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三越

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三越(みつこし、英: Mitsukoshi)は、三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店である。戦前の三井財閥及び、現在三井グループの源流。

また、株式会社三越(英: Mitsukoshi, Limited)は、2011年3月31日までこれを運営していた会社である。

概要[編集]

商号の「三越」は、三井財閥の創業者である三井家の「井」と創業時の日本橋の呉服店「後屋」からとったもので、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称した際からのものである。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定されている。現在の同店のキャッチフレーズは、「飾る日も 飾らない日も 三越と」「This is Japan」。

江戸時代の1673年(延宝元年)に江戸本町一丁目14(後の駿河町、現・東京都中央区日本橋室町の一部)において、「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名をはせた、呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業。現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。店舗入り口にあるライオン像が特徴的。

「三越」改称の案内の際に「デパートメントストア宣言」を行い、そのことを以て日本での百貨店の歴史が始まりとすることが多い(実際の百貨店化の動きなどの日本の百貨店の始まりについての詳細は日本の百貨店の歴史参照)。また三井財閥(現三井グループ)のルーツとなった「越後屋」の呉服店事業を引継いだため、「三井財閥(現三井グループ)の礎を築いた企業である」とされることも多いが、企業としての三越としてみるならば、三井の事業から呉服店部門のみを「合名会社三井呉服店」として分離したのが始まりである。

直営店は東京都心にある日本橋本店・銀座店の2店舗のみである。名古屋三越や福岡三越などは三越伊勢丹ホールディングス傘下の地域子会社が、地区ごとに運営を行っている。2003年9月1日に、当時の「株式会社三越」とその子会社である「株式会社名古屋三越」「株式会社千葉三越」「株式会社鹿児島三越」「株式会社福岡三越」の百貨店5社が新設合併し、新「株式会社三越」が設立された。2010年に伊勢丹傘下だった岩田屋と福岡三越(いずれも福岡市)が合併し、「株式会社岩田屋三越」が誕生した。残った店舗については、2011年4月1日に伊勢丹と合併して発足した「株式会社三越伊勢丹」の運営となった。また、同日には、札幌丸井今井と札幌三越の両社も統合し(存続会社は札幌丸井今井)、「株式会社札幌丸井三越」が発足している。

1970年代には小売業で売上高日本一の地位であったが、売上高営業利益率はグループ連結で1.09 %、百貨店事業単独で0.799 %と百貨店業界の中でも不振が続いていたため、2008年9月に百貨店4店舗・小売店2店舗の閉鎖を発表し、店舗の整理を始めた。また、経営統合後の再編方針により、2010年4月1日付で関東以外の店舗を分離した。最終的には同じく老舗百貨店の伊勢丹に救済されることとなり、2008年4月1日に「三越伊勢丹ホールディングス」を設立して伊勢丹と経営統合した。株式交換比率は伊勢丹株1に対し三越株0.34である。三越と伊勢丹の経営統合は、三越の長期低迷に危機感を持っていた三井住友銀行が三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)を通じて伊勢丹側に持ちかけたとされる。

三越呉服店」 発祥は延宝元年(1673年)、伊勢松坂の商人三井高利(1622 - 1694)が、日本橋に開いた呉服店越後屋。大衆相手の店たな前さき売りの商法で繁盛し、江戸時代最大の呉服商といわれた。明治37年(1904年)、株式会社三越呉服店となった。「三越呉服店」の朱印の一部と、広報誌『時好』(4巻4号 1906年4月刊)の表紙の一部が書き写されている。

沿革[編集]

越後屋・三井呉服店時代[編集]

  • 1673年 - 伊勢商人・三井家の三井高利が江戸本町一丁目(現在の日本銀行辺り)に、呉服店「越後屋」を開業(間口9尺の小さな借り店舗)。
  • 1683年 - 大火にあい、本町から駿河町に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置。
  • 1691年 - 大坂・高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設。
  • 1837年 - 大塩平八郎の乱で大坂店が襲撃され全焼。
  • 1872年 - 三井大元方(三井家全事業の統括機関)から分離して、新たに名目上の一家「三越家」名義で経営。三井得右衛門が三越得右衛門と改姓。大隈重信、渋沢栄一、井上馨らから呉服店の分離を迫られ、三越家の設立。
  • 1875年 - 大坂店が規模を縮小し高麗橋三丁目に移転。
  • 1888年 - 駿河町に「三越洋服店」開店。
  • 1893年9月7日 - 越後屋を「合名会社三井呉服店」に改組。
  • 1894年 - 大阪店が高麗橋二丁目堺筋角に復帰。
  • 1895年 - 三井高堅が社長に就任。益田孝が相談役に就任。高橋義雄が理事に就任。大元方の監督下入りし、経営の大改革に着手。11月には土蔵造り2階の大広間を打ち抜き陳列場として帳場座売りを廃止。
  • 1900年 - 座売りを全廃。階下の座売場も陳列場となり全館開場。開店から客が流れ込み午前10時には表戸を閉切りにする程の盛況。女子社員の採用開始。

