仙台市
仙台市(せんだいし)は、宮城県の中部に位置する市。宮城県の県庁所在地であり、東北地方で唯一の政令指定都市。5つの行政区がある。人口は約109万人。人口や経済規模など多くの分野で東北地方最大の都市でもある。
概要[編集]
仙台市都心部周囲には広瀬川や青葉山などの自然があり、また都心部にも街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」との雅称を持つ。仙台市は「学都仙台」「楽都仙台」などのキャッチコピーも用いている。東北を代表する港湾およびサーフスポットである仙台港(仙台塩釜港)が北東部に、宮城県内の純観光地の中で宿泊客数第1位を誇る秋保温泉が南西部に、宮城県内で利用者数1位を誇るスプリングバレー泉高原スキー場が北西部にある。中国では魯迅が留学した都市として知られる。
東日本などや海外(参照)の商店街イベントとして定着した七夕まつり(仙台七夕)、旧・仙台藩地域での仙台初売り、地方では困難な公的財源に頼らない大規模イルミネーションイベントのSENDAI光のページェント、「街角無料音楽祭」の定禅寺ストリートジャズフェスティバル、および、それがバリアフリー化したとっておきの音楽祭など、市民が中心となって創り上げた都市イベントを数々生み出しており、その運営ノウハウやフォーマットを市外・県外に移出する文化都市でもある。
現在の仙台市の推計人口は東北地方の中で最も多い約110万人で、宮城県民の48.6%が居住し、秋田県、山形県よりも人口が多い。その仙台市が県内総生産の55.5%、県民所得の58.3%を占めており(2013年度)、「仙台一極集中」と言われることがある。また仙台都市圏(広域行政圏)の推計人口は約154万人で、宮城県民の67.9%が居住する。このような集積度と東北における拠点性により、物販面では隣県に及ぶ経済圏を形成している。全国企業の東北支社が置かれることが多い典型的な支店経済都市であり、札幌市・広島市・福岡市と並び「札仙広福」と呼ばれる地方中枢都市の一角を担っている。
仙台市は、かつての宮城郡南部と名取郡北部に市域が広がるが、両郡の東部に広がる仙台平野(狭義)は、西と北を陸前丘陵、東を太平洋の仙台湾、南を阿武隈川に囲まれる。また、同平野の北部は長町-利府線断層帯 を境に、北西側が洪積台地、南東側が沖積平野に分かれる。当地は、畿内に端を発する山道(後に東山道に再編)と海道(後に東海道に再編)とが合一する唯一の地 であり、その合一した街道は後年、奥大道や東街道と名称を変えながらも同断層帯およびそれに続く高舘丘陵の東縁に沿って南北に通る重要な道として存在し続けた。伊達政宗による仙台開府以前の当地では、この街道沿いを中心に、同断層帯・丘陵より東側の沖積平野にある自然堤防などの微高地(以下「東方微高地」)にのみ町場が形成された。「東方微高地」には、4世紀末ごろに東北最大の雷神山古墳(現名取市、北緯38度9分4.2秒 東経140度52分46.9秒)や県内2位の遠見塚古墳(北緯38度14分17.5秒 東経140度54分52秒)が築造され、7世紀半ばの陸奥国設置後は国府とされる郡山遺跡(北緯38度13分24.5秒 東経140度53分34秒)や多賀城(現多賀城市、北緯38度18分23.8秒 東経140度59分18秒)、さらに陸奥国分寺(北緯38度15分3.3秒 東経140度54分10秒)や陸奥国分尼寺(北緯38度15分6.3秒 東経140度54分34秒)など同国の重要施設も置いている。
多賀城が11世紀前半 に国府としての機能を失うと、陸奥国府は陸奥府中の南西部にあたる現・JR岩切駅(北緯38度18分3.3秒 東経140度57分15.6秒)周辺の七北田川沿い「東方微高地」に移転し、南北朝時代まで続いた。12世紀には陸奥国府は多賀国府とも呼ばれるようになり、国府周辺には多賀国府町(たがのこう町)と呼ばれる、陸奥国の政治・経済の中心地としての町場が戦国時代まで続いた。当時のその他の町場には、原町の宿場、陸奥国分寺の門前町である国分日町、国分氏の小泉城下町、粟野氏の北目城下町(北緯38度13分19.2秒 東経140度53分52.5秒) などがあり、いずれも「東方微高地」にあった。
