リヒテンシュタイン
リヒテンシュタイン公国(リヒテンシュタインこうこく、独: Fürstentum Liechtenstein)、通称リヒテンシュタインは、西ヨーロッパの立憲君主制国家。スイスとオーストリアに囲まれた国であり、ミニ国家の一つである。首都はファドゥーツ。欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国。
人口:39000人(191位)2020年時点
国名[編集]
正式名称は公用語のドイツ語で Fürstentum Liechtenstein(ドイツ語発音: [ˈfʏʁʃtn̩tuːm ˈlɪçtn̩ʃtaɪn] フュルシュテントゥーム・リヒテンシュタイン)、Liechtenstein と表記する。公式の英語表記は Principality of Liechtenstein(プリンシパリティ・オヴ・リクテンスタイン)、略称、Liechtenstein。日本政府(外務省)による日本語表記はリヒテンシュタイン公国(略称:リヒテンシュタイン(リヒテンスタイン))。後述のように「リヒテンシュタイン侯国」を正しい訳語とする説も一部にある。リヒテンシュタイン公国がある現地のアレマン語(リヒテンシュタイン方言)では、Förschtatum Liachtaschta(フェアシュタツーム・リアハタシュタ)と表記される。英語表記で国名・形容詞とも Liechtenstein、国民は Liechtensteiner。
元首であるリヒテンシュタイン家の当主の称号はドイツ語で 「Fürst」であり、 「Herzog」(公爵。英語の 「duke」)より一段下の爵位であるため、「公爵」ではなく「侯爵」と訳すべきとの主張もある。なお、日本国外務省は「公爵」と表記しており、リヒテンシュタイン公と表記する際の「公」は君主の意味である。
なお、英語においては「prince(プリンス)」とされ、国家体制は「Principality」と訳される。「Principality」は日本語において通例「公国」と訳される。英語における「プリンス」は広義的には多義的であり、公爵位のみを指すものではなく王侯貴族である領主を全般的に指す言葉である。リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)の称号は「Prinz」であり、「プリンス」と同義であるが、これは日本語においては「公子」と訳されるのが通例である。
歴史[編集]
リヒテンシュタイン家は神聖ローマ帝国・ハプスブルク帝国における大貴族の家系であり、オーストリア・モラビア・シレジアなどに大きな領土を持っていた。現在のリヒテンシュタインの領域にあたるシェレンベルク=ファドゥーツはその中の一部に過ぎず、歴代君主はウィーンに居住していた。1719年、シェレンベルク=ファドゥーツは領邦国家としてのリヒテンシュタイン公国として認められた。
1806年に神聖ローマ帝国が解体されると主権独立国家となり、翌年にライン同盟に参加した。地理的にもオーストリア帝国に近く、普墺戦争後もオーストリア側に付き、ドイツ帝国にも加わらなかった。1867年には永世中立国となり、第一次世界大戦では中立を守ったが、連合国側からは不信感を抱かれていた。このため国際連盟には加盟できなかったが、この際にチェコスロバキアを除く国からは国家としての承認を受けている。
1938年にナチス・ドイツがオーストリアを併合した(アンシュルス)。老齢で、ユダヤ人女性を妻としていたフランツ1世はフランツ・ヨーゼフ2世に譲位し、フランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住した。当時、リヒテンシュタインでもナチズムの動きは高まっており、1939年3月にはリヒテンシュタインのドイツ国民運動(英語版)の一部がドイツとの合邦を宣言して逮捕される動きになった。このため1939年4月4日の総選挙は主要政党の進歩市民党(英語版)と祖国連合(英語版)にほぼ同数の議席を割り当てることとし、投票は行われなかった(1939年リヒテンシュタイン総選挙(英語版))。第二次世界大戦では中立を保ち、戦禍から逃れた。しかし戦前戦後を通じてチェコスロバキア・ポーランド内にあったリヒテンシュタイン家の領地は没収された。1990年の国際連合加盟以降は国際機関への参加を積極的に行うようになっている。