株式会社三越呉服店時代[編集]

  • 1904年12月6日 - 「株式会社三越呉服店」を設立。本店東京、資本金50万円。初代専務に日比翁助が就任。12月21日開業。
    顧客や取引先に三井・三越の連名で、三越呉服店が三井呉服店の営業をすべて引き継いだ案内と、今後の方針として「デパートメントストア宣言」を行い、日本初の百貨店となる。
  • 1905年 - 年に主要新聞や雑誌等に「デパートメントストア宣言」広告掲載。
    • 日本初の自動車(配達用)を導入。
    • 店頭に大イルミネーションが設置。
    • 化粧品、帽子の販売を開始。
    • 「光琳遺品展覧会」を開催。
  • 1906年 - 朝鮮京城(現・韓国ソウル)に出店。
  • 1907年 - 日本橋本店内に食堂と写真室を開設。
    • 鞄、履物、洋傘等の取扱品目を追加。
    • 旧越後屋跡地に大阪店開店。
    • 「新美術部」を開設(大阪店9/15、日本橋店12/1)。
  • 1909年 - 少年音楽隊、メッセンジャーボーイが編成される。1915年「三越音楽隊」に改称、1925年解散。「日常的に店内で演奏するほか、三越のさまざまな催し物に出演した。また外部からの出演依頼にも応じた」。
  • 1911年 - ポスターの図案を懸賞公募。
    • 写真室にカラー写真導入。
    • 電話による注文受付開始。
    • 大阪店 木造30mの飾り窓付き2階建新館が落成。
  • 1913年 - 帝国劇場のパンフレットに広告。「今日は帝劇、明日は三越」のコピーが流行。
  • 1914年 - 日本橋本店 ルネッサンス様式の新館 落成。鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、アール・デコ調の内装と合わせ建築史上に残る傑作といわれた。
    • 新築から後の昭和の増改築まで横河工務所が一貫して行い、その多くは中村伝治が主担当であった。
    • 日本初のエスカレーターと、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられた。
    • 屋上庭園、茶室、音楽堂、正面玄関に「ライオン像」などを設置。
    • 「第一回再興院展」を開催。
  • 1916年 - 金字塔に天気予報信号旗を掲揚。テレスコープ設置。
  • 1917年 - 大阪店新館が開店し地下1階地上7階の大阪最大のルネッサンス式建物となる。
    • 日本橋本店の中央ホールに巨大扇風機が設置される。
  • 1920年 - 大阪店が東館完成により全館開店。
  • 1921年 - 大阪店、西日本の百貨店では初の下足預かり廃止。
  • 1923年8月5日 - 日本橋店にて日本初のデパートのバーゲンセール開催。
    • 関東大震災により日本橋本店と丸ノ内別館 焼失。
  • 1925年 - 大阪店屋上にて大阪放送局(現NHK大阪放送局)が仮放送開始。
  • 1927年 - 日本橋本店に三越ホール(現三越劇場)を開設。
    • 日本初のファッションショー開催。美容室設置。

(初代)株式会社三越時代[編集]

