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古墳時代

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古墳時代(こふんじだい)とは、日本の歴史における弥生時代に続く考古学上の時期区分であり、前方後円墳に代表される古墳が盛んに造られた時代、3世紀中頃から7世紀末を指す。『日本書紀』によると、応神天皇は行宮を難波大隈宮とし、大王(おおきみ)と呼称された倭国の首長である仁徳天皇は都を上町台地の難波(なにわ:現在の大阪市)に定め宮居を難波高津宮とした。国内流通の中心である住吉津や難波津などが開港し、倭国が統一していった時代とされる。

ほぼ同時代を表す「大和時代」は『日本書紀』や『古事記』による文献上の時代区分である。

概要[編集]

日本書紀によると、この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立したとされる。

対外関係では、4世紀以降、朝鮮半島に進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される好太王の広開土王碑文などから知られる(高句麗と倭の戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)。5世紀には倭の五王が中国に使者を遣わした。倭が朝鮮半島で得た鉄資源は、甲冑、武器、農具、工具などに用いられた。大陸からは文字(漢字)と仏教・儒教がもたらされた。また、『隋書』によると、新羅や百済は、倭国は珍物が多い大国であるとし、倭へ使い通わしているとの記述が存在する。

生活・文化[編集]

この時代の人々は、食器・調理具・貯蔵具などの器として、土師器と須恵器を用いた。土師器は縄文土器・弥生土器以来の伝統的な「野焼き」焼成によって生産されたが、前期末(4世紀後半)~中期前半(5世紀前半)ごろに朝鮮半島から渡来人により陶質土器と窖窯(あながま)の技術がもたらされ、大阪府南部の陶邑窯跡群を始めとして須恵器の生産が始まった(窯業の開始)。

集落(ムラ)における人々の住居や工房・倉庫・家畜小屋などの建築として、竪穴建物(竪穴住居)のほか、平地建物・高床建物(掘立柱建物や壁建ち建物などを含む)などが建てられていた。

群馬県渋川市の黒井峯遺跡の事例などから、ムラには竪穴建物1棟~数棟が集まった世帯的な単位があり、それらが垣根で区画されてムラの中に点在し、道路で結ばれていた事が解っている。黒井峯のムラでは、ほかに祭祀の場や作業スペースと見られる広場、畑なども検出されている。

なお、黒井峯遺跡のムラは、6世紀前半の榛名山噴火により一瞬で厚い火山灰に埋もれたため、当時の生活面(遺構面)が後代の削平を受けずに良好に遺存していた事で知られるが、そこで検出された建物の遺構は、竪穴建物5棟・高床建物8棟に対し、平地建物が36棟と圧倒的に多いことが判明している。このため文化庁は、竪穴建物が主体と見なされてきた古代のムラには、本来は多様な構造の建物が存在しており、当時の集落の建物構成や景観を復元・検討する際に考慮すべき点であると指摘している。

古墳時代の生活様式の変化として特筆されるものに、中期(5世紀)における竈(カマド)の導入があげられる。日本列島では、煮炊きを行う調理施設として旧石器時代以来、炉が使われ、古墳時代前期(4世紀)段階でも竪穴建物内にて地床炉が使われていたが、4世紀末から5世紀初頭ごろ、先に述べた須恵器の窖窯技術などと共に、カマドも渡来人によってもたらされた。カマドには、土師質で持ち運び可能な「竈形土器」とも呼ばれる「移動式カマド」のほか、竪穴建物内の北側や東側の壁面に粘土等で構築する「造り付けカマド」が存在する。古墳時代中期(5世紀)における竪穴建物への「造り付けカマド」の導入は、それまでの炉を用いた調理より熱効率がよく、当時の調理様式に「台所革命」とも評される劇的な変化を与えたとされ、日本列島の広範囲に爆発的に普及した。5世紀半ば段階では、早々にカマド付き竪穴建物を取り入れた上で成立した矢崎山遺跡(神奈川県横浜市都筑区)などの例もあるものの、集落遺跡におけるカマド普及率はなお全国で10%、関東地方で4%程度だったが、後期(6世紀)段階には全国で72.4%、関東地方で90%超の普及率となった。他の調理用具にも変化をあたえ、前期まで丸胴だった土師器甕はカマドに据えやすくするために長胴化し、蒸し器の甑が普及し、それまで高坏が主流だった盛付け用食器も丸底の坏(手持ち食器)が主流となっていった。

またこの時代、カマドを信仰の対象として捉え、かまど神を祀る文化も同時に普及し、カマド構築材に祭祀遺物(石製模造品)を封じ込める例(神奈川県横浜市矢崎山遺跡)や、古いカマドを解体する際に底を打ち欠いた土師器を2枚伏せて「カマド鎮め」をしたと見られる例(千葉県香取市小六谷台遺跡)などが各地で見つかっている。古墳時代最終末~飛鳥時代の事例ではあるが、7世紀の官衙跡であるの幡羅官衙遺跡群(埼玉県深谷市・熊谷市)の竪穴建物からは、カマドの支脚と見られる棒状土製品に人面が彫刻されたものが見つかり、カマド神ではないかとされている。

馬の導入と生産の開始も、古墳時代の人々に影響を与えた渡来系文化の1つである。3世紀半ばの日本列島を描写した『魏志倭人伝』には「倭に牛・馬はいない」とされていたが、馬具の出土事例などから、古墳時代前期末~中期(4世紀末~5世紀)段階には列島にも馬が導入されたとみられ、軍事・農耕・荷役などに用いられ、各地に馬を育成するための牧が配置された。

水稲耕作は、弥生時代以来の「小区画水田」が作られ続けているが、この時代の小区画水田は、静岡県静岡市の曲金北遺跡や、群馬県高崎市の御布呂遺跡・芦田貝戸遺跡などのように、小区画が数百~数千の単位で集合して数万平方メートルの水田面を形成する例が全国的に見られるようになる。

また、東西・南北を軸線にして長方形の大型水田が、一部の地域に出現するようになる。例えば、5世紀末から6世紀初めの岡山県岡山市の中溝遺跡例などがあり、水田の一筆の広さが150~200平方メートルを測る。新たな水田造成技術の導入もみられ、新田開発が行われたと推定されている。屯倉の設定にはこうした新水田造成技術を導入して行われたとする見解がある。

近年、考古学の立場よりも古墳時代に日本列島内で大きな戦争は確認できないという結果が報告されている。



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