。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し、延べ558万人[要出典]の工事役夫で8月末には天守台が完成し、9月頃には石垣を大方積み終え、遅い所も同年暮れまでには完成している。
普請の後、建築に当たる作事は、事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が当たり、大工頭は中井正清が担当したが、当時の正清は内裏や方広寺大仏殿の建築も担当したため、正清の手代衆が現場の監督をした。作事は普請と並行して材木の調達が行われ、1612年(慶長17年)6月から本格的な建築工事が始まる。しかし家康から御殿より先の完成を命じられた天守の建築は、用材調達が遅れたため壁塗りに支障が生じる冬期までの完成が危ぶまれた。このため、正清は内裏や大仏殿の大工を一時的に呼び寄せてた上、自身も名古屋に出向き突貫工事を行った。結果として8月下旬に天守用の金物入札が行われた後、11月上旬に懸案の壁塗り工事が完了し、同21日には上棟式を実施し年内に天守は完成した。金物入札時期から組立工事は3ヶ月弱しか掛かっておらず、短期に完成した。本丸御殿の建築は、同年正月から始まり、完成したのは1615年(元和元年)2月である。
そして大坂冬の陣後の1615年4月、義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ家康も駿河からそれに出席するが、その最中に豊臣方挙兵の報が入りそのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼしている。
清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110か寺も移る徹底的なものである。こうして名古屋城の城下町は出来上がっていった。
また1615年に完成した本丸御殿だが、二の丸御殿が1617年に完成すると1620年に義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして1626年(寛永3年)に大御所徳川秀忠が、1634年(寛永11年)に、徳川家光が上洛の途中で立ち寄る。特に家光の御成の際は本丸御殿が大々的に増改築される。だがその後長い間将軍の御成は無かったか、1865年(慶応元年)に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に宿泊している。宿泊は1泊のみで入城の翌日には名古屋城を出発した。
近代[編集]
明治維新後の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントと日本陸軍第四局長代理だった中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。
1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)に名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。
1893年(明治26年)本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。
1906年(明治39年)名古屋離宮、一日限り特別公開する。
1910年(明治43年)小天守閣、隅櫓に旧江戸城の青銅鯱を移設する。
1923年(大正12年)宮内省が西南隅櫓を修復する。
1928年(昭和3年)昭和天皇の即位礼大典が京都御所で執り行われることに伴い、お召し列車(賢所乗御車を含む)を用いた東京の宮城~京都間の往路・復路に於いて昭和天皇及び香淳皇后が名古屋で途中下車して宿泊のため、名古屋離宮に滞在した。
1930年(昭和5年)離宮、御用邸の整理計画の中で名古屋離宮が廃止され、宮内省から名古屋市に下賜された。同1930年、建造物(24棟)が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定された。城郭としては国宝第一号。本丸御殿障壁画も1942年国宝(旧国宝)に指定。
1931年(昭和6年)名古屋市は名古屋城を市民に一般公開した。「恩賜元離宮」とも呼ばれた。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売却を図り発覚して1月28日に警察に逮捕された。
太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。
現代[編集]
戦後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年(昭和34年)に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、資金難で中止も検討された。
- 1994年(平成6年)5月14日 - 市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が設立された。
- 2002年(平成14年) - 名古屋市が本丸御殿復元の「名古屋城本丸御殿積立基金」寄附募集を開始した。
- 2007年(平成19年) - 本丸御殿の復元工事を文化庁が許可。
- 2006年(平成18年)4月6日 - 財団法人日本城郭協会によって日本100名城(44番)に選定された。
- 2009年(平成21年)
- 1月19日 - 本丸御殿復元工事に着手。
- 8月10日 - 河村たかし市長は定例記者会見で、名古屋城天守を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。計画プロジェクトチームを8月24日に発足させて2010年度予算案に調査費を計上する。
- 2011年(平成23年) - 西南隅櫓と旧二之丸東二之門が修理された。
- 2013年(平成25年)1月4日 - 名古屋市は、2013年度から名古屋城の天守を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。これまでに2010年度予算案で調査費1500万円を計上し、2012年(平成24年)3月に市民検討会を催した。復元費用の試算は300億円で、寄付金を含め調達方法を検討する。
- 2016年(平成28年)
- 6月27日 - 市長と市会が、天守の再建につき完成予定を2027年とすることで合意した。後に竣工予定は2022年とされた。工費は試算で約500億円だが圧縮を検討する。
- 10月12日 - 市長が天守閣は耐震性能が低いとして入場禁止にする意向を示した。
- 2017年(平成29年)4月24日 - 木造復元の賛否などを焦点とした市長選挙で河村市長が再選される。
- 2018年(平成30年)
- 5月7日 - 工事に先立ち天守閣の入場を禁止する。
- 6月8日 - 復元された本丸御殿の一般公開を開始。
- 2019年(平成31年/令和元年)
- 6月21日 - 2022年12月に木造天守閣の復元が竣工する予定だったが、文化庁の文化審議会に諮問されていたコンクリート製現天守の解体申請が許可されず継続審議となり名古屋市は工期を見直す方針を示した。
- 8月29日 - 市長の河村は、予定していた2022年末の復元天守閣完成を断念すると発表した。
- 2023年(令和5年)3月 - 名古屋市は木造天守閣の工期を見直しで、具体的な完成時期を最短で2032年(令和14)度ごろになる見通しを初めて公表した。これは今後の工事の着手に必要な手続きや、その後の工事が想定通りに進んだ場合としての目安であるため、多少のずれが生ずる恐れもある。