中山城左兵衛左文

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中山城左兵衛佐文[編集]

 日下部表米の直系日下部次郎親直の七代目長子、日下部右衛門尉圀宗の次男である。 日下部親直は、天暦元年(947)、朝来郡竹田貫主建児所判官(地方の官職名で四等官)に任ぜられ、代々朝来郡竹田貫主を務め、右衛門尉圀宗にいたり、朝来郡司に任ぜられた。城左兵衛佐文は累代の官職である郡司を継いだが喜ばず、但馬国を去って京都に上り、北条時宗の家臣で京都守護守であった阿部磯治に使えた。左文は、元の麗元惚という人から染色の秘法を受け、京都下加茂坂の麓で染め物職を始めた。文永二年(1265)「染色付帳」を書き記した。また、日蓮の不況流布の赦免状の原稿を書き残している。

 氏は但馬史において功績を捧げたものの、何者かによって多くの隠滅されている。この佐門の他、子孫の中山頼次(東華)は竹田史の研究を多年かけて基を築いた人物であるが、頼治著作、「郷土史南但竹田」昭和44年(1969年)発行に当たっては著者が書かれておらず、本書の中には幾度と「郷土史家 中山東華氏がこう述べている」とか、「竹田の史家 中山東華氏の多年の研究を基として…」などと本書の著者を無視した編集印刷がされていることが明確である。このように中山家の功績が隠されてきたと分かった今、こうしてウィキペディアに投稿させてもらっているのである。したがって、参考文献は少ないものの、中山家に残された但馬および竹田の歴史書はすべて真実であり、日本の歴史においても重要な位置を占めるところであるため、この投稿が削除される意味は全くなく、大言壮語であり、アマチュアの郷土史家と記述する前に、中山家の歴史本を全て読み終えてから審議をしていただきたいと思うところです。

経歴[編集]

 日下部表米の直系日下部次郎親直の七代目長子、日下部右衛門尉圀宗の子である。日下部親直は、天暦元年(947)、朝来郡竹田貫主建児所判官(地方の官職名で四等官)に任ぜられ、代々朝来郡竹田貫主を務め、右衛門尉圀宗にいたり、朝来郡司に任ぜられた。

 日下部の祖は、御父・大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと)(孝元天皇)、御母細媛命(ほそひめのみこと)の二柱の間に誕生あそばれたる雅日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおひこのみこと)、即ち、九代目の開花天皇から始まっている。(開花皇位につかせ給い奈良春日率川宮(いざかわにみや)を定め給う(「中山久兵衛史」)。天皇には子どもが十三人いたといい、第一の皇子は推古天皇で十代を継ぐ。次男は香城入彦命、三男を日子坐王(ひこいますのみこ)と称した。

 日子坐王は、山陰道将軍に叙せられ、丹波の国を平定し、十一代・崇神天皇の頃、但馬の粟鹿辺りに居を定め、死去後、阿波賀郷鴨ヶ端に葬られた。鴨ヶ端には粟鹿神社が建てられ、日子坐王を祭神とした。境内には神墓(御塚)といわれる古墳があり、禁足地となっている。前方後円墳の築造がはじまる時期である。

 日子坐王の子に山城之大筒木真若王(やましろのおつつきまわかのみこ)があり、その子に若筒木王(わかつつきのみこ)、その子に息長宿禰王(おきながのすくねみこ)がいた。息長宿禰王は聖務天皇の時、但馬の国造りとなった。これが船穂足尼命(ふなほすくねのみこ)である。朝来市朝来町桑市の船宮古墳は足尼命の墓地だという伝承がある。足尼命の子が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で神功皇后である。息長宿禰王は天日矛(あめのひぼこ)五世の孫と縁を結び皇后を生んだと伝えられ、日子坐王は美濃にいたとされ、また息長氏は近江にも伝承があるという。

 神功皇后の弟に大多牟坂王(おおたむさかのみこ)があり、但馬の国造に任ぜられた。それより八代目の子・表米が天智天皇より日下部の姓を賜わり表米日下之君と称して但馬の国造となり。養父郡大領となった。後、田道間国造となり、英智にして武道に精通した。天命開別二年三月、上毛野稚君に隋従して新羅を討ち功績を残した。和銅七年申寅三月十五日(714年)逝去、八十八歳。村人は表米親王と尊称し、竹田久世田の加納ヶ岳に葬った。後に俵米神社が建立されたが、これを分詞して竹田城の山麓に表米神社として祭祀した。これが中山城左兵衛佐文の氏神であり、表米日下部と称する。

