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吉田拓郎

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吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年〈昭和21年〉4月5日 - )は、日本のフォークシンガー、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ、広島県広島市育ち。

人物[編集]

竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある。

妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1984年)。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。

来歴[編集]

父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため、吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らした。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄1人、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれた。1952年春、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し、谷山小学校に2年生まで在学した(歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し、9歳小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育った。1955年4月、広島市立皆実小学校へ転校。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が、夏休み等に女性同伴で帰省したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったという。このため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、安価なウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦。1962年、広島皆実高校に入学(後輩に奥田民生ら)。友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めた。自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した。拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べている。

1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成。ボーカルとギターを担当した。当時はザ・ベンチャーズのコピーバンドが多く、歌えるアマチュアバンドは珍しく、ライブハウス・広島ACBに出演した際には「歌うエレキ・グループ登場!」と書かれた。同バンドは広島で最も人気があったグループ・サウンズ(GS)といわれ、1965年年秋に初コンサートを開催。R&Bが主なレパートリーだったが、ビートルズのコピーほかオリジナル曲も10~15曲程度あった。オリジナルの一つが拓郎作詞・作曲による「たどりついたらいつも雨ふり」の原曲「好きになったよ女の娘」である。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、フォークソング・ブームが始まった時代でもあり、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至った。

アマチュア期[編集]

バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌った。1966年大学2年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱、中国大会2位、全国3位となった。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され、広島市内の繁華街・本通りを歩くだけで「拓郎だ! 拓郎だ!」と、人だかりができるほどの広島で有名人となったが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。 ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い、中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで「イメージの詩」を歌う。演奏終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた。拓郎自身は、明確な政治的イデオロギーを持っていなかったとされるが、「イメージの詩」には70年安保敗北後の時代の空気が色濃く滲む。

1969年には、ギター教室のアルバイトをやっていたカワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。

1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし、拓郎の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散。広島フォーク村の仲間たちに広島駅ホームで、胴上げ、万歳三唱されて見送られ、寝台特急あさかぜで上京した。

よしだたくろう期(1970年 - 1974年)[編集]

エレック所属期[編集]

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職した。エレックはまともな仕事は取ってこられず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした。6月1日、当時のシングルとしては異例の7分弱の長尺シングル「イメージの詩/マークII」で正式にデビュー。吉田拓郎と広島フォーク村は、この1曲によって世に知られるようになったとも言われる。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用された。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる。12月15日公開の日活映画『女子学園 ヤバい卒業』(夏純子主演・沢田幸弘監督)の劇中、「青春の詩」を歌唱。1971年8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。サブ・ステージで六文銭とともに「人間なんて」を延々と唄い続け、それまで「関西フォーク」中心の流れに対峙する存在として認知される。10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。同月、『バイタリス・フォーク・ビレッジ』(ニッポン放送)のパーソナリティに就任。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期[編集]

1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結んだ。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり、画期的な「音楽シーン」を作り上げる第一歩を記した。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しい生活様式を表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ、7月1日に発売したシングル「旅の宿」が8月7日付けでオリコンチャート1位を獲得。この週から5週間1位を続けるが、二週目の8月14日付けでアルバム『元気です。』がオリコンアルバムチャートで1位を獲得し、以降連続14週(通算15週)トップを独走したため、8月14日~9月4日まで、拓郎作品がシングル・アルバムの両チャート1位を独占する偉業であった。拓郎初のエッセイ集『気ままな絵日記』は『元気です。』と同じ月に出ていることから、みうらじゅんは「これがメディアミックスの始まりでないか」と述べている。またバックバンドだった猫をデビューさせたり、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていった。

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕された。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが、デビュー直後に執拗な「帰れコール」を浴びせた男性ファンが戻ってきた。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した。「襟裳岬」は、歌謡曲やフォーク系などの様々な音楽ジャンルの境界を融解させた。

吉田拓郎以降[編集]

フォーライフ・レコード設立[編集]

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットした。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなった(拓郎5位、陽水7位)。

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコード』を発起した。これを機に「吉田拓郎」と改名した。9月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表した。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる。

8月2日から3日、静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催。

1976年3月28日、TBS「サンデースペシャル」「セブンスター・ショー」のトリを務めた(後述)。

4月にフォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月に浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した。

1981年4月5日、資生堂81夏のコマーシャルソング「サマーピープル」リリース。

フォーライフ・レコード社長を退任[編集]

1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された。

1983年6月、女優・森下愛子との不倫騒動が流れ、同年10月に浅田美代子が芸能界へ復帰した際は、共に自身2度目の離婚を否定していた。しかし翌1984年8月、浅田との協議離婚を発表した。

