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二条城

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二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある日本の城。江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)である。

京都市街の中にある平城で、足利氏・織田氏・豊臣氏による二条城もあったが(二条城#旧二条城跡について)、現存するものは徳川宗家の城のみである。当城は京都御所の裏鬼門に位置し築城理由には都のある江戸城の分身の役割として徳川家康は朝廷のある京都御所・公家町及び京都の守護並び上洛時の居城として造営した城となる。

二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。 

明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は皇室の離宮へ変遷した。その後、1939年(昭和14年)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。

城内全体が国の史跡に指定されている他、荘厳華麗な透彫欄間と金碧画や可憐な花鳥画などの牆壁画とともに本来の貴重な遺構を伝える日本唯一の将軍家の城郭御殿である二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。

併せて1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録された。

旧二条城跡について[編集]

日本の歴史書において二条城と呼ばれることのあるものは複数ある。

  1. 室町幕府13代将軍・足利義輝の御所。もともとは管領の斯波氏の邸宅・武衛陣(武衛邸)のあった所。「二条御所武衛陣の御構え」などと呼ばれていた。現在は単に二条御所とも呼ばれている。
  2. 室町幕府15代将軍・足利義昭の御所として、織田信長によって作られた城。上記の義輝の二条御所を改築、拡張したもので、こちらも二条御所と呼ばれている。この地は二条通からは遠く離れている。ただし、平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現・椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の二条御所とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
  3. 織田信長が京の滞在中の宿所として二条晴良からその邸宅・二条邸を譲り受けて整備したもの。後に皇太子の誠仁親王に献上している。この邸宅は「二条新御所」と呼ばれる。この「二条」は二条家の屋敷であったことがその由来となっている。
  4. 徳川家康が京都の守護および上洛時の宿所として造営した近世の徳川将軍家(現在:徳川宗家)の城。後の近代には宮内省の所管となり、「二条離宮」を経て、現在は「二条城元離宮二条城)」と呼ばれる。

現存するのは4の城である。

1と2は同じ場所に造られた御所である。1を「二条城」と称した例は当時から現代に至るまで無いが、2の前史としてここに紹介しておく。

2と3は同じものと見る説がかつてはあったが、『信長公記』やその他の史料、及び発掘結果、残存地名などを根拠として、別のものとするのが現在では通説となっている。2と3について「二条城」と呼ぶのは、4が完成した江戸時代以降のことであり、4と区別する趣旨で「旧二条城跡」と呼ばれている。

この節では、近世以降の現在の二条城である4.の前史として1の「武衛陣の御構え」と、2と3の「旧二条城跡」について略説する。

足利義輝の二条御所(武衛陣の御構え)[編集]

永禄8年(1565年)戦国乱世の中、義輝は幕府の重鎮であった斯波氏(しばし)の屋敷跡・武衛陣に自らの城を築いた(斯波氏の屋敷は洛中洛外図にも「ぶえい」として登場している。また、現在の旧二条城跡地の地名である「武衛陣町」は、斯波氏の職名を由来としているとされている)。しかし完成寸前の6月12日、三好三人衆に襲撃されて焼失している(永禄の変)。その後、跡地には真如堂が移された。

足利義昭の二条御所(二条古城)[編集]

永禄の変の後、義輝の弟の義昭は織田信長の武力を後ろ盾として、永禄11年(1568年)に京へ上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていた。しかし永禄12年1月、またしも三好三人衆らによる襲撃を受ける(本圀寺の変)。当時京都にいた信長の家臣達、および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、これを受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、さらに改築をすることを決意する。場所は武衛陣のの御構えの跡地を中心に北東へ拡張、約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。

