南房総市
南房総市(みなみぼうそうし)は、千葉県の南部に位置する市。関東地方および千葉県最南端の自治体。南房総観光圏の観光都市。市域は森林セラピー基地、海岸部は南房総国定公園に指定されている。
2006年(平成18年)、7町村の合併により発足。
概要[編集]
温暖な気候を生かしたアイリス・キンセンカなどの花卉栽培や房州ビワの産地として知られ、生産量は日本一である。
日本酪農発祥の地である峯岡牧を始めとした酪農や、アワビ・テングサなどの漁業も著名である。全国モデル道の駅である道の駅とみうらを始め、日本最多の道の駅数である。
市役所は当面、旧富浦町役場を使用するが、富浦地区は南房総市の地理や経済の中心地とはいえない。人口が最も多いのは千倉地区で、合併前まで警察署が置かれるなど外房側地区の中心地であるが、内房側の各地区や三芳地区から見た場合に中心地とはいえない。よって南房総市は、特に商業、医療などで館山市へ大きく依存し、合併前から当市全域が館山都市圏に属する。和田地区は鴨川市との結びつきも強い。
地理[編集]
千葉県南部で最南端に位置し、県庁所在地である千葉市から約70キロメートルに位置する。東京都の都心から70 - 80キロメートル圏内である。東京都の羽田空港や神奈川県は、東京湾アクアラインの利用が最短の移動距離となる。都市雇用圏における館山都市圏に含まれており、平成22年国勢調査で館山市への通勤率は21.0パーセントである。
東京湾(内房)と太平洋(外房)に面しており、安房地域の西部、房総半島の最南端、房総丘陵を抱え三方を海に囲まれた温暖な地域である。千葉県の最南端である旧白浜町は太平洋に面しており、伊豆諸島や、空気の澄んだ時など伊豆半島も遠望できる。直下に鴨川低地断層帯が所在する。市域は森林セラピー基地に認定されている。
行政区域は館山市を取り囲む形状で、同市を挟んで内房側を富山・富浦地区、外房側を白浜・千倉・丸山・和田地区、館山市の北に隣接する内陸の地区を三芳地区と呼称する。
三芳地区は内房側、外房側の各地区と道路で結ばれており、内房側の各地区と外房側の各地区も、山中を通過する道路でつながってはいるが、鉄道や幹線道路を利用して最短距離で移動するためには館山市を通過する必要がある。後述するように館山市を含めた合併が破談となり、周辺町村のみが合併して変則的な行政区域となったが、館山市は同一生活圏にある。
隣接する自治体[編集]
- 館山市
- 鴨川市
- 安房郡:鋸南町
地区[編集]
富山地区(旧富山町)
- 旧岩井町 - 久枝、二部、検儀谷、市部、竹内、合戸、高崎、宮谷、小浦
- 旧平群村 - 吉沢、井野、川上、平久里中、荒川、山田、平塚、平久里下、犬掛
富浦地区(旧富浦町)
- 旧富浦町 - 富浦町南無谷、富浦町豊岡、富浦町原岡、富浦町多田良
- 旧八束村 - 富浦町青木、富浦町深名、富浦町丹生、富浦町宮本、富浦町大津、富浦町手取、富浦町居倉、富浦町福澤
三芳地区(旧三芳村)
- 旧滝田村 - 下堀、上堀、三坂、千代、下滝田、上滝田、増間
- 旧国府村 - 府中、本織、明石、谷向、川田、山下、大学口、海老敷
- 旧稲都村 - 池之内、中、御庄、山名
和田地区(旧和田町)
- 旧和田町 - 和田町花園、和田町柴、和田町仁我浦、和田町和田、和田町真浦
- 旧北三原村 - 和田町小川、和田町黒岩、和田町上三原、和田町小向、和田町布野、和田町磑森、和田町五十蔵
- 旧南三原村 - 和田町白渚、和田町下三原、和田町中三原、和田町海発、和田町松田、和田町沼
丸山地区(旧丸山町)
- 旧千歳村→千倉町 - 白子、峰、安馬谷、久保
- 旧豊田村 - 古川、岩糸、小戸、加茂、沓見、西原
- 旧丸村 - 丸本郷、前田、石神、珠師ケ谷、石堂、川谷、石堂原、宮下、御子神、大井、丸山平塚
千倉地区(旧千倉町)
- 旧千歳村 - 千倉町白子、千倉町川合、千倉町久保
- 旧健田村 - 千倉町瀬戸、千倉町牧田、千倉町宇田、千倉町川戸、千倉町大貫
- 旧千倉町 - 千倉町北朝夷、千倉町南朝夷、千倉町平舘、千倉町忽戸、千倉町川口
- 旧七浦村 - 千倉町平磯、千倉町千田、千倉町大川、千倉町白間津
白浜地区(旧白浜町)
- 旧白浜町 - 白浜町乙浜、白浜町白浜
- 旧長尾村 - 白浜町滝口、白浜町根本
歴史[編集]
沿革[編集]
本地域が位置する安房地域は718年(養老2年)に上総国から分かれ、明治初期まで安房国と呼ばれていた。国府は旧三芳村に置かれ、条里制の遺構も見られる。かつては多数の荘園があり、これらは中世末まで統治者の交代を繰り返した。
戦国時代に入り、15世紀中頃に里見氏が安房統一を果たし、戦国末期に館山城を築城し、安房国統治の拠点とした。江戸時代初期、里見氏は江戸幕府により1614年(慶長19年)に改易され、以降この地は旗本領、天領、小大名の領地として分割統治された。
