中東
中東(ちゅうとう、英語: Middle East)は、ヨーロッパから見て近辺にあるアジア・アフリカの地域概念を指す。狭義では西アジアの大部分にエジプト及びイランを含めた国々、広義では中近東とほぼ同じ範囲を指す。
概念[編集]
中東の概念は物理的に明確な地理的要因に由来するものではなく、特定の主体から見て東に位置する地域を指し示す相対的な概念であり、その範囲は国際政治の変化や文化的な認識の変化により時代とともに伸縮してきた。
19世紀には「中近東(Near and Middle East)」の呼び方のほうが一般的であった。「中東」を最初に使用した人物は米国の海軍軍人アルフレッド・セイヤー・マハンで1902年のことといわれているが、その範囲は曖昧であり、厳密な定義をして用いるようになったのはイギリスの政治行政官である。極東(Far East)、中東(Middle East)、近東(Near East)などはイギリスからみた呼称として成立した。
「中東」はオスマン帝国の崩壊を背景にイギリスの最も重要な植民地であったインドに至る地域(トルコ、エジプト、シリア、イラクなど)を指す呼称として次第に形成された。また、「近東」は東方問題が焦点となる中でオスマン帝国の領域を可視化する呼称として形成された。そのため、当初の「中東」の概念は第二次世界大戦後に定着したものとは大きく異なる。「近東」とはトルコやアラブ世界にバルカン半島を含む地域を言った。また、第二次世界大戦以前において「近東」と並行して「中東」が用いられる場合、イランとコーカサス、アフガニスタン、中央アジア、さらに広義にはインドシナ半島やトルキスタンに至る地域を含むことがあった。
第二次世界大戦が起こるとイギリスは北アフリカや西アジアでドイツやイタリアなどと対戦し、そこでは作戦上使用する呼称として中東(MENA)が使われるようになった。
第二次世界大戦後は中東と近東の区別が曖昧になり、ニューヨーク・タイムズは同じ地域に2つの呼称を使用していたが1954年に「中東」に表現を統一した。また、アメリカも1957年のアイゼンハワー・ドクトリンで公式文書として初めて「中東」を使用し、1958年の国務省の見解で「中東」と「近東」は交換可能な用語と説明された。
アメリカの中東戦略[編集]
冷戦崩壊以降、国際安全保障環境は民族・宗教対立の表面化、核拡散、国際秩序の地域分化などが顕著となった。アメリカは、産油国でありながらかつ紛争の絶えない中東への介入を拡大させ、湾岸戦争後はイラクに対する敵視政策を拡大してきた。2001年における4年ごとの国防見直し (QDR) においては中東から東アジアにかけての広い地域を不安定の弧と位置づけ、対アジア戦略の中枢に据えてきた。中でも中東は紛争の絶えない地域でありアメリカの世界戦略の軸とされてきた。
こうしたアメリカの中東への介入によりアルカーイダはアメリカに対する敵視・敵対・テロ活動を増大させ、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が勃発、アメリカの富の象徴、ニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル(ワールド・トレード・センター)、並びにアメリカの国防機関の中枢、国防総省へのテロが発生し、時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、このテロを「新しい戦争」と呼び、ますます中東への介入を強めた。
しかし、国際法上、テロに対する戦争が困難だったアメリカはテロ支援国家を攻撃することによりこれに対抗しようとした。その結果がアフガニスタンのターリバーン政権打倒であり、イラク戦争であった。イラク戦争をはじめとするアメリカの中東戦略は国連安保理の承認を経ずに自国とイギリスを中心とした有志連合によって攻撃をしたため、国際社会から批判された。
アフガニスタンに対してはアフガニスタン戦争でターリバーン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したアフガニスタンの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、正式国会選挙、大統領選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、2014年末中のアフガニスタンへの派遣軍の全軍撤退をめざしているが、ターリバーンによるテロは収束せず治安回復や復興計画が進展していない。
イラクに対してはイラク戦争でフセイン政権を打倒し、国連安全保障理事会で採択したイラクの再建・復興プロセスに基づいて、暫定国会選挙、新憲法案の採択、憲法承認国民投票、首相の選挙と政府の樹立などの政治体制の変革を遂行し、テロが完全に収束せずテロによる死傷者が発生している状況ではあるが、2011年末にイラクへの派遣軍を全撤退させた。
日本との関係[編集]
20世紀前半の中東は欧米列強の侵略に悩まされた地域である。植民地支配からの独立後、また中東戦争時に欧米諸国が一斉に人材や資本を引き上げた時に西側諸国として唯一、政府開発援助や国際協力機構を通じて国際協力を続けた。日本にとっても豊かな産油国であるこれらの国との関係はエネルギー安全保障上において重要なパートナーであり、日本から東南アジア、インド洋、そして中東にかけて伸びる海洋交通路即ちシーレーンの防衛が課題となっている。
1970年代から1980年代にかけて新左翼系国際テロ組織の日本赤軍による活動拠点となり、多数の民間人が犠牲になったテルアビブ空港乱射事件や日航機ハイジャック事件などの日本赤軍事件の舞台ともなった。
アメリカ合衆国によるイラク戦争の開戦後は、日本もアメリカの同盟国としてイラク戦争の支持を表明し、イラク戦争の後方支援並びにイラク戦後復興支援に尽力している。日本のイラクへの自衛隊派遣に反対する人々は「アメリカの戦争への協力」、「アメリカのいいなり」、「イラク国民のためにならない」、「自衛隊の派遣は憲法違反」、「武装組織との戦闘によりイラク国民にも自衛隊にも死傷者が発生したらイラク国民の対日感情が悪化する」などの理由で批判し、日本の左派系のマスコミによって論争になった。イラクでアメリカ軍やイギリス軍を攻撃した武装勢力は、イラクに派遣された日本の自衛隊に対しては攻撃せず、自衛隊はイラクの武装勢力との戦闘による死傷者は発生せず、自衛隊もイラク国民を死傷させなかった。イラクからの自衛隊の撤退後に、イラクの大統領、首相、外相、その他の閣僚や政府幹部、国会議員団が来日して、日本の首相や閣僚と会談した時に、日本がイラク戦争後のイラクの復興に協力したことに感謝を表明した。