  • 1928年6月1日 - 商号を「株式会社三越」に改める。
  • 1929年 - 新宿店開店。
  • 1930年 - 銀座店開店。
    • 本店食堂に「お子様洋食」登場。
    • 京城支店開店。
  • 1931年 - 高松店開店。
  • 1932年 - 三越が建設資金を負担し東京地下鉄道「三越前駅」が開業。日本橋本店地下売場と連絡。
    • 札幌店開店。
  • 1933年 - 仙台店開店。
  • 1935年 - 日本橋本館の増築改修工事が完了。中央ホールが完成。地上7階地下2階建て。完成した中央ホールにパイプオルガンが設置される。
  • 1937年 - 大阪店改修工事が完成し新式冷房装置を新設。
  • 1943年 - 岩瀬英一郎が社長就任。岩瀬(1894-1963、神奈川県出身)は、三井銀行ニューヨーク支店長・専務、東京電燈取締役を経て三越社長となり、戦後の三越再建を牽引した。
  • 1944年 - 本店に結婚式場開設。
  • 1946年 - 戦後初の出店となる松山店開店。
  • 1947年 - 財団法人三越診療所(現・三越厚生事業団)設立。
  • 1950年 - 日本橋本店で、戦後初のファッションショー開催。同年、《マッカーサー元帥胸像》の除幕式を行う。
  • 1951年 - 猪熊弦一郎のデザインによる包装紙「華ひらく」を全店で使用開始。
    • 12月18日 - 日本の百貨店で初のストライキ。「三越にはストもございます」と話題になる。
  • 1954年 - 「第一回無形文化財日本伝統工芸展」を開催。
  • 1956年 - 日本橋本店で、パリー展開催。
  • 1957年 - 日本橋本店屋上に、アメリカのディズニーランドを模した屋上遊園地を期間限定で開園する。詳細はこどもの夢の国!楽しいディズニーランドを参照。
  • 1958年 - 日本橋本店の第2期増改築工事が完成、全国一の規模となる。
  • 1960年4月19日 - 三越創立50周年を記念して、日本橋本店中央ホールに、佐藤玄々製作の「天女像(まごころ)」設置。当日は、除幕式には各界名士、報道関係者など500人が招かれた。
  • 1963年 - 松田伊三雄、社長就任。
  • 1967年 - 高松店 戦災による改築のため一時閉店。
  • 1968年 - 銀座店新築開店。枚方店開店。高松店が営業再開。
  • 1970年 - 「大越百貨店」グループ入りにより、「沖縄三越」に社名変更
  • 1971年 - 日本の小売業として初めて売上高が1000億円を突破。
    • 海外第一号店、パリ三越開店(パリ2区)。
    • 銀座店内にマクドナルドの日本1号店が開店。
    • 札幌店新築オープン。
    • 「奈良屋」(千葉)と合弁にて「ニューナラヤ」を設立。
    • 「丸屋」(鹿児島)と業務提携。
  • 1972年 - 創業300年記念式典を日本武道館で開催。岡田茂、社長就任。
  • 1973年 - 広島店開店。
  • 1974年 - 大阪店新館増築完成。
  • 1975年 - 「オリエンタル中村百貨店」(名古屋)と業務提携。
    • ローマ三越開店。
  • 1976年 - 大阪店全館改装オープン。
  • 1978年 - 「小林百貨店」(新潟)と業務提携。
  • 1979年 - ロンドン三越、デュッセルドルフ三越、ニューヨーク三越、ハワイ三越開店。
  • 1980年 - 倉敷店開店。
    • 「オリエンタル中村百貨店」を「名古屋三越百貨店」、「小林百貨店」を「新潟三越百貨店」へ改称。
  • 1981年 - 香港三越開店、フランクフルト三越、サンシャインシティ三越開店。
  • 1982年 - 三越事件発生。取締役会で岡田茂社長(当時)の代表取締役および社長解任を決定。市原晃、社長就任。
    • フロリダ・ディズニーワールド三越開店。
  • 1983年 - テレビショッピング新番組『レディス4』開始。
  • 1984年 - 「ニューナラヤ」を「千葉三越」に、「丸屋」を「鹿児島三越」へ改称。
    • 香港三越九龍店開店。
  • 1986年 - 英国のチャールズ皇太子・ダイアナ妃(当時)が日本橋本店に来店。坂倉芳明、社長就任。
  • 1988年 - 三越洋服100年記念舞踏会開催。
  • 1991年 - 台湾の新光集団と新光三越を設立。第一号店が台北に開店。
  • 1992年 - パリ三越エトワール美術館を開館。
  • 1994年 - 恵比寿店開店。
  • 1995年 - 大阪店が阪神・淡路大震災により被災。被災した旧館部分を取り壊す。
  • 1996年 - 三井住友カードとの提携により「三越カード」(旧・三越カード)誕生。
    • インターネット上に三越のホームページを開設。阪神大震災で被災した旧館跡地に新館をオープン。
  • 1997年 - 福岡三越開店。坂倉芳明ゴルフ場事件(ゴルフ場開発で莫大な損益を出し社長を引責辞任)。津田尚二、社長就任。
  • 1998年 - 「顧客第一主義」の実現をめざし、営業本部制を導入。
  • 1999年 - 井上和雄、社長就任。
  • 2000年 - 読売ジャイアンツ優勝記念セールを初めて全店で開催。
  • 2002年 - 札幌アルタと恵比寿店「グラススクエア」が開店。中村胤夫、社長就任。