近代に入り、1878年(明治11年)の郡区町編制法施行により郡制を施行し、1897年(明治30年)に「交通の便が相互にあり且つ民族風俗に大差がない」という理由から、安房郡、平郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を合併して、昭和期の安房郡の前身となる「安房郡」が形成された。
2006年(平成18年)3月20日に安房郡富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、和田町が合併し、南房総市が発足した。
合併の経緯[編集]
2000年(平成12年)12月に、千葉県庁が発表した「合併推進要綱」では、安房地域の合併の枠組みは
- 館山市・鴨川市・富浦町・富山町・鋸南町・三芳村・白浜町・千倉町・丸山町・和田町・天津小湊町
- 館山市・富浦町・富山町・鋸南町・三芳村・白浜町・千倉町・丸山町・和田町
- 鴨川市・和田町・天津小湊町
の3通りが示された。
これを受け、鴨川市、鋸南町、天津小湊町を含む安房郡市2市8町1村でまず合併の検討が始まり、2002年(平成14年)9月4日に任意合併協議会を設置した。しかし、合併の枠組みで議論が分かれ、安房地域全体での市町村統合を断念し、2003年(平成15年)1月に任意合併協議会は解散することとなった。
その後、上記 2.の枠組みである1市8町村で合併を検討することとなり、2003年1月に法定合併協議会準備会を設置し、法定合併協議会を設置して2003年4月23日に第1回の会議を開いた。
新市名は全国を対象とした一般公募を行い、「館山」が1位となったが、8町村が「南房総市」を主張して館山市側と対立し、2004年(平成16年)1月30日に賛成多数で「南房総」とした。
合併前に役場や小学校などの新築をするいわゆる「駆け込み公共事業」についても、2003年9月30日に館山市議会が駆け込み事業の抑制促す決議をするなど、同市以外の8町村が対立した。
2004年2月25日に館山市議会は合併協議会からの離脱を決議して、これを受け館山市の2委員が2月26日の協議会から退席して協議を事実上離脱し、2004年4月23日までに館山市以外の8町村が廃止決議を行い、2004年5月に合併協議会の廃止同意書交わし解散することになった。
館山市を除く8町村は間もなく8町村のみの合併を検討し始め、2004年5月31日に8町村による「検討会」を設置した。
和田町は、鴨川市と合併の是非を問う住民投票が行われることとなり検討会参加を保留し、2004年7月に行われた住民投票で反対多数となったことを受けて検討会に再び参加し、8月9日に8町村による法定合併協議会へ移行し、2004年8月16日に初会議を開催した。
鋸南町は、2004年9月に町長が8町村での合併に異議を唱えて合併協議から離脱を表明し、8町村の合併に前向きな町議会と対立して辞任した。2004年11月に行われた町長選は、富山町・富浦町・三芳村と合併推進を唱えた現職と、8町村合併を唱えた前町議会議長、館山市・富山町・富浦町・三芳村と合併を唱えた市民オンブズマン出身者の3者が競い、現職が当選して、鋸南町を含む8町村合併はなくなった。
鋸南町町長が、公約で合併相手に挙げた富山町・富浦町・三芳村はいずれも鋸南町を除いた7町村合併に賛同し、鋸南町は単独町制を継続することとなった。
2004年12月15日に、鋸南町を除く7町村は改めて法定合併協議会を設置し、2005年(平成16年)2月8日に合併協定に調印、7町村議会、千葉県議会の議決を経て、2005年5月12日に総務大臣が7町村による南房総市発足を官報で告示した。
この間白浜町で、館山市と合併を求める住民が署名3,131人を集め、館山市と合併を求める住民投票請求を2004年(平成16年)11月11日に提出して12月9日に同町当局に受理されたが、市は議会に付議しなかった。
- 合併に伴う住所表記、電話番号の変更
※郵便番号、電話番号は新市移行後も引き継ぐ。
- 富山町・三芳村・丸山町の場合、旧町村名から南房総市への表記変更のみ。昭和の大合併以後にできた歴史の浅い自治体名のため残さない。
- 例「安房郡富山町○○ ××番地 → 南房総市○○ ××番地」
- 富浦町・白浜町・千倉町・和田町の場合、南房総市+旧町名併記。昭和の大合併以前にできた歴史ある自治体名のため残した。
- 例「安房郡富浦町○○ ××番地 → 南房総市富浦町○○ ××番地」
- 番地表示は「××番地の×」の「の」は表示が必要無くなる。
- 例「安房郡富浦町○○ ××番地の× → 南房総市富浦町○○ ××番地×」
人口[編集]
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、7.29%減の39,033人であり、増減率は千葉県下54市町村中45位、60行政区域中51位。