1985年6月15日には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋』を開催した。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年、日本民間放送連盟は民放ラジオ放送30周年を記念して、この30年間を代表するスーパースターベスト10を選び、総合ベスト10で、拓郎は、ビートルズ、長嶋茂雄、美空ひばり、チャップリン、王貞治、エルビス・プレスリーに続く第7位に選ばれた(8位は山口百恵、9位はジョン・F・ケネディ、10位は高倉健)。

1986年12月に森下愛子と結婚。

テレビ出演の増加[編集]

1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行った。

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する。

新潟県吉田町の有志団体「若者共和国」からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで[編集]

1999年9月30日にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍した。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となったが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavex traxに移籍する。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10か所10公演予定)が始まったが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となった。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された。

2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにした。これにより同年6月29日発売のアルバム『ah-面白かった』が最後のCDリリースとなり、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も12月16日で終了した。また、7月21日に『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(フジテレビ)が放送され、これを以て拓郎自身最後のテレビ出演とされた。

2023年2月18日に『オールナイトニッポン55周年記念 オールナイトニッポン55時間スペシャル』に出演。

シンガーソングライターとして[編集]

音楽性[編集]

政治性を排除[編集]

拓郎は自身の詞について「作詞ってそれまでは月がどうした、星がどうとか、花鳥風月みたいなので大袈裟な詞が多かったんだけど、急に自分の身の回りのことばっかりをテーマにするようになったから絵日記みたいでつまんないって言われた時期があった」と回想しており、自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”を浴び、石を投げられることもあった。「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した。

1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであった。またビール瓶などモノを投げつけられ一曲も歌わず、本当に帰ることもあったという(慶應三田祭事件、日比谷野音)。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターで、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた。断ったが『月刊明星』から「表紙をやりませんか」と言われたこともあったという。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った。拓郎ほど世間と戦い続けた歌手はいない。

反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やし、時代の流れは確実に拓郎の提示した新しいスタイルに流れていった。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた。北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と、寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという拓郎の"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」、菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」、高護は「吉田拓郎の登場によってフォーク・シーンは新たな展開を迎えることになる」と論じた。拓郎の自作自演の歌や硬派な振る舞いは、現実や体制に打ちのめされた若者たちの心を「救済」していく。スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けた、がしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」と評した。60年代のカレッジフォークや社会派フォークとは全く異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった。筒美京平は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている。萩原健太は「一大勢力を誇っていたメッセージ色濃い関西系フォークは、中津川フォークジャンボリーのあの忌まわしいイベントの失敗と相前後する形で姿を消した。代わって小さくて安全な夢に彩られた歌が人々の心を惹きつけ始めた。"フォーク"は"ニューミュージック"へと衣を替えていくが、吉田拓郎は時代の変わり様を全身で感じながら、ただ一人過激に疾走を続けた」と論じた。『深夜放送ファン』1974年4月号は「和製フォークを確立した吉田拓郎」と称した。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている。小森陽一は「吉田拓郎・井上陽水・小椋佳・松任谷由実の"反革命四人組"が垂れ流した徹底して自己完結した私生活主義的な歌世界が一気に社会全体を覆った」と論じた。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている。富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている。

自作自演スタイルの一般化[編集]

ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのアコースティック・ギター(1967年製のギブソンJ-45)、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌う、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた。当時の拓郎たちフォークシンガーのイメージはパンタロン。泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている。「日本語って、こんな生き生きとメロディに乗せられるものだったのか!」と多くの若者は驚嘆した。拓郎は一貫してメロディに乗せた"言葉"によって時代を吐き出し続けてきた。拓郎ほどその生き様と歌がぴったり一致しているアーティストはいない。

それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった。桑田佳祐は「拓郎さん目標に、憧れて音楽やってきた人、私もそうですけど、いっぱいいます。私は高校1年の時ですよ、『元気です。』『人間なんて』…その風を真正面に受けて、夢を見せてもらいました」等と述べている。松井五郎は「自分でバンドを組んで音楽をやるようになったのは、井上陽水さんや吉田拓郎さんのようなシンガー・ソングライターによるフォーク・ムーブメントがきっかけで、拓郎さんのモノマネというか、身近な恋の話をテーマにした歌を作り始めました」と述べている。柴門ふみは「当時の歌謡曲の男と女の色恋沙汰は、夜のネオン街にしかないような世界観で。そこに拓郎さんが、もうちょっとポピュラーな心情、若者のリアルな恋愛感情までも歌った。だから私を含めて若者たちは『これは私たちの音楽だ』と飛び付いたのです。拓郎さんの影響力は大きくて、同級生の男の子たちはギターを弾き始めてましたね」と述べている。原田真二は「吉田拓郎というアーティストは、時代を築いた偉大な方です。個性の強い声や歌い方、オリジナリティーあふれる音楽の世界。女性、男性を問わず幅広いファンに、時代を超えて今も支持されています。すごいとしか言いようがありません」等と評している。スージー鈴木は「若者にギターを持たせ、『自分の言葉で歌っていいんだ』と思わせたのは、拓郎の最も大きな功績。日本人が自分の言葉で歌詞を書き、メロディを作って歌う『Jポップ』の礎を作ったのが拓郎と言える」と論じている。拓郎の影響でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた。男の子は勿論、女性のギター人口「ギター女子」をも増やした。竹内まりやは「音楽の入り口は拓郎さんのデビュー曲『イメージの詩』だったんですよ。センセーショナルでしたよね!、当時の女の子はアイドル的にみんな拓郎さんが大好きでした」等と話している。

