中島飛行機
中島飛行機株式会社(なかじまひこうき)は、1917年(大正6年)から1945年(昭和20年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。通称は中島(なかじま)。創業者は中島知久平。
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであり、日本軍向けに多くの軍用機を開発・製造した。現在のSUBARU、日産自動車の前身。
概要[編集]
1917年(大正6年)5月、中島知久平(元海軍機関大尉)によって、中島の出生地である群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に設けられた飛行機研究所が原点である。飛行機研究所は後に日本飛行機製作所と改称され、さらに中島飛行機製作所を経て、1931年(昭和6年)12月15日に中島飛行機株式会社となった。
1910年代の中島知久平は横須賀海軍工廠造兵部員として飛行機開発を担当しており、日本海軍式水上機、横廠式中島トラクター試作水上機、横廠式試作双発水上機、横廠式ホ号乙型試作水上機などの設計主務を行っていた航空機技術者であった。国産機開発にあたって中島は、官営ではなく民営の航空機メーカーが必須と思料し、その信念により海軍軍人としての道を辞して設立されたものが飛行機研究所、のちの中島飛行機である(#創業の辞)。
中島知久平は井上幾太郎陸軍少将(臨時軍用気球研究会委員経験者、のち陸軍航空部初代本部長)と懇意であり、1918年(大正7年)8月1日には帝国陸軍向けである中島初の国産航空機たる中島式一型1号機が完成。このうち2号機が数分間の初飛行を行うも安定性が悪く大破、また続く試作機も不具合が続出した。しかし1919年(大正8年)2月、中島式四型6号機が完全な飛行に成功、同年4月には陸軍から中島式四型(中島式五型)20機を受注。これは民間メーカーにとって日本初の航空機受注であり、晴れて中島(日本飛行機製作所)は航空機メーカーとして軌道に乗り、以後企業規模を拡大し日本最大の航空機・航空エンジンメーカーとなっていった。また、中島の成功をきっかけとして、三菱重工業、川崎航空機、立川飛行機、日立航空機、愛知航空機といった各航空機メーカー(航空機部門)の誕生が続くこととなる。
中島は陸海軍の軍需をメインに各種の軍用機を開発・生産した。主に技師長小山悌を設計主務者として開発。陸軍航空部隊の歴代主力戦闘機となった九一式戦闘機、九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」といった著名機で知られる。特に四式戦は「大東亜決戦機」と呼号され、「日本軍最優秀戦闘機」との評価もある。
また従来の日本軍戦闘機とは異なる、欧米的な要撃機の意欲作たる二式戦闘機「鍾馗」や、本格的な双発大型機である一〇〇式重爆撃機「呑龍」も送り出した。このほか試作や計画に終わったものの、エンジン六発の超大型重爆撃機「富嶽」、キ87 高高度戦闘機、キ201(ジェット戦闘爆撃機「火龍」)なども手がけている。
中島知久平は元海軍士官(予備役編入)であるが、民間航空機メーカーの設立や海軍休職・退職にあたって海軍上層部との間で確執があったこと、その一方で陸軍上層部からは理解が得られていたことから、当初の中島は陸軍機目線で航空機を開発していた。しかし中島式五型の成功以後は海軍からも受注して海軍機の開発・生産も行うようになり、三式艦上戦闘機、九〇式艦上戦闘機、九五式水上偵察機、九七式一号/三号艦上攻撃機、夜間戦闘機「月光」、艦上攻撃機「天山」、艦上偵察機「彩雲」など多くの海軍主力機を生み出した。なかでも特殊攻撃機「橘花」は日本初の国産ジェット機であった。
中島は機体のみならずエンジンメーカーとしても大手であり、九七戦に搭載された星形エンジン「寿(ハ1)」、一式戦「隼」や零式艦上戦闘機(三菱製)に搭載された「榮(ハ25)」、四式戦「疾風」や紫電改(川西製)に搭載された「誉(ハ45)」などを開発・生産している。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期の米軍による日本本土空襲においては、航空機産業は主要攻撃目標とされた。中島飛行機も多くの工場が戦略爆撃で破壊され、さらに壊滅を免れるための疎開作業で生産は停滞した。現在の東京都武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所は「ターゲットNo.357」という符号がつけられ、B-29からの高高度爆撃に加えて、5回目の空襲となった1945年2月15日には、バンカーヒルなどアメリカ海軍空母機動部隊の艦載機により攻撃された。なお東伏見稲荷神社(西東京市)には、中島飛行機武蔵製作所で空襲により殉職した二百余名のための慰霊碑がある。
1945年(昭和20年)4月1日には第一軍需工廠となり、事実上の国営企業として敗戦を迎える(中島飛行機自体は営業休止しつつ存続)。敗戦までに中島は計29,925機の航空機を生産した。
