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モーニングショー

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モーニングショー』(英語: Morning Show)は、1964年4月1日から1993年4月2日(第1期)までは月曜日から金曜日の8:30 - 9:30(JST)、および2015年9月28日(第2期)からは月曜日から金曜日の8:00 - 9:55(JST)に、いずれもテレビ朝日系列において生放送形式で放送されたもしくはされている、ワイドショー・情報番組である。

日本で初めて放送されたワイドショー番組である。便宜上、1993年までを第1期、2015年以降を第2期とする。

概要[編集]

第1期[編集]

日本におけるワイドショーの草分けで、『TODAY』(アメリカのNBCで1952年から早朝に放送されている情報・ニュース番組)をヒントに制作されたため、日本国内のテレビ局が制作するニュースショーとしても初めて成功を収めた。

放送時間は毎週月 - 金曜日の8:30 - 9:30(JST、以下略)で、1992年までは、年末年始も休まずにレギュラー放送を続けた。

テレビ黎明期の民放テレビ局が1、2局しかない地域、一部を除くクロスネット局、テレビ朝日系列局がない地域でもネットされていた。そのため、番組オープニングではタイトル表示に続き、テレビ朝日(1977年3月まではNET)を先頭に各地のネット局の略称をテロップ表示する演出があった。また、テレビ朝日系列の新局に本番組の放映権が移行した後もテレビ朝日系列の新局の受信環境が未整備などの理由で1地域2局同時放送を実施していた地域もあった(後述)。

この第1期の開始当初は白黒放送だったが、1970年3月23日からカラー放送となった。

音声はモノラル放送であるものの、例外として、1979年8月8日及び1980年の同日は、大阪の朝日放送から、阪神甲子園球場での「全国高等学校野球選手権大会」の開会式を番組内で生中継で放送することから、ステレオ放送を行った。尚、1979年の同日は、電電公社(当時、現・NTT)の東名阪及び北陸(金沢)回りに於いての、テレビ中継回線のステレオ化工事が完了したことで、テレビ朝日に於いての朝日放送からの初のステレオ生中継となった。

第2期[編集]

2015年9月28日から第2期として復活した。放送時間は毎週月曜から金曜までの8:00 - 9:55であり、放送尺は第1期と比べ55分長い。

歴史[編集]

放送開始までの経緯[編集]

教育番組専門局として1959年2月1日に開局した日本教育テレビ(NET)では、当初からスポンサーの獲得などで苦戦を強いられていたため、当時の郵政省から放送の比率を指定されていた「教育番組」や「教養番組」の解釈を拡大しながら事実上の総合編成化を進めていた。そこで、『TODAY』をヒントに、1961年2月から主婦向けの情報番組として『東京アフタヌーン』を平日の14:00 - 14:45に関東ローカルで放送。プロデューサーの浅田孝彦は、ラジオで定着しているDJのスタイルで、総合司会に進行やいわゆる「生コマーシャル」へ臨ませるなどの新機軸を打ち出した。また、当番組の成功を受けて『アフタヌーンショー』を立ち上げた江間守一は、NETの開局直後にプロデューサーとして『○月○日』(○は放送月・放送日を示す洋数字)と称する番組を制作した。放送時間がわずか12分間というミニ番組ながら、全曜日にわたって帯番組として編成された。もっとも、当時のNETにとって死活問題であった営業面では振るわず、『東京アフタヌーン』とともに短命に終わっている。

これに対して、日本ヴィックス(アメリカのリチャードソン・ヴィックス社と伊藤忠商事の合弁会社でP&Gプレステージの母体企業の1つ)では、アメリカにおける『TODAY』の成功を踏まえて、テレビ界で当時「不毛の時間帯」の1つに数えられていた午前帯への広告の出稿を計画した。NETに対して、視聴率が極めて低かった午前中の学校放送番組の広告枠を、一括で購入することを打診した。この打診がやがて、『TODAY』をモデルに、事件・芸能ニュース・「人間蒸発」などの企画やインタビュー、歌手の生演奏などを織り込んだ単独提供番組を放送する構想に発展した。1962年に博報堂を通じて、NETおよび、当時NET系列の準基幹局だった毎日放送(MBS)に構想を持ちかけた。NETの担当者は浅田で、MBSにも構想を打診したのは、伊藤忠商事や日本ヴィックスと同じく大阪市内へ本社を構えていたことによる。