(2代目)株式会社三越時代[編集]

  • 2003年9月1日 - 子会社4社(千葉三越、名古屋三越、福岡三越、鹿児島三越)と合併(新設合併)により、(2代目)株式会社三越が誕生。
  • 2004年 - デパートメントストア宣言から100年。日本橋本店に新・新館が完成。
  • 2005年 - 名古屋栄店の隣接地に専門館「ラシック」開店。石塚邦雄、社長就任(戦後三越初の慶応卒以外の社長)。
    • 5月 - 「メセナアワード2005」メセナ大賞を受賞。
    • 5月5日 - 三越大阪店、枚方店、横浜店、倉敷店閉店。
  • 2006年 - 初の郊外型店舗、武蔵村山店開店。(2009年3月1日閉店)
    • 日本郵政公社と各種物流における業務提携等及び新商品の共同開発を締結。
    • 「三越ゆめカード」店頭取扱終了。
  • 2007年 - 鹿児島店にナムコとの共同プロデュースで百貨店初のフードテーマパーク「三越スイーツ庭園 in Kagoshima」を7階にオープン。
    • 2011年の大阪駅ビル内の出店に向けて、新梅田シティに「新店準備室大阪事務所」と「大阪ギフトサロン」(2011年1月10日に閉店)を開設。
  • 2008年 - 伊勢丹との共同持株会社三越伊勢丹ホールディングスを設立。同社の完全子会社となる。
    • 11月24日 - 8月24日に閉店した仙台店隣の旧ファッションドーム141跡地の改装を行い、新たに定禅寺通り館としてオープン。これにより仙台店は仙台本館へと名称を変更。
  • 2009年 - 猪熊弦一郎画伯デザインの紙袋が全店で使用終了し、新デザインへ移行完了。
  • 2010年4月1日 - 地方直営店の大半を分社化。
    • 4月 - エムアイカード発行の「三越 M CARD」、「MI CARD」(新・三越カード)が誕生。
    • 9月11日 - 銀座店増床オープン。
  • 2011年4月1日 - 当社を存続会社として伊勢丹を吸収合併し、株式会社三越伊勢丹に商号変更。

合併後の沿革については「三越伊勢丹ホールディングス」または「三越伊勢丹」を参照

三井高利と越後屋[編集]

三井家(三井財閥)の元祖である三井高利によって1673年(延宝元年)江戸本町一丁目の借店(かりだな)に「越後屋三井八郎右衛門」を創業。1683年(天和3年)には、駿河町(現在の日本橋三越本店所在地)へさらに営業を拡大させ移転。同時に両替店を開設し、この両替店は現在の「三井住友銀行」へと発展することになる。 そして駿河町に店を構えると江戸中に札(広告)を配り、下記のような当時では画期的な商法を次々と打ち出し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。

店前現銀売り(たなさきげんきんうり)
現金をたてまえとした店頭販売の実現。当時、あらゆる商売は、得意先に行って注文を聞き、あとから品物を持って行く「見世物商い(みせものあきない)」か、直接商品を得意先に持って行く「屋敷売り」(これは現在でも「外商」として残っている)が普通だった。得意先は大名、武家、大きな商家で、支払いは年に一度の「極月払い」か、年に二回の「節季払い」だった。資金の回転がなく、回収不能など危険負担が大変大きかった。
現銀掛値無し(げんきんかけねなし)
当時、値切られることを考慮して客に最初に提示する値段を実際の売値より高く提示し、客によって値段を上げ下げするのが慣習だったが、「正札販売」、つまり値段を札に書いて商品につけて実際のその価格で販売。「正札付き現銀掛値なし」として定価販売を世界で初めて実現した。
小裂何程にても売ります(こぎれなにほどにてもうります―切り売り)
呉服屋では、反物単位の販売しか行なわなかったが、客の需要に応じての切り売りは一般庶民から大好評を博し「日本永代蔵」で「ビロウド一寸四方でも売っている〜一寸四方も商売の種〜」と描写される。

歴史に残る広告[編集]