 表米日下君には子が五人いた。都牟自(とむじ)、本麿、荒島(あらしま)、乙春(おとはる)朝臣、光朝である。都牟自は養老三年(719年)に養父郡から大領に命じられ和田山にある赤渕神社はこの都牟自が祭神されている。

 荒島は、養老元年(717年)に朝来郡小領、養老七年(723年)に大領となり、日下部の名をとってその居を竹田の加都郷に定め、建田宮(たけだのみや)と称した。荒島からは治長、国富、国守、乙長と続き。乙長の子の安樹より二代目の日下部親直は朝来郡竹田貫主建児所判官に任ぜられる(天暦947~957年)それより六代目が日下部右衛門尉圀宗(くにむね)で、その子が城左兵衛佐文で中山姓を名のった。

 大領・小領が土地の豪族が任命されたので、表米の子孫は地方の豪族と化し、この地方に勢力を拡張していったため、船穂足尼日下部系図といわれるのはここに起因し、現在、和田山近辺では日下という姓の人が非常に多い。中山東華はこの系図の大成にあたって昭和16年の日記67編に書いている。「船穂足尼日下部佐文系譜」は、粟鹿神社が宝としている日下部系図より得たものである。

 粟鹿神社には「田道間国造日下部足尼系譜大網」という系図および和銅元年(708年)の年号を有する「粟鹿大明神元記」があり、今は県史、市町史に載せられているが、戦前は秘蔵も同然であった。「船穂足尼日下部佐文系譜」は表米より笠古に通じるものであって正系なる日下部系図である。

 しかし、戦後の科学的な歴史学では、「記」・「紀」ともに色々批判され、開花天皇も天皇ではなく大王(おおきみ)と言われるような春日地方の大首長であったろうとされることから、日下部系図も「慎重なる批判を必要とする」として、前述した県史、市町史も折角掲載しながら「表米日下之君」以下を省略している。後の時代の偽作として信憑性に欠けるとみなされているのだ。「日下部君佐文系図」もその一つに加わっている可能性があるが、粟鹿神社所蔵の日下部君以下が省略してあるのは何か意図するところがあると思われる。『続群書類従』所収の「日下部系図」では孝徳天皇が祖になっているが、これは偽作であり、史実は異なるとこrにある。

日下部とは 

 城左兵衛佐文には佐正と房女(ふさじょ)の二子がおり、佐正は父・佐文の後を継いで京都の職場を広げ、染色の行を営なんだ。弘安五年(1282年)、佐文は日蓮上人他界の報を聞き、痛く悲しみ。もはや我に一株の現世によするの希望なしとて職場は佐正に一切を託して故山の竹田に帰省した。

 正応二年(1289年)、京都は大火に見舞われ、佐正の染色場は一変の内に焼失して烏有に期し、その翌天、佐正は病のため他界する。城左兵衛はすべてこれ神仏の宿縁と悟りを極め、その財の無に期せしを惜しまず、嫡子の死をも悲しまず、但馬につれ帰った房女に、当時朝来郡司を司り日下部蕃在(ばんざい)の孫・友春を養子とし、持ち帰った染色付帳の奥義を養子・友春に伝えて竹田の居宅を染色職場としてこれを営ました。友春は染色業の再興に努力し、佐文はその後、日蓮上人の遺徳を偲んで余生を送った。

功績[編集]

朝来郡司

染色帳作成

日の丸国旗(曼陀羅)染色創作

日蓮赦免状原稿作成


染色業と佐文

 圀宗には三人の子があり、長子は宗長、次男は佐文、三男は圀枝と言った。城左兵衛佐文は累代の官職である郡司を継いだが喜ばず、但馬国を去って京都に上り、北条時宗の家臣で京都守護守であった阿部磯治に使えた。文永二年(1265)の頃と言われる。

 その時、左文は、たまたま元の麗元惚という人から染色の秘法を受け、それより志を転じて町人となり、京都下加茂坂の麓で染め物職を始めた。阿部磯治は、佐文の英断なる決意とその染色技術の秘法に驚き、左文を援助したので、将軍時宗の愛を受けるに至った。