番組の開始に際しては、当時の日本のテレビ界で主流だったディレクター・システム(ディレクターが絶対的な権限を有する制作体制)に依存せず、浅田を中心とするプロデューサーが全曜日のディレクターを統括する「プロデューサー・システム」を導入した。放送するテーマや内容を制作チーム全体で共有したうえで、同じテーマや内容の企画を複数のディレクターが担当することによって、テーマや内容の柔軟な見直しが可能になった。

初代総合司会については、高橋圭三(元NHKアナウンサー)を最有力の候補に挙げていた。しかし、高橋のスケジュールの都合が付かずに断念した。そこで浅田は、総合司会を視聴者と同じ立場に置くことを想定したうえで、NHK時代の高橋の後輩に当たる木島則夫に白羽の矢を立てた。

1960年代・1970年代[編集]

『木島則夫モーニングショー』の番組開始当初は「8時半です。おはようございます…。早速きょうのお客様をご紹介しましょう」とゲストの紹介から始めた。

初回(1964年4月1日)はNETテレビ、北日本放送、中部日本放送(CBC)、毎日放送(MBS)の4局で放送。翌週の4月6日(月曜日)からは、中国放送でも同時ネットを開始した。しばらくは上記の5局ネット体制が続いたものの、1960年代の後半から郵政省などの方針で他の地域でも民放テレビ局の開局が相次いだことなどを背景に、徐々に放送地域を拡大していった。NET系列局の名古屋テレビが1962年に開局していた中京広域圏で、番組開始当初のネット局がTBS系列局のCBCであったのは、NETの番組区分に沿って当番組を「教育番組」とみなしたことによるとされている。ただし、CBCで放送されたのは開始から半年間で、1964年10月1日から放送権を名古屋テレビに移行している。

初代のプロデューサーに就任した浅田は、視聴率の推移から視聴者の欲求を推測し、独自のモニター調査から得られたデータも重視しながら、放送するテーマや内容の細分化(客観的・定量的な選別)に取り込むなど、内容の見直しの高速化を図った。このような手法でディレクターと内容を分離させたことによって、番組は順調なスタートを切った。しかし、1965年9月の人事異動で浅田が(同年4月に始まった『アフタヌーンショー』を含む)「教養番組」全般を統括する職務に就いたことを境に、番組の制作体制を一新した。「5人のディレクターが曜日ごとに責任を持って一般番組と同じように制作する」という縦割り体制の導入によって、ディレクターと内容の分離が維持されなくなったことから、長期にわたる視聴率の低迷を招いた。さらに、企画や娯楽以上にニュースを求める声が視聴者から年々強まったことから、木島は疲労を理由に1968年3月限りで降板した。翌4月から長谷川肇(高橋・木島と同じくNHK出身のアナウンサー)を第2代総合司会に起用したが、1年でNETアナウンサーの奈良和に交代した。奈良は7年半にわたって総合司会を務めた。1976年10月からは「あなたもテレビのキャスターになれる」という一般公募のコンテストで採用された竹中陽一が第4代の司会者に就任した。報道カメラマンやタクシー運転手という経歴を持つ竹中の人生経験が番組に生かされることが期待されたが、「喋らない司会者」と評判になったことでNET側は1977年3月末までの6ヶ月契約を更新しないと1月に通告した。これに対して竹中の妻が番組の内情を明かす手紙を新聞社に送ったために、NET側は契約満了となる3月末を待たずに3月11日で竹中を降板させ、当分はアシスタントの溝口泰男と植木まり子が司会を務めることになった。竹中は1977年3月18日に裏番組であるフジテレビの『小川宏ショー』にゲスト出演(初代司会の木島と共演した)。奈良の総合司会時代からサブ司会を務めていた後輩アナウンサーの溝口泰男を、1977年5月から正式に第5代総合司会へ起用したことを機に、ようやく巻き返した。

なお、番組開始当初からのネット局だったMBSは、1975年3月31日(月曜日)の近畿広域圏におけるネットチェンジによってNET系列からTBS系列へ移行した。このネットチェンジによって、TBS系列局だった朝日放送(ABC)がMBSと入れ替わる格好でNET系列へ加わったため、同日放送分からはABCが近畿広域圏向けの同時ネットを担った。