呉服店から百貨店への移行期の三越の広告は、時代の最先端なものとして 広告史上忘れてはならないものとして語り継がれている。

  • 1905年「デパートメントストアズ宣言」は元旦の全国主要新聞に掲載した全面広告。
    • 当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候
    • 従来の呉服屋を廃して、何でも揃うアメリカン・スタイルの百貨店を目指すことを宣言したもの。従来、老舗呉服店は、極限られた富裕層を対象にしたものだったのに対し、広く一般大衆に向けて、百貨店での買い物は遊園地のように楽しく「消費は美徳である」というイメージを植えつけていく戦略をとっていった。
  • 1911年「春の売り出し用ポスター図案懸賞募集」実施。1等賞金は当時としては破格の1,000円。300人応募の中から橋口五葉の「此美人」が選ばれた。
  • 1913年「今日は帝劇、明日は三越」 - 東宝が日本初の西洋式の劇場として帝国劇場を開設。来場客に無料で配付した一枚刷りの「筋書き」(プログラム)に掲載された広告のキャッチ・フレーズ。「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は当時の有閑富裕階級の女性を象徴する一般庶民の憧れだと鮮烈に印象付けた。コピーライターは浜田四郎(三越の広告担当)。ポスター用の婦人画は竹久夢二だった。
  • 1915年「春の売り出し」ポスター杉浦非水の「エンゼル」を採用。大胆な色彩と蝶の羽をつけた女性のイラストで、アール・ヌーヴォー風の画風が話題になった。非水は1934年まで三越の広告宣伝物の図案に携わっている。
  • 1927年9月、日本初のファッションショーを開催。水谷八重子 (初代)、東日出子、小林延子の当時人気の三女優を「染織逸品会」の新衣装で登場させた。
  • しかし、1970年代以降、斬新な広告は伊勢丹、丸井、パルコといったより若い層にターゲットにした店に取って代わられるようになる。三越はCMキャラクターに当時、東宝の看板女優だった栗原小巻を起用。「贈り物は、やっぱり三越」と謳っていた。これは、「他の新しい百貨店とかスーパーなどではなく、ステータスの高い三越の包み紙で中元・歳暮は贈りましょう」というメッセージである。

海外デザイナーとの提携[編集]

大丸のディオール・サロンに対抗して、三越もパリのオートクチュール・メゾンと提携した。

  • 1963年、ギィ・ラロッシュ(イブ・サンローラン、ピエール・カルダンと並ぶディオールの弟子3プリンス)- 型を輸入して自社サロンで製造する方式だったが一着15万円前後と高価なものだった。
  • 1977年、アンドレ・クレージュ -プレタポルテを直輸入して販売するスタイルとしたが、やはり10万円前後と、一般大衆には手の届かないものだった。
  • 同時期にアメリカンカジュアルとも提携。オスカー・デ・ラ・レンタビル・カイザーマンなどニューヨーク・ファッションを取り入れた。これらは女性の社会進出に伴って、急増するニーズに応えるためのブランドだった。

通信販売[編集]

  • 1899年、郵便為替制度が制定されたのに対応し、地方の顧客からの手紙による注文を取り扱う「外売り係り通信部」を開始。これは髙島屋に続いて日本の百貨店として2番目の取り組み。
  • 1903年、カタログ誌「時好」発行。
  • 1910年、「時好」を「三越タイムズ」に改称。カタログ配布先名簿に登録された顧客数30万人、毎日の発送は1,000件を超え三越は通信販売業界1位となった。発送先には朝鮮、台湾も含まれていた。
  • 1911年、電話注文を開始。
  • 1924年、「三越カタログ」(総合)発行を開始。同カタログのほか現在「定番物語」「美味通信」「快適生活人」などをテーマを絞った種類のものを多数出している。
  • 1999年の歳暮期からコンビニエンスストアファミリーマートと提携しギフトの受付を開始。 定番カタログの他、「ハロッズ」、「ケーファー」、「ペニンシュラホテル」など三越独占取り扱いブランド商品が含まれており、三越のギフトセンターまで出かけなくとも近所のコンビニで申し込めるようになった。2013年現在の取り扱い品目330品目。ファミリーマート店舗は9,500。これによりギフトショップ・スタイルの小型店を自前で展開する必然性・意義も少なくなることになった。
  • 2011年、通信販売事業部は「株式会社三越伊勢丹通信販売」として独立した。新事業として食品宅配事業「エムアイデリ」を開始。年配者の世帯。育児世代に加え、40-50代のミセスをコア・ターゲットにしている。
    • この会社とは別にノベルティや香典返し、輸入ブランド品などのカタログ販売を行う「株式会社 三越伊勢丹ギフト・ソリューションズ」(2012年「レオドール貿易」から社名変更)も存在。同社では日本郵便との提携で国内郵便局からギフトの申し込みができる他、中国でも事業を展開している。
    • ※注)両社ともかつて通販事業を営んでいた「二光」(現.西友リテールサポート)とは無関係。(三越系食料品小売業の「二幸」は「三越伊勢丹フードサービス」に改称)

