You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

勝海舟

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。

山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

略歴[編集]

幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦(よしくに)。明治維新後は安芳(やすよし)と改名。これは幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが、「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。氏族としては物部氏を称し、氏姓+諱の組み合わせで物部義邦物部安芳という署名や蔵書印も残している。

曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ、江戸に出て米山検校となる。祖父はその九男男谷平蔵。父は男谷平蔵の三男、旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる。家紋は丸に剣花菱。

10代のころから島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。

略年譜[編集]

(明治5年12月2日までは旧暦)

  • 天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
  • 安政2年(1855年)
    • 1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。
    • 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。
    • 8月7日、小普請組から小十人組に組替。
  • 安政3年(1856年)
    • 3月11日、講武所砲術師範役となる。
    • 6月30日、小十人組から大番に替わる。
  • 安政6年(1859年)
    • 5月、伊予松山藩が武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に築造した砲台を設計する。
    • 11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。
  • 安政7年(1860年)
    • 1月13日、品川から咸臨丸出航。
    • 2月26日、サンフランシスコに入航。
    • 閏3月8日、サンフランシスコを出航。
    • 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
    • 5月7日、江戸に帰府。
    • 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。
  • 文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
  • 文久2年(1862年)
    • 7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
    • 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。
  • 文久3年(1864年)
    • 2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
    • 改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石。大身となり、武家官位として従五位下に叙され安房守に任官。
    • 11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
  • 慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
  • 慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
  • 慶応4年(1868年)
    • 1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。
    • 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
    • 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
    • 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
  • 明治2年(1869年)
    • 7月13日、諱を安芳と改める。
    • 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
    • 8月13日、外務大丞を辞す。
    • 11月23日、兵部大丞に任官。
  • 明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。
  • 明治5年(1872年)
    • 5月10日、海軍大輔に任官。
    • 6月15日、従四位に昇叙。
  • 明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
  • 明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙。
  • 明治8年(1875年)
    • 4月25日、元老院議官に異動。
    • 4月27日、元老院議官を辞表を提出。
    • 11月28日、元老院議官を辞す。
  • 明治20年(1887年)
    • 5月9日、伯爵を受爵。
    • 12月、従三位に昇叙。
  • 明治21年(1888年)
    • 4月30日、枢密顧問官に任官。
    • 10月、正三位に昇叙。
  • 明治22年(1889年)
    • 5月8日、枢密顧問官の辞表を提出するが、翌日却下。
    • 12月、勲一等瑞宝章を受章。
  • 明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
  • 明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙。
  • 明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。山田方谷遺蹟碑の題字を担当。
  • 明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受章。
  • 明治32年(1899年)
    • 1月19日、死去。
    • 1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。

栄典・授章・授賞[編集]

位階
  • 明治5年6月15日 - 従四位
  • 1874年(明治7年)2月18日 - 正四位
  • 1887年(明治20年)12月26日 - 従三位
  • 1888年(明治21年)10月20日 - 正三位
  • 1894年(明治27年)6月30日 - 従二位
  • 1899年(明治32年)1月20日 - 正二位
勲章等
  • 1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵
  • 1889年(明治22年)
    • 11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章
    • 12月27日 - 勲一等瑞宝章
  • 1892年(明治25年)3月5日 - 御紋付御盃
  • 1896年(明治29年)3月28日 - 金盃一個
  • 1898年(明治31年)12月28日 - 旭日大綬章

記念館や記念碑、銅像[編集]

  • 洗足池(東京都大田区)のほとりに海舟の晩年の邸宅「千束軒(洗足軒)」があったが戦災で焼失した。隣の鳳凰閣(旧・清明文庫)は大田区が取得し、「勝海舟記念館」として整備した。千束軒跡の傍らには海舟夫妻の墓があるほか、その隣には海舟が自費で建設した「西郷南洲留魂碑」が、その隣には海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が建立されている。
  • 「勝海舟生誕地碑」:海舟は父小吉の実家である男谷家で生まれた。現在、跡地は両国公園となっており、公園内に碑が立っている。
  • 「西郷南洲勝海舟会見之地」碑(東京都港区芝):江戸城無血開城を取り決めた勝・西郷会談が行われた薩摩藩邸跡地に建っている。
  • 「勝海舟銅像」(東京都墨田区吾妻橋):墨田区役所(リバーピア吾妻橋)に隣接する「うるおい広場」に2003年7月21日(海の日)、今日の東京の発展の基礎を作った海舟の功績を顕彰するために、有志(勝海舟の銅像を建てる会)一般からの寄付金などで建てられた。
  • 「勝海舟寓居地」(和歌山県和歌山市船大工町):文久3年(1863年)、幕府より紀州の海岸防衛工事の監督として赴任した際に暮らしていた居宅跡を顕彰する石碑。