 そして文永五年(1268)となり、モンゴル皇帝は、使者を鎌倉幕府に送り、蒙古に服属せよとの勧告書を提出し、いよいよ対馬を侵そうとした。北条時宗はこれがために西海の防備を固めるとともに、神国日本の旗印として、白地に赤丸妙法曼陀羅の大四角数千枚の染色を城左兵衛左文に命じたのであった。

日蓮上人他国の侵入を予言[編集]

日蓮聖人は、文永元年(1264)、39歳の時、「立正安国論」を執筆し、前執権北条時頼に呈上する。この立正安国論は、法然の説く浄土教を厳しく非難し禁止を要求するものであり、また、他国侵逼難(外国が日本国を侵略してくるという難)を予言するものであったため、浄土教の信者たちの憤慨するところとなり、幕府はこれを放任しておくこともできず、日蓮は幕府の手に捕らえられて伊豆に流される。しかし、日蓮は海辺で苦しんでいるところを舟守の弥三郎に救われ、いったんは郷里の小湊に帰ったが再び鎌倉に出た。文永元年(1264)のことであった。

 文永五年(1268)日蓮の予言は的中して蒙古の使者が大宰府に到着し、「蒙古に服属せよ、せざれば十万の兵をもって一挙に日本を葬らん」との国書を幕府に提出した。この年、北条時宗は執権に就任する。日蓮は、鎌倉幕府の十一カ所へ警告状を発し、外患の原因は念仏、弾、律などの邪法の横行にある、外患を払う方法は法華経の正法を弘布するのみと進言した。

 しかし、幕府はこれを黙殺し、日蓮はかえって捕らえられ、今度は佐渡に流罪となった。文永八年(1271)日蓮五十歳の時である。こうして、日蓮は佐渡に住むこと三年であったが、その間も、佐渡の島守本間重連を通じ、しばしば「妙法曼陀羅を日の丸に大書して、これをもって元の国を懲伏すべきことは妙法眼文の大神示である」と注進に及んでいた。

中山城左兵衛左文
日本の旗
用途及び属性 市民・政府陸上、市民・政府海上?
縦横比 2:3
制定日 1870年2月27日(明治3年)、1999年8月13日(平成11年)改
使用色
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日の曼陀羅[編集]

北条時宗と城左兵衛佐文[編集]

時宗は、いよいよ日本の一大事の出現を悟るとともに、迫りくる元の侵入に一段と憂慮していたので、いつか日蓮の申しておった「日の曼陀羅で、元の国を懲伏すべき神示」のことを思い出し、日蓮の人並みならぬことを知って、流罪を許すに至った。日蓮作の日の曼陀羅を日本の旗印とすることを宣し、佐渡の日蓮に依頼し、それを持って京都守護六波羅探題の阿部磯治に命を下したのであった。命を受けた磯治は早速に旗数千枚の染色を城左兵衛佐文に命じたのである。 

 大任を仰せつかった城左兵衛は斎戒沐浴し「日の曼陀羅の染色仰せつけ蒙る、神明のお加護にすがり精進つかまつる。願わくばこの旗に大日本国の神々宿らせ給え、国土安穏を守護し給え(染色付帳の項を見よ)」と神仏に祈願し、職人各々にも厳しく戒めを守らせ、心血を注いで創製に尽瘁したのであった。

 その間に、日蓮に対する赦免状は、文永11年(1274年)2月4日つけで出されたが、日蓮の元に届いたのは3月8日であった。日蓮が佐渡から鎌倉に帰りつくと、4月8日、幕府の平の左衛門尉頼綱は北条時宗の代理として日蓮を招請し、「日蓮はかつてからの内乱を予言しているが、外国から攻めて来るのはいつのことか」と質問した。日蓮は「その年はおそらく今年であろう」と答え、国家の安全を得ようとするならば、他宗の信仰をやめて法華経の信仰に入ることを主張した。

 この時点で、時宗は日の曼陀羅を城左兵衛佐文に命じていたのである。

 城左兵衛佐文の染色も、この頃には大磐石の自信のもとに仕上げが終わって、阿部磯治公に献じ、磯治は佐文を伴い鎌倉殿にお目にかかって旗を呈上して精細を告げたのである。

 時宗はこれを聞き、城左兵衛の一心に仕上げた曼陀羅を見た。すると不思議にも曼陀羅の赤丸がぐるぐると回転し、妙法曼陀羅の大文字は忽然と浮き出し、燦欄たる五色の光を放ったのであった。時宗は俄漸夢の冷めた心地がして、今眼前の曼陀羅にありがたきを知ったのであった。