テレショップ[編集]

かつてはテレショップも手がけていた。1970年、日本初の通販番組フジテレビの「東京ホームジョッキー」(運営はディノス。1972年から「リビング11」に改称)開始。この番組は1983年に終了するが、スタッフ、キャストがテレビ東京で、三越一社提供番組「レディス4」を開始することになった。同番組は2012年から「L4 YOU!」と改題されたが、「L4 YOU!」は2017年3月31日をもって終了したと同時に三越はテレショップから撤退した。当初は全国ネットだったが、ネット局は年々減少していき、末期は関東ローカルのみでの放送となっていた。

この番組の他、ミニ番組「三越テレショップ」も1988年に開始されたが、こちらも2015年9月30日をもって全局終了した。商品紹介はスタジオアルタのディレクターが担当していた。

「三越テレショップ」最終回を放送したテレビ局は以下の通り。

番組終了時点で放送していたテレビ局
放送対象地域 放送局 系列 放送時間 備考
関東広域圏 テレビ東京(TX) テレビ東京系列 月 - 金曜 13:32 - 13:35
福島県 テレビユー福島(TUF) TBS系列 月 - 金曜 15:52 - 15:55
新潟県 新潟テレビ21(UX) テレビ朝日系列 月 - 金曜 11:57 - 12:00 『ワイド!スクランブル・第1部』(テレビ朝日制作)のローカル枠で放送
長野県 信越放送(SBC) TBS系列 月 - 金曜 15:55 - 16:00
静岡県 静岡朝日テレビ(SATV) テレビ朝日系列 月 - 金曜 15:47 - 15:50
広島県 広島ホームテレビ(HOME) テレビ朝日系列 火 - 金曜 15:30頃 - 15:33頃
愛媛県 南海放送(RNB) 日本テレビ系列 月 - 金曜 15:50 - 15:53 南海放送でのレディス4打ち切りに伴い、2005年4月ネット開始。

最後の3回に限り、『news every.』月 - 木曜日第1部(日本テレビ制作) の番販ネット開始に伴い、16:00頃 - 16:10頃の間のCM枠にて放送。

長崎県 長崎放送(NBC) TBS系列 月 - 金曜 18:52 - 18:55
熊本県 熊本放送(RKK) TBS系列 月 - 金曜 14:55 - 15:00

オンライン・ショッピングは、三越と伊勢丹(I On Line)が別々にあり、提携サイトとしてティファニーのサイトも独立してある。

過去に放送した局[編集]

  • TBC/東北放送(TBS系列)
  • KKB/鹿児島放送(テレビ朝日系列) - 2005年ごろまで放送、平日13:55 - 13:58
  • MBC/南日本放送(TBS系列) - 2014年10月1日~2015年3月31日 平日14:55 - 15:00(編成の都合上、最初の3回のみ14:50から放送)

大塚家具と協調販売[編集]

三越と大塚家具は、商品開発やホテルの内装を手掛ける建装事業などで、協力する方向性を打ち出した。

その手始めとして、年間20億円の赤字を出していた新宿店南館を1999年7月に閉館し、同年9月10日「IDC大塚家具新宿ショールーム」を賃貸入居させた。

その際、三越が大塚家具にお帳場客(上得意客)を紹介し、その客が大塚家具で家具を購入すれば、紹介手数料を受けるという契約も結んだ。ただし、この紹介制度は一定期間しか有効ではない。また、大塚家具は会員制を取っているので、一度目は「三越の紹介」扱いだったとしても、次からは「大塚家具」会員扱いになるため 紹介手数料は入らなくなる。

協調出店は、吉祥寺店や多摩センター店でも試みられたが、あまり芳しい実績とはならず、吉祥寺店は両社とも撤退、多摩センター店は大塚家具が立川高島屋への移転という形で終了している。現在は新宿店南館で家賃収入を得るだけの関係だが、赤字店舗をそのまま抱えるよりは良いという状況になっている。

読売ジャイアンツの優勝セール[編集]

2000年よりそごうから権利を引継ぎ、読売ジャイアンツのリーグ優勝および日本シリーズ優勝(または敗退)時に「ジャイアンツフェスタ」を実施していた。読売ジャイアンツの商標を使用してのセールには、読売新聞社への商標使用の許諾料を支払う契約に基づいており、期間中はおたのしみ袋やジャイアンツグッズの販売する権利を得ている。また、優勝パレードも日本橋本店前が起点で、銀座店を経由して銀座8丁目博品館前までのコースを辿る。

