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京都大学

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京都大学(きょうとだいがく、英語: Kyoto University)は、京都府京都市左京区吉田本町36-1に本部を置く日本の国立大学である。1897年創立、1897年大学設置。略称は京大(きょうだい)。旧帝国大学7校の1つであり、文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。

概観[編集]

大学全体[編集]

京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学である京都帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、精神的な基盤として「自由の学風」を謳っている。また、西部講堂のロックコンサートなどに代表される京都地区における文化発信地としての役割も担ってきた。

建学の精神(理念・学是)[編集]

創立以来「自由の学風」を建学の精神としている。国立大学法人となった後に制定された京都大学の基本理念にも引き継がれた。

学風および特色[編集]

京都市内の繁華街から離れた古都の風情を残す落ち着いた環境の中にあり、何事も学生の自主性に任せるという「自由の学風」を標榜している。学生寮の入退寮選考を学生に任せた結果、無学籍者も居住するようになった。リベラルな学風の傾向にある。毎年行われる11月祭や折田先生像を巡る落書き、卒業式での仮装などにもその一端を垣間見ることができる。

京都大学や(前身の)京都帝国大学では、それらの自由の拡大あるいは縮小を巡る攻防戦が繰り返されてきた。滝川事件は最も有名な事例の一つである。

教育および研究[編集]

研究所・研究センター[編集]

京都大学は学部・研究科以外に19の附置研究所・研究センターを設置している。2010年3月現在、国内の大学で最多である。2020年4月時点で、そのうちののべ14の研究所・研究センターは文部科学省「共同利用・共同研究拠点」に認定されており、国内の大学で最多である。

共同利用・共同研究拠点の前身に当たる「全国共同利用型附置研究所・研究施設」の仕組みを初めて採用したのは京都大学の基礎物理学研究所である。これらの事実について京都大学の関係者は「幅広い分野において日本を代表する学術研究拠点となってきた、京都大学の社会的特徴を表している」と考えている。

国内・世界との比較[編集]

タイムズ・ハイアー・エデュケーションによる『THE世界大学ランキング 2023-2024』(2023年度)では、世界同点第55位、アジア同点第10位、国内第2位(同誌の世界大学名声ランキングでは第26位、アジア第5位、国内第2位)である。またQS世界大学ランキング 2024(2023年)では、世界第46位、アジア第9位、国内第2位である。

タイムズ・ハイヤー・エデュケーションがベネッセと連携して日本の大学の評価を発表している『THE世界大学ランキング日本版2023』では、前年に総合順位を4位から5位に繰り下げたままの結果となり、第5位に甘んじた。

受賞[編集]

2019年10月10日現在、卒業生から8人、ゆかりのある人物も含めると11人のノーベル賞受賞者(いずれも自然科学分野)を輩出している。これはアジアの大学で最多である。フィールズ賞、ラスカー賞、ガードナー国際賞の受賞者数も国内の大学で最多である。

沿革[編集]

京都大学の起源は文久元年8月16日(1861年9月20日)に長崎に設立された長崎養生所(その後、長崎精得館へ改称)まで遡る。長崎精得館の理化学部門は、当初は江戸にあった開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていたが、明治維新の混乱で実現しなかった。慶応4年(1868年)に明治政府は「理化学校」を舎密局(せいみきょく、後の理学校)として大阪に開設することを決定、明治2年(1869年)に開校した。明治3年(1870年)、理学校は明治2年10月24日(1869年11月27日)に開設された洋学校と合併、開成所となる。開成所はその名称を大阪英語学校 (旧制)、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校と変遷させ、1886年(明治19年)に公布された中学校令によって第三高等中学校と改称する。第三高等中学校は1889年8月1日に京都市吉田町に取得した新校地へ移転した。1894年に公布された高等学校令に基づいて第三高等中学校は旧制の第三高等学校(以下、本記事において「第三高等学校」は特に断りのない限り、旧制第三高等学校を指す)となる。

帝国大学令制定後、近畿地方にも帝国大学の設置を求める声が上がっていたが、財政難のため見送られ続けていた。1895年に西園寺公望は日清戦争で得た賠償金を基に第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行う。最終的に第三高等学校を東一条通の南側(現在の吉田南キャンパス)に移転し、高等学校の土地・建物を大学が利用するという案が採用され、翌年、予算処置が可決される。1897年6月18日に京都帝国大学設置に関する勅令(明治30年勅令第209号)が制定され、「京都帝国大学」が発足する。