ニュー・フォーク[編集]

『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌い上げている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された。1972年頃の文献には、拓郎を「ニュー・フォーク」の旗手と紹介した記事が見られる。『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが、これらは拓郎登場以降の呼び方である。ミッキー・カーティスは、拓郎がブレイクした当時の『ニュー・ミュージック・マガジン』1972年5月号で、「今の吉田拓郎なんかにも日劇の熱狂が繋がっているよ。最初はプロモーションもなかったし、マスコミの力も強くなかったから、宣伝力じゃなく、歌手たち各個人個人が、それぞれの区域のジャズ喫茶で、一人づつ獲得していったファンの集大成だったんだ。若い人のエンタテインメントの過渡期で、ちょうど次のパターンの段階で、タイミング的にピッタシだった」と論じた。小川真一は「吉田拓郎を一語で評するなら『イノベーター』でしょう。まだ、文語調の歌詞が残っていた時代に、終始、自分(ミー)のことしか歌わない姿勢は新鮮でした。『イメージの詩』など初期の曲についても拓郎本人は『ぜんぶ自分のことを歌っているのであって、他人へのメッセージではない』と語っています。そう言い切れるのが、拓郎の強さだと思います。『結婚しようよ』で日本の歌謡界は、米国のポップスとようやく肩を並べることができたと思います」などと論じている。

拓郎がヒットを連発するに及んで、各レコード会社もプロダクションも競ってシンガーソングライターの売り出しにかかった。拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった。

なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」、「拓郎の成功以降、レコード会社もフォーク調の曲を出せば売れるということに目をつけ、各社こぞってアイドルや歌謡歌手にフォーク調の曲を提供し、フォークは気骨があった精神を希薄なものにしていった」と述べた。中川五郎は「1970年代に入ってフォーク・ソングが変わっていって、もちろん高石ともやさん、岡林信康さんとかの時代から乱暴な言い方をすれば吉田拓郎さんとかが出現して、井上陽水さん、かぐや姫とかフォーク・ソングがかなり違うものになって、呼び方もニューミュージックみたいになったりした。そうすると60年代のようなプロテスト・ソング、メッセージソングは時代遅れというか、『まだそんなの歌っているの?』って言われるようになった」と述べた。拓郎は自身を中心とした1972年のフォークブームについて「フォークブームは起こるべくして起こったものだ。ファンが熱狂する場を作ったのがわれわれで、他の歌にはそんな要素がなかったってことだ」と述べた。森山良子は「吉田拓郎さん抜きでは私の中に日本のフォークは存在しません。若かりし頃の私が歌っていたのはあくまでもアメリカンフォークであって、それをコピーしていたに過ぎないのです。そんな私の前に現れた吉田拓郎は、この人、何をしようとしているんだろう? と若干脅威だった。吉田拓郎は、ここからフォークブームを表面ではなく、本当の自分を自分の言葉でハッキリ強く歌にしてメッセージを送った。日本の若者たちに音楽を通して揺さぶりを掛けた、そんなエネルギーに溢れていた」と評した。小室等は著書で「フォークが売れるというのは吉田拓郎から始まった」と述べている。井上陽水は「フォークシンガーは沢山いるが、それを全国区にしたのは吉田拓郎。みんなその後に続いている」と評した。エレックレコードで拓郎と二枚看板だった泉谷しげるは「吉田拓郎は旋風児で、アイドル的なものがあって、本人はアイドルになりたかったんじゃないかなって未だに思ってるね」と述べている。谷村新司は「我々の時代を切り開いて来てくれたかけがえのない先輩」と拓郎を評した。織田哲郎は「拓郎さんは圧倒的な存在。音楽業界というより、日本の若者文化の一番のスターだった」と評した。坂崎幸之助は「拓郎さん以降は、フォークギター持って歌っていてもフォークではないです。皆さんに愛されるPOPSです」と論じている。

1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり、拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく。中村とうようは「70年安保を境にシラケという語が広くささやかれ、フォークソングの商品化がさらに進んで吉田拓郎の「結婚しようよ」がヒットしたころには、フォークソングはニューミュージックへと変質をとげるに至った」と論じた。

影響を受けたミュージシャン[編集]

洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカ、コニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった。
ボブ・ディラン
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られる。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している。
"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫び回ったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという。日本におけるボブ・ディランの最大の普及者でもある。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹やみうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話している。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売している。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である。
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ (Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという。
パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている。
デビュー当時、東京にカレッジ・フォーク、関西に関西フォークがあったため、「広島のフォークソングがあったっていいじゃないか」という強い思いがあった。関西フォークは元々が嫌いだったから、関西フォークを研究し、関西フォークは、"私たち""ぼくたち""きみたち"という歌詞が多いことに気づき、それで、"私""ぼく""きみ"という私的な、個的な歌詞の歌を作ろうと決めた。拓郎と同い年の岡林信康は「私たち」と歌ったが、拓郎は「私」と歌った。「連帯」を求めた岡林に対して、「私たち」なんて幻想に過ぎない、と言わんばかりに、徹底して個にこだわった。「イメージの詩」は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している。こうして「関西フォークの流れ」と一定の距離をとりながら、音楽アーティストしてのアイデンティティを確立していく。

作詞法[編集]

字余りの作詞法[編集]

曲作りに多用した字余り字足らずという作詞法は、日本に於けるその元祖といわれ、後のシンガー・ソングライターに多大な影響を与えた。それまでの日本の歌謡曲やポップスは、音譜1つに1つの字、とぴったりハマっており、多少の字余り、字足らずは気にしない言葉を自由にメロディに載せる、あるいは日本語の歌を強引に捻じ曲げるという手法は当時は革命であり、これは拓郎によって始まったものである。字余りソングは当時顰蹙も買ったが、それはメロディを超えて、訴えたいことがたくさんあったからである。そのオリジナリティは半世紀近いキャリアを経た現在でも、全く衰えることはない。

拓郎はこの字余り、字足らず詞の創作について、1974年の芸能誌で言及しており、「言葉が七五調にすっぽりおさまっちゃうというのは、どこかにインチキがあるんじゃないかな。それには当てはまらない心のつぶやきとか、はみ出してくる感情のたかまりというものがあるはずでしょう。それは字余り、字足らずでなきゃ表現できないと思う」と述べた。小田和正は「昔は見よう見まねで歌詞を書いていた。でもある時、字余りソングみたいなものが出てきた。その象徴が吉田拓郎で、新しいものが出てきた瞬間だったと思う」と述べた。ミュージカル・ステーションの創業者・金子洋明は、1991年のインタビューで「日本のオリジナル曲も充実してきて、日本語と海外のサウンドという問題についていえば、日本語の壁は破れたんじゃないかと思います。拓郎が歌ってた時は"字あまり"っていわれてたけど、今、サザンが歌っても"字あまり"っていわないでしょう」と述べた。小林亜星は、阿久悠の著書内の「歌謡曲のことば」というテーマ、作曲家から客観的に見た歌詞のルール、歌詞とメロディーの結びつき、という考察において、「ニューミュージックの隆盛期以来、日本語の扱いが随分変わりました。これは日本歌謡史上の大革命だったんです。吉田拓郎や井上陽水がやった革命なんです。それまでの日本の歌は、一つのオタマジャクシに一つの日本語の発音がはめ込まれていた。日本語って随分不便な言葉だなあ、と吉田拓郎あたりが考えて、一つのオタマジャクシで『私は』と言ってしまった。こんな歌い方はそれまで日本にありませんでした。日本人の感覚にないんですね、これがニューミュージックです。ニューミュージック以後、こんなふうにして言葉の扱いが変わってきたんですね。日本語でロックやポップスを歌ってもかっこよくなりました。ですから拓郎さんなんかの努力で、歌謡曲が非常にカッコよくなりました。ニューミュージック革命以後、日本語の発音は英語風になっているんですよ」と論じた。

音楽通とされる志村けんは、「日本語って、やっぱりロックに合わないんだろうねえ。でも、日本語を英語っぽく歌って成功したのは吉田拓郎じゃないかと思うんだよね。桑田佳祐よりも前ですね。それと、拓郎のほうがビートルズっぽかったですね」と論じている。赤坂泰彦は「言葉を詰め込むというか、むしろ字余り的な、拓郎さんが書く曲から日本語の歌が変わっていって、後のサザンオールスターズや長渕剛さんなども影響を受けていると思う」と評した。

拓郎の「字余り字足らずソング」については、同業者の中に批判する者もあり、赤い鳥は1974年のインタビューで「ただ言いたいことを言いたいんだったらシャベればいいんであって、音楽を使ってやっているんだったら、それは音楽に対する冒涜」、成毛滋は「だいたい "字余りソング" なんていうのはリズム音痴だから平気でできるんで、リズム感のいい人だったら気持ち悪くて聞いてられない。だけど、それをお客もやる方も喜んでやってるんだから、リズム音痴に向いてる音楽じゃないかって思う」と批判した。

です・ます調の普及者[編集]

作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその「普及者」といわれる。

拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた。拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 と述べた。こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た。

その他[編集]