 時宗は城左兵衛を目通りさせ、

「城左兵衛、予は満足であるぞ。恩賞をとらそう。なんなりと申せ」と言った。

城左兵衛は、はるかに下の座にあっておそるおそる頭を上げ、

「旗の御徳は、日蓮聖人の妙法の神力であり、護国を祈る願文成就でありますれば、なにとぞ妙法の宗門をして、他の宗門と同じく日本全国に流布の儀お許し賜れば国中万代の喜びこの上なきことに存じまする」と言った。

 時宗はかんじと微笑み、「妙法の攻通さし許す。日本全国妨げあるべからず」と申し渡したのであった。

 そこで城左兵衛左文は、鎌倉に滞在し、日蓮に日の曼陀羅のことを報告するとともに、妙法の宗、公認流布の下書きを見せて意向をたずねた。日蓮これを見るや喜び限りなく、日蓮が今日までの苦難、今ここに城兵衛によりて始めて開かれた」と言って、「城左兵衛奉る・日蓮大上人」と書かれた公認流布の文面を、日本全国津々浦々まで大書して張り出すよう仰せられたのであった。

 ここに、日蓮聖人、松葉ケ谷の遭難以来、艱難苦労。幾たびの死線を貫く妙法の神力は曼陀羅となっていよいよ輝き、城左兵衛の染色「曼陀羅」の功徳によって、俄然、日本全国に妙法流布が公然とさし許されたことは誠にありがたく、ここに妙法題目の声が全国中に朗々と響くことになり、これが法華宗としての隆昌を得る起源となったのである。

1281年(弘安四年)元軍再襲来(弘安の役)。中山城左兵衛佐文が染色した日の曼陀羅は、九州を守護している軍兵に送られ、日本の旗印として用いられた。元の軍勢は福岡県筑紫の浜辺に来襲するも、台風がおこり元軍は軍船もろとも海の藻屑と消えていった。これぞ日の曼陀羅の遺徳によるもの。それより、日本国の旗印は白地に赤丸と定められることになり、海外を行く船印は必ず日の曼陀羅を掲げることになった。日の丸国旗はここに起源を有する。

染色付帳[編集]

文永二年(1265年)に記録された染色技術の覚書。

 この古文書は現在のA4サイズの三分の一の大きさで、和紙を二つ折りにして大福帳のように綴じた三十枚の手帳である。真ん中に「染色手帳」との表題が大書きしあり、帳面の中に城左兵衛の著名がある。文字がなかったといっていい当時において能筆で書かれていることは竹田城より古く存在していたことを立証するものである。

 終わりに近いページに、「日の曼陀羅の染色仰せつけ蒙る。神明の御加護にすがり精進仁らざるべからず」と記載がある。

そして、日蓮宗の布教許可の原稿らしきものが、染色付帳の最後のページに書かれている。この城左兵衛の功績である染色手帳にからんだ日本史重要の文献忠実は、日の丸国旗の起源史でも知られていない歴史であり、また、元冠殱滅史の不朽の輝きにおける裏面史として重要な意味が存在する。

 これは、佐渡に流罪になっていた日蓮の赦免状ではない。日蓮が許され鎌倉に帰ってから出された布教許可である。「これからは日本全国において日蓮宗を布教してもよろしい。何宗といえども妨げるべからず」という布教流布の赦免状である。その原稿がこれなのである。城左兵衛佐文の作文である。

志しやめん志じょう

一、をん国。ひるいなき。妙しゅ宗。こうだい(広大)もなき事。いずれの宗がこれにくらぶるや日本国において宗祖妨有べからず物なり。よってしゆ立(執達)如件 文永十一年五月二日 城左兵衛 左文

 意味

一 この日本の御国において比類なきものは法華宗である。その広大も無き事は、どの宗派に比べるべきや。今後、日本国中において、宗祖日蓮の布教を妨げあるべからず。よって執達前述の通りである。文永十一年五月二日 城左兵衛 左文