長谷川肇時代から江森陽弘時代までは一般視聴者(主に主婦)にも開放し、司会者の立ち位置(または司会者席)の後ろが観客席となっていた。[要出典]

1970年代後半には青少年の自殺などが社会問題化していたことを受けて、当時教育、心理などの分野で活動していた坂東義教による「子育て講座」も織り込まれるなど、人気コーナーもあったが、坂東は著書『坂東先生の教育講座』を執筆直後の1978年11月に死去し、コーナーも自然消滅となった。[要出典]

1979年4月には、同年3月まで香川県のみを放送エリアにしていた瀬戸内海放送が岡山・香川の電波相互乗り入れに伴い岡山県での放送を開始し47全都道府県での放送となった。しかし同年12月に、当時日本テレビ系列とテレビ朝日系列のクロスネット局だったテレビ岩手が当番組を打ち切ったことで、1980年1月1日からは9か月ぶりに47全都道府県での放送ではなくなった。

1980年代・1990年代[編集]

1981年4月に当時フジテレビ系列・テレビ朝日系列とのクロスネット局である新潟総合テレビが、新潟放送から移行を受ける形でメイン系列の番組であった『小川宏ショー』を打ち切って当番組のネットを開始した(1983年10月の新潟テレビ21開局まで)。

1983年4月には総合司会が溝口泰男(サブ、メインを含め14年間出演。歴代の最長寿レギュラー)から、江森陽弘へバトンタッチした。江森が総合司会に就任した2年半後の1985年10月には『アフタヌーンショー』の「やらせリンチ事件」が発覚し、本番組も同事件が引き金(トリガー)となって信頼失墜に陥る。

1986年10月に総合司会が江森から、元フジテレビアナウンサーの美里美寿々に、サブ司会も1980年4月から6年半務めてきた柴田美保子、八波一起から高井正憲(当時テレビ朝日アナウンサー)に交代するという総合司会の総入れ替えを実施した。硬派路線に舵を切ったが、芸能情報を扱わない番組内容が不評となり、視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)で苦しむこととなると同時に、本番組終了まで総合司会が1、2年で交代する等低迷してしまう。1987年1月には、サブ司会を3か月で高井から寺崎貴司に交代した。

同年10月には、総合司会が美里美寿々から武見敬三に交代。芸能情報を復活させたものの美里時代と状況は変わらず、月 - 金曜正午枠と合わせてテレビ朝日系ワイドショー全体が更に低迷してしまう事になる。この事態を受けて、武見に総合司会が交代した半年後の1988年4月にはテレビ朝日制作ワイドショーを本番組に集約したり、同年10月には1年で内田忠男が総合司会に交代すると同時に八波をサブ司会に復帰させる等のテコ入れを図る。

内田が総合司会に就任した1年後の1989年9月29日には日本海テレビが本番組を打ち切った事により1地域2局同時放送の地域は無くなった。

1991年4月のリニューアルでは、当初は総合司会を内田から当時テレビ朝日と専属契約を結び、昼の番組『ホットライン110番』に出演していた小島一慶(元TBSアナウンサー)を総合司会に登用して立て直しを図ろうとしたが、小島が不倫騒動を起こしたため、テレビ朝日側はその登用予定を急遽中止した上で同番組終了と同時に小島との専属契約を解除し、総合司会を渡辺宜嗣(当時テレビ朝日アナウンサー)に急遽変更した。同時にサブ司会が篠田潤子(当時テレビ朝日アナウンサー)からロザンナにバトンタッチした。八波一起は最終回まで出演した。

内田から渡辺時代になると、テレビ朝日系新局開局による本番組の放映権移行で、放映権移行が行われた地域では旧ネット局の番組である『ルックルックこんにちは』・『モーニングEye』に苦戦する様になり、長年続けてきた正月3が日の放送も日本テレビ『新春スポーツスペシャル箱根駅伝』や、日本テレビ・フジテレビの元旦特番に視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)で敗れるようになったため、1992年をもって正月3が日の放送を終了した様に本番組の苦戦傾向がさらに加速した。更に同年9月の朝日放送『素敵にドキュメント』のやらせ発覚によるテレビ朝日系列の更なる信頼失墜も止めを刺す形となり、1993年4月2日に第1期としては終了し、29年間の歴史に一旦幕を下ろした。同年4月5日からの当該枠は放送開始時間を8:00に前倒しし、9:55まで放送時間を拡大した『スーパーモーニング』となった。