他の作詞法として、平坦な話言葉を使い歌詞を組み立てる、起承転結の形式を解体し独特の言葉の反復でリズムをつけていく、といった方法論も斬新で画期的であった。他に「コードとリズムの上に、歌詞をのせていくような」「メロディを歌うというよりも、詩を語っているような」「アドリブで歌っているような」という表現もされた。

スージー鈴木は「拓郎は『イメージの詩』で、それまでの若者が聞いたことがなかったような普段着の言葉と飾らないメロディを引っさげて音楽シーンに登場した。60年代に人気を博したクラシカルでエレガントなグループサウンズとは異なる、心の奥底をさらけ出すような言葉遣いは拓郎が持ち込んだと言っても過言ではない」と論じている。

西郷輝彦は1975年の雑誌インタビューで「吉田拓郎については、曲の好き嫌いは別にして、5~6年前に、ああいうスタイルの詞の作り方……たとえばロックのリズムに日本語をのせる…メロディの付け方は、まずレコード会社が許してくれなかった。ほんとはボクも、あの手をやりたかった。うらやましかった」などと話した。

南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか!?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。衝撃のシンガーソングライターでした」と拓郎を評した。柴門ふみは「それまでのフォークソングとは違って絵空事ではないリアリティのある歌詞に、私たち若者の心はストレートに鷲掴みにされました」などと述べている。小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです。ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ。僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」と述べた。ROLLYと山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている。かまやつひろしは「日本人は特にサウンド志向だから、僕なんかもサウンド志向でした。だからフォークはあまり知らなくて、60年代中頃に流行していたカレッジ・フォークが大嫌いで、いとこの森山良子に『ヤメロ』と何度言ったか分からないんです。ところが吉田拓郎さん以後のフォークの詞ってちょっとブラックでね、苦笑しちゃうような。そこに惹かれたんだな。だけどフォークがメジャーになるとは思いませんでした」と述べた。鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね。僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている。小室哲哉は「英語を使わずに自由に表現する歌詞、何もかもかっこいい」と評している。

ビーイングの創業者・長戸大幸は、音楽を諦めて京都でブティックを経営して、店も軌道に乗っていた23歳~25歳の時、「こうき心 '73」を聴いて、特にその歌詞に体に電撃が走るほどのショックを受け、ブティックも結婚が決まっていた女性も友達も全部捨てて、「拓郎に会いたいと、100万円と車1台だけで1974年に再び上京した」と話している。

拓郎は篠島ライブを控えた1979年夏の芸能誌のインタビューで、当時世間からニューミュージックが「軟弱」とか「クラい」などと叩かれていたことに腹を立て、「篠島でやるのは、一晩、誰も知った奴のいない離れ島へ来れば、少しは親や家族などの周囲との関係も変わるんじゃないかと思ったことだ。篠島って海の中の小島から日本ってモンをもう一度見直せば、考え方にも何かの変化が起きるだろう。ようは自立しろ!ってことだ。若い連中、特に男が軟弱になっちまってるコトにイライラするんだ。今のニューミュージックっていわれてる連中のコンサートだって、聴きに来てるのは圧倒的に女だろ。男はどこへ行っちまったんだよ。そうしちまったのは、ミュージシャン側にももちろん責任はある。今のニューミュージックといわれる連中の歌の世界には、"ボク"と"アナタ"しか出て来ない。"オメエラ"の世界がないんだよ。それは主張、つまり主義=イズムが歌う側にないからだろ。イズムのない歌は演歌だよ。特に男の歌手が何で女言葉で歌うんだ?それは昔の演歌だよ。オレは聴いてられない。ニューミュージック何て名前が泣くよ。別に男だ女だとこだわるつもりはない。今はもう男も女も一緒よ。男が女性化してるんだ。だから"やさしさ"しかウケないんだな。この前『セイ!ヤング』に女の子からハガキがあって『拓郎さんのはウルサイ。最初から最後まで叫んでばかりいる』って書いてあってな。オレは納得しちゃったけどな。結局、快いやさしい声や音楽しか求めちゃいないんだ。歌には詩がある、なんてことをまるで考えちゃいないんだよ。オレは叫ぶ。それがオレの"歌"だからね」等と捲し立てた。「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」などの作者・横浜銀蝿の嵐は「一番影響を受けたのは詞の世界は吉田拓郎さん。拓郎さんの詞って温かくて好きなんだ」と述べた。

作曲法[編集]

「拓郎節」とも呼ばれる個性の強いメロディライン[編集]

拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる。フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている。

拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談や、小室哲哉との対談でその一端を言及している。 近田春夫は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている。喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価している。Charは「『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで、JOHNNY, LOUIS & CHAR (PINK CLOUD) 1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作った」と話している。小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している。小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している。福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」と話している。佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多用した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じている。

歌唱法[編集]