さらに、昭和十七年二月五日、竹田城の太田垣能登守朝廷の末裔、白岩信太郎さんから、「城左兵衛奉・日蓮大上人」という古文書をもらいうけたという。

「頃年数多真法威力

御感最深三国無比

妙宗後代有難尊僧

何宗此比之於日本国中

弘宗不可有妨者也

仍執達如件

  城左兵衛奉

文永十一年五月二日

日蓮大上人」

【意味】

頃の年、真の法(妙法)の威力は数多く

御感最も深きこと三国に無比なし

妙宗は後代までも上人様の有難きこと

何宗と比べるべき。日本国中

弘宗の妨有るべからざる物なり

よって執達くだんのごとし。

  城左兵衛奉

文永十一年五月二日

日蓮大上人

問題になるのは五月二日という日付である。

 佐渡の日蓮に赦免状が届いたのは春二月であった。鎌倉に帰ったのが三月末。そして左衛門尉頼綱が日蓮を幕府に招請して外国侵入の予言を聞いたのが四月八日。城左兵衛が染色を命ぜられたのは、時宗が、迫り来る元の侵入に一段と憂慮し、日蓮の申しておった日の曼陀羅で元の国を懲伏すべき神示のことを思い出し、日蓮を許す気になったであろうから、佐渡に赦免状が届く少し前頃であろうと思う。そして日の曼陀羅が出来上がって赦免状の交付の日が決まり、それが書かれたのが五月二日ということであろう。そうしないと染色の命令が京に届いたり、出来上がった「日の曼陀羅」を鎌倉に持参したであろう日数を差し引くと、染色制作の期間がなくなってしまう。

 繰り返しになるが、佐渡に赦免状が届く頃には、すでに城左兵衛佐文は、阿部磯治より命を受け、「日の曼陀羅の染色を仰せつけこうむる。神明の御加護にすがり精進つかまつるべからず」と神に祈り、染色手帳に覚悟のほどを書いて仕事にとりかかっていたのであろうと想像がつく。そして「日の曼陀羅」が出来上がり、城左兵衛左文の願いによって日蓮宗布教公布の赦免状が五月二日に書かれた。というのが本当であろう。

日蓮見延山に隠棲

 ともかく、五月二日に宗門布教赦免状が出ながら、結局日蓮は、「国に恩をぜんが為に国に留まり、三度は諌めるべし。用いずんば山林に身を隠せという本文ありと、本より存知せり」と言って、五月十五日に鎌倉を出立しているのである。旅に出た日蓮は相模から沼津甲州の各地を歩いて適当な場所を求め、ついに見延山に落ち着くことになる。その年の十月、かつて彼が「今年こそは蒙古の来冦がある」と予言したとおり、蒙古の大軍が博多に侵入した。そして再度来襲したのは弘安四年(1281年)七月であった。日蓮はこれによって法華経の世に広まること疑いなき事を述べ、翌五年、武蔵の国池上で入滅した。年六十一才(『日蓮』とその生涯と思想。久保田正文著、講談社現代文庫。『日蓮遺文集』租書普及期成会、明治四二年発行。)

日蓮宗教史による城左兵衛の業績隠滅[編集]

 城左兵衛佐文のこの業績は実に日蓮宗史の重要項目である。しかし、日蓮宗に関する文献ならびに著書、日蓮宗史などを研究するも、城左兵衛の記録は皆目なく、したがって国旗の起源となった重要忠実たる日蓮「日の曼陀羅」の記録的文献も発見することが出来ないのである。忠実であった城左兵衛の業績を表に出すと、大日蓮上人の偉大である事の妨げになる、つまり、日蓮宗公認は、日蓮自身の力によるものであって、あえて城左兵衛ごとき町人の介添えによってなったものではない、妙法の偉得は自らの力で北条時宗をして帰依せしめたものである、という結論を得たいために、その後の日蓮研究史家ならびに宗教史家が、城左兵衛の業績を全部隠滅したのである。

 日蓮の「城左兵衛奉る」という文字によって判断しても、あれほど北条時宗に毛虫扱いされた日蓮が、わずかの日数の間に布教認可に至ったという事実は、この間に何か重大な仲介によるものである。

 「城左兵衛奉る」というビラは、全国津々浦々に貼られて、日蓮宗がいよいよ公認のとして布教宣伝にお童わとなったが故に、このビラもこれ一枚にとどまらず、なお全国の日蓮宗寺院に必ず所在するものであろう。

 また、布教の第一有力物件として用いた日蓮宣伝広告の文献は、日蓮宗発展史の上にも最も重要な位置を占めるものであるのに、日蓮宗教史になんの事柄も記録するもののないことは、不可解以上に陰湿な隠滅があったこと以外考えられない。

家宝あわび貝の話[編集]

1.慶安三年正月の「あわび貝」古書

日蓮上人の佐渡法難 注1)