そごうの優勝セールはそごう東京店が1957年から有楽町の読売会館に入居していたためだが、同社が2000年に経営破綻し読売会館から撤退。読売新聞社が代わりの協賛企業を募集した結果、三越が引き継ぐことになった。その縁で三越は読売新聞社からプランタン銀座(現:マロニエゲート)の株式の30%の譲渡を受けることにもなった。マロニエゲートも読売新聞社が筆頭株主で、読売銀座ビルに入居していることから巨人の優勝セールを実施する。

三越の実施店舗は全国展開で、小型店(ギフトショップ)や海外店、提携店の沖縄三越まで含まれていた。ただし、名古屋三越、広島三越等、他球団のホームにある店舗では他の催しに差し替えられることがある。

2008年「三越伊勢丹ホールディングス」設立以降、実施店は伊勢丹直営店にも拡大した(静岡や関西では実施していない)。

三越伊勢丹における巨人の優勝セールは2014年が最後となり、2019年以降はブランドイメージ戦略から優勝セールの開催を見送っている。また、イトーヨーカ堂・セブン-イレブンも同時に優勝セールから撤退したことから、これ以降百貨店・GMSでの巨人の優勝セールは行われていない。2019年以降、複数店舗で巨人の優勝セールを行っている小売業者は家電量販店のビックカメラのみとなっている。

特色[編集]

日本橋三越の屋上には、三井家の守り神である三囲神社が祀られている。

オリジナル観光バス[編集]

2008年に高級観光バス「三越伊勢丹プレミアムクルーザー」を導入、三越伊勢丹ニッコウトラベル(デビュー当時は三越トラベルセンター)主催の旅行などで使用する。この車両は2007年に開催された東京モーターショーで日野自動車が展示した参考出品車、セレガプレミアムを営業に供しているものである。個別にテレビモニターも備えた革張りのリクライニングシートを備え、前後5列・横2席、乗客定員わずか10名、さらに後部にはトイレ・洗面所も備える、贅沢な造りの車である。実際の車両管理・運行は東京ヤサカ観光バスが担当、ナンバープレートは希望ナンバーで「三越」である32-54を取得している。好評のため2012年にも追加で導入され、こちらはケイエム観光バスが担当する。2009年には通常の2-2レイアウトを採用する「三越伊勢丹グランドクルーザー」も登場、東京ヤサカ観光バスとアイビーエスが担当する。

包装紙と紙袋[編集][編集]

三越では1910年(明治43年)ころから、店章や新館完成予想図、支店・分店や取り扱い商品などをあしらった包装紙を使用してきた。百貨店の包装紙は、どこも地味なもので紙質も良いものではなかった。そこで1950年(昭和25年)に「クリスマス用に明るい包装紙を」と猪熊弦一郎にデザインを依頼して誕生したのが、現在の包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋である。当時、三越の社員で宣伝部に所属していたやなせたかしが猪熊から作品を受け取り、社へ持ち帰って「mitsukoshi」のレタリングを入れ完成した。当時、破格の報酬でも話題となった。

この画期的な包装紙「華ひらく」と「三色」の紙袋は大変好評となり、翌年の中元からは三越全店で使用されるようになった。紙袋は2008年(平成20年)に伊勢丹との経営統合を機にデザインが変更されたが、「華ひらく」は現在でも全国の三越で使用されている。 ただし、現在のロゴになってから数年間はブックカバーや箱物で別の青のデザインのものを採用していたこともある。(CMの最後のロゴ表示もそれを使用していた)

日本初のエスカレーターと、エレベーターの設置[編集]

1914年、日本橋本店新館の建設に当たって、日本の商業施設として初めてのエスカレーターが導入。アメリカ・オーチス社製、45m/分、20馬力(15kW)電動機式で5機設置された。初号機は木製だったため関東大震災によって焼失したが、現在は三菱電機が同スタイル(金色・丸ボディ・完全照明型)の金属製で復刻したものが使用されている。

同時に、エレベーターもオーチス社のものを採用。今も、スケルトンタイプの扉でノスタルジックな雰囲気をかもし出しているが、これは日本初ではない。日本初のエレベーターは1875年王子製紙十条工場の荷物運搬用。人が乗るものとしては、1890年11月10日浅草凌雲閣(関東大震災により倒壊)。百貨店では、1911年11月の白木屋日本橋店で、運転はエレベーターボーイが行った(扉の開閉等が手動式で運転技術を必要としたため)。