山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している。小坂忠や久保田麻琴、荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている。織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている。YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている。小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している。桑原聡は、「拓郎ほど説得力を持った歌い手はほかにいない、上手下手という次元をはるかに超えた特別な歌い手である。自身の詞であろうと岡本おさみや松本隆の詞であろうと、彼がそれに潔いメロディー(ハ長調であれば、ドレミファソラシドだけでメロディーを紡ぎ、思わせぶりな半音を紛れ込ませない)を付けて畳みかけるように歌えば、その言葉は強力な説得力をもって個々の聴き手の心を揺さぶる。それだけではない。人と違う感じ方、ものの見方に価値を見いだす現代の日本人が忘却してしまった感のある『連帯』への扉を開く」等と評している。原田真二は「拓郎さんは、魂の叫びを持って歌われます。"ソウルシンガー"と言ってもいいんじゃないでしょうか。黒人音楽のジャンルとしてのソウルということではなく、もっと大きな本来の意味での"ソウル"です」と評している。拓郎自身は「東京に出てきた時、フォークソングというブームがあって、その中に入っていたので、フォークシンガーということになっちゃったけど、本来、僕はソウルシンガーだと自負している。シャウトを大事にしている」と話している。

こうした作詞法や作曲法、テーマ設定、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ。2022年6月13日放送のbayfm『スージー鈴木とミラッキ大村の6の音粋』では、吉田拓郎の影響下にある楽曲を集めた「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」が組まれた。

多様な音楽ジャンルへのアプローチ[編集]

アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおり、ザ・ベンチャーズやボブ・ディラン、サム&デイヴ、ビートルズらを渉猟した拓郎は、フォークのみに依拠したわけではない。田家秀樹は「フォークは吉田拓郎の登場で大きく変わったと思います。拓郎の曲には、ロックもR&Bも入ってました」、高護は「吉田拓郎のサウンド・プロダクションはシンプルだったがフォーク・ロックを基調とする点で初期の岡林信康や高石友也とは明らかに一線を画していた」と評した。佐藤剛は「吉田拓郎や井上陽水は、ロックやR&Bの洗礼を受けた新しい時代のシンガー・ソングライターたち」と論じている。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており、吉田拓郎はデビュー時から音楽性にロックの要素が含まれていたことは、後に音楽評論家が言及しただけではなく、当時のマスメディアからも認識されていた。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」と話し、1975年の小室等との対談では「『結婚しようよ』や『旅の宿』を作ったとき、(制作当時の)日本の音楽ファンは、耳ざわりな音より、快く耳に入ってくる音の方がいいと思った。ブラスがバンバン鳴って、エレキがギンギン入るより、アコースティックな感じで、音もなるべくシンプルにした方が、おそらく納得するだろうと思ったんだ」と述べており、「僕はバンド出身なので、バンドサウンドにすごいこだわりを持っている」と話した。

中将タカノリは「それまでのフォークは弾き語りに毛の生えた程度の音楽が多かったんですが、拓郎さんはR&Bやロック・ポップスなどの知識に長けた人だったから、音楽的にも単なる弾き語りだけじゃなくバンドサウンドにこだわり、フォークをポップスに昇華する役割を果たしたと思う」、篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている。矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」と批判した。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている。イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた。スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う。『元気です。』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」と述べた。スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉、桑田佳祐。そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている。但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。

桑田佳祐は、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げている。

1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話している。

スピッツの草野マサムネは、バンドを一時休止するほど、THE BLUE HEARTSに大きな衝撃を受けたと話しているが 、「THE BLUE HEARTSを最初に聴いたとき、自然な日常の言葉に拓郎みたいなものを感じて、大きなショックを受けた」と話している。

アルバム製作[編集]

ロックバンドと共同でのアルバム制作
1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックスを起用した。
スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであった。
浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳、井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである。
ライブ・アルバム
拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる。また拓郎の独特の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった。つまりライブ盤なのにスタジオ盤の気概を持つ。

ライブ形式の確立[編集]

プロデビュー以来"ライブの拓郎"としてライブの型を日本の音楽界全体に確立させた。

コンサート・ツアー
1973年10月、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する。当時はイベンターという職業はまだなく、当時のコンサートは地方の有力者などが主催し、フォークソングといわれている人たち10組とかを寄せ集め、1人10分、15分の持ち時間で歌を歌わせていた。拓郎は「主催者は音楽を分かってない。10分で吉田拓郎は分からない。そんな環境で歌えるか、最低でも2時間ぐらい歌わないと分かってもらえない」という反発心が、単独ツアーをやりたいという発想に結びついた」、「旧態依然とした芸能界とか歌謡界が日本の音楽をつくってきたとしたら、そこに一つ区切りをつけて『これからは違う』というのをやってみせたかった」と話した。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、各地のコンサートプロモーターの誕生につながり、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した。後藤由多加は「1970年代の初めに、拓郎を中心に俺達の時代をこれからつくっていくんだと、地方のプロモーターの方々はみんな思ってくれていた」と述べている。また、1973年11月26・27日に東京中野サンプラザホールで行われたライヴ音源はアルバム「よしだたくろう LIVE '73」として発売されている。
大ホール連続公演
1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になった。
元祖夏フェス
1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだった。1985年7月27日から7月28日にかけて「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」を開催した。自身二度目のヤマハリゾートつま恋でのオールナイトコンサートで、1975年・2006年に同所で行われたコンサートがかぐや姫との共同であったのに対し、1985年は単独でのコンサートとなった。2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。
離島イベント
1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めた。ゲストに小室等、長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである。