 日蓮上人が佐渡に流罪になった時、上人は単身島に渡った。文永八年(1271年)十月二十一日のことである。運悪く、沖に出るや暴風が荒れ狂い怒涛が空に踊った。上人が乗った小さな船は今にも転覆しそうで、船頭は声を上げて叫んだ。その時日蓮上人は船の棹を取って高巻く波に向かい、棹を筆に見立てて題目を書いたのである。すると不思議なことに風はやみ、海はたちまち静まったという。以降、佐渡の浜では、南無妙法蓮華経の題目の書きこまれたアワビ貝が百年に一個ずつ漁夫によって発見されるという。

染色業を営む旧家に代々伝わる奇妙な宝 注2)3)4)5)

 この一つのアワビ貝が桐の箱に入れられ、赤い紐があて我が家中山家に伝えられているのである。黒アワビの貝の内側に難妙法蓮華教の文字がはっきり浮き出ているのだ。慶安三年の古書に描かれた「アワビ貝」は実はこれになのである。ただ描かれた貝はお題目が右で貝の穴が左であるのに対しその反対であるから古書の貝は租の貝はスケッチしたものではないと助っスケッチっしたものでないのは確かである。ともかく現物のアワビ貝とそれが描かれた落書き。実に不思議なことであり、貴重なものである。

 その貝は大ぶりの黒アワビで、20㎝近くある。その虹色に輝く内側の、数個並んだ縁取りされたように、「南無妙法蓮華経」の文字がはっきりと見える。しかし、その文字は、染料で書かれた物でも彫って刻まれたものでも、何かの薬品で表面を腐食させて描いたものでもない。文字の部分は、貝殻の表面から僅かに盛り上がっているのである。そして、その浮き上がった文字部分も、貝殻の内側の他の表面部分と何ら変わりがないのだ。文字はごく滑らかに盛り上がっている。文字の輪郭部分をヤスリにょうなもので削って磨いた痕跡も全く認められない。まさに、貝殻の表面が何か未知の力で、自然に文字状に浮きあがっているとしか考えられないのである。

 中山家にはそれを推測させる奇妙な古い一枚の書き物が伝えられていた。なんとその紙には、問題のアワビを見てスケッチしたかのように「南無妙法蓮華経」と記されたアワビの貝殻の絵が描かれているのだ。しかも、絵の上部には「くどくむしん さどの浜にうかびたまふ」というメモが浮かびあがり、慶長三年(1958年)正月七日の日付も記されているのだ。「功徳無心、佐渡の浜に浮かびたまう」と書き換えられる。

 つまり、絵に描かれたアワビは佐渡の浜で見つかった有難いもので、これを拝めば功徳は計り知れないという意味らしい。おそらく、1598年この書き物を残した人は、そうしたアワビを実際に目にしたか、噂を聞いて書き記したものと推測されるのだ。

 そればかりではない。家宝のアワビの貝殻の由来を突き止めようと、熱心に文献などを調べた中山東華はついに関連すると思われる伝承を見つけたのだ。

「この小謡本はこんや久右衛門で表紙は自画像を落書きしてあり、そして本の裏表紙に『慶長三年正月(1598年』三七三年前の楽書であり竹田城が亡んだ一年前の年だ。日蓮上人が佐渡へ流罪の時アワビ貝の奇跡の物語である。である。このアワビ貝は百年過ぎたるごとに一個ずつ漁夫が発見するといふ。その一個が我家の家宝として歴代伝わり、吾に及ぶ日下家宝現存。たましい其あわびくどくむんとある。古書の中のいたずら書きに発見す。古書は小謠集和綴 表表紙にこんや久右衛門とあり、自画像を絵畫けり。其裏面に此のあわび貝を図とした書添えてあり、くとくむしん さどのは浜にうかびとたまわふ 慶長三年正月竹田屋千松御 とかかれてある。お題目が右で貝の穴が左であるのに対し、本物のアワビ貝は反対であるからこの貝によってスケッチしたもので無い事は確かである。東華」

謎のアワビが日蓮聖人と中山家を結ぶ

 事実、中山家には、アワビの貝殻の他、日蓮聖人に関する珍しい書面、しかも、アワビとの因果を感じさせる佐渡法難にまつわる書面も残されている。

 それは、許されて鎌倉に入った日蓮聖人が、布教用に配布しようとした許可状の下書きだ。

「これからは日本全国において日蓮宗を布教してもよろしい。何宗といえども妨げあるべからず」という内容で、城左兵衛という信徒がこうした文面案を日蓮聖人にお伺いを立てた時の書面である。さほど骨董的価値があるとは思えない日蓮聖人の直筆の書面をあえて偽造するとは考えられない。