改築では信長自身が普請総奉行として現地で陣頭指揮を執り、御殿などの建築を統括する大工奉行には村井貞勝、島田秀満が任じられた。建物の多くは本圀寺から移築され、屏風や絵画などの什器までも本圀寺から運び込まれた。また、細川氏一族で分家・細川典厩家の細川藤賢邸から、「鳴り物入り」と呼ばれる「藤戸石」が搬入された。築城は約70日という短期間で終え同年4月に義昭はここへ本拠を構えた。城の石垣には京都中から集められた墓石や石仏も使われ、城を訪れた山科言経は「石くら」(石垣)に驚嘆している。この事実はこの城が初めて本格的に石垣を積んだ城であったことを示している。周辺からは金箔瓦も発掘されており急ごしらえにしては豪壮な殿舎であったと考えられている。当時は「武家御所」「武家御城」「公方様御構へ」などと呼ばれていた。なお、元亀3年(1572年)3月、信長は義昭の強い勧めもあってこの城の北方、武者小路辺に自らの屋敷を着工している(未完成)。建築物を奪われることに困った本圀寺の僧侶らは松永久秀に、信長への移築中止の取り成しを頼んだが無理だと断られた。また1,500人の法華信徒らが莫大な品を信長に献上し、さらに望み通りの金銭の提供も申し出て免除を請い、将軍や朝廷にも働きかけたが、信長は取り合わなかった。

ところが義昭と信長の関係は徐々に悪化し、元亀3年に義昭の信長追討令に応じた武田信玄が西上を開始し三方ヶ原の戦いで勝利を収めたのを知ると、翌天正元年(1573年)3月に義昭は二条城において信長に対し挙兵する。信長は上京の町屋を焼き払い二条城を包囲するが、城自体に対しては攻撃を控え正親町天皇の勅命を得て、和議が成立する。しかし、7月に再び義昭は宇治の槇島城において挙兵する(槇島城の戦い)。この時、二条城には公家の日野輝資と高倉永相、義昭の側近で幕臣である伊勢貞興と三淵藤英が守備のため置かれたが、織田軍に包囲されると一戦も交えず降伏した。この際に御殿などは兵士たちによって、破壊されたと伝えられる。

この直後、槙島城の義昭も降伏し畿内から追放され、室町幕府は実質的に滅ぶことになる。二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。

1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで京都市営地下鉄烏丸線建設に先立つ烏丸通の発掘調査が行われ、この信長の二条城の石垣および2重の堀の跡が確認された。この際発掘された石垣にあった石仏が西京区の洛西竹林公園内に展示されている。また、石垣の一部が京都御苑椹木口の内側及び現二条城内に復元されている。さらに、別地点における発掘調査によって検出された堀跡から出土した石仏群は京都文化博物館に展示されている。

織田信長・誠仁親王の「二条新御所」[編集]

織田信長が烏丸-室町の御池上る付近に設けた城館。

信長は天正4年(1576年)4月に京に滞在した際、二条通南側の妙覚寺(現在地とは異なる)に宿泊したが、寺の東側に隣接する公家の二条家の邸宅の庭の眺望を気に入った。二条邸(二条殿・押小路烏丸殿)は当時、「洛中洛外図屏風」に必ず描かれるほどの名邸であった。住居者の二条晴良・昭実(妻は信長の養女)父子は信長に邸宅を譲ると、そのはからいにより報恩寺の新邸に移徙している(『言経卿記』)。信長はこの邸宅を上洛した時の宿所とするために改築することとし、「二条殿御構へ」の普請を京都所司代の村井貞勝に命じた。

翌年の閏7月に信長は初めて入邸、8月末には改修が終わり、以後2年ほどはこの「二条新御所」(「二条御新造」「武家御城」とも)に自ら居住し、京の宿所(本邸)として使用する。天正7年(1579年)には、この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。同年11月22日に、東宮・誠仁親王と若宮・和仁王(後の後陽成天皇)がこの二条新御所に移り住んでいる。なお、この際信長は五の宮を猶子としたとされており、これを正親町天皇の五の宮である誠仁親王にあてる誤解があるが、正しくは親王の五の宮が猶子となったのである。この頃の二条御所の様子が江村専斎『老人雑話』に「信長の時に二条殿をば報恩寺を替え地にして移し、小池の御所を取立て、屋形を結構し、小池に反り橋などをかけ、烏丸通に東の壁をかけ、室町の東側の町屋はありて、町屋の後に長壁をかけたり、門は南面なり」と記録される。これによれば「義昭の城」に比べて遥かに小さくこの城に対する信長の考え方がうかがえる。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きると、妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠主従はそれを知るや本能寺の信長と合流するため出撃しようとしていた。しかし、そこに村井貞勝父子らが駆けつけ、本能寺が既におちた旨を伝え、防御能力に優れた二条新御所へ移ることを進言した。信忠は誠仁親王らを二条新御所から出した上でここに籠城し、これを攻囲する明智光秀勢を相手に奮戦するが、貞勝ら60余名は討ち死にし、信忠は自害、二条新御所は灰燼に帰した。