創設時の計画では1898年にまず法科大学から設置する予定であったが、工科志望者の急増により1年前倒しという形で、創設と同年の1897年に京都帝国大学理工科大学が設置された。続いて1899年京都帝国大学法科大学および京都帝国大学医科大学、1906年京都帝国大学文科大学を設置し、約10年をかけて分科大学を設置した。初代総長(1897年 - 1907年)には文部省専門学務局長の木下広次が就任。事務局長に当たる「書記官」には中川小十郎が就任した。

当時の総長の意向もあって、「研究・教授・学修の自由を重んじるドイツ式」を採用、ドイツの大学のシステムに倣った。高根義人の主導によるこの方針は現在の「自由の学風」に影響を与えたといわれる。法科大学の卒業生の高等文官試験での不振を端として転換されたものの、京都大学に独特の学風を根付かせる端緒となったことは確かである。

1919年(大正8年)に分科大学制が学部制に変わった。その年には、経済学部が法学部から分離して独立の学部となり、1923年には農学部の設置と学部の増設が相次いだ。農学部増設と同じ年には本部構内に京都大学のシンボルとして親しまれている時計台を持つ大学本館が完成している。1926年には京都大学初の附置研究所に当たる化学研究所が設置された。

昭和に入ると思想関係の締め付けが強化された世相を反映して、京都大学でも思想事件が相次ぐ。1928年(昭和3年)、文部省はマルクス経済学者の河上肇教授の辞職を要求。教授会は河上の辞職を認める決議を出し、河上は大学を追われることになる。さらに1933年には鳩山一郎文部大臣が法学部の瀧川幸辰教授の刑法理論が「赤い思想」であるとして休職処分にしたことから、法学部の全教官が辞表を提出。総長も文相と会見、辞意を表明したものの文部省からの切り崩しに遭い、結局瀧川ら7人の教官が大学を去る事態となった(滝川事件)。

日中戦争激化に伴う戦時体制の強化に伴い、日本精神史(文学部)、東亜経済政策原論(経済学部)、航空学・燃料化学(工学部)などの国策に沿った講座が設けられた。太平洋戦争の開戦後、学生を軍隊風に編成する目的で「京都帝国大学報国隊」が結成される。

また、京大医学部出身の軍医である石井四郎は、満州国の関東軍に731部隊を設立し、化学兵器や生物兵器の開発や、捕虜や罪人に対する人体実験などを行った。これに対し、医学部長を務めた戸田正三や、石井の指導教員であった医学部教授の清野謙次は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した。

1943年、文系大学生の徴兵猶予が停止され、学生が続々と戦場に赴いた。京都帝国大学の学徒出陣壮行会では、総長の羽田亨を先頭に平安神宮に参拝、必勝を祈願したという。

第二次世界大戦終結後、公職追放によって大学を免職になる教授が出る一方で、滝川事件で大学を去っていた瀧川幸辰らが大学に復帰した。1946年から女子の入学が認められた。創立五十周年に当たる1947年には大学名から「帝国」が削られて京都大学と改称。1949年には第三高等学校を統合して、新制大学となった。同年には、理学部教授湯川秀樹が日本人初のノーベル賞に輝き、京都大学ではこれを記念して湯川記念館を設置。その後、湯川記念館は基礎物理学研究所に改組されている。

1968年、青年医師連合の京都大学の支部による医学部大学院入試ボイコットの呼びかけに応じなかった受験生に青医連メンバーが暴行を働いたいわゆる「青医連事件」が発生。これを端緒として教養部は無期限ストに入り、学生部は閉鎖された。東大のような入試中止という事態は免れたものの、戦後初めて卒業式が中止に追い込まれ、さらに翌年度になってもいくつかの建物の閉鎖は依然続き、全面解除は9月まで持ち越されている。なお、1973年度は、入学式が中止になっている。

1992年(平成4年)、総合人間学部が設置され、翌年には教養部が廃止、同時に大学院大学への移行も行われ、現行の大学組織の形に改編された。1997年に京都大学は創立百周年を迎えた。そして2004年、時代の流れにより国の改革の一つとして国立大学法人法が施行され、その規定により京都大学は国立大学法人に改組した。2017年6月、指定国立大学法人に指定される。

本稿ではこれらの経緯から、創立は第三高等学校の前身である舎密局の設置年である1869年、設立は京都帝国大学が誕生した1897年としている。



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