評価[編集]

  • 日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家・戦略家・実務家と評し心酔するファンがいる一方、理科系の教養に暗く、大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
  • 西郷隆盛 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候、英雄肌で、佐久間象山よりもより一層、有能であり、ひどく惚れ申し候」
  • 坂本龍馬 「日ノ本第一の人物」
  • 栗本鋤雲 「羞恥心を知らない者」
  • 小栗忠順 「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」
  • 大村益次郎 「どうも勝安房と云う人は大家である。幕府の人には、珍しい人じゃ。どうもあの一人は違っている」
  • 福澤諭吉 「やせ我慢をせぬもの」
  • 三浦梧楼 「勝海舟、機智の人であったろうが、俺は好かぬ人であった」
  • 伊藤痴遊
    • 「先生に会ってみると、その態度は余りに無造作であり、十年も馴染んだ人の如く少しの隔たりも置かずに、叱り付けもすれば、教えてもくれる。毒舌、風刺は言うも更なり、縦横無尽に説き立てる。その調子には少なからず驚かされた。ちょいちょいお訪ねしてみたが、難しい事をやさしく話す談論の骨は実に絶妙と言うべく、大いに得る所があった。時にはその経歴を聞かされ、幕末時代の人物や大きい出来事について、軽妙な比喩を交えながら話されるうちには、種々の教訓が含まれていた」
    • 「『(自分の先祖は)わしの想像では十五か六歳で僅かの銭を持って国を離れたのであるし、それに生まれつきの盲目ということぢゃから、まァ乞食のようなものぢゃったろう。元来、小千谷という所が瞽女の本場という事で、冬を越してから雪が解ける頃になると、破れ三味線を背負って、道中を稼ぎながら江戸へ出てくるという事を聞いているから、要するにその仲間ぢゃったろう。ハッハッハッ...』偉くなった人は先祖の事を自慢らしく話もすれば、また話すほどの先祖がなければ、わざわざ先祖を拵えて吹き立てるものである。然るに海舟はそんな事に頓着なく、先祖は瞽女と一緒に出て来た乞食のようなものだろうと平気で哄笑されたのだから、わたしも意外の思いをした」
  • 蘭学への素養を活かして、洋書翻訳で得た知見を国内に紹介することで洋式砲術家としての名声を得ていたが、上記のように理数系の素養に暗かったこともあって海軍の実務には暗く、また知己を得ていた豪商たちからの影響もあって、その海軍論は海軍と海運の区別が不明瞭であるなど、西洋海軍の実態にそぐわない観念的な部分が多かった。ただし長崎海軍伝習を通じて頻繁に練習航海を経験していたことから、内海・沿岸航海についてはある程度の水準に達しており、咸臨丸に便乗していたブルック大尉は、外洋航行中の指揮には不足な点が多かったとする一方、浦賀入港の際の操艦については「非常に巧みに船を操った」と評価している。
  • このためもあって海軍からも嫌われており、文久3年8月16日に軍艦組の頭取以下全員が辞職を楯にストライキを敢行、海舟が説得に当たる騒ぎに発展した。また、文久3年12月28日から翌4年1月8日にかけて家茂を順動丸に乗せて、海路で2度目の上洛を敢行した際、途中滞在した下田で乗組員と対立して出発延期を押し切られたり、随行した他の船が下田へ戻ったこと、日記で盛んに家茂を褒め称えながら他人や他の船などは書かないなど海軍指揮官として問題が多々見られる。
  • 死の3日後、氷川邸に勅使がきて勅語を賜っている。

幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム

人物[編集]

逸話[編集]