現在は両替町通御池上ルに「此附近 二条殿址」、室町通御池上ルに「二条殿御池跡」と彫られた石碑が建っている。付近には「二条殿町」「御池之町」及び本能寺の変ゆかりの「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残る。なお、この「御池」が現在の御池通の名前の由来となった。跡地には、変の直後、秀吉により信忠の菩提を弔うため大雲院が創建されたが、間もなく秀吉の京都改造に伴い寺町四条下ルに移転させられた。

この二条新御所は義昭の二条城跡に設けられたとする説があるが、山科言経が天正4年9月13日(1576年10月5日)に「右大将家二条新邸を見物」、翌14日(10月6日)には「武家古城を見物」し石垣の取り壊し・搬出されている様子を目撃したことが『言経卿記』に記されているから、明らかに別の場所にあったと考えられる。また誠仁親王当時、禁裏「上の御所」に対し「下の御所」と呼ばれていたから二条新御所は禁裏南方にあったと思われ、御所西にあった義昭の二条城跡に築かれたとするのは不自然である。さらに本能寺の変の際、信忠は陣を妙覚寺から二条新御所へ移しているから両者は近傍に在ったと推測される。同じ時、信忠恩顧の小沢六郎三郎は二条新御所に駆けつけたが明智軍に囲まれていたため「町通り(現新町通)二条(二条通のこと)」へ「上が」って御構えに駆け込んだと『信長公記』に記されているから、二条新御所は二条通南方にあったことが明らかであり、この点からも義昭の二条城とは別であったと判断できる。また、先に触れたように乱後、この地に信忠の菩提寺大雲院が建築されていることも有力な傍証となる。

羽柴(豊臣)秀吉の「二条第・妙顕寺城」[編集]

羽柴秀吉(豊臣秀吉)も二条に城を構えている。秀吉は信長在世中にも二条御新造の隣接地に屋敷を有していたが、天正8年(1580年)に信長によって没収されてお気に入りであった前関白・近衛前久に献上されている(『兼見卿記』)。皮肉にも本能寺の変の際、近衛家家人の逃げ出したこの屋敷を占拠した明智軍がここから二条新御所を攻撃したという話があり(『明智軍記』)、やがてそれに尾ひれが付いて前久が光秀に加担したとの風説が流された。その後天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。

聚楽第完成まで秀吉の政庁として使われ普段は前田玄以が在城した。所在地は二条城の東200メートル、現中京区小川押小路付近、地名に「古城(ふるしろ)町」「下古城(しもふるしろ)町」をのこしている。天正遣欧少年使節を引き連れて聚楽第の秀吉を訪ねた巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは前日に豪華な「秀吉の旧屋敷」に泊ったとあるが、位置、時期から言ってこれがこの二条第であった可能性が高い。

江戸時代[編集]

初頭[編集]