慶長5年12月24日(1601年1月28日)より政宗は、伝統的な当地の中心地である「東方微高地」ではなく、同断層帯より西側の洪積台地に広がる広瀬川の河岸段丘上に仙台城(青葉城、北緯38度15分10.2秒 東経140度51分23秒)および城下町(北緯38度15分36.9秒 東経140度52分14.5秒)を建設して仙台藩62万石の中心地とした。城下は、南北道の奥州街道と、仙台城大手門から石巻街道(塩竈街道)へとつながる東西道の大町とが交差する芭蕉の辻を商業中心とし、国分日町が移転してきた国分町、北目城下町が移転してきた北目町、そして伊達氏に従って移転してきた御譜代町6町などの町人町を城下の街道沿いに配置した。「東方微高地」では、小泉城および小泉城下町が政宗によって再編されて若林城(北緯38度14分12.2秒 東経140度54分7.8秒)および若林城下町となったが、死後に廃城および仙台城下町に吸収合併された。また、原町の宿場は石巻街道(塩竈街道)下り第一宿駅の原町宿(北緯38度15分52.1秒 東経140度54分1.8秒)に再編され、旧・北目城下町の西隣には奥州街道上り第一宿駅の長町宿(北緯38度13分50.8秒 東経140度53分7.9秒)が設置され、それぞれ仙台城下町とコナベーションした。この結果、仙台は「2城下2宿場連接都市」の様相を呈した。またこれ以降、奥羽(東北地方)最大都市となった(参照)。旧・陸奥府中では、塩竈(現塩竈市、北緯38度19分4.1秒 東経141度1分13.9秒)が仙台城下町の外港として発展し、塩竈と仙台との間に造られた運河系により物流の中継地となった蒲生(北緯38度15分33.5秒 東経141度0分28.8秒)や原町も発展した。
明治になると、東京と青森のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置する当地に東北鎮台(→仙台鎮台→第2師団)が設置されて陸軍施設が集まり、「軍都」の側面を持ち始めた。1878年(明治11年)に仙台区となり、1882年(明治15年)に木道社が日本初の人車軌道(後に日本で2番目 の馬車軌道に転換)を仙台 - 蒲生間に開業。1887年(明治20年)には旧制二高が創立、日本鉄道(現JR東北本線)仙台駅も設置された。同駅の設置により、木道社は廃業して蒲生は中継地としての地位を失い、船運中心の江戸時代に発展した石巻や塩竈から、鉄道が集積する仙台に商権が移って、現在に至る「商都」の側面を手に入れた。
1889年(明治22年)4月1日に市制施行。日露戦争を機に1907年(明治40年)には東北帝国大学(現・東北大学)が創立し、「学都」としての地位を確立。また、同年から大正、昭和初期にかけて「五大事業」を推進して近代都市へと脱皮し、「森の都」や「杜の都」と呼ばれるようになった。中心商業地は一番町へと移り(参照)、郊外ではかつて宮城郡役所が置かれた原町、名取郡役所が置かれた長町など隣接町村と合併して、これら新市域に工場地区を形成した。また、秋保電気鉄道や日本初の旅客用地下鉄を開業した宮城電気鉄道などの沿線には行楽地が開発された。
1941年(昭和16年)、鉱工業が発達する福島県・秋田県に続いて東北地方で3番目に日本銀行の支店が置かれるなど、太平洋戦争前後に中央省庁の出先機関が集積する「行政都市」としての側面を得た。統制経済下で困窮した商工業者が満州国に渡って仙台村を拓いたり、仙台空襲により中心部が廃墟となったりした戦争が終わると仙台駅前には大規模な闇市が生まれ、東北各地との間で鉄道を使った物資の集散もなされた(参照)。戦後占領期には戦災復興事業により、市街地に広幅員道路が縦横に建設されて現在の都心部の基盤となった。なお、闇市に替わって公定価格マーケットや路上の屋台が市民生活を支える一方、宮城県に進駐した約1万人のGI向けに仙台駅北側のX橋(宮城野橋)周辺には歓楽街が誕生。X橋は日本ハードボイルド小説の嚆矢の舞台となった。