またエレベーターガールを最初に採用したのは1929年の松坂屋上野店だった。エレベーターの技術革新と人件費削減等の理由により、現在では日本橋髙島屋などを除いて日本全国ほとんどの百貨店でエレベーターガールは廃止されている。日本橋三越では、今もエレベーターガールが常時配置されているが、6台のうち、中央2台(この2台手動である)のみと限定的な運用となっている。 比較的遅くまで残っていた名古屋三越栄店でも2009年10月でエレベーターガールは廃止された。一方、高松三越では1996年に廃止したが、2011年3月「開店80周年記念」の期間限定企画として復活した。

ライオン像[編集]

三越のシンボル的存在である。1914年に本店玄関に設置されたライオン像は、関東大震災や戦火を逃れ現在も日本橋本店正面玄関に設置されている。ロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルとされ、英国の彫刻家メリフィールドが型どり、バルトンが鋳造したもので青銅製。完成まで3年の歳月を要し、イギリスの彫刻界でも相当な話題となる。なお、全国各地の三越主要店舗にも日本橋本店のものを模したライオン像が設置されている。誰も見ていないときに受験生がライオン像にまたがる、または触ると志望校に合格するという験かつぎも知られている。閉店した店舗の像は倉庫に保管されているが、池袋三越(2009年閉店)の像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納された。他に2015年日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈された。ライオンは日体大のシンボルマスコットである。

御子様洋食[編集]

1930年日本橋三越本店の大食堂に、子供の好きなメニューをひとつの皿に盛った「御子様洋食」が登場した。そのメニューは富士山に型どったライスにイチゴジャムと卵のサンドイッチ、スパゲティー、ハム、コロッケ、金平糖であった。御子様ランチの象徴でもある三越の旗を立てたのも日本橋三越本店の大食堂が最初であった。現在でも日本橋三越本店の新館5階にあった大食堂「ランドマーク(2020年1月7日閉店)」で「お子様ランチ」として提供されていた。また、日本橋三越本店が発祥のため、三越「ランドマーク」では年齢制限は設定されておらず、誰でも注文することができた。

パイプオルガン[編集]

現在、日本橋三越本店の中央ホール2階バルコニーにあるパイプオルガンは、1930年に米国マイテー・ウェルリッツァー社製の最新式を輸入し、7階ギャラリーに設置されていたものである。電力によって奏する大仕掛けなもので、メインとソロの2種からなり、全体の間口は8.2m。日本で唯一現存する演奏可能な昭和初期製造のシアターオルガンでもあり、貴重な歴史資料として2009年には中央区民有形文化財に登録された。

このパイプオルガンは、カトリック教会に設置されているものとは異なり、主に無声映画や演劇の伴奏などに使用された『シアターオルガン』という種類に属するもので、ポピュラー音楽でもクラシック音楽でも幅広いジャンルの音楽を弾くことが出来るのを特徴としている。1930年当時の金額で350,000米ドル、今の貨幣価値に換算すると約2億円である。

まだ本格的なパイプオルガンが、日本に数台しかない時代だったため大変な評判となり、社団法人日本放送協会では、演奏を聞かせるラジオのレギュラー番組が組まれ、日本放送協会と三越の間には専用回線まで引かれたという。

1935年の本館全館完成時に、現在の中央ホール2階バルコニーに移設された。パイプボックスには、パイプ以外の音源も装備されており、チューブラーベルや鈴、ウッドブロック、大太鼓や小太鼓、さらには鳥の声なども出る。オルガンやパイプには、元々美しい金属装飾が施されていたが、大東亜戦争中に供出されてしまった。

現在でも金曜日、土曜日、日曜日の午前10時・正午・午後3時の3回、オルガン奏者による生演奏が行われ、その荘重な調べは、日本橋三越本店独自の雰囲気を創る上で、欠くことのできない重要な役割を果たしている。

お江戸日本橋[編集]

日本橋三越本店のパイプオルガンで、開店時に「お江戸日本橋」が演奏されており、三越のテーマ曲のような存在となっている。かつては同曲のオーケストラによるアレンジ版が、テレビCMなどで流れていたこともある。このオーケストラ版は1951年12月31日、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で開始された番組『三越文学サロン』の宣伝用に制作されたもので、地方では1954年7月13日より、聴取エリア内に仙台店がある東北放送ラジオの『朝の百貨店案内』の中で流され、それ以来1989年12月末までの約35年間、同番組内で流れ続けた。三越広報資料室によると、これは同曲のテレビ・ラジオにおける使用期間としては最長記録である。



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