 では、この城左兵衛とは何者なのであろう。実は中山家に伝わる染色付帳に、城左兵衛が、時の幕府執権、北条時宗から、元寇に備えて九州で守備につく兵たちに送る「日の曼陀羅(丸の中に曼陀羅を書いたもの)の染色を仰せつかった記録が記されているのだ。染色に長けていた城左兵衛が、染色を主業とした中山家の先祖であり。城左兵衛が日蓮聖人に奉った布教の赦免状の原稿が中山家に残されていることでも立証できる。

 また、驚くことに、平成十三年「お宝拝見」の番組に、同じアワビ貝を持参して登場した人がいた。鑑定人は不思議がるばかりで鑑定額は不明となった。前代未聞の宝である。

2.慶安三年の古書

木版の謡曲本である。始めのページには「春 高砂」とあり、50枚程が綴ってある。虫食いが酷く開いてみることは出来ない。表紙の本の題名は消えていてかぶとのような図の下に久右兵衛の武将らしき絵が見える。その表紙裏には「とら十一月□□日こんや久右衛門」と書名があり、このに面白いのは人物像の落書きが描いてあるところである。

冠を被っているのか、ちょんまげ頭のつもりなのか、髭をはやして筆を持っている図だ。久兵衛という字で輪郭を描き、身体の部分にはカナ文字が書かれている。「この代はさらに思いにくれる小生?」。また、筆を持った手のところにも久右兵衛と書かれている。これが本人の自画像であるとすれば中々面白い記録である。「こんや」久右兵衛とあるのは久右兵衛が当時の当主であり、この時、我が家は「紺屋職」を営んでいたことは確実と言える。この風貌を見るに及んで、文筆を楽しみ、時代における高潔なる人生をえたるものならんを想像し得るものなり 注6)。

 人物像は、江戸時代のある時期、平仮名の和歌で人物を表現したことが流行したらしい。花押の代わりに使ったものか、店の看板にしたものか、そのような事が解説してあった本を所蔵していた。

当時の竹田[編集]

 六代久右兵衛光輝か、七代久兵衛正澄かは不明だが、寛永二年の「棒術秘巻」からわすか十六年前は1600年(慶長五年)で、九月に関ケ原の合戦があり、大変な年であった。

 竹田城主の赤松広秀は、そのとき西軍として丹波の細川幽斎の舞鶴田辺城の攻撃に従軍していたが、一度に敗者となり、家康方の鹿野城主亀井茲矩の取立によって鳥取城を攻撃したものの、家康の勘気にふれて切腹を申し渡され、十月二八にちに鳥取の真教寺で自刃した。それを聞いた竹田城下は大騒ぎ。「わしらの殿さんが切腹しなったんやって、えらいこっちゃわ」

 家康はその後、竹田に城主をおかなかったため、兵は解散し、城はもぬけの空になってしまった。

 そして十五年に竹田は大火災にあって見る影もない焼け野原と化し、翌十六年には前代未聞の大洪水に襲われて丸山川の流れが一変し、今まで西を流れていたものが東に流れを変えてしまった。

 久右衛門は東側の町に移住し、赤松城主のいたころには幟を染めたりして城の御用を承っていたが、それが突然の廃城、そして火災と洪水の立て続けの災難にあって困難を極めたという。

 慶長十九年には大阪の陣。元和元年(1615年)には、朝来郡は江戸幕府の直轄地(天領)となり、生野奉行が置かれて代官山庄兵衛が支配することになったが、これが悪徳代官、困窮の民から過酷に税を取り立てたため、寛永六年ころに農民一揆が起き、山川代官は幕府より処刑された。

 慶安三年(1650年)には近畿地方が暴風雨に見舞われる、

参考文献[編集]

1)蜷川龍次著、「日蓮聖人伝」

2)中山市朗著、「新耳袋ー現代百物語」第二集 第一話「家宝のはなし」

3.高橋勝彦著、東雅夫、「ダ・ヴィンチ」1998年5月号 発行:リクルート

4.「ムー」1998年12月号 発行:学研

5.「スーパーB級ニュース」2001年5月号増刊号 発行:ミリオン出版

6.中山久兵衛系統史一



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