高度経済成長期になると、企業の支店が多く進出して第三次産業が伸長し、支店経済都市としても発展していく。1964年(昭和39年)の新産業都市指定を機に、都市計画区域を隣接する宮城郡泉町(1971年より泉市、北緯38度19分34.9秒 東経140度52分53.8秒)・宮城町(北緯38度16分7.2秒 東経140度45分50.3秒)、名取郡秋保町(北緯38度15分30.1秒 東経140度40分16.9秒)に広げ、さらに1970年(昭和45年)には12市町による「仙塩広域都市計画区域」が指定された。すると人口集中地区 (DID) の急速な拡大とモータリゼーションが促進され、都心部の交通渋滞解決の必要から国道4号仙台バイパス沿いに工業・流通地区を新設、業者が移転して空いた国分町は歓楽街に転換していった。また仙台市地下鉄の計画も始まり、1976年(昭和51年)には仙台市電が廃止された。市電廃止は、「2城下2宿場連接都市」期における市街地の縁にあって、かつ市電と鉄道のターミナルだった北仙台・原町・長町の市内3拠点の商業中枢性を奪う結果も招いた。
1962年度(昭和37年度)から県内総生産で、1980年(昭和55年)国勢調査からは人口でも(参照)、福島県を抜いて宮城県が東北最大県となった。すると仙台市は、泉・宮城・秋保の1市2町を編入合併し、県から権限を移譲されて市制100周年の1989年(平成元年)4月1日に全国で11番目となる政令指定都市に移行(参照)。この間、1982年(昭和57年)の東北新幹線開業に合わせ、仙台駅の建て替えと大規模なペデストリアンデッキを伴う駅前整備がなされ、1987年(昭和62年)の政宗ブームや地下鉄南北線開業に始まるバブル景気期には民間投資と箱物行政(参照)により都心部に高層ビルが建ち並び始めた(参照)。
一方で市は郊外部において、北の泉中央副都心、南の長町副都心、東の仙台港副都心(現みなと仙台ゆめタウン)、西の愛子副都心の4つの副都心を設定した。しかし、地下鉄沿線の泉中央・長町の両副都心やロードサイド店舗に物販・職場が郊外化する傾向が見られるようになったため市は、バブル崩壊後の1990年代後半からコンパクトシティを志向するようになり、都心部への「アクセス30分構想」を進めている(参照)。
2000年代に入ると高速バスの仙台 - 福島線や仙台 - 山形線などにおける値下げ・増便競争、および仙台発着便の新規開設が進み、県外からの集客力が一気に増強した。なお、JR仙台駅東口側一帯 における土地区画整理事業に伴って宮城野通が開通し、その地下にJR仙石線の地下新線が移転開通、東口駅前広場も完成した。そこに2004年(平成16年)、宮城球場(北緯38度15分23.7秒 東経140度54分9.5秒)を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルス(チームカラーがクリムゾンレッド)が新規参入すると、都市計画用途地域で赤系色に塗られる地域(赤:商業地域、橙:近隣商業地域)への県外・海外資本の投資が進み「レッドバブル」と呼ばれた。2006年(平成18年)に仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(2008年10月1日 - 12月31日)の開催が決定すると投資は郊外を含めて加速、「ミニバブル」「プチバブル」などと呼ばれる活況を呈した(参照)。2008年のリーマン・ショック後の景気後退に加え、東日本大震災で大きな被害を受けた。しかし、震災後は復興の拠点となる一方、2015年(平成27年)の地下鉄東西線の開業も重なり様々な開発が活発化している。