幕府は二条城と称したが、朝廷側はこれを二条亭と呼んだ。

  • 慶長6年(1601年)5月:関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決定、町屋の立ち退きを開始する。12月には西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行った(天下普請)。造営総奉行に京都所司代板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁に中井正清が任じられた。
  • 慶長7年(1602年):御殿・天守の造営に着工。天守は廃城となった大和国の郡山城から移されたものという。
  • 慶長8年(1603年)3月:落成(天守は慶長11年(1606年)に完成)。2月12日には、家康が伏見城にて征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に竣工直後の二条城に入城。同月25日には、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。そしてさらに同月27日には二条城にて重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。この手順は慶長10年(1605年)に家康の息子の2代将軍秀忠が、元和9年(1623年)に孫の3代将軍家光が踏襲するが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなった。
  • 慶長16年(1611年): 二条城の御殿(現二の丸御殿)にて家康と豊臣秀頼の会見(二条城会見)が行われる。
  • 慶長19年(1614年):大坂冬の陣が勃発。二条城は家康方の本営となり、伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続いて二条城から大坂へ駒を進めた。
  • 慶長20年(1615年): 7月17日に禁中並公家諸法度を二条城において公家一同を集めて大御所(前将軍)・徳川家康、二代将軍・徳川秀忠、元関白・二条昭実の3名の連署をもって公布された。
  • 元和元年(1615年):大坂夏の陣において家康の暗殺を目論む陰謀が明らかとなり、徳川方の古田織部の家臣木村宗喜が捕縛、織部は切腹して家財没収となった。
  • 元和5年(1619年):秀忠が娘(和子)の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。この際の縄張(基本設計)は秀忠自らが藤堂高虎と共に行った。
  • 元和6年(1620年):6月18日に和子が二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。

前期[編集]

  • 江戸時代初期には、 二条城二の丸御殿勅使の間において、紫衣事件の和解になった場所とされる。
  • 寛永元年(1624年): 徳川家光が将軍、秀忠が大御所となったこの年から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。城域は西に拡張され、そこに新たな本丸が築かれることになり、天守も新本丸に新たに建てられた。以前に郡山城から移されたという初代天守は淀城に再び移されると、新たな2代目天守として廃城となった伏見城の天守が移築された。作事奉行には現在の特別名勝である二の丸庭園を作庭した小堀遠州、五味豊直(後の京都郡代)が任じられる。尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当した。 並行して寛政期の大改築に二の丸御殿も新築同様に改築を行なった。若き棟梁である狩野探幽をはじめとする狩野派一門が江戸幕府の御用絵師として天井も含め長押の上まで全体に豪壮で絢爛豪華な障壁画に仕上げた。このような御殿が現存する城は二条城の国宝・二の丸御殿が唯一である。
  • 寛永2年(1625年):二条城に将軍不在の間の管理と警衛のための二条城代と二条在番が設置された。
  • 寛永3年(1626年):行幸は9月6日から5日間に渡って行われ、その間舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。(二条城の最盛期)新たに建てられた行幸御殿は上皇となった後水尾院の御所に移築、他は多くの建物が解体撤去された。
  • 寛永11年(1634年):7月に秀忠の死後家光が30万余りの兵を引き連れ上洛、入城したのを最後に二条城が将軍を迎えることは途絶え、幕末までの230年間、歴史の表舞台から姿を消す。その間に暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化した。

中期[編集]

  • 元禄12年(1699年):二条城代が廃止され、その職務は二条在番が担当することとなった。
  • 寛延3年(1750年):落雷により天守を焼失。
  • 天明8年(1788年):天明の大火の際に飛び火が原因で本丸御殿、隅櫓などが焼失。破損部分に関しては修理が行われたが、焼失した建物は再築されることなく、幕末を迎える。

幕末[編集]

  • 万延元年(1860年):京都地震が発生。御殿や各御門、櫓などが傾くなど、大きな被害を受けた。
  • 文久2年(1862年):閏8月交代制の二条在番は廃止され、代わって常勤制の二条定番が設置された。朝廷の監視および折衝を担当する京都所司代は二条城の北で政務を執っており、二条城は幕府の政庁としては全く使用されていなかった。このため、14代将軍徳川家茂の上洛に備え二条城の改修が行われる。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。
  • 文久3年(1863年):3月に家茂が朝廷の要請に応えて上洛。将軍が二条城に入るのは230年ぶり。
  • 慶応元年(1865年):家茂は再度上洛し二条城に入るが、直後に第二次長州征伐の指揮を執るため大坂城へ移る。
  • 慶応2年(1866年):夏に大阪城に移った家茂が死去。その後幕閣によって将軍は一橋慶喜と決定されるが、慶喜は一時就任を拒絶。周囲の度重なる説得の末、12月に二条城二の丸御殿勅使の間において15代将軍拝命の宣旨を受ける。
  • 慶応3年(1867年): 9月に慶喜が政庁宿所を若狭小浜藩邸から二条城に徳川将軍家居城として拠点を移す。10月には二条城二の丸御殿にて大政奉還についての会議を行い、10月14日に大政奉還の上奏を行う。10月24日には将軍職辞職願を上奏するが勅許され引き続き将軍職を担うが、12月には明治新政府樹立による王政復古 (日本)及びに小御所会議により将軍職辞職の勅許並びに辞官納地命令が二条城に伝達される。