また、テレビ朝日系列では『モーニングショー』終了と同時に月 - 金曜並びに土曜日のワイドショーの改編を実施し、これにともない『海江田万里のパワフルサタデー』が本番組終了の6日前に終了した他、月 - 金曜正午枠のテレビ朝日系列外局への時差ネットも本番組終了と同日に終了した『人間探検!もっと知りたい!!』終了と同時に廃止されたのと同時に、テレビ朝日系列外局で放送されるテレビ朝日制作ワイドショーは『スーパーモーニング』のみとなった。

宮尾すすむがリポーターを務めた「宮尾すすむのああ日本の社長」は『スーパーモーニング』になってからも1999年8月まで続いた。

2010年代・2020年代[編集]

2015年9月28日に、同年9月25日で終了した『モーニングバード』(『スーパーモーニング』の後継番組)の総合司会・羽鳥慎一(元日本テレビアナウンサー)をそのまま本番組11代目の総合司会に起用し、『羽鳥慎一モーニングショー』(月 - 金曜8時)として22年半ぶりに復活した。アシスタントは当時テレビ朝日アナウンサーの宇賀なつみ(テレビ朝日と大多数の系列局で前時間に放送の『グッド!モーニング』から移動)。『モーニングバード』の路線を引き継ぎ、コメンテーターは石原良純、高木美保、長嶋一茂、島谷ひとみらが『モーニングバード』から引き続き日替わりで出演する。玉川徹も続投するが、毎日出演することとなった。

なお、2015年7月29日にスポーツ新聞において、『モーニングバード』で羽鳥と共に総合司会を務めていた赤江珠緒の降板が報じられ、宇賀を後任に起用する形で『モーニングバード』を継続すると報道されていた。

同局としては「いま何が起きているかにこだわり、人間ドラマを見せるのがワイドショー。その原点に立ち返りたい」「羽鳥慎一という“人の心”を第一に考えてニュースを捉えるキャスターで、新たなワイドショーに挑戦したい」と語り、『モーニングバード』のリニューアルではなく歴史ある番組名を冠した新しい番組であることを示唆している。

2018年から2021年の『徹子の部屋』の年間最終ゲストとして羽鳥と玉川が揃って出演していた。2019年はドラマ『Doctor-X』にゲスト出演した当時のエピソードを語った(前半では役柄の衣装で出演し、後半でスーツに着替えた)。

2019年4月1日よりリアルタイム字幕放送をレギュラー実施した。

2017年10月2日より、テレビ朝日が筆頭株主であるAbemaTV(AbemaNEWSチャンネル)への配信を開始した(後述)。

なお、第2期の開始からアシスタントを担当してきた宇賀は、テレビ朝日からの退職(2019年3月31日)を前に同月29日(金曜日)放送分で卒業した。4月1日(月曜日)からは、元乃木坂46の斎藤ちはる(同日付でアナウンサーとして同局へ入社)をアシスタントに抜擢した。

2020年4月に日本政府が新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を発するのに前後し、コメンテーターは段階的にスタジオ出演ではなくモニター越し(ワイド!スクランブルと同様に、テレビ朝日が用意した別室か、自宅や事務所等出演者本人が用意した部屋から出演する形式)での出演に移行したが、4月13日から6月26日まで、MCの羽鳥と斎藤、白鷗大学教授の岡田晴恵の3人を除くすべてのコメンテーターはモニター越しでの出演となったが、6月29日から、ほぼ通常の体制に戻った(6月26日にコメンテーターがスタジオ出演に戻ることが羽鳥から発表された)。

その後、2020年6月20日に宣言が解除されたことを受け、翌21日より通常の体制に戻った。また、同日よりソーシャルディスタンスの一環で机が拡張され、これにより、出演者の間隔もより拡げられることとなった。