トラウマ
9歳のころ、狂犬に睾丸を噛まれて70日間(50日間とも)生死の境をさまよっている(「夢酔独言」)。この時父の小吉は水垢離(みずごり)をして息子の回復を祈願した。
福沢諭吉との関係
木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は、船酔いもせず病気もしなかった。一方、海舟は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。諭吉はそれをただの船酔いだと考えていたようで、海舟を非難する格好の材料としている。また、海舟の方も福沢諭吉にあまりいい印象を抱いていなかったとされる[要出典]
福沢諭吉の海舟批判
慶應義塾を興した福沢諭吉だったが西南戦争が始まると薩摩出身の学生が大量に退学するなどして一時その経営が危ぶまれた。当時勝が経済的に困窮した旧幕臣に対して比較的分け隔てなく大金を無担保無期限で融通していたので諭吉は借金を勝に申し入れてたが勝は福沢が三田に1万5000坪にも及ぶ広大な敷地を持っていたことを知っていた為土地を売却しても尚苦しいようであれば貸すと断った。だが福沢は三田の土地を気に入っていたので遂に売却することをしなかった[要出典]
明治34(1901)年になって諭吉が主宰していた「時事新報」に<痩我慢の説>という諭吉の勝海舟批判のコラムが掲載された。敵に対して勝算がない場合でも、力の限り抵抗することが武士のやせ我慢であり、佐幕派の諸藩と連携して徹底抗戦、討ち死にするべきだったのに降伏して江戸城を明け渡してしまった。こんなことは世界でも類をみないことで外国人は冷笑したであろう、と海舟の講和を厳しく非難した。「殺人散財は一時の禍にして士風の維持(痩我慢)は万世の要なり」と説いている。また勝が維新後に枢密院顧問を務め伯爵に叙されたことなどを指し、薩長人と並び立って得々名利の地位に居る、明治政府に仕えて名利を貪(むさぼ)っていると強く弾劾した[要出典]
海舟批判書状の『瘠我慢の説』への勝の回答
「自分は古今一世の人物でなく、皆に批評されるほどのものでもないが、先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすること、自分はあずかり知らぬことと考えています)」として、特に弁明も批判もしなかった。
尚、福沢諭吉は後の自伝で「人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことでわかり切っている。返済する金が出来るくらいならば出来る時節まで待っていて借金はしないと覚悟を決めてきた。過去一度も借りたことが無い」と綴っている[要出典]
咸臨丸の実情
和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し、常時14、5人の病人が出た(今でいう悪性のインフルエンザか)。サンフランシスコ到着後には3人が死亡、現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず、現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか、水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコット・ブルックスに託し、充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で、親日家だった。
受爵の時
受爵の時の話を海舟が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。
「授爵の時は、伊藤サンから手紙が来た。勝が、御受けせぬであろうが、ドウゾ、君の尽力で、ススメてくれという事で。固より好まない事は知れているが、また固より受けても相当の事と思うから、行った。スルト、運動に出たという事でおばあさんが出てきて、断ったが、是非会って申さなければならぬことだからと言って、待っていたが、ドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって、今帰りましたということであった。それから、話すとイツモの調子ではなく、厳然として、その受けられぬ訳を答えた。真に、功もなく、恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それで、これではイカヌと思って、コッチモ勝流をキメテ、ソウ言った。「勝サン、それはソウダガ、私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ、私も使いにはならんし、また自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだから、ソウイジメないでもイイではないか、モウこれで二時だが、ドウか受けてくれ」と言ったら、ソレデようやくマトマッタ。」
なお、この明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。
亡くなった時の様子について
海舟が亡くなる直前の様子について、長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。
「あの日は、お湯からお上りなすって、大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか、今日だっけと、仰しゃっただけで、それからハバカリからお出になって、モウ褥の方へいらっしゃらず、ココの所へ倒れていらっしゃいますから、ドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃって、ショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが、間に合いませんから、ブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますので、お湯はその時モウ落としてしまいましたから、あちらで取って参りましたから、それで一度おふきなすったのです。それで、奥さまに申し上げまして、コチラにお出でになりました時には、モウ何とも仰しゃらず、極く静かにお眠りでした。」
徳富蘇峰との関係
徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、海舟を生涯の師の一人と仰いでいる。蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」と書き残している。
上記のように海舟の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。
高橋敏は、著書で福澤諭吉が蘇峰の書いた文章を読んで驚き、『瘠我慢の説』を執筆したとしている
その他
  • 新谷道太郎 によれば、「殿様に呼ばれて出ると、『小僧オレの所に何しに来たか』と問われました。『日本一の知恵者の顔を見たいので』と言いますと『だれがオレを日本一の知恵者と言ったか』と言われます。『世間の人が皆申します』と言うと、勝様は嘆息して『それなら、オレは、日本一の知恵者ではない。日本一の知恵者なら、世間の者には分からぬはずじャ、我が知恵を人の前に隠すことが出来ぬようでは、オレは、二流の人物じャ』と言われた」とのこと。

晩年[編集]

晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画に対して向山黄村に活動資金を与え、編纂阻止工作にあたらせこれを妨害した。結果、この計画は実現しなかった。またその独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。晩年は子供たちの不幸にも悩み続けるなど、孤独な生活だったという。

足尾銅山の鉱毒問題について、水害への懸念、民心の不安、銅の精錬の燃料のために日光の樹木を伐採することへの懸念などの視点から「文明流にせよ(「よく理を考えて、民の害とならぬ事をする」の意)」と批判している。

明治32年(1899年)1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取った。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった。享年77。

墓は海舟の別邸 洗足軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。洗足軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。



Read or create/edit this page in another language[編集]