近代[編集]

  • 慶応4年(1868年):1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官が設置された。2月3日、明治天皇が初めて行幸し、白書院で幕府討伐の詔を発した事により新政府の新しい中央政庁として機能しかける。3月、明治天皇、太政官が再び行幸した。4月17日、本丸に仮皇居、二の丸に太政官を造営する案が命じられる。閏4月21日、太政官は宮中に移転した。
  • 明治3年(1870年) - 東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。
  • 明治4年(1871年) - 二の丸御殿が京都府庁舎となる。
  • 明治6年(1873年) - 陸軍省の所管に移される。

二条離宮として[編集]

  • 明治17年(1884年)7月 -正式に宮内省の所管の「二条離宮」となり皇室の離宮的・迎賓館的な役割を果たす。
  • 明治18年(1885年) - 京都府庁が移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年(1892年)まで行われる。
  • 明治26年(1893年)〜27年(1894年):京都御苑の今出川門脇に位置する旧桂宮邸の御殿群を明治天皇の意向により本丸へ移築し、本丸御殿とする。
  • その後明治期には、皇太子時代の大正天皇が10回滞在され離宮としても重要な役割も果たした。主に本丸御殿は宿泊の場として使用され、二の丸御殿は勅使の間において嘉仁皇太子(のちの大正天皇)の拝謁の場として明治33年(1900年)と明治40年(1907年)にご使用になられている。
  • 大正4年(1915年) - 大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として二条離宮が使用され(現清流園の位置)、それに伴い南門が増築される。饗宴場の建物に使用された建材は、岡崎公会堂に転用された。また、2015年のフジテレビのテレビドラマでの秋山徳蔵の生涯を取り上げられた「天皇の料理番」で当時の二条離宮であった大正天皇の饗宴の儀が重要場面として取り上げられている。
  • 昭和14年(1939年) - 京都市に下賜される。
  • 昭和15年(1940年) - 「恩賜元離宮二条城」として一般公開される。

現代[編集]

  • 第二次世界大戦後、GHQの意向で二の丸北側にテニスコートが作られたが、昭和40年(1965年)に庭園に変えられた。
  • 昭和27年(1952年)-文化財保護法の制定により、二の丸御殿6棟が国宝に、東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。
  • 昭和28年(1953年)二の丸庭園が特別名勝に指定された。
  • 昭和61年(1986年)5月9日-来日した英国のチャールズ英国王(当時:チャールズ皇太子)・ダイアナ元妃のため、元離宮二条城の清流園においてガーデンパーティーが行われた。
  • 平成6年(1994年)12月15日 - ユネスコの世界文化遺産に「古都京都の文化財」として二条城元離宮二条城)が登録される。
  • 平成15年(2003年)11月21日 -米国 ハリウッド俳優トム・クルーズが元離宮二条城に映画『ラスト サムライ』の先行上映で公式訪問する。
  • 平成18年(2006年)4月6日 - 日本100名城(53番)に選定される。
  • 平成23年(2011年)度から、国宝の二の丸御殿など文化財建造物を中心に城全域の修理や整備を行う予定で一口募金を募っていたが、応募は市の期待を大きく下回っていたため、平成31年(2019年)4月1日と令和元年(2019年)10月1日の税制改革により2段階で入場料を引き上げることによって修理費用を補填している。
  • 平成25年(2013年)8月、修理の終わった唐門で天皇家の家紋(菊紋)の下に徳川家の家紋(葵の紋)があったと発表された。城内の瓦などでは葵の紋が削り取られている個所もあり、明治に時代が変わり天皇中心の政治に変わっていった名残だと推測されている。


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