2021年1月7日に首都圏1都3県に新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が再発出された事を受け、8日からはコメンテーターがモニター越しでの出演に変更された。その後、同年3月21日に宣言が解除され、翌日の22日からは通常の体制に戻った。その際、アクリルボードの強化、高性能空気清浄機の設置を伝え、より一層新型コロナウイルス予防に取り組んでいると伝えた。しかし、4月25日に再度緊急事態宣言が発令されたことを受け、翌26日からは再びコメンテーターはモニター越しでの出演に変更されたが、このスタイルはその後も繰り返し、2022年3月21日の新型コロナウイルスに関する蔓延防止等重点処置解除まで続いた。

視聴率[編集]

視聴率はいずれも第2期時代で、ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイムのもの。

開始当初は6%程度で推移し、時間帯順位は民放2位を記録することもあった。2016年9月第3週では平均7.7%を記録、初めて週間を通じて時間帯民放1位となった。同年11月では平均8.1%を記録、初めて月間を通じて時間帯民放1位となった。以後も民放視聴率月間首位を保持している(2017年4月ではフジテレビ『情報プレゼンター とくダネ!』と同率首位)。2016年度では初めて時間帯民放年度1位を記録、翌2017年度も1位を獲得。2017年4月第1週では『とくダネ!』に視聴率首位の座を再び譲った。2017年10月前半では、日本テレビ『スッキリ』がリニューアルし、『とくダネ!』を抜く日も出てきたが、本番組を抜くことはできなかった。2017年には初めて年間民放1位を記録。翌2018年以降も年間民放1位となっている。

さらに2018年4・5月には、それまで時間帯1位を記録していたNHK総合テレビ『あさイチ』を抜き去り、時間帯1位を獲得。しかし、同年6月から2020年上期頃は再び『あさイチ』に時間帯1位を譲っていた。

2019年2月4日 - 8日には全て2桁視聴率を記録。

2020年1月から一時期、『スッキリ』に民放1位を譲ることもあった。

2020年中期以降、『あさイチ』を抜いて再び時間帯1位を記録するケースが増える。2020年11月以降はビデオリサーチの週間高世帯視聴率番組で『あさイチ』が10%を大きく超えており、時間帯1位を本番組と分け合っている。同年、初めて『あさイチ』を抜いて時間帯年間1位を記録した。

しかし、年齢・世代別での視聴率調査では苦戦している放送日も発生しており、2021年9月13日放送分ではF1層(女性の20歳から34歳を指す)においての視聴率が韓国ドラマを放送しているテレビ東京を含め、在京民放5局の中で最下位となっている。

出演者[編集]

総合司会[編集]

キャスター
  • 羽鳥慎一
アシスタント
  • 森山みなみ(テレビ朝日アナウンサー)

レギュラーコメンテーター[編集]

  • 玉川徹(2023年7月31日まではテレビ朝日報道局員)

コメンテーター[編集]

2022年11月以降。

月曜日
  • 石原良純(気象予報士・俳優)
  • 山口真由(弁護士・信州大学特任准教授)
火曜日
  • 菊間千乃(弁護士・元フジテレビアナウンサー・フリーアナウンサー)
水曜日
  • 浜田敬子(ジャーナリスト)
  • 安部敏樹(リディラバ代表)
木曜日
  • 石山アンジュ(シェアリングエコノミー活動家)
  • 結城東輝(弁護士)
金曜日
  • 長嶋一茂(タレント)
  • 廣津留すみれ(バイオリニスト・起業家)

コーナーレギュラー[編集]

  • 板倉朋希(テレビ朝日アナウンサー:ショーアップ月・火曜日担当)
  • 野上慎平(テレビ朝日アナウンサー:ショーアップ水〜金曜日担当)
    • 羽鳥休暇時の総合司会代理も務める。
  • 玉川徹(そもそも総研・2022年9月まで、玉川取材担当・2022年11月17日 - )
  • 片岡信和(気象予報士・「かたおか天気ショー」担当・2020年3月30日 - )

リポーター[編集]

  • 齋藤寿幸
  • 中谷隆宏
  • 岡安弥生
  • 黒宮千香子
  • 原元美紀
  • みといせい子
  • 山崎寛代
  • 松田朋子
  • 福田由香

2022年10月現在、上記のリポーター(主に齋藤、中谷、岡安、松田)が取材したVTRが『スーパーJチャンネル』(主に17時台)でも放送されている。

ナレーター[編集]

  • コーイチ
  • 四本木典子


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