音楽ビジネスへの影響[編集]

テレビ出演拒否[編集]

1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行った。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている。テレビという媒体を利用せずにのし上がったのは拓郎が初めてで、テレビサイドも対応に苦慮した。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある。また、紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。この年、若者に人気の拓郎に距離を置いていたNHKもにわかに注目。NHK芸能局歌謡曲担当の藤村主管は、1972年4月から「NHKの歌番組に出て頂きたい、『ステージ101』に出演して欲しい」と拓郎を口説いたが、「ついては局の内規でオーディションを受けて頂きたい」と頼んだため、以前藤山一郎に落とされている拓郎に「今更受け直すつもりはない」と蹴られた。藤村はこの年、10月31日に神田共立講堂であった拓郎のリサイタルに足を運び、ますます拓郎に惚れ込み、11月6日に拓郎の歌の入ったテープの提出をもってオーディション合格の形を整えた。折柄、紅白歌合戦のメンバー決定時期となって、拓郎に紅白出場を要請したが「"紅白"はお祭りだ、と考えようとしても無理がある。あの顔ぶれには年功序列的なものを感じるし、一種の同窓会じゃないのか。だったらぼくは同窓生じゃないから行く必要がない」と吹き、出演を拒否した。以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことができないという常識が定着した。藤村は粘りに粘り、紅白から『歌謡グランドショー』に切り替え、「企画コーナーとして5曲歌って欲しい」と提案。拓郎は「5曲なら悪くない」と出演を承諾し、1972年12月12日放送の『歌謡グランドショー』でNHK初出演した。1曲のみ拓郎の独演、4曲は井上堯之グループ(原文ママ)をバックに歌った。番組視聴率は通常の1・5倍になった。藤村は「彼は現代の英雄、フィーリングだけじゃなく、歌に対する姿勢、考え方が実にしっかりしている。歌謡曲歌手とはちょっと違いますね」と唸った。

『ゴールデン歌謡速報』(フジテレビ)出演時には、「1曲では僕が分ってもらえない」とし、3曲歌うことを条件に出演した。

歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到したが、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った。

「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた。拓郎のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーたち、ニューミュージック系アーティストの多くが同様にテレビ出演を拒否した。これは各所属事務所、あるいはレコード会社の戦略によるものであった。拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったが、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだ。相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べている。

1986年に『メリー・クリスマス・ショー』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた。

1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった。「出てもいい」と思った大きな理由として、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げた。

フォークの地位の向上[編集]

フォークとロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となった。多くの改革により、今日では「普通」となったミュージシャン像を作り上げた。

1971年10月、アーティスト主体の音楽制作を目指し、拓郎と後藤由多加が中心となってプロダクション「ユイ音楽工房」を設立した。最初に就職したエレックレコードは、専属アーティストではなく社員契約で、レコードは何枚売れても関係なしの月給制の会社員だった。初任給は3万5,000円。エレックは通信販売の会社だったため、自分のレコードを自分で梱包し宛名書きして郵送したり、レコード店へ自分のレコードを運び、店主から「そこ置いとけ」と言われたりした。ステレオなどの新商品の全国キャンペーンに帯同して、機械の前座として店頭で歌うこともあった。拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、後藤に聞かされ初めて歌にそういう権利(印税)がある事を知った。当時のアーティストでそうした著作権関係を知る者はおらず、会社から「お金のことを言うな」等と押さえ付けられていた時代。当時の音楽業界はレコード会社の権限が圧倒的に強く、自作自演が中心だったフォークとは無縁のようでいて、年3枚のアルバム契約の縛りや、自身の意向とは無縁のシングル盤リリースなど、対レコード会社との力関係は圧倒的にアーティストに不利だった。拓郎が1972年1月、CBSソニーに移籍した際、莫大な印税が振り込まれ驚き、アーティストの権利について初めて本気で考えたといわれる。数千万の印税には目から火が出るほどビックリしたという。さっそく近所のディーラーでジャガーを「これ頂戴」とキャッシュで購入。当時のフォークは「四畳半で歌え」と言われた時代、フォーク仲間のフリーランサーが『わたしたちの夢は』という拓郎たちをコケにした曲を発表したりした。アーティストの権利意識とビジネスとしての確立はここに端を発す。朝妻一郎は「加藤和彦さんで1番大きかったのが僕に吉田拓郎さんを紹介してくれたことです。『朝妻さん、吉田拓郎って絶対売れますよ』って教えてくれたり。加藤くんからのインプットがなかったら、僕も今みたいになってなかったことは確かです」と述べた。