戦後はGHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないよう12社に解体された。中島の後身である富士重工業(現社名・SUBARU)はかつての航空機技術者ともども自動車産業に進出(スバル)、さらに1950年代には念願の航空機産業に参入している(富士重工業#航空宇宙部門)。富士重工業はその創立を「1953年(昭和28年)7月15日」とする一方で、創業は「中島知久平」が「飛行機研究所」を設けた「1917年(大正6年)5月」としている。
沿革[編集]
- 1917年(大正6年)5月 - 海軍を休職中であった中島知久平が、群馬県新田郡尾島町の養蚕小屋に「飛行機研究所」を創業。
- 12月21日 - 中島が海軍を正式に退官、「飛行機研究所」を尾島町から新田郡太田町の旧博物館に移転。所長中島や炊事使用人を含めて僅か9名の研究所であった。
- 1918年(大正7年)5月 - 川西清兵衛が経営に参画、「日本飛行機製作所」に商号変更。
- 1919年(大正8年)4月 - 陸軍から20機を受注。
- 11月 - 中島と川西がトラブル。川西は11月27日、中島に「30日までに所長辞退か工場買取りか」を迫る。
- 11月29日 - 新田銀行が10万円を融資し所長退任を免れる。
- 11月30日 - 中島は川西の申し出通りに会社を買取り提携解消、川西は去る。井上幾太郎陸軍少将の仲介で三井物産と提携。
- 12月26日 -「中島飛行機製作所」に商号変更。
- 1920年(大正9年)4月 - 陸軍から70機、海軍から30機受注。
- 1925年(大正14年)11月 - 東京府豊多摩郡井荻町に東京工場完成。
- 1931年(昭和 6年)12月15日 - 「中島飛行機株式会社」(資本金600万円)と改称する。
- 1933年(昭和8年) 2月 - 増資により資本金900万円となる。
- 1934年(昭和9年) 4月 - 社章を制定する。
- 11月1日 - 太田町に新しい機体組み立て工場・太田工場(現・SUBARU群馬製作所)が完成する。旧太田工場は「呑竜工場」と改称する。
- 1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機が陸軍に制式採用。
- 3月25日 - 増資により資本金2,000万円となる。
- 7月1日 - 太田工場を太田製作所に、東京工場を東京製作所に改称。
- 1938年(昭和13年) 4月 - 主に陸軍向けのエンジン組み立て工場として東京府北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所(現:NTT武蔵野開発センタ、都営武蔵野緑町二丁目アパート)を開設。
- 6月 - 東京府北多摩郡田無町に田無鋳鍛工場を開設。
- 11月2日 - 増資により資本金5,000万円となる。
- 1939年(昭和14年) 11月15日 - 田無鋳鍛工場を独立させて中島航空金属を設立。
- 1940年(昭和15年) 4月20日 - 海軍機専用組み立て工場として群馬県邑楽郡小泉町・大川村に小泉製作所(現:パナソニック東京製作所)を開設。太田製作所は陸軍機専用組み立て工場となる。
- 1941年(昭和16年) - 一式戦闘機「隼」が陸軍に制式採用。
- 2月 - 太田町・小泉町に太田飛行場(現:SUBARU大泉工場)が完成する。
- 11月1日 - 海軍向けのエンジン組み立て工場として武蔵野製作所の西隣りに新たに壁を設けて多摩製作所(現・武蔵野中央公園)を開設。
- 1942年(昭和17年) - 興亜工業大学の実習教育を受け入れを始める。
- 1943年(昭和18年)11月1日 - 陸軍向けの武蔵野製作所と海軍向けの多摩製作所を合併して新たに武蔵製作所とし、旧武蔵野製作所を東工場、旧多摩製作所を西工場とする。
- 1944年(昭和19年)1月 - 陸軍機専用組み立て工場の宇都宮製作所を開設、制式採用された四式戦闘機「疾風」の生産を開始。
- 4月 - 大型爆撃機「富嶽」の開発に着手、急ピッチで開発、研究を進める。
- 初夏 - 東京府北多摩郡三鷹町に試作・研究施設の三鷹研究所(現:国際基督教大学)が完成する。
- 12月 - 12月の集計で生産のピークを迎え全ての工場の集計で最高生産機数7,940機を記録。
- 1945年(昭和20年)4月1日 - 第一軍需工廠となり事実上国営化。中島飛行機は営業を休止しつつ存続。
- 8月 - 富嶽設計放棄により一部(「剣」「橘花」)を除いて設計室を全て解散、設計技師も生産現場に就く。
- 8月16日 - 敗戦により全工場返還を受け、社名を富士産業株式会社に改称、知久平取締役社長を辞任。8月22日乙末平が社長就任。
- 11月6日 - 富士産業株式会社は財閥会社として解体を占領軍より命ぜられる。
- 1950年(昭和25年)5月 - 解散。