1976年2月15日からTBSの「サンデースペシャル」枠で、久世光彦企画による音楽番組「セブンスター・ショー」が、日曜日の19時30分〜21時というゴールデンタイムで、7週にわたって放送され、7人(組)のトップスターがスタジオでワンマンライブを披露した。第1週の沢田研二から、森進一、西城秀樹、布施明、かまやつひろし・荒井由実、五木ひろしという並びで、拓郎はシングルリリース直後の3月28日放送で"トリ"を務め、フォークが市民権を得たことを如実に現した。マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった。「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている。「ヤング・ギター」は、拓郎の才能をいち早く認め、デビュー前から頻繁に誌面で紹介し、強力に応援した。小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している。

拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、出版、音楽関係者、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者の代表的な人物がきくち伸である。

コマーシャルソング[編集]

ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりである。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかった。

僕の旅は小さな叫び
CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」。松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N) の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった。
この年は他にSEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞。
HAVE A NICE DAY
1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となった。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなった。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる。CMの作詞作曲料は85万円。

1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞。同年、りりぃに山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作された。

これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった。

これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになった。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである。

小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている。

桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分を壊したこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている。

音楽プロデューサーとして[編集]

ミュージシャン系プロデューサーの先駆[編集]

小室哲哉やつんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである。東京で音楽活動を始めて「作曲家としてのオファーがたくさんあること」は一番“ステキ”だと心に残っていることで、「売れる売れない関係なく、作曲を人から依頼されて、その人のためにメロディーを書くのがすごく楽しかった」という。作曲だけが多いのは、曲へ思いが昂ってしまい、イメージと違うことを書いてしまいそうだと自身で分かっていたためで、そのため「作詞はしません。それで良いならお受けします」と全てのクライアントに伝えていたという

楽曲提供だけではなく、他のアーティストプロデュースとしての最初の仕事といえるのは、同じ事務所に所属していたかぐや姫の1972年4月、実質デビューアルバム『はじめまして』と、同年7月、CBSソニーとアーティスト兼プロデューサーとして契約を結んで、個人レーベル『Odyssey』を立ち上げ、同じレコード会社ソニーの猫をプロデュースしたのが最初。

特に積極的だったのが女性アイドルのプロデュース。「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう」等と述べている。

新旧の音楽界の交流の活性化[編集]

森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼した。渡辺プロダクションは、これを機に布施明へ小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行った。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因の一つでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなった。またCMソング作家だった小林亜星が作曲し、阿久悠が歌詞に「です・ます」調を取り入れた「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があった。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献。

かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあった。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲。『ミュージックフェア』で共演もしている。
キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われている。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)。キャンディーズ自身はこの曲を「私たちの代表曲」と話した。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで「さよならキャンディーズ」と歌った。
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977年暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け!」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
1980年代の松田聖子とシンガーソングライターのコラボは、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という、この拓郎とキャンディーズのコラボの方法論を踏襲したもの。
梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたもの。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した。
原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ、原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆や瀬尾一三を交えて合宿させたり、プロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたり、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた「ニューミュージック系の人達はテレビに出ない」という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した。
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入り、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し、フォーライフの危機をも救った。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった。アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの。
石野真子
石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
なかにし礼
1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した。

ラジオ・パーソナリティとして[編集]

しゃべり (MC) の魅力[編集]

ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は、「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである。

拓郎のファンになったきっかけとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い。

ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話している。

初期の拓郎の "しゃべり (MC)" は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあった。こうした拓郎の "しゃべり" を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていた。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれた。拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。

ミュージシャン・パーソナリティ[編集]

1971年10月に『バイタリス・フォーク・ビレッジ』(ニッポン放送)のパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立した。当時のラジオにはまだ放送作家が付いてなく、深夜放送なのに前日の夜9時にはスタジオに入り、自分で話す内容を決めていたという。

深夜放送のDJを「パーソナリティと」いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用。拓郎たちフォークシンガー前までは深夜放送のDJは局アナがやっていた。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎をはじめとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であった。

亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと評している。赤坂泰彦は「中学校の頃に、吉田拓郎さん、泉谷しげるさん、谷村新司さんなど、フォークの方々がラジオでレギュラー番組を持っていたんです。なので、世代的にラジオとフォークソングというのがリンクしていますね。喋りの面白い方たちというイメージがありました(笑)」などと話している。

楽曲のプロモーション[編集]

ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。

先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やふきのとうの「白い冬」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だった。



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